M-1グランプリ2018をきっかけに考える——笑いについて語るということ

 M-1グランプリ2018審査員の上沼さんに、とろサーモン久保田さんとスーパーマラドーナ武智さんが暴言を吐いたいうことで炎上しています。本稿ではそれに便乗してさらに火を燃やそうという意図は全くありません。ひとつだけ思うことは、人気も実力も実績もあるのだから、もし審査に意見があるならもっと適切な形で発信すればむしろ「よくぞ言った!」という風に確実に受け入れられていたと思うので、勿体ないなあということです。一方で、漫才師としてのおふたりは心から尊敬していますし大好きですし、私が彼らを批判できる立場にないし権利もないと思っています。
 ですがこのまま「炎上」だけで終わってしまうのがあまりに残念なので、皆の注目が集まっているこのタイミングで、もう少し生産的に議論が進むために、「笑いについて語る」ということについて自分の思うことを書いてみよう、というのが今回の執筆動機です。

笑いについて語る切り口は様々である

 申し遅れましたが私はペンネームを文狸(ぶんり)と申します。私は一介のお笑いファンです。テレビでやってる面白いバラエティー番組やネタ番組は毎週必ずチェックして、劇場には気になる公演があれば2か月に1回くらいは行って、加えて漫才の賞レースの予選は毎年必ず1度は観に行くようにしている、くらいの感じです(ちなみにまだ世間に見つかっていない面白い人を探せるM-1の3回戦がいちばん好きです)。劇場に通い詰めている熱心なファンの方々にはとてもかないませんが、まあでも世に言う「お笑い好き」の部類には入るのかなと思っています。
 ただ特筆すべきこととして、私が高校生のころから(今現在は大学4年生です)ずっとやってきたことがあって、それは「お笑いをロジカルに分析する」ことです。一時期年間1000本くらいはネタを観ていましたが、その全てのネタについて、「これはなぜ笑いが起こっているのだろう」ということについて自分の納得のいく説明がいくまで考える、ということをしてきました。それによって達した結論については本稿の主旨から外れるので詳細は省きますが、私は基本的に笑いの分析について構造主義の立場をとっていると自分をみなしています。つまり、ありとあらゆる全てのお笑いが共通して根底にもつ「構造」が何なのか明らかにしたい、そしてその美しさに興奮したい、というのが私のモチベーションです*1
 しかし笑いについて「分析する」あるいは「語る」ときの切り口は、その「構造」に注目する以外にもたくさんの可能性があります。ここまではお笑い一般の話として語ってきましたが、話の都合上ここから漫才に話を絞って進めていきます。
 たとえば一番分かりやすいのは「自分が笑ったか/笑っていないか」だと思います。我々の感覚的な部分に最も近い指標で、Youtubeのコメント欄の大半はこのような意見で占められていますね。これに類似の(だがしばしば一致しないこともある)評価軸は、「好きか/嫌いか」です。
 当然「技術」も指標としてあります。間の空け方や、声の調子、観客とのコミュニケーションの取り方。それについて「上手いか/下手か」で評価されます。ここはロクに漫才をしたこともないある私が一番言及してはいけないところだと思っています。
 加えてよく言及されるのは「人(ニン)」という概念ですね。機械的ではなく、漫才からその人の人間性が滲み出ているかどうか。これに関しても、プロの方々がおっしゃていることをそのまま今引用しているだけで、何となく言わんとしていることは理解できますが、素人の私が計り知れない領域かなと思っております。
 あとM-1グランプリという大会において漫才を語るときに、特に強調される評価軸は「(発想の)新規性」ですね。いかに今までのお笑いとは違ったものを見せているのか。賞レースでこれほどまでに「新規性」が言われるようになったのは、やはり松本人志さんという存在が大きいのかなと思っています。 
 挙げたのは私が今ぱっと思いつくもので、全てを網羅しているわけではありません。また、上記の評価軸は常に排反なわけでもなく、実際には(なかば無意識的に)様々な切り口が混在しながらお笑いを語るというのがほとんどだと思います。

