私たちはぺこぱの何を笑っているのか——相対主義の限界と可能性

<第Ⅰ部> 相対主義の可能性

1-1. ぺこぱは「お笑いの末期」なのか

 ぺこぱの「プロポーズ」という漫才の冒頭部分に、以下のような下りがある。

松陰寺:じゃあ俺が女をやってやろう。「ねえ、大事な話があるって何?」
シュウペイ:「私あなたのこと愛してるの!」
松陰寺:えっ?
シュウペイ:「結婚しておくんなまし~!」
松陰寺:いや女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!

 このネタはメディアで披露される機会も多かったので、ご覧になったことのある方も少なくないと思う。「プロポーズ」というお題において、女性役の松陰寺に対してシュウペイも女性役を演じたことにツッコむのかと思いきや、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する。これが彼らの彼らの基本フォーマットであり、ダウンタウン松本は「ノリツッコまないボケ」と名付けた。
 さて、「多様性を認める漫才」とも呼ばれる彼らのネタを私たちが観るとき、いったいその実何を面白いと思って笑っているのだろうか? その一つの回答として、半年ほど前に少しバズった以下の記事がある。

anond.hatelabo.jp

 お笑いとは、「既存の常識レールからズレたモノを、常識レールに当てはまることで『非常識』を際立たせ、そのギャップを笑って受け入れる」という性質を持っている。

 この記事の著者は、お笑いをこのように定義したうえで、ぺこぱについて以下のように述べている。

 ぺこぱはどうだろうか。正直これを「多様性の尊重」と称賛する人は多いが、皆はこれを見て何を笑ってるのだろうか。
「変な事をしている人間(多様性)」という常識レールに、「多様性を受け入れる変な人間」という非常識を置いて、それを笑っている。
 皆受け入れてはいるが、尊重はしてないのだ。多様性を受け入れる社会、つまりポリコレを笑ってるのだ。ギャップを顕在化させてる突っ込み役は観客である。突っ込む責任は観客も分担する。
 ただ「笑い」と「納得」の境界を曖昧にしてるので、受け入れられない部分は笑って、受け入れる部分は頷く。

 著者の議論を整理すると、私たちは、ぺこぱの漫才を観たときの反応として二つの可能性があり得る。

(A)シュウペイの体現する「多様性」が聴衆にとって受け入れられるものであった場合には、その「多様性」を受け入れる松陰寺にただ「納得」して頷くのみ(そこに笑いはない)。
(B)シュウペイの体現する「多様性」を聴衆が受け入れられない場合は、その「多様性」を受け入れる松陰寺を「変な人間」として、笑う。

 特に後者(B)が著者にとって批判したい点で、私たちは決して「多様性を認める」ことなどなく、むしろ自分の許容できない「多様性」を笑う(嗤う)のだという。常識と非常識、正常と異常を峻別する装置たるお笑いが、ポリティカルコレクトネスそれ自体を「非常識」「異常」として笑いの対象にする。つまり「優しい漫才」としてのぺこぱは全くの幻想であり、それどころか彼ら自身の手によって多様性に満ちた社会への可能性は閉ざされる——確かにそれが真実ならば、まさに「お笑いの末期」だろう。

1-2. 「変」を笑うだけがお笑いではない

 しかし、本当にそうなのだろうか? 本節では、ブログ記事の議論を検討していくにあたって、まずはそもそも「笑い」とはどのようにして生まれるのかを考えていく。
 私は、これまで書いた記事で論じてきたように、笑いの構造を分析するにあたって、意外感・納得感・期待感の3つのタームで説明可能だと考えている。最後の「期待感」についてはややこしくなるので今回は触れないが、「意外感」と「納得感」について簡単に解説しておく。
 「意外感」という概念は、いわゆる「ボケ」という言葉を聞いたときにすぐに想像できるものである。変な顔、変な言葉、変な行動――普通ではあり得ないことが起こったり、誰かがおかしなことを言ったとき、人はその「ズレ」を笑う。とてもシンプルな構図であり、あのブログの著者が「お笑いとは〜」という記述で定義していたのと一致する。

satzdachs.hatenablog.com

 しかしよく知られているように、漫才というのはボケとツッコミから成り立つ。ツッコミとは「相方(ボケ)を注意し正す役割」である。漫才において聴衆はボケの部分だけで笑っているのかというと、そんなことはなくて、むしろツッコミの部分で笑いが大きくなっていることに気付く。
 それではツッコミに笑いを起こす力があるのだとして、「良いツッコミ」とは何なのだろうか。それは端的には、ツッコミの指摘した「正しいこと(共通認識)」に対して観客が「確かにそうだよね」と納得できるかどうか、にかかっている。つまり「納得感」があることが、笑いを支える構造の一部となっている。
 もう一つ例を重ねるとすれば、いわゆる毒舌のお笑いについて、ただ相手を貶せばよいのではなく、「確かにその指摘はもっともだ」と思わせるような本質を突く部分がなければ笑いにならないことは、(例の「あだ名芸」を思い起こすまでもなく)理解してもらえると思う。

satzdachs.hatenablog.com

 便宜上、「意外感の笑い」と「納得感の笑い」がそれぞれ独立に存在するかのような書き方をしたが、大事なことは、一つの笑いのなかにこれらの要素が影響しあいながら混在していることである。例えばあるあるや大喜利とは、端的に、「言われるまでは思いつかなかった(意外感)が、確かに言われてみればそうだ(納得感)」という場所を見つける営みである。

satzdachs.hatenablog.com

1-3. 「女どうしが結婚したって別にいいじゃないか!」

 少し前置きが長くなった。つまり私の指摘したかったのは、あのブログの著者が「笑い」と「納得」を二項対立的に(両立しないものとして)書いていたことの誤りである。しかしむしろ、「納得」は「笑い」を下支えするものとして機能するのだ。
 したがって「女どうしが結婚したって別にいい」ということに「納得」していたとしても、いやというより、「納得」していたからこそ、あの部分で聴衆は笑うのである。決して、「女どうしが結婚したって別にいい」という主張が「異常」であるから笑っていたわけではない。
 ここにおいて、聴衆は多様性を受け入れているし尊重している。

1-4. 松陰寺の何が「変」なのか

 それでは、ぺこぱの漫才は「納得感」だけなのかというと、決してそんなことはない。彼らの漫才、もとい、松陰寺には十分に「変」な要素がある。先述したように、「意外感」と「納得感」は単一の笑いに同時に存在し得る。

 結論から言うと、ぺこぱの漫才の「意外感」は、漫才の構造そのものに由来する。「ツッコミとは、『相方(ボケ)を注意し正す役割』だ」という共通認識を踏まえて、ツッコミをせずにそのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容することによって、「漫才はこう進むだろう」という聴衆の想定を裏切るのだ。
 むろんこのとき、漫才にツッコミは存在しない。松陰寺は既存の漫才の構造をフリにしていわばボケているわけであり、観客個々人はそのおかしさを見出して笑う。そう考えると、あのブログで「ツッコミ役は観客」としていたのはある意味ではあたっているが、しかしその内実が違ったわけだ。

 まとめると、「ツッコミをせずに肯定する」という構造には聴衆は意外感を抱くが、その主張自体(女どうしが結婚したっていい)には納得感を抱く。この二つが両立して存在し、相乗効果を生み出す。ここにぺこぱの漫才の新しさがあったわけだ。

<第Ⅱ部> 相対主義の限界

2-1. 文化相対主義の限界

 それでは、"ぺこぱ=多様性を認める優しい漫才"なのだろうか。残念ながら、必ずしもこの等号が成立するとは限らない。本節ではまず、ぺこぱの漫才について考える前に、相対主義的と言える立場のなかでも「文化相対主義」という考え方が辿った運命を簡単に見てみよう*1

 文化相対主義とは、都市の発展しているような"進んだ"国の文化にも、ジャングルの奥地にあるような"遅れた"国の文化にも優劣は存在せず、それぞれに平等に価値があるとする立場である。背景には19世紀までに支配的であった近代西洋中心主義への反省があり、これを機に「異質な他者に対して敬意を払うべきだ」という考えが浸透していった。例えば1946年にアメリカ人類学会が国連人権委員会に対して提出した「人権声明」には、以下のような記述がある。

