国試受かりました

イェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!!!!!!!!!!!!!!!!!ヤッタァァーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!ウレシィィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!ヨカッタァァァァァァーーーーーーーー!!!!!!!!!!バンザァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!バンザァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

日々の話(2020年3月1日)

 昨日は某携帯ショップに行っていた。実はそれが今月3回目で、前の2回は契約の名義を変更するのに必要な書類等にいずれも不備があったために、再々度出直しとなっているのだった。担当は3回連続で同じFさんだった。ここまで来たら流石に顔と名前を覚えていた。
 私は、もう二度とFさんの手を煩わせるわけにはいかない、「こいつ何回も来るけど全然ちゃんとできねえじゃん」と思われたくない、その一心でかなりの緊張状態に駆られながら、Fさんの問いかけに1秒以内にテキパキ返答することを心がけた。結果、不要なプランを1つ追加され、必要だったプランを1つ削除されて、それを言い出せないまま店を出た。

***

 ちゃんと継続できてから言おうと思っていたので書いていなかったが、7月からランニングを始めていた。それ用のシューズも購入して、2日に1回くらいの頻度で5.5kmのコースを走っていた。ところが10月末のテスト前に怪我をしてはいけないと思っていったんストップし、そこから国試が近づいてくるにつれ余裕がなくなったため、ランニングをすることはなくなっていた。つまり見事に継続できなかったのでここで書くこともできなかった。
 国試が終わってすぐは寒くてランニングどころではなかったが、最近はようやく暖かくなってきた。しかし私は重症の花粉症なので外に出れば目と鼻が完全にやられてしまう。やっぱり今日も走るのはやめておいたほうが良いような気がする。

***

 この前電車に乗ったとき、2人席の窓側の席は埋まっていたので、通路側の席に座った。私が降りる駅にまもなく着くというところで読んでいた本を閉じて立ち上がると、窓側に座っていた人が私に「ありがとうございます」と声をかけてきた。本に集中していてわからなかったが、窓側の人も私と同じ駅で降りるためにちょうど準備を始めたところで、私がそれに気づいてその人を通すためにわざわざ立ち上がってくれたと思ったらしいのだ。
 間違いを指摘して気まずい思いになるのが怖くて、「いや、私も降りるんで立っただけですよ」とも言えず、言葉にならない音を口の中でモゴモゴと発しながら窓側の人を見送ってまた席に座り直した。そのタイミングで電車のドアが開いた。私がその人がホームに降り立ち、こちら側に目をやっていないことを確認してから、逃亡者のようにコソコソと別のドアから外に出た。そしてその人に遭遇しないよう駅のホームでちょっと時間を稼いでから、階段を降りて改札へ向かった。

***

 靴下を履くのがとにかく面倒くさい。どうしてかはわからないが、パソコン作業も読書も基本的には上半身の世界で完結するので、それとは別の行動様式を持ち込まなければいけないからなのかもしれない。だから例えば、風呂を上がって寝るまでは靴下を履くことにしているのだが、裸足のまま炬燵に入り、天板の上に載せた靴下を「履くの面倒くさいなあ」と思いながらじっと見つめる時間が発生するときがある。
 さっさと履くのが唯一かつ最善の解決策とは頭ではわかりながらも、今履いてしまうとそれまで消費した時間が無駄だということを認めて負けた気になるのが嫌で、時間は1分、2分、3分と無為に過ぎていく。

良い一年でした

 簡単にですが、今年一年の総括を書いておこうと思いました。それはタイトルの一言に尽きます。周知の通り、2020年は新型コロナウイルスの流行により様々な理由でたくさんの人が苦しい思いをし、決して日本全体が明るい一年ではありませんでした。なので、あくまでごくごく狭い範囲の世界で、自分としては結果的に良い一年を過ごしたな、という条件付きの話として聞いてもらえると幸いです。

 これまで私は、明らかに家にいるより外にいる時間のほうが長い生活を送っていました。ですが3月末くらいに一気に真逆の状況になってから、色んなことを自分のペースで物事を進められるようになり、「忙しい」という面でのストレスをあまり感じなくなったように思います。また、(ただでさえ大きいとは言えなかった)コミュニティは縮小の一途をたどり、会おうと思ったごく少数の人としか連絡をとらなくなりましたが、それも自分にとってはかなり快適でした。何だかんだ楽しい思い出もつくれました。

 学生六年間の総括としても、満足のいく一年を過ごすことができました。二年以上時間を費やしてきた医学概論に関する原著論文、加えて学内でずっと活動してきた学生の教育参加に関する実践報告論文を出版することができ、また臨床実習のオート・エスノグラフィー研究の倫理審査を通し、成果のひとつとして(残念ながら抄録を出すのみでしたが)医学教育学会のシンポジウムに参加しました。実はいま(4回生の頃から書いている)孤独死に関する論文を年末に泣きながら校正しているのですが、それを除けば、自分が学生生活で力を取り組んでいたことに区切りをつけることができ、嬉しく思っています。

 今年一年はマッチングや国試勉強*1で忙しいだろうと思い諦めていたのですが、家にいる時間で思いのほか本も読むことができました。別に冊数など何ら本質的な問題ではないのでどうでもいい話ではあるのですが、とはいえ2018年から3年続けて年間100冊の本を読むことができました。ただ、人類学を始めとする人文学の知識の付き具合に頭打ちを感じ始めていて、それはもしかしたら(読みやすい入門書ではなく)もっと古典と言われるような骨太な文献を読む力が足りないせいではないかと睨んでいるところです。まだまだ研究者としてお話にならないレベルなので、精進します。

 もちろん、この状況で、ほんとうならあったはずのものが失われたという感触はあります。部活で過ごすはずだった最後の青春はその筆頭です。あるいは、この一年で本来ならば出会うはずだった人と出会えなかった、ということもあるでしょう。たまに思考が内に向き過ぎて辛い気持ちになり、どうにも制御できない瞬間もありました。ですが一方で、この状況だったからこそできたことのほうが多く、それが私をして「良い一年だった」と言わせています。

 友人たちと抄読会をやってみました。医学生にインタビューする活動も始めました。オンラインでプレゼンする機会もいくつかいただきました。ブログも書きたいと思ってた文章をぜんぶ書くことができました。あとこれは自分的にはとても大事なことなのですが、コロナ禍でオンラインが増えたおかげで、家にいながらしてたくさんお笑いライブを観られた一年でした。かつてないと言っていいほどじっくりとお笑い界の動向を追えました。

 今年あった唯一の悲しいことは、10月末に髪に茶メッシュを入れたのですが、どういうわけかzoomとかだと光の加減で真っ黒に見えてしまうので、実際に会ったごく少数の人にしか気づいてもらえなかったことでしょうか。

 それでは皆さま良いお年をお迎えください。来年も何卒よろしくお願い申し上げます。

f:id:SatzDachs:20201229092044j:plain

*1:5回生までの私を見て、心配されてる方もいるかもしれないので最後に付け加えておきますが、一応人並みにおべんきょはしているつもりです、ですが、こればっかりは結果が出ないと何とも言えないので……

2020年7月〜12月に読んだ本

読書ノートにあげた感想をもとに本記事を書いています。良ければフォローしてください。

bookmeter.com

7月

20065 川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977)

20066 Heewon Chang"Autoethnography as method" (Routledge, 2008)

 以下の記事を書く際に参考にしました。

satzdachs.hatenablog.com

20067 Heewon Chang"Collaborative Autoethnography" (Routledge, 2013)

20068 民谷健太郎『医師国家試験の取扱説明書』(羊土社、2018)

 5回生くらいで読んでもいい本だと思うが、今の時期に読んでも、とかく問題の演習量をこなして焦ってしまう自分を歯止めする役割として良かったと思う。「似たような疾患群をグループ化」「演習の負荷を上げる(正解以外の選択肢から想起できることも考える)」「選択肢を見る前に鑑別疾患を挙げる」「本番には必ずモヤモヤ問題が存在する」などなど。つくづく自分は勉強があまり得意ではないなあと思う。関係ないが、合間に挿入されるコラムがいかにもな「医者的価値観」の押し売りと自分異端ですよアピールてんこ盛りで嫌な感じだった。

20069 週末翻訳クラブ バベルうお『BABELZINE vol.1 』

 『ンジュズ』——子を「編み上げる」儀式が、<未開>のそれにも近未来の世界のそれにも見えるのが、この作品の上手いところだと思う。筋書き自体もいいけど、それ以前に情景描写の強度で殴ってくる感じがたまらない。 『母の言葉』——ただひたすらに切ないし辛い。翻訳小説だが、複数の言語にまたがる作品としてその技法は成功していると思う。 『二年兵』——冒頭で一気に引きこまれて、ここから何か展開あるのかなと思いながら読んでたら、そのグロテスクなまま終わっていって愕然とした。よい。
 巻末の評論で紹介されてた二作品も興味深い。このコロナ禍において、もし個室に隔離されて一生を終えるようになった世界における家族、セックスってどうなるのかとちょうど考えていたので。

20070 桑山敬己 編『詳論 文化人類学:基本と最新のトピックを深く学ぶ(ミネルヴァ書房, 2018)

 充実の内容。「このトピックについて、人類学ではどのように語られているのだろうか」と外観するには打ってつけの本である。参考文献リストもかなり役に立つ。

8月

20071 松本大洋 作『青い春』(小学館文庫, 2012)

 映画は非常によくまとまっていて好きだったが、原作の漫画のほうも、一つ一つが粒立っていて別な魅力があって良い。『ピース』が一番好きかもしれない。「ゆきおくんは大人になったら何になりたいの?」ーーどうにも立ち行かなくなりつつある青春の閉塞感と絶望、そこで何をするか。

20072 長尾大志 著『レジデントのためのやさしイイ胸部画像教室』(日本医事新報, 2014)

20073 『藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>2 定年退食』(小学館, 2000)