 基準や価値は文化に相対的である。一つの文化[西洋文化]の信条や倫理にもとづく思考からは、全人類に当てはまる人権宣言は生まれない。

 非常にもっともらしく見える文章だが、しかし半世紀後の1999年、アメリカ人類学会が採択した「人類学と人権に関する宣言」ではこうした無条件の文化差の尊重は影を潜めることになる。そこでは代わりに「差異の主張が基本的人権の否定のうえになされるとき、学会は容認しない」という方針が打ち出された。
 上述の変化は明らかに、過去半世紀の間に起きた国際情勢のなかで、文化相対主義が「どんなに反社会的で倫理的に問題のある行為でも、相対主義御旗のもとに正当化されてしまう」として批判されてきたことを反映している。つまり、一つの価値体系が支配的な世界においては相対主義的態度は一定の意味を持つが、しかしそれは同時に、社会通念上許容されない主張さえも「みんな違ってみんないい」的な考えのもとに認められてしまうリスクがあるということである。
 ここに文化相対主義、ひいては相対主義の限界がある。

2-2. ぺこぱの漫才に見る相対主義の限界

 少し話が壮大になってしまったが、翻ってぺこぱの漫才をもう一度考えてみよう。松陰寺が「悪くないだろう」と言って許容するのは、それが社会的に認められるべき価値観だと判断してのことでは決してない。許容する理由はただ一つ、「ツッコミと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」という漫才の構造上、シュウペイが何を言おうとそれを肯定せざるを得ないからだ。相対主義的立場によってそうすることを強いられていると言っても良いだろう。
 つまり、ぺこぱの漫才において最終的にどのようなメッセージが(明示的か非明示的かに関わらず)発せられるのかは、ひとえにシュウペイが何を言うかにかかっている。
 それが「女どうしが結婚したっていい」というような、リベラルな価値観のもとに今後認められていくべき主張ならば、私が第Ⅰ部で示したように「多様性を認める漫才」として歓迎される。しかしもし例えば、同じくプロポーズのネタにおいて、男役のシュウペイが相手の女性を蔑ろにするような「ボケ」をした場合にも、松陰寺はそれに何らかの理由をつけて肯定することを宿命づけられている*2。このとき、ぺこぱの漫才は男—女の権力関係を容認し、その再生産に加担してしまうのだ。これでは断じて「優しい漫才」にはならない(敢えて言うならそれはただ「シュウペイに優しい漫才」である)。

 これと同じ点についてあのブログの著者も指摘していて、雑巾の例を実際にぺこぱがネタで取り上げたわけではないと思うが、そういう危険性については私も一定以上賛同する。ただ、必ずしも「『常識を語る人』がボケになる」未来が待っているとは限らないと思う(次節で述べるように、それは回避可能である)。

 ぺこぱは「いじめにならない」という人は多いが、違う。ツッコミ役は割と理不尽な目に会う。
 首に雑巾巻かたり、叩かれたり。「雑巾が綺麗なのは部屋がきれいにしてるって事」「痛いというのは生きている事」みたいな事を「言わされる」いじめは容易に想像できる。
 「何が正しいか、何を選ぶかは全て自分自身」の価値観も、結局「選ばさせられる」という事は容易に想像できる。暴力もまた多様性の一つだ。
 僕たちはそれを見て笑うのだ。そしていつか「多様性を強いられてる人」が常識レールになり「常識を語る人」がボケになる。

 いずれにせよ、相対主義的態度の限界は、ぺこぱの漫才にも同様に見出すことができる。

2-3. 避けられるべき「ボケ」

 ここで今一度、ぺこぱの漫才の構造を整理する。彼らのネタの肝は、以下のような構造にあった。この①にどのような言明が代入されるかによって、この漫才の持つ意味合いは大きく変わる。

①シュウペイの「ボケ」
②松陰寺がツッコむと見せかけて、最終的に相方の発言を許容する

 もし①が、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観*3」ならば、②において、構造からの逸脱の「意外感」と主張それ自体への「納得感」の複合の笑いが生み出されることになる。このように書き下してみてわかるのは、「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であった」という前提がなければ、「松陰寺がツッコむと見せかけて」の部分が成立せず、笑いにならないということだ。逆に言うと、このパターンにおいては必然的に(期せずとも)お笑いの世界で常識とされていた旧来の価値観を更新するような形になる。これがぺこぱが「新時代の笑い」として持て囃されるところの所以であると思う。

 一方、最も避けるべきなのは①が「許容すべきでない価値観」になる場合だ。そのとき松陰寺はただ、シュウペイの主張の「異常さ」をそのまま無条件に肯定する構図になってしまう。
 ここで留意しておきたいのは、①には、特に価値観の含まれないニュートラルなボケも代入され得るということだ。実際、ぺこぱの漫才が常に「女どうしが結婚したっていい」のような主張だけで埋め尽くされることはなく(彼らは何らかの政治的主張をするために漫才をしているわけではない)、そのようなボケもたくさんある。そこでの笑いは、ただ②において既存の漫才の構造から逸脱すること(あるいはその仕方)による意外感のそれのみだが、もちろんそれでも十分に良いし面白い。しかし漫才における「普通のボケ」と思っていたものが得てして、「許容すべきでない価値観」を内包していることが往々にしてある。彼らはそこに十分過ぎるほどに注意を払わなければならない。

<第Ⅲ部> ぺこぱの可能性

3-1. 既存の漫才体系からの脱出

 最後に少し趣向を変えて、相対主義というワードに縛られることなく、ぺこぱの漫才の(より開かれた)可能性について考えてみたいと思う。

 前節で「今まではお笑いの世界で『変』とされてツッコミの対象であったが、リベラルな思想では今後認められていくべき価値観」とサラッと書いたが、この「お笑いの世界で」というのはとても重要な点だ。ぺこぱの漫才は既存の漫才体系をフリにしているのだから、「一般社会において」ではなくあくまで「お笑いの世界で」なのである*4。松陰寺は「多様性を認める漫才をつくろう」と思っていたわけではなく、「M-1で勝てる何か新しいものを」と探求した結果行き着いた漫才なのだから、当然といえば当然である。
 さて、これまでは便宜上、ぺこぱの漫才には「ツッコむと見せかけて最終的に相方の発言を許容する」パターンしかないかのように書いてきた。しかしながら、既存の漫才体系をフリにしたうえでそこからどう逸脱するのかという問題について、何も「肯定する」だけがその答えではない。
 例えば、M-1グランプリ2019最終決戦のネタに以下のようなフレーズがある。

松陰寺:漫画みたいなボケって言うけどその漫画って何!

 このくだりは、「漫画みたいなボケするな!」というよく漫才で使われがちなフレーズに対する、非常に批評性の高い言葉になっている。言ってみれば、これは(既存の)ツッコミに対するツッコミであり、お笑いの枠組み自体に言及しているという点でメタ的な意味合いを備えている。そして非常に納得感がある。
 また、以下のくだりも印象的であった。

シュウペイ:今ボケのたたみかけ中ですけど、みなさんどうですか?
松陰寺:いや聞かなくていい!……けど、実際のところどうですか?

 これも「たたみかけ」という賞レース漫才用語をネタ中に出すという点では、メタの範疇に含まれる。しかし先ほどの漫画の下りがツッコミに対するツッコミによる納得感の笑いだったのに対して、こちらは「既存のお笑いで頻出する進行からの逸脱による、意外感の笑い」である。

 以上見てきたように、ぺこぱの漫才は既存のお笑い体系をフリにしながら、その脱出方法が一通りでなく、あらゆる類型がマージされている。ここがまさに、私が(勝手に)ぺこぱの漫才に希望を託しているところだ。つまり、「ツッコむと見せかけて〜」の「〜」で何をするかというのは、無限の可能性に開かれているである。彼らの漫才はまだ二段階も三段階も進化するだけの余力を有している。
 ただ「肯定する」だけではない、この複雑な多重性を備えたぺこぱの漫才は、ここ数年の漫才界で最も大きな発明だと言ってもよいのではないか。

結語

 もともとこの記事を書こうと思ったきっかけは、ぺこぱを「お笑いの末期」と断じる記事を見て、それは彼らの漫才を一面的にしか捉えていないと憤慨したことだった。ここ数年は特に、特定の芸人やネタについて、お笑いのことを十分に知らない人に適当な社会批評のダシにされるということがままある。
 それが嫌だったので、あのブログの主張に一部は同意しながら反論しつつ、相対主義というワードを通してぺこぱについて考えられることをフェアに書いてきたつもりだ。この文章もまた、ぺこぱを「適当な社会批評のダシ」にしているのではないかと言われるとなかなか返す言葉がないのだが、これをきっかけに少しでも、お笑い好きと非お笑い好き、その双方の理解が深まることを願う。