 「ノスタル爺」がオチも含めて好き。「コロリころげた木の根っ子」は、ラスト一コマのカタルシスが良い。

20074 郡司ペギオ幸夫『やってくる (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)

 これでも分かりやすくなるように書き直したらしいが、流石にちょっと書き散らし過ぎで、著者のこれまでの作品を読んでないとついていけないかな?と思ってしまった(私の理解力の問題もあるかと思うが)。せめて最初にこの本で何を書きたいかのロードマップを示して欲しい。

20075 頭木弘樹『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)

 UC(潰瘍性大腸炎)になったカフカ研究者による著書。消化器内科に携わる如何に関わらず、全ての医学生はこれを読むべきだと思うくらい、その病いの経験が読み易い文章で書かれている。また、自らの苦しみを通して、他者理解の地平が開けていく様も同時に描かれていて、大変読み応えがあった。「わからない」のだけれども、少しだけでも「ためらい」を持って人と接するということ。

 見えない人たちが、じつはたくさんいる。病人だけではない。さまざまな人たちがいる。いても見えない、見えないけどいる人たちだ。(303ページ)

20076 錦織 宏・三好 沙耶佳 編『指導医のための医学教育学 実践と科学の往復』(京都大学出版会、2020)

 自分はそういう立場ではないので偉そうなことは言えないが、教育にあたる臨床医にとって道標的な一冊だと思う。文献リストとしても充実している。しかし時折、他分野からの知見を引用したいがあまりのガバガバ文化論みたいなのも散見されて、そこがあまり気に入らなかった(そのぶん、13章の「文化」についての筆致は丁寧で、好感を持った)。いきなり話が飛ぶところもあり、そこを面白いと思うか、ただの趣味の押しつけで必要な情報を伝える上でのノイズになってしまっていると捉えるかは、評価が分かれるところだと思う。

20077 『世界哲学史8』(ちくま新書、2020)

 千葉雅也のポストモダン論が読みたくて購入した。ドゥルーズデリダフーコーを「ダブルバインド思考」(二項間の否定を「未完了」のまま宙づりにすることで、二項を同時保持する)から論じていて、これまで自分が学んだことの整理になった。あとは檜垣立哉「ヨーロッパの自意識と不安」が良かった。そのほか、前知識のない章は、ぎゅっと凝縮された内容を読むのがなかなかきつかった。

20078 『現代思想 2020年8月号 特集=コロナと暮らし』(青土社, 2020)

20079 ティム・インゴルド『人類学とは何か』(亜紀書房、2020)

 いわゆる存在論的転回を担う一人として知られるティム・インゴルドが「人類学とは何か」を論じる。第1章は、バイロン・グッドのbeliefについての議論を思い出し、別の潮流として捉えていたそことそこが同じ話をしているのかという意外感がある一方で、ポストコロニアリズム人類学にとってそれだけ重要なテーマなのだと勝手に納得した。

 人々によって感知されかつ演じられている世界は、彼らにとっては全面的に現実なのであるが、実際には、観念や信仰や価値から組み立てられている構築物であって、そうしたまとまって一般に「文化」と呼ばれるものが出来上がっているのだと、私たちは全知の権威を纏いながら宣言する。(22ページ)

20080 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』(閏月社、2018)

 講演に通底するテーマはサルトルの「世界内存在」「独自的普遍」であるが、「普遍的なものと独自的なものとのあいだの緊張」というのはエスノグラフィーにも通じる問題で、非常におもしろく読んだ。それから、一個の独自の存在であることと(逃れ難く)民族の一員であることという両義性から在日の問題を説いていくのだが、それはまた別の「自由意志と責任」という伝統的な哲学的課題を想起させ、これらがこう繋がるのかという明晰さに感動を覚えた。文芸批評というあまり明るくない入り口から、自分の頭の中の種々の問題系に接続されていく感覚。

 「一人の人間とは決して一個人ではない。人間を独自的普遍と呼ぶ方がよいだろう。自分の時代によって全体化され、まさにそのことによって、普遍化されて、彼は時代のなかに自己を独自性として再生産することによって時代を再全体化する」(サルトル)(69ページ)

 確かに日本人のなかにも善意の日本人がいます。しかしその人も、日本人であることのために不利益を蒙ることはないし、権利を奪われることもありません。逆に、日本人という存在の一員であることによって、日本人でない者の権利を奪っているのですから、否応なしに差別の構造に組みこまれているわけです。どんなに善意の日本人も、個人としは責任がなくても、一方に日本人でないために屈折した生涯を送ることを強いられる者がいるのですから、その責任は担わなければなりません。(167ページ)

9月

20081 アネマリー・モル『ケアのロジック―選択は患者のためになるか』(水声社、2020)

 冒頭で、「ケア」と「治療(キュア)」の区分は避けると宣言していたことにまず掴まれた。

慢性疾患の人びとの生活と身体に対する介入が、しばしば知識集約的で科学技術に依存していたとしても、それらの介入をケアと呼ぶ正当な理由がある。(28ページ)

  それからモルは、「自由に選択してもよい。ただしその結果についての責任はすべて患者が負うべきだ」という「選択のロジック」で議論し続けるには弊害があるとして、支配—自由という対立軸からケア—ネグレクトという対立軸を設定し直すことを目指す。
 モルが本書は「ケアのロジック」のみを称揚するわけではないと断っているように、現実は「選択のロジック」や「他のロジック」、そして「ネグレクト」や「失敗」があるわけで、個人的にはその混ざり合った「実践」が気になりながら読んだのだが、それは本書に求める役割ではないか。 (医師がこれまで経験談的に書き散らしてきた)病院における「ケアのロジック」を丁寧に人文社会科学の言語で描くことを目指している本書はひとまず成功しており、その意味では読まれる価値が十分にあると思う。

 [糖尿病の]合併症の一つは失明である。血糖値を測定することは失明を避ける手段である。しかし、ヤンセンさんは、最初の日から、指先の正面ではなく側面を刺すように学ぶ。これは、最大限の努力をしたにもかかわらず失明してしまった場合、世界を感じるために指先の正面が必要になるからだ。だから、まさに刺し方を学ぶその瞬間に、健康を希望することと病気を受容することの両方がある。(75ページ)

20082 磯直樹『認識と反省性: ピエール・ブルデュー社会学的思考』(法政大学出版局、2020)

 お世辞にも全てを理解したとは言えないが、とりあえず目を通した。ハビトゥス・界・資本という基本的三概念、階級と社会空間について、「認識と反省性」をテーマに論じていた。

20083 Paul Atkinson "Thinking Ethnographically"

 エスノグラファーにとって主要な諸概念を平易な言葉で説明していく。冒頭で、社会構築主義の立場にありながらも、「現実reality」を描かないわけではない、と強調していたのが(当たり前のことながら、人類学の歴史を鑑みると)印象的だった。全部は読めていないが、英語で手軽に読める入門書なので、これから分からない概念にぶつかればちょくちょく参照しようと思っている。

20084 東畑開人『日本のありふれた心理療法: ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房、2017年)

 そもそも臨床心理学(あるいは心理臨床学)について知らないことも多かったので、中盤の事例研究の精神分析的な記述に面食らいながらも、その歴史も含めて著者なりの見解が示されていて勉強になった。ただ、自分は人類学の本を読むことが多かったからか、本書内での「文化」の扱われ方にやや戸惑いを覚えた。おそらく、心理療法の理論的枠組みから解釈したときの「文化」と、人類学のそれとですれ違いがあって、著者はあまりその点については無自覚に混ぜながら書いているような気もした。
 具体的には、あくまで本書を読む限りでの感想だが、心理療法的な文脈でよく語られてきたのは、「日本人には〇〇の文化がある」(ex. 甘えの構造)というような本質主義的な「文化」の見方か。著者は冒頭で、このグローバルな時代にあって単一な「文化」を語れないとしながらも、81ページにおいて「そしてこの『支持的要素』とは、我々の文化の基調にある『和をもって貴し』としたり『気遣い』したりするような、ありふれたケアする関係の型に内在するものである」と書いたりしているように、その見方に一定以上親和性があるように思える。
 北山による、日本の精神分析が(恥への不安・オモテとウラの二重性などの)「日本人的心性による文化論的抵抗によってもたらされた」(74ページ)という議論も肯定的に東畑は紹介している。 そういう臨床心理学における「文化」の捉え方の是非はひとまず置くにしても、そういう議論に慣れていない一読者の身として引っかかる部分は少なくなかった。

 自らが範とする心理療法の説明モデルと、臨床実践が属するローカルな文化の説明モデルの二つを同時に考える。それらがそれぞれにいかなるものであり、それらが混じり合うときに、それぞれがいかなる意味で妥協したのかをよく見る。その上で、常識を尊重して、個々の評価を行う。(86ページ)

 本書では、この心理療法とローカルな文化の交流を見てみたい。それは文化と文化が出会い、交流し、混淆する「間文化性」の問題である。心理療法という文化がローカルな文化と接触するとき、そこでいかなる交流が生じるのだろうか。(197ページ)

 それゆえに、上述のような書き方をするときに、筆者の言う「文化」は曖昧模糊としていて、(言いたいことは汲み取れないことはないが)見えてこない。 ただ書いているうちに、こういう感想を抱くのも自分の不勉強が原因なのではないかという気がしてきたので、ひとまず今のところ抱いた所感としてここに留めておくことにする。

 あとは関係のない感想を2つほど。以前から思っていたが、クラインマンへのヘルス・ケア・システムの話は、心理学および精神医学の領域だからこそすんなり議論に組み込めるなと感じる。医学生の身としては、やっぱりどう考えてもCRP値の上昇を「生物医学の側からの一つの説明モデルですよねハイハイ」と言われるのはキツい。例えば癌の代替医療(それは得てして非常に高額である)を、「説明モデルの一つ」として相対化してそれでよし!とできるかというと難しい。クライマンの重要性はもちろん認めているので、この辺の折り合いをどうつけるか。
 あとは、221ページで注として薄字で書かれていた以下の話が、とても興味深かった。存在論的転回云々を思い出した。