*1:桑山敬己 編『詳論 文化人類学:基本と最新のトピックを深く学ぶ(ミネルヴァ書房, 2018)

*2:確か実際にネタパレで観たときにそう感じた下りがあったのだが、詳細は覚えていない。もしかしたらプロポーズのネタでもないかもしれないが、男女関係についてのやりとりで違和感を覚えたのは確かである。

*3:むろん、果たしてそれは何なのかというのは、全く別の問題としてある。

*4:もちろんそれが一致することは多い。あくまで漫才の構造上という話だ。

今の俺を見てくれ

 大学生になった頃の私は、LINEでスタンプを使う男が嫌いだった。特にかわいいスタンプを使っている奴に対しては、「自分の顔見て出直して来いよ」と思っていた。我ながらほんとうに酷い話だ。
 そういう考えの根源にあったのは、男子校6年間の生活で鍛え上げた卑屈な精神だ。私は自分の顔のあらゆるパーツが心底嫌いで、そしてそんな気持ちの悪い人間が絶対かわいいスタンプなんか使っちゃいけないと思っていた。その自意識が、他者に対する攻撃性として表れていた。
 それから時は流れ、今の私は、そこそこの種類のかわいいスタンプを愛用している。そうなったのには色々理由がある。まずもって自己否定感との向き合い方を徹底的に考えてきたこと、コミュニケーションのツールとして何を使おうがそれは人の自由だと思い直したこと、ましてやそれを人の容姿と結びつけることがいかに偏狭な考えなのかに気が付いたこと。特に自己否定感云々の話は散々書いてきたので今さら触れないが、ともかく私は、あの頃とは考えを変えた。

 大学生活の終わりも近付く今考えてみると、高校卒業したての自分とはかなり違う人間になっていると思う。それは、自分の人間性という意味でもそうだし、社会におけるあらゆる事象についての考え方という意味でもそうだ。
 自分の良くなかったところ、至らなかった点、未熟な考え方、不適当な思いこみ——というのは、たいてい現在進行形では分からない。少し経って、あるいは何年もかかって、他人に勝つことを至上の価値とする生き方でどうするよとか、自分を否定するばかりじゃなくてもっと愛してあげもいいとか、あのときあの人のことを何も分かってあげてやれていなかったなとか、まるで世の中にはマイノリティが存在しないかのような発言をしてしまっていたとか、自分の持つ権力性に無自覚だったなとか、相対主義的態度で解決しないことは山ほどあるなとか、自分が今いる環境はすべて自分の努力で勝ち取ったというのは浅はかな思い上がりだとか、自分が生きていない世界への想像力があるつもりで全然なかったとか、そういうことにはたと気づく。良いように言えば内省的、悪いように言えば些細なことについてグチグチと考え続けることをやめられない性格がそうさせている(そしてそういうところだけはずっと変わってない)。
 そうやって次から修正できることならいいが、気づいた時点ですでに取り返しのつかない状態になっていることも多々ある。特に最近、相変わらずの生活でつらつらと考える時間がたくさんあるせいで、過去に戻って自分の行動・発言を訂正したい気持ちにたびたび苛まれている。しかしタイムマシンは未だ存在しないし、そもそも訂正したいというのはこちらのエゴでしかないので、ひとり自室で頭を抱えて反省するのみである。

 とにかく、フィードバックをかけて自分を更新し続けることだけはやめてはいけないと思っている。もちろん根本のところではそう簡単に変われないのかもしれないが、ちょっとずつ、日々違う私に生まれ変わって生きていきたい。
 しかし本人はそのつもりでも、周りにそれが簡単に伝わるかというと全然そんなことはない。誰かと話しているときに、「あ、これ多分、ちょっと昔の俺のイメージのまま喋ってるなこの人」と思うことがしばしばある。そういうときは悔しいしやるせないし、「今の俺を見てくれ」と叫びたくなる。でもさっきも書いたように、それはこちらのエゴだ。「過去はそうだったかもしれないけど、訂正させてくれ、昔の良くなかった自分は忘れて、今だけを自分の印象にして欲しい」というのは、あまりに身勝手な話だ。人は過去の堆積物として現在を見る。私は過去の私をそう簡単には脱ぎ捨てられない。
 だからそういうことがあったときは、唾を飛ばし早口で反論したくなる気持ちをぐっと堪えて、とにかく丁寧に、今の自分の考えを相手に伝える努力をしている。自分のこれからの言葉・行動で、「今の私」をちょっとずつ分かっていってもらうしかない。こう書くとあまりに綺麗な話だが、自分はできた人間でもないので不貞腐れたり対話を諦めたりしてしまうこともままある。またそれを反省し、次はうまくやろうと決意を新たにする日々である。

 かくして、マスクの下、もとい、心の中で「今の俺を見てくれ」と思うことの多い私だが、最近それについて思うことがもう一つだけある。それは、そうなっているのは何も私だけではなくて、世の中のどれだけの人が「今の自分を見てくれ」と叫んでいるかという話だ。自分のことについては偉そうに言っておきながら、私だって、誰かを「この人はこういう人」というイメージを固めて接してしまうことは多い。確かにそのほうが圧倒的に楽だし、先に書いたように人の根本というのはそうそう変わらないわけだが、それでも、これまで私が相手から変化の可能性を奪ったことがなかったかというと自信がない。
 だからここに誓いたいのは、今後誰かと接するときに、常に「今までのその人と違う人間に更新されている可能性」に開かれた態度であろうということである。昔はああいう人だったけど、今は違うかもしれない。前はあんなこと言ってたけど、考えがそのあと変わってるかもしれない。そうやって接するのは恐らく負荷のかかることだが、他者を理解することとか、他者に寛容であることにおいて、大事なことであるような気がする。

 本稿を締める前に、最後に一つだけ訂正しておきたい。前回の備忘録で「特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ」と書いたのだが、一人でも読んでくれる人がいるのならば、やっぱりこれは自分だけではなくその人のための文章でもあるなと、今は思っている。

NBA

 何となく、文章を書いていないと落ち着かないので、不定期にnoteは更新しようと思う。特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ。

 この頃はずっと勉強をしている。一応受験生なので仕方がない。なんだかんだこの数ヶ月がいちばん医学生らしいことをしていると思う。勉強の合間の時間はひたすら好きなテレビ・ラジオ番組を鑑賞しているのだが、ふとしたきっかけでNBAのプレイ集もYouTubeで観るようになった。と言っても、最新のものというよりは、どうしても自分がよくチェックしていた頃のNBAの動画が懐かしくなって観てしまう。私がバスケ部に所属していた中高時代、つまり2010年前後のものである。
 するとかなり鮮明に、リアルタイムで観ていた選手たちのことを思い出す。ノヴィツキーのこのタッパで片足フェイダウェイはチートだよなとか、ダンカンのバンクショットはマジで渋いとか、デュラントはどっからでも得点できるなとか、当時思ってた感情がそのまま蘇る。わりと楽しい。
 そのまま気になって選手のその後を調べてみると、けっこう引退していたり、第一線の選手ではなくなっていたりして、少し悲しくなる。逆に、スパーズの一選手というイメージだったレナードがめちゃくちゃスター選手になってたりもする。あるいはローズをめぐるドラマを知る。そしてそんな中でも全く変わらないゴリゴリマッチョプレイでスター選手であり続けるレブロン・ジェームズの強靭さに驚く。

 私にとってのレブロンといえば、ウェイドとボッシュとともに「ビッグ3」を結成しマイマミ・ヒートで活躍していたイメージが最も強い。そしてその頃のヒートのことを考えると、当時チームに所属していたマリオ・チャルマーズという選手のことも同時に思い出す。私はいつもチャルマーズのプレイをハラハラしながら観ていた。
 というのも、チャルマーズは悪くない選手ではあったが、上述の「ビッグ3」、特にレブロンなどと比較すると見劣りするレベルであったため、あんなチームでプレイするのはさぞかしプレッシャーが大きくて大変だろうと、私は勝手に不憫に思っていたのだ。チャルマーズがターンオーバー(ミスによりボールを失うこと)したり、大事なところで得点を決められなかったりする場面を観るたびに、「彼は今どんな気持ちなんだろう」と表情を注視していた。
 実際、チャルマーズがレブロンから叱責を受ける様子が画面に映ることもあって、そのたびになぜか私は自分のことのように胸がキュッと苦しくなっていた。

 たぶん私は、チャルマーズの姿を、バスケ部のキャプテンのくせにちっとも上手くならない自分と重ね合わせていたのだろう。もちろん次元が違うし、余計なお世話ったらありゃしないのだが。当時のうちの部は弱小も弱小の、さらに私はその部員のなかでも弱いほうの選手だった。それなのになぜキャプテンだったのかというと答えは明瞭で、同じ学年に私と部員があともう一人しかおらず、そいつが実にちゃらんぽらんだったからだ(一応付け加えておくと、彼とは今でも住む場所は違えど仲良しである)。
 最近私はよく考える。NBAの関連動画から飛んで、バスケが上手くなるための方法とか、色んな戦術の解説動画を観ていると、もっと上手くなるためにやりようがあったなと。バスケが大して上手くなくて、公式試合のたびに辛い思いをしていたくせに、私は練習メニューを一切改善しようとしなかったのだ。それは先輩が大した練習をしていなかった(なのに県大会に行くくらい強かった)のが大きな原因なのだが、今から考えると、チームメイト(主に後輩)に申し訳ないことをしていたなと思う。
 当時は人間関係も辛いことが多くて、(楽しいことがないわけではなかったが)体育館に行くのが嫌で嫌でたまらないことも多々あったのに、それでもバスケ部を辞めなかったのは、周りに諦めたと思われるのが悔しかったという、負けず嫌いから来るただその理由のみである。何とも馬鹿馬鹿しいし痛々しい。繰り返しになるが、だったらもっとやりようあったろと思う。

 そんなこんなで、最近はちょっとバスケ熱が復活して、遊び半分でボールを弄るくらいできたらいいなと思っている。しかしバスケットゴールがある公園というのはなかなか存在しない。だからNBAの動画を観て溜飲を下げるしかないのだが、それもあってか、この頃たまに自分が試合に出ている夢を見るようになった。実に単純な脳構造をしていると我ながら思う。
 夢は、公式試合があるときの体育館のざわざわしたあの感じとか、ベンチで顧問のA先生が怒鳴りつけている様子とか、結構リアルだ。私はオフェンスでボールが回ってきてシュートを打つが、ボールは空を切る。あるいはターンオーバーをして、相手チームに速攻を決められる。
 そこでパッと目が覚める。寝ていたときの緊張がまだ残っていて、心臓の鼓動が速くなっているのがわかる。そして思う。別に、夢のなかくらいスター選手になってたって良いのに。結局ターンオーバーばっかりしている。

2020年1月〜6月に読んだ本

1月

20001 教養のためのセクシュアリティスタディーズ (風間孝ほか/法律文化社)
20002 医学概論とは(澤瀉久敬/誠信書房
20003 医療・合理性・経験(バイロン・グッド/みすず書房
20004 Dr.ヤンデルの病院選び(市原真/丸善出版
20005 100分de名著 スピノザ エチカ(國分功一朗/NHK出版)

2月

20006 多としての身体(アネマリー・モル/水声社)
20007 隠岐さや香 著『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書, 2018)
20008 コンビニ人間 (村田沙耶香/文春文庫)

3月

20009 生を治める術としての近代医療―フーコー『監獄の誕生』を読み直す(美馬達哉/現代書館
20010 人間そっくり(安部公房新潮文庫
20011 ボディ&ソウル―ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー(ロイック・ヴァカン/新曜社
20012 嗤う日本のナショナリズム北田暁大NHK出版)
20013 読んでない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール/筑摩書房
20014 大阪大学医学部最終講義(1989/03/30)『病と癒し』(中川米造/月間『ライフサイエンス』vol.16 No.5/No.6)
20015 J.レイヴ&E.ウェンガー 著『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)
20016 医学とはどのような学問か(杉岡良彦/春秋社)
20017 医学概論(川喜田愛郎/ちくま学芸文庫)
20018 精神科医が読み解く名作の中の病(岩波明/新潮社)

4月

20019 アナ・チン『マツタケ』(みすず書房, 2019)
20020 熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)
20021 よくわかるコミュニケーション学(板場良久ほか編/ミネルヴァ書房
20022 レヴィナス 何のために生きるのか(小林義之/NHK出版)
20023 省察的実践者の教育(ドナルド・A・ショーン/鳳書房
20024 当事者研究をはじめよう (熊谷晋一郎・編/金剛出版)
20025 コロナの時代の僕ら(パオロ・ジョルダーノ/早川書房
20026 漫才作者 秋田實富岡多恵子/筑摩書房
20027 病の文化史(上)(下)(マルセル・サンドライユ他/リブロポート)
20028 現代思想 第47巻6号 43のキーワード(青土社
20029 千葉雅也 著『勉強の哲学』(文春文庫, 2017)
20030 体の贈り物(レベッカ・ブラウン新潮文庫
20031 フィルカル vol.1 no.1 (株式会社ミュー)
20032 流感世界(フレデリック・ケック/水声社
20033 医の倫理(中川米造/玉川選書)
20034 神谷美恵子日記(神谷美恵子/角川文庫)
20035 医者の告白(ウェレサーエフ/三一書房
20036 パリ・ロンドン放浪記(ジョージ・オーウェル岩波文庫
20037 戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス, 2005)
20038 折口信夫死者の書』(角川ソフィア文庫, 2017)
20039 根井雅弘『経済学の歴史』(講談社学術文庫, 2005)
20040 『現代思想 第44巻23号 九鬼周造 偶然・いき・時間』(青土社, 2017)

5月

20041 トム・A・ハッチンソン『新たな全人的ケア: 医療と教育のパラダイムシフト』(青海社, 2016)
20042 ロバート・バックマン『真実を伝える』(診断と治療社, 2000)
20043 人気ラジオ番組完全ガイド ラジオ番組最強ランキング 2020(晋遊舎, 2020)
20044 ローラン・ドゴース 著『なぜエラーは医療事故を減らすのか』(NTT出版, 2015)
20045 ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック 著『孤独の科学』(河出文庫, 2018)
20046 マイケル・マーモット 著『健康格差:不平等な世界への挑戦』(日本評論社2017, 原著2016)
20047 現代思想 第44巻第5号 人類学のゆくえ(青土社
20048 渥美一弥『「共感」へのアプローチ: 文化人類学の第一歩』(春風社, 2016)
20049 『現代思想 第48巻7号 感染/パンデミック』(青土社, 2020)
20050 『新潮 第117巻第6号 コロナ禍の時代の表現』
20051 ピーター・バーク 著『歴史学と社会理論 第二版』(慶應義塾大学出版社、2009)
20052岸政彦ほか 著『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(有斐閣、2018)
20053 『思想としてのコロナ禍』(河出書房、2020)

6月

20054 ジョルジョ・アガンベン 著『ホモ・サケル』(以文社、2003)
20055 片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語辞典』(戸山フロイト研究会、2015)
20056 松本卓也『狂気と創造の歴史』(講談社選書メチエ、2019)
20057 赤林朗・児玉聡(編)『入門・倫理学』(勁草書房、2018)
20058 酒井シズ『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)
20059 髙橋昌一郎『理性の限界』(講談社現代新書、2008)
20060 高橋昌一郎『知性の限界』(講談社現代新書、2010)
20061 髙橋昌一郎『感性の限界』(講談社現代新書、2012)
20062 松本啓二朗戸田剛文(編)『哲学するのになぜ哲学史を学ぶのか』(京都大学学術出版会、2012)
20063 本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1991)
20064 五十嵐 武士・福井 憲彦『世界の歴史〈21〉アメリカとフランスの革命』(中公文庫、2008)

最近は全然コロナについて考えていない。

 3日前、ふと思った。最近、コロナについて全然考えていないなと。

***

 LINEを検索してみると、私が初めて「コロナ」という文字列を打ち込んだのは2/27(木)のことである。それはちょうど、COVID-19の影響を受けて大規模イベント等が次々と中止・延期になっていた頃だった。私は、権威ある漫才の大会が中止になること、また一方で独り芸の全国的なお笑いコンテストが無観客で行われることを知り、知人にニュースのリンクを送った。