 住宅地に森があり、その森の中には「ウタキ」と呼ばれる聖地があって、色々なところでユタと共に儀式をする人を日常的に見かけた。そして、沖縄のお盆の夕べには確かに死者が帰ってきている雰囲気があった。文化の水に馴染むと、そういう文化的リアリティに真正性が感じられたのである。だから、霊的な訴えをするクライエントに対して、心理学しようとすると、葛藤を感じた。沖縄を出て、東京に住むようになると、そういうリアリティを「文化的に構成された」ものだとメタ的な視点で思うようになったが、当時はそういう視点をもちつつも、どこかでそれを生身で生きている私がいた。

20085&86 ミン・ジン・リー『パチンコ』(文藝春秋、2020)

 第二次世界大戦の前から1980年代にかけての日本を舞台に、四世代の韓国系の家族を描く。綿密な取材をもとに書かれたこの作品は、「日本に差別はない」と"素朴に"思う人も少なくない今の世の中で、より多くの人に読まれるべき小説だと感じた。 そのメッセージ性もさることながら、小説として圧倒的に読ませる力が強く、ここまでのめりこんでページをめくったのは久しぶりだった。

 ノアは愕然として晶子を見つめた。晶子は彼を別の誰か、現実にいもしない”外人"としてしか彼をみていないのだ。ノア自身を見ていない。誰もが嫌うような相手とあえて交際する自分は特別な人間だと、この先もいまのまま信じ続けるのだろう。ノアの存在は、彼女にとって自分が善い人間、教養の高い人間、リベラルな人間である証明書なのだ。(96ページ)

20087 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2020)

 競争主義を前面に掲げ「強くあること」「社会に貢献すること」を謳う(あるいは強いる)ような「フェニミズム」へのカウンターという趣旨は十分に理解できる。それはラディカルな運動として必要な側面もある一方で、女性の内部で強者—弱者の構図を新たに生み出しかねない。

 弱者でも生きられるといった運動の中で「強者」であることがこれほど要求される場面が多いことに、改めてこの社会のマッチョな構造の根深さをしみじみ感じている真っ最中である。(95ページ)

 著者は徹底的に「愚かさ」「弱さ」に寄り添おうとする。ネオリベ・自己責任論の批判の文脈でしばしば言われる「努力できないことは社会的な背景があり、構造の問題である」にも著者は疑義を呈する。

 実際「やらない」と「できない」の判別が難しい中で、結局社会的な背景が見出されなければやはり「努力できない個人」がおかしい、に転じる危険である。そもそも人は健全な状態ならば「努力をするもの」であり、それを阻んでいるものは社会構造だ、といったいわば「努力本性説」が反貧困の運動の主流となってきた。(145ページ)

 上述のような苦悩を著者は「ぼそぼそ声」と表現する。個人的な感想として、今の日本のフェミニズムにまつわる空気感・弱者に厳しい社会構造への批判については基本的に同意するのだが、一方で読み進めていくなかで何となくツイテケナイ感もないわけではなかった。「私たち、あの輪には入れないよね」ということで肩を組むのは、周縁化された人々に寄り添おうとする動きなのだけど、結局「連帯」を迫る「フェミニズム」と同じ構図になって、またそこで「馴染む」ことができずに漏れていく人が生まれないかなとか。でもそれって無限連鎖なのだろうか。
 私がこう思ったのには著者の書きぶりにもある程度由来していて、文体の深いレベルで著者の(多くは負の)感情的なものが染み込んでいて、それが読んでいて「共感」を迫る感じを受けるというか、その「感情」にちょっとでも同期できないと「あ、この人とちょっと違うかも」という距離を感じてしまう気がした。
 もちろん、「自分のぼそぼそを言語化して社会に届けてくれた」と救われる人はたくさんいるし、それだけでこの本には十分に価値があると思う。でもさらに『ぼそぼそ声のフェミニズム』に対してまた「ぼそぼそ」と思う人がいて……というループからいかにして脱出できるのかなとかは考えてしまう。この本自体もMeToo運動と絡めて「共感」の話に触れていたが、「共感の連鎖」としてしか社会運動は広がらないのか、それには限界がないのだろうか。あるいは「主語」をどこまで大きく、何に置くべきなのか。

20088 『カモガワGブックス vol.2 英米文学特集』

 リービ秀雄を読んでみようと思う。

20089 東浩紀動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)

 今なお根強い人気のエヴァ関係のキャンペーン展開を見ていると、「エヴァンゲリオンは、そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されている」(61ページ)という意味もわかるのだが、一方でいわゆる考察サイトみたいなものについて著者はどう考えているのだろううと気になった。あれは「大きな物語」への欲望のように感じる。

20090 江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)

 訳者なだけあって、クラインマン、グッド(+マッティングリー)あたりの、解釈学的なアプローチをとる臨床人類学についての知見が非常によくまとまっている。(論集の宿命なので仕方がないとは言え)同じ内容の繰り返しが多いのが難点だが、「「大きな物語の終焉」以降の精神医学・医療の現在」「病いは物語りである」「病いの経験を聴く」「病いの経験とエスノグラフィー」の4つくらいを読めば、上述の分野の概要を掴むのに持ってこいだと思う。
 江口が「医療人類学——今日のやや細分化した言い方に従えば臨床人類学」(237ページ)と書いているように、彼にとっての「医療人類学」はそのままイコールでクラインマンの「臨床人類学」なのは、先日読んだ東畑の書籍と同じだった。個人的には臨床医にとって「人類学」が寄与する可能性はもう少し広く開けていると考えているが、確かにりナラティヴ・アプローチが最も妥当で近いところという感じはするし、もちろんこれも一つの立場である。
 著者が精神科医であり、タイトルにも文化精神医学とあるように、内容は必然的に(元々親和性高い)精神医学と人類学の繋がりの話をしている。ナラティヴ・アプローチをとる臨床人類学にしても、そのほかの診療科にとっての意義というのをどう考えているのだろうというのは気になった。
 者は、クッシュマンの概念を援用しながら、「しかし何より重要だと思われた点は、本人の疾患とは直接関係のない話題から突然語り出された母親のストーリーによって、本人や家族の「治療抵抗性」も含む一連の事態が「ポップアップ絵本のように」私の目の前に浮かび上がったことである。なぜJさん一家が医療をめぐって奇異な行動をとるのか、どうして治療抵抗的に見えるのか、なぜ再発を承知で予防策を講じないのかを、共感をもって聞き取ることが可能になった」(172ページ)と書く。
 私にとってはこの「共感」に至るまでがやや唐突で、他者の了解不可能性についての認識の違いにやや戸惑った。「傾聴」という概念が自分にとって怪しく見えるのもこの辺りに原因があると思う。 ただ、(グッドが物語反応論をベースにしたように)「傾聴」概念が、ただ一方的に相手の話を聴くというのではなく、「語り手も聞き手もいわば一体となって、経験を能動的に構成し、読み取る読者になる」(251ページ)ことであるというのは、医学教育の現場ではもっと強調されるべきだと思っている。
 著者も(と書いたのは、杉岡良彦を思い浮かべているからだが)、BPSモデルには批判的である。それをギアーツが描いた「生物学のケーキに、文化の粉砂糖を振りかけた」という図式を超えないとし、「基本的には生物医学を中心に起きながら、社会・文化的文脈を無理やり接木しようとする事態なのである。」(164ページ)と書いている。

 臨床的リアリティとして重要な事実は、bio-psycho-socialの各側面から接近すると、横断的な統一的理解が生み出されるということではなく、bio, psycho-, social-のそれぞれの提示する像が、時には相互にまったく矛盾するリアリティとして、時には部分的に重なって切り出されるという側面なのである。(165ページ)

10月

20091 ファウスト vol.01 (講談社、2004)

 『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』を読みたくて今さら手に入れた。頭に穴のある少年と頭に角を持つ少女のめくるめくストーリーに、位相の違う主体の奇妙な二重性が変奏を加える、舞城なりのセカイ系。筋立てだけでなく、目の無いゴリラや股間に咲く花など、出てくるモチーフの一つ一つが絵としての強さを持っていて、まずそれだけで読んでいてワクワクする。 

20092 『私立恵比寿中学HISTORY―幸せの貼り紙はいつもどこかに』(B.L.T.MOOK 51号)

 泣いた。どうか、彼女たちだけはこれからも幸せであって欲しい。

20093 稲原美苗ほか 編『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す(ナカニシヤ出版、2020)

 フェミニスト現象学、個々人の経験のなかに刻印されたジェンダーの構造を一つずつ丁寧に解きほぐしていく感じが、すごく良い学問だなと思う。あと、当事者研究の潮流とも共通点の多い分野である(実際に本書でも言及はあった)。一方で、「プライベートな経験をもとに置かれた社会構造についてreflectiveに書くこと」以上に「現象学的」たらしめるものってあるのだろうか(そうでないとすれば「現象学」と冠する意味はあるのか)とも考えた。

20094 永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998)

 また読み直そうと思う。

20095 野口善令、 福原俊一 著『誰も教えてくれなかった診断学―患者の言葉から診断仮説をどう作るか』(医学書院、2008)

 「仮説演繹法(hypothetic-deductive method)」による診断推論のアプローチについて、よくまとまっている。

・頻度の軸「頻度が高い疾患なので鑑別診断の候補として可能性が高い」
・時間の軸「頻度は低いかもしれないが緊急に治療しないと致死的になる」
・アウトカムの軸「緊急性はないが見逃すと不可逆性に悪いアウトカムをきたしてしまう」 (87ページ)

②Clinical problemに対応する鑑別診断の候補を、可能性の高そうなものから3〜5個くらい挙げて鑑別診断のリストを作る
③鑑別疾患のリストに挙がった各々の鑑別疾患(診断仮説)の事前確率(検査前確率)を推定する
④検査前確率に検査特性と検査結果の情報を加えて、事後確率(検査後確率)がどれくらいになるかを判定する
⑤その結果、事後確率が、さらなる検索を放棄してよいレベル(検査閾値)まで引き下げられれば除外診断 rule outとなり、治療閾値以上にまで引き上げられれば確定診断 rule inとなる

 以下の記述が個人的には興味深かった。「実在」を確信はするがそれには真に到達することができない、というのがカントぽいなと思った。

 仮説演繹法による診断推論のゴールは、何らかの臨床情報を得ることによって、患者が疾病を持つ確率を治療閾値以上にまで引き上げる(確定診断 rule in)、あるいは、さらなる検索を放棄してよいレベルまで引き下げること(除外診断 rule out)である。決して、患者がある疾患を確実に持つ(100%)、確実に持たない(0%)ことを証明することではない。(184ページ)

20096 岩田健太郎『診断のゲシュタルトとデギュスタシオン』(金芳堂、2013)

 それぞれ異なる著者による、約40の疾患についての「ゲシュタルト(=部分の総和を超えた全体像)」をまとめた書。章によって落差があり、良い章は「これはこういう疾患」という解像度が一段階上がったような気持ちになれる。悪い章は「その疾患の最新の知見についてのあなたの最近の興味を聞かされてましても……」となる。全体として読んでよかったとは思っているが、もう少しコンセプトについての統一した同意が必要なのでは(それも岩田健太郎の「ゲシュタルト 」「デギュスタシオン」の定義が甘いことが一つ原因としてあると思う)。

20097 『ダ・ヴィンチのカルテ―Snap Diagnosisを鍛える99症例』山中克郎(CBR、2012)

 Snap Diagnosis(患者のある症状や所見から決まったパターンを想起し、即座に診断へ導く方法)を99症例集めた本。ざっと目を通した。この本自体には関係ないが、snap diagnosisと「ゲシュタルト」は何が違うんだろうと思った(少なくとも本書の著者である山中克郎にとってはそう大した違いはなさそう)。

20098 熊代享『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス、2020)

 医療や福祉がサポートしている「自由な生」が、「資本主義・個人主義・社会契約が徹底していく現代社会への適応を自明視したもの」である、というのが基本的な主張である。自分の考えと重なる部分はかなり多く、むしろそれゆえに、自分にとって新規なことは書かれていなかったとさえ言える。序盤の章は、健康至上主義や医療化といった医療社会学の基本概念の入門書としても読めるかも。
 個人的には、「繰り返すが、健康について助言や忠告を行う医療者たちは、研究をとおしてエビデンスを集積し、そのエビデンスを活用して人々の健康に貢献する、それ以上でもそれ以下でもない生業を営んでいる」(109ページ)という注釈がついているのに、医師としての著者の誠実さを感じた。そのうえで以下の記述に全面的に同意する。

「他方で、現代社会の”普遍的価値”や、社会に浸透し私たちに内面化されている通念や習慣に照らして考えるなら、これほど正しいことを、これほど正しい手順で行なっている生業もまた珍しい。エビデンスに基づいて“普遍的価値”に貢献し続ける医療者の生業が、どうして社会全体の価値基準や道徳感覚に影響を与えずにいられよう。たとえ医療者自身が道徳の押し売りをしていなくても、おのずと医療が世の中の価値基準や通年や道徳に影響を与えるのは不可避ではないだろうか」(109ページ)

 以下の辺りも自分の問題意識と強く共鳴する。

 「それこそ東京のホワイトカラーの家庭に生まれ、私立の中高一貫校を出て一流大学を卒業し、東証一部上場企業で働くような男性などは、そうでない学歴、そうでない職種、繋がっていなくても構わない。ブルーカラーの人々や非正規雇用の人々とコミュニケーションしなくて済むことをありがたがっている人さえいるだろう」(271ページ)

 そのうえで難癖をつけるとすれば、基本的には「事実命題が価値命題にジャンプする」という話だと思うのだが、言いたいことが先行して、そこの「いかにして」の部分の記述が甘いかなと思った(本人が「ラフスケッチ」と自ら弁解しているので、仕方ないのかもしれないが)。

20099 岸政彦ほか『質的社会調査の方法——他者の合理性の理解社会学』(有斐閣ストゥディア、2016)

 「他者の合理性」をなぜ理解する必要があるか、どのようにして理解できるか(できないか)。全ての章が秀逸だが、石岡丈昇による「参与観察」の章がべらぼうにいい。平易な言葉で、簡潔に、大事なことしか書いてない。入門書は一通り読んだからいいかと思ってたけど、全然意味あった。現在進行形でフィールドノートを書いている自分にも刺さる言葉が多くあった。

その論文の結論が「貧困は個人の問題ではなく社会の問題であり、きちんとした制度的支援がもっとされる必要がある」と記すケースなどは、非常にまずいと思います。なぜなら、この結論であれば、調査をおこなわずとも主張できることだからです。(101ページ)/ゴシップ的な面白さと社会学的な面白さを分けるのは、調査者自身の「ものの捉え方」がバージョンアップされるかどうかに関係します。(104ページ)/「対象」と「テーマ」を分ける(106ページ)/バイアスのかかった事実を、バイアスの所在の明記とともに捉えていく=複数の視点を超越した「客観性」を担保するのではなく、どのような人々の視点に依拠しているのかを自己言及するという「客観化」の作業を行う(114ページ)/①気になった出来事のメモ(雑記メモ) ②出来事から浮かんだ社会学的発想(論点メモ) ③日記(115ページ)/「他者」ではなく「他者の対峙する世界」を捉える(131ページ)/「他者理解の不可能性」などとかっこ良く言って、調査もせずにエッセイを書き連ねるようになってはなりません。(同)/フィールドの理解可能性とは、調査者とフィールドに生きる人びとのあいだに何らかの共通項が生ずることではなく、調査者とフィールドの人々が「世界」を分有することなのです。(132ページ)/フィールドワーカーにとって理論とは、事例を検証するためのものではなく、事例の核心を明確に見据えるための道具としてある(137ページ)/「リアルタイム」の記述と「最終地点」の記述を意識的に書き分ける(140ページ)/オンゴーイングに時間の流れるフィールドに居るのではなく、そこから離脱して、いま一度フィールドの状況とは何であったのかを「外から」確認していく作業こそが分析なのです。(142ページ)/「他者の不合理性」を前提にした参与観察=調査せずともわかっていることを、自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞる(147ページ)/時間的制約=現場性(151ページ)

20100 ヘンリク・R. ウルフほか『人間と医学』(博品社、1996)

 原題がphilosophy of medicineで、邦訳タイトルはなぜこれなのかが分からないが、医学哲学の正統的な本という感じで(20年前に翻訳されたとは思えないくらい)良かった。経験論と実在論の話、因果性の話、「病気」の線引きと分類の話、確率の話、解釈学の話、精神医学と生物医学の話、など、医学に関する哲学的考察が網羅されている。 

11月

20101 大和田俊之、 長谷川町蔵『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、2011)

 バンバータが、クラフトワークのロボットのイメージを、アメリカにおける黒人の歴史(=資本主義体制化で奴隷として「ロボット」化された歴史)に重ね合わせたという話は目から鱗だった。黒人が「ロボット」であることを自覚することにより、「ロボットであることと戯れること」が可能になる=被支配者であることを自覚し、支配/被支配の構造を可能にするテクノロジーの操作に精通することで、その支配体制そのものの転覆を試みる。また、シグニファイングをデリダ脱構築と絡めて論じたコラムもあったが、こういうのをもっと知りたいと思った。
 ロック=「資本主義社会の中核を担う中産階級からのドロップアウト」だが、ヒップホップは「資本主義から締め出された人が参入していくための手段」。なのでロックでドロップアウトを歌うことで資本主義社会の成功者になってしまうという矛盾がある一方で、ヒップホップでは、金持ちになることに自己矛盾はない。この話に続いてヒップホップが音楽を制作するときに「外」のデータベースにアクセスすることを「ポストモダン的」と書いていて、言いたいことはわからなくもないが、流石にポモの用法がガバガバではないかと思った(もっと説明が要る)。
 あとは、週刊少年ジャンプを「努力・友情・勝利」という主題をめぐって次々に物語が変装され、そのストーリーテラーがコンペティティヴな競争原理に晒されているものとして、ヒップホップに相似なものとして解釈していたのは大胆だが面白かった。
 学歴もなくて親も金を持ってないけど頭の冴えた人(ストリートスマート)は、黒人ならヒップホップへ行くが、日本ならお笑いへ行く、という話も。

20102 平庫 ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』(BRIDGE COMICS、 2020)

 疾走感のある表題作。救いのあるエンドだけど、現実世界の話として考えたときに、マリコの何を理解できただろうか?と思う。

20103 飲用てれび ほか『読む余熱』(白泉社、2020)

 児島さんの、M-1をきっかけに東京のライブシーンが変わっていった様子は、生の声という感じでとても面白く読んだ。

12月

20104 櫻井武『脳神経科学がわかる、好きになる』(羊土社、2020)

 さっと目を通す感じで読んだので全てを理解したわけではないが、平易な文体ながら内容はかなりてんこ盛りで、神経解剖学の授業のときにこの本があればなーと思った。『中枢神経系の情報処理と機能』の章を読んでたら、国試的な知識を別な角度から学び直したりすることもあり、読んで良かったと思った。

20105 スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』(みすず書房、2012)

 『隠喩としての病い』は、自身の患者体験も踏まえ、「肉体としての病気はできるかぎり肉体の病気として受けとめて医学的な治療を受けるべきであり、そこに心理的な不安をみだりに投射すべきではない」というメッセージが明確で、力強さを感じる筆致であった。また、特にAIDSに関する話は、現在の状況(COVID-19の流行)と重なる点も多い。