 NHK上方漫才コンテストっていう、権威ある漫才コンテストも延期……

 しかしこの頃はまだ、「自分の好きなエンタメが奪われる」という程度の認識しかなくて、まさかこんなにも時代を変えるほどに大きな影響を持つとは予想だにしていなかった。

***

 私はがCOVID-19関連の記事・文献・書籍を——特に人文系を中心に——可能な限り追うことに決めたのは、4月のはじめ頃である。それ以降、見つけたものは友人とslcakで共有しさらに考えたことを文章におこして投稿して、ということをずっと続けてきている。おかげで、こういうときにそれぞれの学問領域の専門家がどのような概念を持って何を言うのか、ということについての見晴らしがだいぶんつくようになった。またそのsclackのチャンネル自体が、将来的に貴重なアーカイヴになると思っている。
 ただ始めた直後と比較すれば、slcakで記事をあげる頻度はやや減っているように思う。ひとつ事実としてあるのは、能動的にCOVID-19の記事を探すということについて少し息切れしつつあるということだ。ずっとCOVID-19のことについて考え続けるというのは、色々な意味で消耗するし疲れる。それと私自身の今の環境のいろいろが重なり合って、冒頭のようなことを考えたのかもしれない。
 でもカレンダーを見てよくよく考えてみれば、COVID-19に関する思考から自由な日など一日もなかった。5日前は緊急事態宣言の解除について家庭教師先のお母さんと話し合っていた。4日前はこの状況における臨床実習について先生や学生たちと話し合っていた。3日前など、いつものようにslcakにCOVIDー19に関する論考をアップし、それについて考えを述べていた。そのあとに私は「最近は全然コロナについて考えていない」と「ふと思った」のである。

***

 思うに、COVID-19というものが、私の思考の前提に深く侵入し過ぎたせいで、その存在を意識しないまでに至ってしまっているのだと思う。当初のように「能動的に」について考えることをしなくても、すでに私はCOVID-19について「考えている」のだ。それは今の私の生活のあらゆる細部を支配している。
 それは単純に(臨床実習がなく、ほとんどの時間を実家で過ごしているという)今の私の生活を規定しているという意味でもあるし、思考の様式を侵しているという意味でもあるし、また私の身体そのものに介入してきているという意味でもある。ここまで、外を歩いていて、自分あるいは他者の鼻や口、指、唾に神経を尖らせながら生きたことはなかった。しかしそこにおいて「COVID-19のために」という文言はワンテンポ遅れてやってくる。触らないために触らないし、近づかないために近づかないのだ。
 だから私は、「最近は全然コロナについて考えていない」と思った自分にゾッとした。そうやって「新たな日常」を受容してしまうのがすごく怖い。受容することそれ自体より、そこの無自覚さに恐怖を覚える。これから自分の思考あるいは身体がどう変化しようと、それに意識的であることに踏ん張り続けるにはどうすれば良いのか。

* * *

 ついでに日記めいたものをここに書いておく。このところ、私はずっと一階の和室に机を置いて時間を過ごしている。今日の18時頃、窓を開け放って作業をしていると、リビングから、そして隣の家から、安倍首相の緊急事態宣言の解除の記者会見が聞こえてきた。今まで知らなかったのだが、同じテレビと言っても微妙な時間差があるのか、安倍首相の声がダブって聞こえてくるのが非常に気持ちが悪かった。別にどうでもいい場面なのだが、なんかこれはこの期間における記憶の一つとして当分忘れないだろうなという確信が私に訪れた。
 単純に、そもそも自分ひとりの部屋がないからそうなっているのだが、来る日も来る日も、和室という同じ空間で毎日を過ごしている。そうしていると、日々がだんだんと溶け合っていって、なんだかひとつのぼんやりとした大きな塊になっていくような感覚がある。要するに、時間の遠近感覚が極限までに鈍っていくのだ*1。昨日も今日も明日も同じ一日である。
 だから頻繁に不安になって、カレンダーを見ながら、「何日前に何をした」という「特異的な」思い出を見つけ出そうとする。すると五日前の出来事がちゃんと五日分くらい前の出来事のように感じるので、とてもホッとする。
 一方で、この生活が始まった二ヶ月くらい前を思い出してみると、もう随分前のように思える。この間、かなりたくさん本を読み、かなりたくさん文章を書き、かなりやるべきことを消化できた。正直、こうならなければ生まれ得なかった生産性だと思う。そういう意味で充実しているのは有り難いが、このまま溶け合うような日常がこれからも過ぎていく可能性について考えると、頭がおかしくなりそうになる。
 ぼんやりとした大きな塊からいかに抜け出すか。気を抜くと飲み込まれて、抜け出せないループを永遠に繰り返してしまうような気持ちにもなる。自分は何が楽しくて生きていたのかもよくわからなくなる。でもたぶん、いや確実に、朝起きたらまたこの和室に私はいる。

「他者」についての覚え書き

satzdachs.hatenablog.com

 この記事を書いてからもずっと、レヴィナスのことが気になっている。その理由の一つは、彼が「他者」について語った哲学者であったということだと思う。他者をどう捉えるかというのは私にとってずっと切実な主題であり続けている。また、(「グローバル社会」のような言葉を持ち出すまでもなく)人とモノとが密接に繋がり絡み合ったこの社会において、その矛盾が今回のCOVID-19の「感染」(=それは「他者」によって起こる)によって露呈させられている姿を見るにつけ、やはり「他者」は重要なテーマである。
 しかし正直なところ、レヴィナ は手強く、まだ私が気軽に扱えるような相手ではない。そこで本記事では、熊野純彦 著『レヴィナス入門』 (ちくま新書、1999)を読みながら、「他者」についての覚え書きをここに記しておき、いつか必要になったときのための準備としておく。先に断っておくが、結論は特にない。

* * *

 前の記事にも書いたが、ハイデッガーによれば、存在者との関係は「了解」に帰着する。 例えば、手元にあるハンマーを手に取り、その手ごろさを発見することが、存在者を存在者として存在させることである。
 では、他者との関係はどうだろうか。レヴィナスはここにおいて、彼はハイデッガーの「了解」という概念を批判する。
 つまり彼は、他者との関係を、了解をはみ出て溢れ出していくものとして捉えるのだ。そして、他者を了解するとはむしろ、他者が私の知の一切から逃れでる存在であることを理解することである。そうした了解=包摂の対象とはなり得ないもの、それゆえに優れて「対話」の相手となるものをこそ、ひとは「他者」と呼ぶのではないか、と彼は問いかける。

* * *

 レヴィナスはまた、フッサールをも批判する。
 周知の通りフッサールは、世界に関するすべての常識的判断を保留する「現象学的エポケー」として、「自分は、客観的に実在する世界の中に存在している心身である」という信念を遮断し、そのような遮断の後も疑えないものとして残る「純粋意識」の構造を分析した。意識に現れている対象にではなく、意識への現れそのものに関心を引き戻すことを目指したわけだが、それでも現象学独我論に陥らないのは、「自分の意識に現れているものは、他人の意識にも同じように現れている」という前提を引き受けているからである。フッサール流には、この「間主観性」と呼ばれるあり方こそが、互いを他者として認めながら一つの世界のうちに存在することである。
 しかしレヴィナスはこれを、 私が<私>であるという同一性=<同>の内部に、世界の外部性=<他>が回収される営みとして捉える。そしてそこにおいて、自己投入を介して到達される他者は、<私>にとっての対象である他者と成り果ててしまっている、と言ってフッサールを批判するのだ。つまり構成された他者は、既に私によって飼い慣らされ、その他性を予め喪失している他者なのである。

 レヴィナスにしてみれば、他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は、超越論的領野の外部から(世界の外部)から到来すると語る以外にないのではないか。そう彼は考える。

* * *

 レヴィナスにおいて重要な概念は、「顔」である。以下少し長いが、レヴィナスの言葉を引用する*1

「顔」には意味作用があるが、そこに文脈はない。私が言いたいのは、「他者」という観念において、あるがままの「顔」そのものには、社会的特性はないということだ。通常、人間には固有の特性がある。ソルボンヌ大学の教授、国務院の次長、何某の息子……パスポートや服装、その着こなし方を見れば、さまざまなことがわかる。そして、あらゆる意味や定義は、一般的観点からいえば、それぞれの文脈と関係している。何かの意味は、他の何かとの関係の上に成り立っている。
一方「顔」には、「顔」そのものに意味がある。あなたはあなたなのだ。その意味でいえば、「顔」は“見られる”ものではないと言えるだろう。それは、自らの思考の中でしか捉えられないものでありながら、内容となることを拒む。飽くことなくさらなる場所へあなたを導くのだ。