とりわけ恐ろしい病気の流行は、必ず寛大さ、態度の甘さ——今日では道徳のたるみ、弱さ、無秩序、腐敗、ひとことでいえば不健康とされるもの——への批判を掻き立てる。「検査」をしろ、発病者ならびに病気になっている者、それをつつす疑いのある者を隔離しろ、真偽はともかく感染している外国人を障壁で囲い込め、と。駐屯軍のように運営されている社会、中国やキューバのほうが反応は迅速で、徹底している。エイズはすべての社会にとってトロイの木馬になりかねないのだ。(170ページ)

 20106 早稲田文学会 編『「笑い」はどこから来るのか』(筑摩書房、2019)

 日本のup-to-dateなお笑いの事情を理解していないままの評論には強度がないし、一方で、お笑いが好きなだけの人の社会批評にも全く説得力がない。
 前者について、もちろんお笑いを語るうえでお笑い好きである必要は全くないが、しかし全体像を掴めていないと、ただ紋切り型の批判を繰り返すだけのつまらない論旨になる。この人は話題になった動画をYouTubeで片手間にチェックしたんだけだなというのは読んでいてすぐにわかる。後者について、最終的にはお笑いの肩を持つことが前提で、ただ世間から「怒られそうな」ところに目配せした文章になっていると思う。
 それを踏まえて、澁谷知美さんの文章がよかった。ここ数年のお笑いとジェンダー、あるいはフェミニズムを語るうえで欠かせない2つ(ヒコロヒーとみなみかわの「男女を反転させて『女の経験』を描くことで『男の生態』の異様さ」を浮かび上がる漫才、そしてAマッソの「テンプレート女芸人」を好んでピックアップする番組制作者や視聴者への批判を込めた「進路相談」のコント)に触れつつ、M-1の3回戦に注目してネタにおける「恋愛」の取り扱われ方について論じているのはよかった。 M-1の3回戦が今の若手界を見渡すのに最も良い指標の一つである、というのはしっかりとお笑いの全体像が見えていないと出てこない発想だと思う。
 澁谷がお笑いが好きであることを断ったうえで、フェミニズムの観点から断罪すべきところは真っ直ぐに批判していたのも誠実で良い文章だった。自分もこのくらいの強度の文章を書きたい。
 あとは大滝瓶太の「事実」と「真実」の狭間についての論考が興味深かった。ネタを「語り手が語り手である必要性というのが想定されない」としたのには納得し難かったが、しかし以下の下りは良かった。自分が今後使っていきたい表現もあった。

これは物語、あるいは一定の因果律を有して駆動する空間の設計様式の差異だ。事実に基づく空間設計は我々が生活する日常空間から大部分を借り受けることができるため、空間構築のコストを最低限に留めた語りが可能になり、その反面想像力の射程は日常に縛られ限定的になる。一方、虚構空間を採用する手法ならば、想像力の制限が外されるぶん、空間設計・構築に大きなコストが必要になる。重要なのは空間の事実性/虚構性ではない。それを駆動させる因果律であり、それこそがリアリティだ。(141ページ)

20107 岸上伸啓 編著『はじめて学ぶ文化人類学』(ミネルヴァ書房, 2018)

 今年一年、文化人類学の歴史を一から学ぼうと思い抄読会に使っていた本。一つの著者に割かれたページはそう多くなく、かなり濃縮された文章が並んでいるため、これ単体で理解するのが難しい記述もややあると思うが、それでも入門書として申し分のないラインナップと内容であると思う。主要な人類学者についておさえることができた。

20108 前川啓治 ほか『21世紀の文化人類学 世界の新しい捉え方』(新曜社、2018)

 入門書のあとに、最近の潮流の、特に存在論的な話を重点的に学ぶことができる一冊。テーマも多岐にわたり読んでいて楽しい。そこそこ難しいので我が身一つで読むのは辛いが、これから色んな本を読みつつ参照しようと思う。

20109 森皆ねじ子『ねじ子のぐっとくる脳と神経のみかた』(医学書院、2013)

 楽しいイラストが多く、わかりやすかった。

M-1グランプリ2020感想

マヂカルラブリーは漫才でいいのかあかんのか問題

漫才でいい:99票

阪急電車に一礼をしない:1票

f:id:SatzDachs:20201223231407j:plain

素晴らしい漫才でしたね。

0. 「マヂカルラブリーは漫才か」

 普段、漫才を見ているときに「これは漫才なのかどうか」という視点をほとんど意識していないので、放送が終わったあとにそのようなことが議論になっていたこと自体驚きでした。思いのほか、視聴者の皆さんが審査員的な目線で漫才を観ているということなのでしょうか。
 この「漫才かどうか」論は、お笑いファン的には10年、いやそのもっと前から散々されてきた話なので、今さらイチから漫才の定義を考えるというのは周回遅れ感があるように思います。そしてこの話は限りなく不毛なこともわかっています。私はてっきり、去年のすゑひろがりずがこの辺りの議論に終止符を打ってくれていたんだと思い込んでいました……

 なのであまり気の進まない話題ではあるのですが、改めて私のスタンスを示すとすれば、それは「サンパチマイクの前で2人以上によって演じられるものはすべて漫才」でよいと思っています*1。わざわざ「これは漫才ではない」とシャットアウトして漫才の可能性を閉ざしてしまうのはお笑いファンとして全く本意ではないですし、そもそも「漫才とは何か」より「良い漫才とは何か」という問いのほうが意義あると考えているからです*2
 ただ、その観点から考えると、巨人師匠を筆頭に上方漫才のベテランが漫才における会話(かけ合い)を重視している、ということ自体はひとつの尊重しなければならない意見だと思っています。巨人師匠は一貫してかけ合わない漫才に対してシビアな評価をしていましたね*3。だからスタンスの問題ではあるのですが、ただそれでも巨人師匠も「これは漫才ではない」っていう言い方は絶対しないと思います。

 さらに考えてみたときに、私がマヂラブがこういう議論になっていることを新鮮に感じたのにはもう一つ理由があって、というのも、ちょっと前に「漫才ではない」と言われるような漫才といえばTHE MANZAI 2012のアルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りにいきたい」というようなネタだったはずだからです。つまり、「生身の人間、その人そのものとして出てくる」という漫才の(暗黙の)前提を破って、出てきたときからすでに「〇〇な人」を演じている(上述のアルピーなら「相方の言葉をネタではなくて真に受けてしまう人」)場合に「これはコントだ」と言われるのがお決まりでした。それで言うとマヂラブは、最初は野田クリさん自信として出てきて、「見てて」と言ってコントインしていたわけですから、この点では漫才のお作法には則っているように思えるからです。
 それに沿って言うと、嶋佐さんが「軽犯罪をする人」という設定のニューヨーク、山名さんが「好きな人が今度楽屋に来るけどそれを隠す人」と言う設定のアキナのほうがよっぽどコントぽいことをしています。だから私にとって、マヂラブのほうが「漫才ではない」と言われたのは二重の意味で意外でした。

 ところで、トークライブでとある方*4がおっしゃっていたのですが、「漫才ではない」論の人たちは、NGKで15分間名を名乗り続けるザ・ぼんちとかを観たらどう思うのでしょうか。

f:id:SatzDachs:20201223233316j:plain

平子さんもこう言ってたので、この話はこれで終わりです。

1. はじめに

 毎年、なんだかんだM-1については文章を書いているのですが、いつもどういうスタンスで書こうか迷いながらやっています。今年は個人的理由で忙しくやめておこうと思っていたんですが、結局アウトプットしないとずっと頭の中でぐるぐるしていて邪魔なので、記事を書くことにしました。よって今年のスタンスは、「言語化しないと気持ち悪いので外に出します、なのであくまで自分用ですが興味ある方はどうぞ」でお願いします。
 そういう背景がありますので、ときおり、特に非お笑いファンの方々にはわからない固有名をいきなり使ったりする部分もあるのでご了承ください。また、自分の独自視点の批評で誰かにかまそうとかも考えていない*5ので、大して新しい知見とかはありません。ネガティヴな意見はキングオブう大のように対案を出せない限りは意味を持たないと思うので、基本的には書きません。あと気を付けてはいますが、筆が滑って偉そうになってしまうこともあるかもしれませんがそれはすみません。

f:id:SatzDachs:20201225165428j:plain

期待していた方には申し訳ないですが、本稿で「ケツ、おしまい説」には触れません。

2. 『吊り革』のグルーヴ感

  さて、私は今年の準決勝は配信で観させていただいたのですが、そこでマヂカルラブリーの『吊り革』のネタを観てからずっと、これは優勝できるネタだぞと思ってドキドキしていたので、ようやくこの話ができるようになって嬉しいんです。
 まず先ほどの話に戻るのですが、そもそもどうして(単に伝統であるということ以上に)かけ合いが大事なんでしょうか。これはプロの方々に今いちばん聞きたい質問でもあるのですが、さしあたり自分のできる範囲で考えた結果、その理由のひとつは、コンビが互いにけしかけあうことで盛り上がりを作っていくことができるからではないでしょうか。最もわかりやすい例は「4分の使い方抜群」でお馴染みのブラックマヨネーズで、2005年優勝時のネタのグルーヴ感といったら今でも全く色褪せない凄みがあります。
 そういう言わば漫才のゴールデンスタンダートに対して、『吊り革』は、完全にかけ合いのない非対称な関係でグルーヴ感をつくり出したのが革命的です。抽象的な言語で書きますが、間断なく動き続ける野田クリさんがひとりで中心になって竜巻を起こしている。そしてそれを横から村上さんが横から焚き付けて倍増させる感じです。
 だから最終投票は、その「ボケ役とツッコミ役の関係性で笑いを増幅させる」という漫才のお作法を使わない点を厳しく見るのか、あえてそれをやってみせた新しさを買うのか、で評価が分かれていたように見えました。あの票の分かれ方を見て、改めて現状のM-1審査員は恐ろしくバランスが良いメンバーだと思いました……