 世界内の他者たちは、「なにか」である。教師であり警官であり、男であり女性である。しかし他者の他性は、他者を私から区別する何らかの性質に依存しているのではない。むしろ逆に、そうした種類の区別は我々の間でまさに類が共通していることを含意しており、その共通性は他性を無化するものであるのだ。
 大事なことは、「なにか?」ではなく「誰か?」という問いである。そして「なにか?」への問いをすべて剥ぎ取り、「誰か?」の問いを突きつめた先にあるのが、レヴィナスの言う「顔」である。正確な表現ではないかもしれないが、「顔」とは、「その人そのもの」と言い換えてもよいのかもしれない。「顔」は、内容となることを拒否することにおいて現前する。そして他者が他者であることが、顔において現れる。

* * *

 レヴィナスにとって「顔」とは殺人を不可能にするものであり、そしてそこに倫理の現れを見る。以下、先ほどの文章の続きを引用する。

しかしながら「顔」によってもたらされる関係性の本質は、倫理である。「顔」は人を殺すことを不可能にする。「汝、殺すなかれ」と発しているのだ。殺人はありふれた現実であり、人は他人を殺すことができるし、倫理観は存在論的な必然ではない。殺人が禁じられたところで、現実的にそれを不可能にすることはできず、たとえ権力によって罰則が科されたところで、邪悪な悪意、卑劣な悪がなくなることはない。

 フッサールの項において述べたような、<他>を解消し続ける<同>の論理の中では、殺人を禁止するものはない。そこではひともまた資材であり、資材である以上は消費し抹消することが可能であるからだ。
 しかしながら「顔」において現れている<他>が、殺人を不可能にする。なぜならその「顔」は、我々に共通のものでありうる世界と手を切っているからだ。他者の他性が、世界の組成に絶えず亀裂を生じさせる。このように、「他者の現前」そのものが、「他者を私に還元することができないということ」が、倫理として現成するのだ。

 そして殺さない以上(=他者を<他>として<同>に還元不能なものとする以上)、私は呼応し続ける他ない。応答し続けるという、この債務には際限がない。他者が無限である限り、呼応には終わりがあり得ないからである。
 この「責め(ルスポンサビリテ)」において、私が<私>として構成される。レヴィナスのいうルスポンサビリテは、いっさいの受動性よりも受動的な「受動性(パッシヴィテ)」である。

* * *

 なんだかわかるようなわからないような、という感じである。そもそも私がレヴィナスを好きになったのは、「握手」と「愛撫」に関する彼の記述が、自分の素朴な所感に一致していたからだった。それについて触れながら、ここで一度、要点だけまとめておく。

 「握手」という営みについて、例えばメルロ=ポンティならば、諸身体を縫い合わせる原初的な次元=「間身体性」を認めるようとするだろう。しかし私は長らくこれが気に食わなかった。
 それに比して私の気に入ったのは、「握手は『差異』の中にある」とするレヴィナスの考え方だった。その埋めようもない差異を越えようとする切なさ、独特な切迫が、握手にはあるのだ。「〜ではない」という否定形の形で辛うじて友情は伝えられるのみである。
 愛撫もそうだ。愛撫において、他者をとらえようとして、決してとらえることができない。身体のこれ以上ないほどの接近にあってもなお、(むしろ接近したがゆえに)他者との隔たりは増大していく。ここで、裸形においてこのうえなく剥き出しになっているかに思えて、結局手の届かないかなた、「存在するもののかなた」へ逃されるものが、他者なのである——これは、私がまさに切に感じたことだった。

 このように、他者とは私との無限の差異である(ディファレンス)。他者に対して無関心であるとは、差異のうちにとどまっていることである(アン-ディファレンス)。にもかかわらず、他者との関係は不可避であり、私はつねに・すでに他者との関係を抱え込んでしまっている。だから、私は他者に対して「無関心では―ありえない(ノン-アンディフェランス)」のだ。
 このことがまさに、およそ<倫理>が可能であるための最下の条件なのではないか、とレヴィナスは問いかけている。

<お笑いと社会 第1回> 「いじり」とは「ごっこ遊びすること」である

 このシリーズは、「バラエティ番組の『いじり』は日常生活の『いじめ』を助長するのか?」という問いに答えるため、一年弱かけて不定期に連載してきました。今回、また記事を書くにあたって読み返してみると、長期間にわたって書いてきたために議論が混乱してしまい、改めて話を整理したほうが良いのではないかという思いが沸いてきました。しかし遡って書き直すというのも不誠実なような気がします。そこで今回から、これまでの内容を基本的には踏襲しながら、三回分を再編集した新版として前後半に分けて書いていきたいと思います。前半は、以下の二記事を下敷きに、ごっこ遊びの定義と日常世界における「いじり」について考えます。

satzdachs.hatenablog.com

satzdachs.hatenablog.com

第Ⅰ部 ごっこ遊びとは何か

1-1. ウォルトン「虚構を怖がる」の議論から

 はじめに、分析哲学ウォルトン(K. Walton: 1939-)の「ごっこ遊び(a game of make-believe)」という概念について紹介したいと思います。
 例えば怪獣ごっこ遊びなら、父親が怪獣になりきって、「グオー」と呻きながら恐い顔をして子供を追いかける。子供は、「キャー!」と叫びながら逃げまわる。
 さて、この怪獣ごっこを楽しむ子供は、「本当に」怪獣がその場にいると「思っている」のでしょうか? 答えはノーでしょう。そうやって走り回れるくらいの子供は、父親は人間であって怪獣ではないということは理解できているはずです。しかし一方で子供は、「うわ、なんか36歳会社員の男が呻きながらこっちに寄ってくるわ、とりあえず叫んどくか」と冷めた目で父親を見ているだけでもないのです。子供は怪獣ごっこに熱中しているからこそ、「キャー!」と叫びながら逃げまわり、その瞬間を楽しんでいます。
 怪獣がその場にいると「思っている」けど「思っていない」、このアンヴィヴァレントな状態がごっこ遊びの核心です。ここで「思っている」というのは、ウォルトン流には「虚構的真理を信じている」という表現になります。「虚構的真理」とは、「怪獣が存在する」というようなテーゼも「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であるとみなす考え方のことです。また「思っていない」とは、「虚構が虚構であると分かっている」ということを指します。

1-2. ごっこ遊びが終わるとき

 ごっこ遊びから離脱する方法には大きく分けて二つあって、一つ目は「虚構性に明示的に言及する」ことです。
 例えば怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけたとします。そんなことを言われてしまった暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。同時に、そう言った後の子供がまた「キャー」と叫びながら逃げまわるのもおかしな話でしょう。
 つまり、ごっこ遊びの最中に、自分(たち)が「ごっこ遊びをしている」という事実に明示的に言及することによって、虚構性が暴露されています。それによって(虚構に降りていた)あなたは現実世界に引き戻されてしまい、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)は真ではなくなります。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残されてしまうのです。

 二つ目は、「虚構が真実だと誤解する」ことです。これは例えば怪獣ごっこなら、子供が「本当に」怪獣がその場にいると思ってしまう状態のことです。ごっこ遊びの二つの成立要件から見てみると、「思っている」と「思っていない」のうち後者、すなわち「虚構を外から見ている」視点が失われてしまっているわけですね。

第Ⅱ部 「いじり」とは何か

2-1. 「いじり」は「ごっこ遊びすること」である

 私は昔、よく滑舌の悪さについていじられていました。特にい段が苦手で、「き」「し」「ち」が言えず、「キッチン」や「チキン」「敷地」を発音させられて周りに笑われる、そして私が怒る、というやりとりをよくやったものです。しかしそれに私が嫌な思いをしていたかというと、そんなことはなく、仲の良い友達との一種の「お決まりの下り」として理解していました。
 この「いじり」の事例について、「ごっこ遊びすること」と重ね合わせて考えてみましょう。ここにおいて、「私の滑舌が悪い」ということ自体は(注釈抜きの)真理です。しかしながら、以下のやりとりの

①友達が、私の滑舌の悪さに悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
②私が、それを言われて気分を害する(怒る/悲しむ)。

という「悪意をもって」と「気分を害する」の部分が虚構的真理です。周りの友達は「本当に」傷つけようとして私のことを貶していないし、私も「本当に」怒っているわけではない。それが虚構であると暗黙のうちに分かったうえで、それでも、「本当に」貶された私が「本当に」怒っているものとして表面上のコミュニケーションがとり行われるのです。
 このように「いじり」は、虚構が虚構であると分かっていながら虚構的真理を信じる営みであり、その意味で紛れもなくごっこ遊びの一亜型であると考えることができます。