 「かけ合い」についてもう少し踏み込んで考えてみたいです。相方がひとりでやっていることに対してナレーション的にツッコむ形式を「実況型の漫才」*6と呼ぶとして、「実況型の漫才」はマヂラブだけの専売特許なのかというとそうではなくて、むしろ最近の賞レースのトレンドの一つですらあると考えています。程度の差こそあれ、明らかに10年前と比して増えています。例えば霜降り明星も、実はよくみると優勝時のネタにかけ合いはほとんどなく、舞台を動き回るせいやさんの実況を粗品さんが担当していると解釈することができます。スーパーマラドーナもそのような構成を得意にしてましたね*7
 この「実況型漫才」はある問題を抱えています。それは、ボケ役とツッコミ役の会話が間断なく続く漫才と比べ、個々のボケの間でどうしても時間が空いてしまいます。また、ふたりの関係性のなかで話を展開していくということを潔く諦めなければなりません。
 ただ、その限界を超えたコンビが霜降り明星で、後半にボケ数を詰め込んで畳み掛ける、というゼロ年代後半の「手数論」全盛期の時代にも使われた手法で盛り上がりをつくっていました。せいやさんの類稀なる運動量で間断のない展開を可能にしたのです。
 一方でマヂラブ『吊り革』は、ベースで「ずっとちょっとおもしろい」(「電車」というシチュエーションで話が進み続けている)というのがあって、最初に出したスピードをそのまま維持しつつ、それに上乗せする形で最後まで走り切る感じを見て受けました。会話なしに、野田クリさんひとりの身体のみで、コンマ一秒の隙のない時間を演出してみせたのです。それが斬新だし格好いい。「ボケ役とツッコミ役で話が進んでいく」ような展開性もクソもなくて、結局話の中身は何もないところがまた最高でした。そして大事なのは、村上さんが観客の気持ちを過不足なく代弁してくれて気持ちいので、ストレスなくグルーヴ感に身を任せることができる。

 最後に、話が逸れるかもしれませんが少しだけ、霜降り明星マヂカルラブリーの比較をしておきたいです。霜降りは、せいやさんの動きだけでは何のことがわからなくて、粗品さんの言葉があって初めてボケとして完結する構成になっています*8。つまりツッコミが、すでに観客に可視化されているおかしな部分を指摘するという役割よりむしろ、複雑なボケを完結させる一部となる点が彼らは斬新でした。近年、ボケ役とツッコミ役がグラデーションな存在になってきていますが*9霜降りはその一つの完成形と言って間違いないでしょう。

 一方でマヂラブは、野田クリさんのマイムのまずパッと見て何をやってるかわかる視覚的な面白さがまずあって、その線を濃くなぞり直すような働きとして村上さんがいる構成になっています。志らくさんが「喜劇的」と評したのもこのような辺りのことだと思っています。こう比較すると、同じ「実況型」でもやっていることが全然違うことがわかります。それにしても、このようにボケ役とツッコミ役が明確なことから見ても、マヂラブのネタは「漫才的」ですよね。

f:id:SatzDachs:20201224001817j:plain

『フレンチ』の初速もえぐかったですね。

 3. おいでやす小田の叫び

  M-1あとの打ち上げ配信で、1本目に『フレンチ』をやるのか『吊り革』をやるのかは直前まで決まっていなかったが、おいでやすこがさんの漫才のあとにCMを挟んだことで野田クリさんは『フレンチ』でいく決断をした、という話が印象的でした。つまり、CMを挟まなければマヂラブの1本目は『吊り革』なっていたということで、それくらいおいでやすこがが今大会の空気を一変させたわけです。しかし一方で同時に、おいでやすこがのおかげで今大会は超パワー系がウケる空気になった節もあるので、結果的にはマヂラブへの追い風だったのだと思います。その辺りも順番の妙ですから、今年も笑神籤のまにまに……ですね。

 準決勝でもおいでやすこがは一、二を争うくらいのウケ量でしたが、私は決勝の会場で彼らがどのように受け入れられるのかということはずっと気になっていました。というのも、準決の会場のお客さんはお笑いが好きな方が多く、最初からおいでやす小田さんのキャラクターやR-1に出られなくなったという経緯を知っているため、その分で笑いが大きくなっている可能性があると思っていたからです。
 しかし、おいでやすこがの漫才が始まり、一つ目のツッコミで会場が爆発したまさにあのとき、その考えが杞憂だということがわかりました。かく言う私*10も、配信を初めて観たときと同じ温度で、涙が出るくらい笑いました。そこには「R-1がなくなったことの悲哀」とかは一切なかったと思いますし、そう解釈するのは失礼なことだったと反省しました。
 となると、小田さんのツッコミはどうしてあんなにも面白いんだろう、というのが気になってきます。「ただ、盛り上がるか〜!」のタイミングなど、確かに賞レース用に緻密に調整されてはいるのですが、言ってしまえば「オススメする曲が全部聞いたことがない」というシンプルなネタです。めちゃくちゃ新しい発想というわけでもありません。ここからはもしかしたら書き過ぎかもしれませんが、なんかもう私は、小田さんが叫ぶ、というより音を発してるだけで面白いんですよね。DCGで酒井さんも言ってましたが、ツッコミのキーもめちゃくちゃちょうど良い。頭で考えるより先に、身体反応としての笑いが自分に発生している、というような感覚を抱いています。だから何回観ても笑えるのだと思います。M-1終わってからも10回くらい観ましたが、まだ新鮮に面白いです。

 とまあこのような抽象的な言葉を並べていても仕方がないので、ひとつだけ考えを書いておくと、「一個目のツッコミの強さ」がこの漫才における特異点であり、新規性であると思います。いわゆるあそこは(広義の)「ネタばらし」の部分で、この漫才はこういう話ですよ、ということが最初にわかる部分です。よくあるパターンで考えると、そこからボケ役がエスカレートしていって後半にかけて盛り上がっていくわけですから、0の状態からまず30くらいのツッコミで入って、そこから40、50と上がっていって、ラスト数十秒で100のツッコミに至る。あるいは、最初70くらいで強めに入って、40-50くらいを保って、最後は同じく100。みたいなテンション配分になると思うんですよね。
 それを、おいでやす小田さんは、0の状態から、瞬間的に100まで引き上げるんですよね。レバーをいきなりガーーン!ってMAXまでやっちゃう感じです。相方が話の流れのなかでどういう感情になって、というのを丁寧に表現しようとする漫才なら、普通こんなことはしないと思います。だから割と賭けでもあったと思うのですが、ただそれが小田さんのキャラであり、ピン芸人として培ってきた部分で、今回はその力技がものすごく良いほうに転がったのだと思います。
 事前のインタビューで「漫才師ぽくやらない」ということに言及しておられた*11のですが、それはまさにそういう部分だと思いました。力のあるピン芸人ピン芸人が手を組むと、「漫才師ぽい」振る舞い方では生まれ得なかったこんなにも強大なエネルギーを生むのかと……末恐ろしい気持ちになりました。

f:id:SatzDachs:20201225005226j:plain

最終決戦、「0の状態」の小田さん。

4. 賞レース漫才における「伏線回収」

 そしてもちろん見取り図にも触れなければいけません。彼らはほんとうにすごいです(偉そうで恐縮ですが)。決勝に来るの3年目で、手の内もかなりバレてるのに、毎年新しいフォーマットで出続けてるのは並大抵のことではなく、素人の想像にも及ばないような努力が裏にあると思います。大阪vs和気の地元対決というクラシックな(漫才の王道的な)対立構造が軸にありながら、「ドアノブカバー」「便座カバー」の繰り返しで面白くなるくだり、「ドラキュラ」「モハメドアリ」というワードセンス、加えて「あとマロハ島ってどこ?」という伏線回収が最後に来る、という4分の賞レース漫才のお手本みたいな構成だと思いました。あそこまで仕上げて勝てないのはつらいです。
 ただ、和牛やかまいたちスーパーマラドーナなど伏線回収を含んだ賞レース漫才のここ数年のM-1での発展は凄まじく*12、そのように急激に高められた分野でちょっとやそっとでは審査員も驚かなくなってるのは一因かなと思いました。もちろん、「伏線回収」という雑な言葉でまとめ切れないほどそれぞれ個々に違った魅力があるのですが、ああいう方面で我々は物凄いものを見過ぎてきたような気がします。ほんと難しい……

f:id:SatzDachs:20201225002222j:plain

YouTubeで、リリーさんがマヂラブを評して言った言葉が印象的でした。

5. 「自己紹介」するということ

 今大会私は、もちろん皆さん大好きなのは大前提として、かねてから決勝に上がって欲しいと願っていたという意味で錦鯉、東京ホテイソンウエストランド*13を応援していました。特に東京ホテイソンは、ショーゴさんのマイムに対してたけるさんが備中神楽の囃子ことばの調子でツッコむ、という強力な(ナイツ塙さんが言うところの)「ハード」を発明したのにもかかわらず決勝に進出できず、それでもなお独自のガラパゴス的な進化を遂げ、「回文」、そして「英語」という画期的なネタをつくり出してもやはり準決勝に留まる、という経緯がありました。

 そのようにしてあの「ハード」に対して高度に発展したネタが『謎解き』で、あの場で初めて東京ホテイソンを観るという人たちには少し難しかっただろうと推察します*14。彼らは確実に(既に多くの人が指摘しているように)もう少し早く決勝に上がっておくべき人たちだったのですが、でも、一ファンとしては、こういう人たちだという自己紹介を今年で終えたという意味でポジティヴに捉えたいと思っています。今後は、あの備中神楽のツッコミがあった上で、何をするのかというところを見てもらえるようになると思うので。もしかしたら数年以内に、東京ホテイソンが2本目に『回文』のネタをもってきて優勝する、なんていう未来もあるのではないのでしょうか。