2-2. 「いじり」が成立しなくなるとき

 先ほどのごっこ遊びの議論に即して、「いじり」が成立しなくなる条件について考えてみましょう。一つ目の「虚構性に明示的に言及する」は、「ま、これはいじりだから、本気で言ってるわけでも、本気で怒ってるわけでもないんだけどね」宣言してしまうことです。
 二つ目の「虚構を真実だと誤解する」は、例えば友達が「本当に」私の滑舌の悪さに悪意をもって言及したわけではないのに、私がその悪意を「本当のものとして」受け取って気分を害する、ということになると思います。

第Ⅲ部 日常生活における「いじり」と「いじめ」

3-1. 「いじめ」とは何か 

 さて、ここからは「いじり」と「いじめ」の問題について考えたいと思います。周知の通り、「いじり」と称して行われていたことが実質的には「いじめ」であった、として批判されることは世の中にままあります。それではいったい、こう言うときの「いじり」と「いじめ」は何が違うのでしょうか。ごっこ遊びとしての「いじり」を踏まえて考えるならば、以下の条件を満たした場合にそれは「いじめ」になると考えられます。

①Aが、Bに関する何かしらについて「本当に」悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
and/or
②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する(怒る/悲しむ)。

 「and/or」と書いているのは、①②両方の場合はもちろんですが、その片方だけでも満たした瞬間にそれは「いじり」ではなく「いじめ」になるという意味です。 私の例に即して言うのならば、友達が私の滑舌について「馬鹿にして攻撃してやろう」と思って言及した場合には、私がどう感じようと(気にしていなくても)それは「いじめ」です。また、友達側は傷つけるつもりはなく「いじり」と思って私の滑舌に言及したとしても、私がそれで気分を害すればそれは「いじめ」です。

3-2. 「いじり」は容易に「いじめ」へとスライドする

 賢明な読者の方ならお気づきかと思いますが、この「いじめ」になる例のうち後者(②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する)は、そのまま第Ⅱ部の「いじりが成立しなくなるとき」で「虚構が真実だと誤解する」として挙げた例と一致しています。このように両者の境界は非常に曖昧であり、「誤解」によって容易に「いじり」が「いじめ」へとスライドしてしまうことになります。
 つまり、表面上は全く同じやりとりでも、相手の受け取られ方によってはその意味が大きく変わることになるのです。

3-3. 「いじめ」を遡及的に「いじり」に変換できる

 もう少し、「いじり」と「いじめ」の境界の曖昧さについて考えてみましょう。ここで、一つのエピソードを紹介します。2018年、女性芸人のXさんがとあるテレビ番組に出演し、自分が芸人となった原体験について話していました。

 Xは小学生時代、「ブタ」と呼ばれていた。それに「シュン」と萎縮してしまうとクラス中が悲しい雰囲気になる。そこで、「ブタって何よ!」と傷ついていないかのように言い返すと笑いが起き、その場が明るくなった。その体験から、イジられても「変な空気にならずに笑いになることが一番平和」だということを感じ、芸人となった今も「ふってくれることに対しては絶対応えたいという気持ちでいる」。

 ざっと、彼女の発言を要約すると上述のようになります。一見、まるで美談であるかのように語られていますが、しかしここには大きな問題があります。
 それは、Xさんとその周りの同級生たちは(彼女の発言から判断するに)事前に良好な関係を築いていなかったということです。つまり同級生は「本当に」悪意をもって、ブタという言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていた。そしてXさんは「本当に」悲しんでいた。これは虚構などではなく、れっきとした真実です。
 その後、Xさんのリアクションによって教室は笑いに包まれ、彼女と同級生たちは「良好な関係」になりました。この「良好な関係」はすなわち「ごっこ遊び」の成立のことであり、「ブタ!」という言葉には「本当に」悪意があるわけではない、という解釈が付与されるということです。また同時に、Xさんも「本当に」悲しんでいるわけではなかった。ここに虚構的真理ができあがる。
 しかしながら、ここでいくら強調してもし足りないことは、その虚構的真理への転化はあくまで遡及的retrospectiveであるということです。上に述べたように、同級生のXさんに対する態度は、最初はれっきとした「いじめ」でした。それが彼女の応答によって「あれはいじりだった」と遡及的に意味が変質してしまったのです。それに伴い同級生たちも「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることが可能になり、彼ら/彼女らの罪悪感も軽くなったのではないでしょうか。これは、「いじり」における虚構的真理は外部の人間が見て判断できない内面の部分であるために起こることです。

3-4. 「『いじり』は暗黙の了解のうちに始まる」という前提

 今回はXさんのリアクションありきの話ですが、仮にそういう反応が受け手側からなされなかったとしても、「あれは『本当に』悪意を持っていたわけではなかった」と遡及的に説明を与えることによって、「だから『いじめ』じゃなくて、『いじり』(のつもり)だった」という弁明が可能になります。
 重要なのは、この弁明には、「いじりはそもそも互いの暗黙の了解のうちに始まる」ということが前提にあることです。ここに、「いじり」と「いじめ」問題についての最も難しい点の一つを見ることができます。
 第Ⅱ部において、「いじり」というごっこ遊びを成立させなくする方法の一つに、「虚構性に明示的に言及する」ことを挙げました。つまり、「今からするやりとりは『いじり』です」と明言してしまうと、それはもう「いじり」として成立しなくなってしまう。一方は「本当に」傷つけようとしているわけではないし、もう一方も「本当に」悲しんでいるわけではない、ということを暗黙のうちに、共通了解としてはじめに持っている必要があるのです。逆に言えば、その前提を悪用し他のが、「共通了解の『つもり』だった(=ごっこ遊びが成立していると『思い込んで』いた)」という、遡及的な事実の改竄による言い訳なのです。

第Ⅳ部 たとえそれが「いじり」であったとしても

 Xさんのエピソードにおいて、遡及的な「いじめ」の「いじり」への転化が問題であることはわかりました。それでは、「いじり」として成立して以後のやりとりは全て何の問題もないと言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。以下、二つの問題点を提示します。

4-1. 「マジになるなよ〜w」の圧力—ごっこ遊び「せざるを得ない」

 はじめに論じたいのは、「いじり」を継続するのはXさんの「意に反していた」のかどうか、という点です。つまり、Xさんは自ら望んでごっこ遊びを継続「していた」のか、あるいは無理やり「させられていた」のか。
 この意見に対して反論する人が一定数いることは容易に想像ができます。Xさんが望んで「いじる」「いじられる」の関係をつくったのだ、現に、本人が番組で美談として話しているのがその証拠じゃないか、と。

 しかし注目したいのは、Xさんの元々の発言で「変な空気にならずに」という表現があったことです。ここで「変な空気になる」ことは、Xさんが友達の言葉に「シュン」とする、すなわち「本当に」怒る/悲しむことによって引き起こされます。
 これは、「いじり」というごっこ遊びが成立しなくなるもう一つの方法、「虚構を真実だと『誤解』する」にあたります。「誤解」にかぎかっこを付けたのは、それは決して「誤解」などではなく、当然Xさんには友達の言葉に「本当に」傷つき、そしてその怒り/悲しみを主張する権利があるからです。しかしそれは、周りの「マジになるなよ〜w」というレスポンス、あるいはそういう返しが来るだろうというXさんの先回りの予見によって、抑圧されてしまうのです。
 そんな状況下で、Xさんが取ることのできる行動は、「いじり」という関係を維持し続けることしかなかったのです。ここで重要なのは、それ以外の選択肢がなかったことだと私は考えます。同級生たちに「ブタ!」と言われること、「シュン」とした空気になること、自分自身が傷つくこと……そんな苦しい状況の中で、その全てを解決する手段は、「いじりとして処理すること」だけだったのです。彼女の見ている世界では、現状を変えるにはそれしかなかった。「いじり」にすれば、同級生の反応は変わり、空気は明るくなり、自分も傷つかなくなる……その問題点は既に指摘した通りですが、しかし、彼女にとってその変化は救いだったのでしょう*1*2

 ここにおいて、「能動―受動」のパラダイムのままで表現するならば、Xさんは自分で望んで「していた」とも言えるし、「させられた」とも言える。意志の在り処が曖昧になる「せざるを得ない」という表現が最も近いのかもしれません。近藤さんのその帰結を責めることはできませんが、しかし、「本人が『自分の意志で』リアクションしたと思って/語っていた」からと言ってただちに「いじめではない」と判断できない、ということがこれらの分析から分かります。