 漫才師はよく「ニン(人柄)」が大事だと言われているのですが、そういう芸術的な領域は素人には計り知れないところはあるので、こういうネタの考察を書くときは基本的にネタの構成という明らかに見て判断できる部分に言及するように気をつけています。
 ただ、錦鯉だけは、ニンを語らざるを得ないんですね。何よりまさのりさんが、ほんとに明るくて素敵で愛さずにはいられない方。ラジオも聴いていますが、ネタ中通りのお人柄です。今大会はまさのりさんの自己紹介ができただけでも万々歳、と思っています(もちろんご本人たちは悔しいでしょうが)。
 今後、テレビ出演などが増えて
まさのりさんのキャラがもっと周知されれば、彼らはどんどん強くなっていくことでしょう。錦鯉を好きになったきっかけは去年の敗者復活の「まさのり数え歌」なのですが、今はどこにもアップロードされていないので、また観られる機会があることを願っています。

 この「自己紹介できた」というのはウエストランドも同じこと*15で、彼らにもぜひ同じスタイルを貫いて欲しいです。Creepy nutsオールナイトニッポン0を聴いていたらウエストランドのネタをDJ松永さんがいたく気に入ったみたいで、刺さるべきところに刺さってるなと嬉しくなりました。

f:id:SatzDachs:20201224100941j:plain

日曜日からずっと、このメロディーが頭から離れないです。

6. M-1の「ストーリー」

 ただ彼ら3組と比べて、オズワルドだけは、次どうしたらいいのかマジでわからない評され方をしていて、来年が大変だな……と思いました。ご本人も「死ぬほど難しい宿題」とおっしゃっていましたが、松本さんから「静かでよかった」、巨人師匠から「最初から元気に入るべき」という一見逆のコメントをもらったのです。おそらくそれはもともとロートーンで話を展開する去年までのスタイルが残像として残っているせいで、今年はどっちつかずに見えてしまったのかなと思いました。
 これまで書いてきたように、今年のM-1のテーマのひとつは「かけ合い」になりましたが、そういう意味でオズワルドは、「改名をする」というテーマからあそこまで話を発展させ、しかもそれが全てロジカルに筋が通っている、という飛び抜けて凄いことをしていたと思います。もともと「シュール」と評されることも多く亜流な芸風とされていましたが、一周回ってド正統な関東のしゃべくり漫才師になってるなと思いました(偉そうな書き方になってしまいました)。改名したいという畠中さんの飄々した感じに、それを阻止したい伊藤さんに感情移入して「かけ合い」を見られるし、後半の盛り上がりどころ(「お前ずっと口空いてる」)やキラーフレーズ(「雑魚寿司」)もあって、4分間の一つのテーマでの会話として完璧だなと思いました。
 今回はおいでやすこが、マヂカルラブリーによってパワー系の大会になったので、もうほんとに順番の妙だと思います。ただ、会話する漫才を既にネクストレベルでやってるオズワルドが絶対に評価されるときは来ると思います。ベースはあのままでも、単純にウケ量が変われば「成長した」とか言われるのだろうか……

 そう考えると、オズワルドは確実に来年以降もこれまでの比較として審査されますよね。その日、その場での審査とは言いつつ、M-1は確実にそれまでのストーリーが大きく影響していると思います。もちろん漫才は人間あってのことなので良い悪いではないですが、それでも審査員のコメントを聴いていて「ストーリーって昔もこんなに大事だったっけ?」って考えていました。まあ、もしかしたら、10年前はここまで深く賞レースを予選から追ってなかったので、単に自分の観方が変わったというのもあるとは思います。
 実はその辺の理由で、(決勝の結果だけは何がどう転ぶかわからないからGYAO3連単の予想はやらないと言いつつ)今年優勝の可能性が高いのはニューヨークだと思っていました。去年M-1で結果を残せず、からの、今年バラエティ番組で活躍して、からの、キングオブコントで準優勝し、からの、「多少の軽犯罪を良しとする人」を揶揄するという彼らの得意な皮肉の効いたネタ、だったので、布石はすべて揃っているように思っていました。ですがやっぱりM-1は読めないですね……
 それはともかく、ニューヨークの
嶋佐さんがちょうどそういうことを言いそうな風貌で、かつそういうトーンで話すのが上手いですよね。それを腐す屋敷さんも含めて、おふたりにぴったりの漫才だと思います。本稿のはじめでコントインの話をしましたが、ほんとうに演技力が高い。

 さて「ストーリー」についてもう少し考えてみると、そもそもマヂラブも上沼さんとの因縁があったことがツカミになっていて、場を受け入れ態勢にするのに有利に働いてましたね。それを考えると、やはりSNSの発達が大きな一因になっているように思います。さらに和牛の3年連続準優勝というインパクトもあると思います。特別ファンでない人も含めて世間全体が「和牛のM-1挑戦物語」を共有していたような空気感でした。あとは「M-1アナザーストーリー」のようなドキュメンタリー番組、そして多くの芸人さんがGERAをはじめとするネットラジオYouTubeトークをする機会に恵まれている現状、があるのでしょうか。 

f:id:SatzDachs:20201223234110j:plain

敗者復活で大活躍だった国崎さんは、来年以降のストーリーに繋がっている気がします。

7. 台本の存在

 敗者復活はインディアンスがいちばん笑いました(ので投票もしました)。ああやってアドリブで脱線していく感じが観ていて楽しかったです。
 インディアンスはいつも、丁々発止のやりとりで稽古量が伝わってきて、でもそれゆえに台本ぽいなあと思う瞬間が時々ありました。あのネタも何回か観たことがあるのですが、きむさんが言い間違えて揚げ足とる箇所で「わざと間違えたんでしょ?」みたいなちょっと冷めた目で見てしまう自分がいました。先日ラジオでナイツの塙さんは、きむさんが言い間違えるのではなくて、普通に喋ってるのを田渕さんが揚げ足をとったほうがいいというコメントをしていて、その辺もそういう「あざとさ」あるいは「台本が見える」ことへの指摘なのかなと思って聞いていました。
 それがあれだけアドリブがたくさん入ると、台本とアドリブの境目がなくなってきて彼らふたりそのものとして見れるようになるというか、だから(見たことあるネタでも)あざとさみたいなのが全然気にならなくて驚きました。結局、しゃべくり漫才でも、コント漫才でも、初めから設定に入ってる漫才でも、そのほかジャンルレスな漫才でも、「台本の存在」というのは常に問題ですね。そういう意味でも、最初の話に戻りますが「ここから先は漫才ではない」という明確な線を引くことはできないと思います。
 ともかくインディアンスについては、田渕さんは去年の決勝でネタを飛ばしたことをずっと気にしておられたので、それが今年のM-1後の配信では憑き物が取れたようにスッキリした顔で「楽しかった」と言ってて、ほんと何よりだなと思いました。来年がめちゃくちゃ楽しみです。

f:id:SatzDachs:20201225220817j:plain

インディアンスもまた、「ネオベタ」ですよね。

8. 最後に

  M-1が終わったあと、お笑いファンでない人のなかでもここまで話題になるというのは、漫才をここまで愛してくれる人がいるということなので、とても嬉しいことです。ただ、確かにM-1は最高最強の大会ですが、一方で、M-1、まして決勝大会その日だけがお笑いの全てではない、ということは肝に銘じておくべきことかと思います。M-1グランプリ決勝の10組のネタだけで「2020年の漫才全体」あるいは「お笑い全体」は語れませんし、それを利用した社会批評もさすがにガバガバ過ぎます。また、あの場でウケなかったからといってそれがその芸人さんのすべてではありません。
 なので、M-1M-1としてスポーツのような競技大会として楽むのはいいとして、その日が終われば、漫才含めお笑いに対して審査員的に振る舞うのはちょっと違うかなと思います。もちろん、料理だったらぐるなび、映画だったらfilmarksがあるように、ある作品に対して評価的態度をとるというのは個々の自由なので別に良いですし、私もこんな風に普段から考察してしまいがちです。ですがあまりにお笑いを腐すことに意識がやられ過ぎて、面白いものを面白いと素直に思えなくなるのは勿体ない*16なという話です。
 だから、毎年書いてから自戒の念に駆られるのですが、こういうのはほどほどに、ですね……

f:id:SatzDachs:20201224105631j:plain

結局今年も長々と書いてしまいました。でも自覚があっても自我が勝つから!

9. おまけ

 最後に、今年のM-1の自分的ハイライトとして、準々決勝で大ウケだったものの、惜しくも決勝で観ることは叶わなかったラストイヤーのDr.ハインリッヒを置いておきます。

www.youtube.com

 

*1:これまで「サンパチマイクの前で2人以上が立っていれば」という言い方をしていたのですが、今年のマヂラブを見てこっそりマイナーチェンジしました。

*2:定義はそもそも恣意的なものですし、「〜とは何か」という問いの立て方からして前期ウィトゲンシュタインに怒られそうですね。

*3:一方で、そういうところに同様にシビアなイメージのあった礼二さんがマヂラブに96点をつけていたのはびっくりしました。めちゃくちゃ嬉しかったです。

*4:有料だったので名前を伏せます。

*5:過去の自分への反省です。

*6:「実況型の漫才」という言葉を自分で書いたときに一番最初に思い出したのが麒麟で、彼らはどうだったかなとネタを思い返してたところ、「実況型」と言えどもかけ合いはしてたなという結論に至りました。麒麟というとM-1最初期から活躍しているコンビで、この辺りからも私の文章は歴史の認識とかがガバガバであることがわかると思うので、話半分で読んでもらえると嬉しいです。しかしそろそろ「かけ合い」がゲシュタルト崩壊しそうです。「かけ合い」とは何なのか。

*7:もちろんこれは一つのまとめ方でしかなくて、だからといって彼らがすべて同じだいう暴論は成り立ちません。

*8:先に粗品さんがオールザッツで評価されていたこともあって、「せいや粗品のフリップだ」と言われていた時代もありました。彼らがM-1優勝という結果を残して「漫才」として認められてからは、そんなことを言う人もいなくなりましたが。