4-2. ルッキズム的価値観の再生産への加担

 それでは、取りうる選択肢が豊富にあり、お互いが了解の上での「いじり」ならそれは全てオッケーなのでしょうか? 私は、「ルッキズム的価値観の再生産への加担」という観点から、そうは言えないと考えます。
 ルッキズムLookismとは、容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことです。同級生が「本当に」悪意をもって、ブタという言葉で近藤さんを嘲笑していたのは、明確にルッキズムです。
 しかしそれが遡及的に「いじり」へと転化され、「ブタ!」と言っていた同級生たちが免罪されることによって、「別に、ああいうことを言っても良かったんだ」とルッキズム的な価値観が正当化されてしまうのです。そして彼ら/彼女らは、悪びれることなく、また別の場面でも同じような言動を繰り返す。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められる。
 このようにして、Xさんのような「いじり」を許容することによって、ルッキズムが強化・再生産されてしまうのです。

第Ⅴ部 どのような「いじり」なら許されるのか

5-1. いじりの3条件

 以上、Xさんの事例を見ながら、「いじり」に付随する問題について考えてきました。さてここからは、以上の議論を踏まえて、許される「いじり」が存在するとすれば、それはどのような条件を満たすべきなのか、を論じてみたいと思います。この部分に関しては私もまだまだ考えている途中なので、これはあくまで暫定的な案ですが、条件を3つに分けて書いてみました。

「いじり」の3条件
①「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている(そしてそのことをはっきりと双方が共通理解として持っている)
②相手の本当に嫌なことは言わない
③相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない

 一つ目の条件で「前に」と書いたのは、遡及的に「ごっこ遊び」が成立されてしまうことを防ぐためです。二つ目は、虚構的真理が守られるために当然必要な条件です。そして最後が難しいところです。「以前から良好な関係であるAとBしかいないクローズドな場で、『ブタ!』と言うことが社会的に容認できない価値観であり、他の場面で適用されないということは分かった上で、お互いに完全に同意のもとでAがBを『ブタ!』といじる」ことは許されるかどうか、というのが争点です。悩みましたが、
・いくら「他の場面で適用されないということは分かった上で」とは言っても、このようなやりとりを日常で例外的に認めることによって、「社会的に容認できない価値観」を内面化そして再生産する潜在的なリスクを否定し切ることはできない。
・上述の「せざるを得ない」の議論から、表面上「完全に同意」があったとしても、受け手側がその「社会的に容認できない価値観」への抵抗感がある可能性を排除し切れない。
 という理由から、「相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない」という記述にしました。

5-2. 「内輪」という信頼関係

 ともかく、AとBが「いじりの3条件」を満たせているのだとすれば、それは相当な信頼関係の上に成り立っていると考えてよいと思います。ここで、次回以降の議論のために、「いじり」というごっこ遊びを行うことのできる信頼関係のことを、「内輪」と名付けたいと思います。

5-3. いじりとは本来的に非対称な関係である

 しかし改めて見てみると、当り前のようでいて穴だらけな「3条件」であることが分かります。「十分に」とは何か、「良好な関係を築いている」という判断は誰がどのように担保するのか、「本当に嫌なこと」と言うときの「本当に」はゼロサムの表現だがそのように明確なラインはあるのか、同じく「本当に」の判断は誰がどのように担保するのか、「社会的に容認できない価値観」と言うが一体それは何を指しているのか、など、無限に問題があることが分かります(特に最後のやつはヘヴィです)。ですが紙幅の都合から、これらについてはまた別の機会で詳細に論じて固めることとします。
 ただ一つだけ言えることがあるとすれば、「いじり」とは、「いじる側」と「いじられる側」が存在する、本来的に非対称な関係であるということです。ここが、「する側」と「される側」の存在しない「ごっこ遊び」と最も異なる点であると思います。かくして「いじる側」と「いじられる側」は、権力勾配のある緊張を常に孕んでいる。それはどこまで言っても「十分に」「良好な関係」と言えるのか? この問いに関しては、いずれ必ず答えなければならないでしょう。

結語

 本稿では、ウォルトンごっこ遊びの概念を用いて「いじり」という営みを記述し、またそれに付随して起こる問題について論じてきました。最後に「内輪」という言葉を登場させましたが、これはバラエティ番組における「いじり」を考えるにあたって次回以降のキーワードになっていく予定です。

satzdachs.hatenablog.com

 

 

*1:私もかつて、過度に貶めるような言葉を投げかけられたり、バッグを隠されたり、その他大っぴらには書けないような酷い仕打ちを恒常的にされ続けて苦しんでいた時期がありました。そしてあるとき、それを全て「笑いで返す」=「遡及的にいじりにする」ことによって抜け出そうと決心し、何とか地獄の日々から脱出した、という経験を持っています。その意味で、私は全く他人事には思えないのです。
 確かに「『いじり』にする」ことは本稿で論じたように問題だらけですが――それでも、と私は思います。苦境を解決する方法が「それしかない」ように見えている人に、「お前は悪しき価値観の再生産に加担している」と言うのはあまりに酷です。ましてや、「それを選ぶな」とは口が裂けても言えません(もちろん、本人がそう「せざるを得ない」社会構造を変えなければいけない、ということは改めて強く主張しておきます)。

 そんな風に悩んでいるときに、私は一つの記事に出会いました。それは、かつていじめを受けていたものの、文化祭でやるコントの脚本を書いたのをきっかけに一躍クラスの人気者になった、という経験を持つ霜降り明星せいやさんのインタビューです。

 このエピソードもともすれば、「いじめを笑いによってはね返した」という美談として語ることはできそうです。しかしせいやさんは一貫してそれを拒否します。

――高校生のせいやさんは、コントが書ける力を持っていたからこそ、あの状況をくぐり抜けることができたとも言える。一方で、多くの10代は、せいやさんと同じようないじめを受けたとき、ギブアップしてしまう人がほとんどだと思います。つらい思いをしている「普通」の10代に今、せいやさんが伝えられるメッセージを聞かせてください。

 これが一番言いたいんですよね、結局。僕は別に、自分の経験談を押し付けたいわけじゃないので。
 やっぱりね、逃げた方がいいですよ。立ち向かわなくていいです。僕は別に闘ってないんですよ。笑いではね返したっていう言い方をすることもありますけど、笑いに逃げただけ。僕には笑いっていう逃げ場所があったから。笑いって対人やから、向かっていったみたいになってますけど。
 音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもええです。とにかく、そんなやつらに、人生終わらされてたまるかっていう気持ちを持ってほしいですね。そんなやつらに合わせる必要もないし、そんな環境に合わせる必要も全くない。自分の好きなことを、本当にチャンスやと思って見つけてほしいですね。

 せいやさんは一貫して、苦しい状況にあるときに「『いじり』にするしかない」「笑いに転化するしかない」なんてことはない、ということを強く主張しています。確かにお笑いは「助けて」くれる。でも他に選択肢はいくらでもある。逃げればいい。「あいつら」に合わせる必要はない。
 あの時期にこの記事があって、私が読むことができていれば、なんてことを考えてしまわないわけではないです。しかしそんな意味のない反実仮想よりも、今私が願うのは、もし今いじめに苦しんでいる人がいるならば、何かの検索で引っかかってこのせいやさんの記事にたどり着いて、ちょっとでも救われたらいいな、ということです。

*2:もう一つ、お笑いコンビレギュラーのこの記事もずっと気になっています。

r25.jp

 彼らは今、老人ホームの「余暇時間」でネタを披露するという活動に力を入れています。そこで認知症を「いじる」ことについて、こう言います。

 「介護の現場では、かわいそうだから笑ってはいけない」というのは、間違っていると思うんです。

 たしかに身体が不自由な人や認知症の人たちは、間違うことや、おかしなことを言ってしまうこともあります。

 でも、決して「かわいそう」ではない。本人たちは普通に言っているのに、まわりが「これはかわいそうなことなんや」と決めつけて、隠そうとするほうがかわいそうやと思うんですよね。

 ルッキズムの話と同等に考えるのならば、認知症について「いじる」ことも許容されません。ただ、彼らの言うように、そうやって自分のネガティヴな笑い飛ばすことが本人にとって活力になるのであれば、それを外野から批判することはできるのでしょうか?