*9:新しい「ツッコミ像」についてはこの記事に詳しく書いています。satzdachs.hatenablog.com

*10:遡ってみたら、過去3年のR-1で毎回小田さんの応援ツイートをしてました。

*11:こちらの記事です。

natalie.mu

*12:もはや3回戦レベルから伏線回収は当たり前になりましたね。

*13:ウエストランドに至っては、彼らのネットラジオを8年以上毎週聴き続けているので、万感の思いがありました。

*14:しかしそんななかで、サンドウィッチマンの富澤さんはホテイソンの歴史も含めて褒めるコメントをしていたので、さすが事務所(グレープカンパニー)の先輩!と思いました。

*15:奇しくもぶちラジ!の最新回で、井口さんが「錦鯉、ホテイソンと自分たちは知ってもらうことありきだ」という話をしていました。

*16:もちろん、政治的公正に反するものは話が別です。

<裏>と<表>の奇妙な共存——今更ながら「せっせっせいや」を考える

はじめに

 以下の動画を観た友人から、質問を受けた。せいやさんが自らの「せっせっせいや」というネタを「ブリッジが長いっていうネタ」「一個乗ってる芸」と評しているが、これはどういう意味なのかという。それで思いつくままに説明しているうちに気付いたらそこそこの分量になり、勿体ないのでまとめてブログにあげることにした。走り書きなので事実誤認や解釈が甘いところもあると思うが、その辺りはご了承いただきたい。あと別にそこまで新しいことは書いていない。

www.youtube.com

ゼロ年代テン年代のお笑い界

 まず前提として、「ネタをする→リズムに乗せたブリッジを挟む」というのは、エンタの神様やレッドカーペッドなどショートネタが流行った時代(ゼロ年代のお笑いブーム)に大量生産された形である。当時はテレビに出るならそれが一番の近道だった。代表格ですぐに浮かぶのは、オリエンタルラジオの「武勇伝」のネタだろう。
 しかしそれは、芸人あるいはお笑いのコアなファン層から「客ウケ(特に女性)だけを狙っている」として常に批判の的でもあって、ゼロ年代後半のM-1ブームと対をなす存在でもあった。すなわち、「賞レースで勝てる(=プロが本当に面白いと認める)」ネタと、「大衆迎合的で一過性に世間に消費される」ネタ。

 それからテン年代に入ってお笑いブームが翳りを見せ、そういう「分かりやすい笑いどころ+リズム感のあるブリッジ」というフォーマットは、ネタがファストフード的に消費された時代の負の遺産ともみなされるようになった。たくさんの人気があったはずの芸人の仕事がなくなり、それを自虐する「一発屋」という概念が生まれたのもテン年代前後のこと。

リズムネタの脱構築

  そしてようやく「せっせっせいや」の話になるが、この動画で「『ブリッジが長い』っていうネタ」と言っていたのは、そういう一連の流れ自体がフリになっているということだ。それまでのお笑いの歴史であったどのブリッジよりも長い尺で、「せっせっせいや」というフレーズが繰り返されているということが、一つのボケになる。つまり「せっせっせいや」というフレーズ自体が面白いのではなくて、その繰り返しているという状況自体が(これまでの既存のお笑いのフォーマットを踏まえたうえで)面白いという、「一個乗った芸」なのだ。
 以降、前者のような「フレーズ自体が面白い」事態を<表>、後者のような事態を(明示的に笑わせようとしている部分とは別の箇所で面白さが生まれているという意味で)<裏>と呼ぶことにする。

 「せっせっせいや」のネタにおいて、せいやさんは後半に迫るにつれて鬼気迫る表情で、「せっせっせいや」の繰り返しそれ自体が目的化していくかのような様相を呈していく。それに呼応するかのように、ブリッジに挟まれた(中身が伴わなければならないはずの)ネタ部分も支離滅裂になり、意味を失っていく。
 つまりここでは、ただ記号的に、ネタ→ブリッジの流れだけが反復される。そうやってリズムネタがリズムネタの内部で崩壊していく=リズムネタが脱構築されていく一連を観て、(ツッコミ側として設定された)観客が「何やってんだコイツ」と笑う、という構図になっている。この意味で「せっせっせいや」の核は<裏>にある。
  オフィシャルな方法は残されていないのであまり良くないが、可能であれば関西では年末恒例の番組「オールザッツ漫才2017」で「せっせっせいや」が披露された際の動画を観て欲しい。ここではツッコミの粗品さんがいるのでより見やすくはなっているが、執拗に繰り返される「せっせっせいや」のグルーヴ感にカタルシスさえ覚えるような時間になっている。当時、画面の前で衝撃を受けたのをよく覚えている。

<裏>と<表>の奇妙な共存

 さて、少し話がややこしいのはここからである。お笑いにおいて、<裏>を狙ったつもりが<表>になる、ということは往々にしてある。つまり「せっせっせいや」において、(本来記号的な役割を担うはずの)ネタ部分がそのままウケてしまう、ということだ。その場合はブリッジはそのままブリッジとして機能して、本来の=<表>としてのリズムネタが成立するという事態が発生する。

 「せっせっせいや」が学生に真似されるとか、(上述のようなお笑いの目線を持っていない)一般の人にとっても面白いものになる、というのはまさにそういう事態である。ここからは私の勝手な推測だが、本来モノマネを始めてとして何でも器用にこなすせいやさんであるから、出る番組によってネタ部分がそのまま<表>でウケるような作りに対応していたように思う(テレビで幾度となく「せっせっせいや」を観たが、もちろんすべてのテレビ出演をチェックしているわけではないので何とも言えないが)。

 ただ先に述べたオールザッツ漫才というのは関西の非常に伝統あるネタ番組で、観客席には大量の芸人が座し、そして観客も普段からライブに行きまくってるような人たちばかり、というセッティングである。そこでは以上のような文脈がかなりのレベルで共有されていたために、「常軌を逸したレベルで『せっせっせいや』という『ブリッジ』を繰り返す」というボケが成立したのだ。
 冒頭で挙げたYouTube動画でも、「せっせっせいや」の2回目で笑いが起きているのは、ネタ自体はあの場にいる全員が知っているはずなので、「この人『例の知っているアレ』をやってるわ」というので、ネタからブリッジに移行する際に笑っている。つまりあれはわかりやすく、完全に<裏>である。

おわりに

 少し前も『千鳥のクセがスゴいネタGP』という番組に出ていて、スタジオの千鳥はツッコミ側として<裏>になりつつも、ゲストの女性は<表>で笑う、という興味深い構図になっていた*1

 改めて「せっせっせいや」は、このように<裏>と<表>が絶妙なバランスでせめぎ合いながら同居している不思議なネタである。観るたびにどこがどのように受けるかが違っているような印象を受ける。この記事を読まれた方は、また今度「せっせっせいや」のネタを観る際は、違った目線で楽しんでいただきたい。

*1:『クセスゴGP』は、ポップの皮を被った、コアなお笑いファン層向けのネタ番組である。<裏>の笑いも多くあるのだが、<表>としての笑いも演出上担保されているので、結果的に一般層もコア層も楽しめるという稀有な番組だと思う。加えて最近で言うと、『有吉の壁』の「ブレイク芸人選手権」もそうである。本来あれは、まさしくゼロ年代のエンタ芸人のパロディであり、その文脈を理解しているお笑いファン向けの企画なのだが、それが時折まっすぐに面白いネタが生まれてくるのだから不思議である。
 このように、主目的は<裏>だがお茶の間的には<表>、という奇妙な同居を果たしている番組はある意味無敵である。個人的な話になるが、これだと家のテレビでかけていても(非-お笑いファンの)家族にも好評なのでありがたい。

1/3も伝わらない

 人と話すときに、うまく言葉が出てこないと思うことが増えた。相手の立場、考え、感情を理解することが難しいから、というのも理由として確かにある。ずっと思ってきたことだし、今なお誰かを「わかる」ことの暴力性に怯えている。

 しかしそれより、自分の頭の中にあることが、私の口から発した言葉を介して相手の頭の中で再生成されたときに、元々のそれと全く同じ形をしているのだろうか、ということが今はすごく怖い。ただそれでも、相手が目の前にいる以上はだんまりを決めこむわけにはいかない。相手の発した言葉に対して自分も何かを発さなければならない。言葉のキャッチボールとはよく言ったものだ。たとえ明後日の方向にボールが飛んでいこうとも、投げ返さなければ全くもって話にならない。

 わかっている。そもそも、自分の頭の中をそっくりそのまま相手に移植することはできない。自分が思っていたことがAだとしたら、発した言葉はA'で、相手の頭の中に入る頃にはA''くらいになっている。BとかCになっていることもあるだろう。そうやって誤解されるリスクを背負いながら、あるいは、間違ったところは修正しながら相手と関わる、それが会話だ。私たちがやっているのはテレパシーではない。

 それをわかったうえで、私は、自分の口から出てくる言葉の精度の低さに俄然としてしまう。自分の頭の中にあることの1/3も伝わらない。喋りながら自分の表現の拙さを強く自覚するし、あとでその会話を反芻していると数え切れないほど修正テープを引きたいところが出てくる。とにかく即応的な言葉のラリーが苦手なのだ。善良な相手と話しながら、自分の口からろくでもない不良品たちがぼろぼろと溢れるのを舌先で感じ続けるのは、たいへんなストレスだ(一方で、自意識過剰のナルシシズムだと言われたらそれも否定できない)。

 はじめに「増えた」と書いたが、ほんとうに増えたのかどうかはわからない。もしかしたら人と会う機会が減って、一つ一つの会話を振り返る時間が長くなったからそう思うだけなのかもしれない。いずれにせよ、この話から何か一つでも教訓を得るとすれば、それは相手もまた「1/3も伝わらない」と思っている可能性についてなのかもしれない。