では今、M-1グランプリはどんな評価軸で審査されているのか

 M-1グランプリの審査基準を皆さんはご存知でしょうか。唯一の明文化されたものはこれです。「とにかく面白い漫才」。一見シンプルで分かりやすいように見えて厄介なのがこの審査基準で、最も大きな問題の一つは「誰にとって」面白い漫才なのかが不明瞭、という点です。
 そりゃ「観客にとって」に決まってるだろう、と思うかもしれませんが、それは断じてて違います。賞レースを予選から追っているお笑いファンの方々ならお分かりだと思いますが、毎年賞レースの時期になると「あんだけウケたのに落とされたのか……」という言葉を必ず聞きます。今年のM-1準決勝で言えばプラスマイナスがその筆頭になりますかね*2。テレビで観られる華やかなM-1ファイナリストたちの舞台の裏側には、その場のウケ量と必ずしも一致しない審査に対するお笑いファンの呪詛の言葉で溢れていると言ってもいいかもしれません。
 つまりあの審査基準は「審査員にとって」面白い漫才ということなのですが、これでも一件落着というわけにはいきません。先ほど言ったように、何をもって審査員が漫才を評価するのかは実に様々であると思います。準決勝までの審査員は、放送作家の方々やテレビ局の局員の方々が務めてらっしゃいますが、皆さんそれぞれ拘りのポイントをお持ちであると思います。それは決勝の審査員にとっても同じで、コメントから察するに、例えば上沼さんは「好き/嫌い」をはっきりと言いますし、志らくさんは「新規性」と「人(ニン)」を注目されていたように見えました。得点にある程度のばらつきがあったことから、やはり皆さんそれぞれ注目するポイントが(同じところもあれば)異なるところもあるのだと思います。

「賞レース的」な漫才、そうでない漫才

 このままで本稿が終わると「皆色んな考えがあるんだね」という何の意味もない結論で終わってしまいますので、もう少し考えを進めてみましょう。様々な基準があるとはいえ、「こういうネタだと決勝に上がれない/上がりにくい」といった言わば「傾向」のようなものはあるのでしょうか。
 自分的には、素人でしかないのでもちろん断言はできませんが、M-1をずっと観てきた一ファンとして、なんとなく空気として「勝てない」あるいは「勝ちにくい」芸風の漫才師さんたちというのはいるのではないか、と思っています。例えば私はとあるトリオ漫才師の方々がとても好きで、大声を出したり、くだらないダジャレを言ったり、最終的には服をびりびりに破ったりするのが特徴的なのですが、ネタを観るといつも腹を抱えて笑ってしまいますし、3人それぞれの人間性が滲み出ているのがとても好きです。しかしじゃあ彼らがM-1決勝に上がっている姿を想像できるのかというと、「どうなのかなあ……」と思ってしまう自分がいます。
 それはひとえにこれまで「決勝に上がれた漫才/上がれなかった漫才」を観てきたからで、そのなかで自分の中で「賞レース的」な漫才像ができあがってしまっているのです。何となくその部分を言語化すると、「新規性」「独自性」があって「ネタとしての統一感」「4分間のパッケージ感」がある漫才、みたいなところなのかなとは思っています。もちろんこれが全てではありませんし例外もたくさんあると思います。しかし特にお笑いファンの方々なら、何となく「賞レース的」な漫才のイメージは分かっていただけるのではないでしょうか。あるいは「賞レース的」でない漫才、というほうが簡単に想像できるかもしれません。
 さらに賞レースの漫才について考えていきます。制限時間は4分です。かつてブラックマヨネーズ島田紳助さんに「4分の使い方が抜群」と評されました。4分という時間をいかに使うのか。その問いに答えるために「賞レース的」な漫才の理論は更新され続けてきました。大会初期に出ていた漫才師の方が「今と昔とではレベルが違う」と言っているのをよく聞きますが、それはボージョレヌーヴォー的なおべんちゃらでは決してなく、前年の漫才で新たに提出されたスタイルを踏まえて、さらに新しく、より緻密な構成の漫才が世に出される、というのが繰り返されてきた結果なのです。水泳競技で例えるならば、速く泳ぐための新しい泳法が生まれて、それを踏まえてまた新しい泳法が生まれて、あるいは新しい水着が生まれ、新しいスタートの切り方が考えられ――そんな選手やコーチの不断の努力の結果、世界記録が今もって更新され続けている、そんな感じです。
 詳細を語り出すと話が長くなるので割愛しますが、ともかく、「賞レース」的な漫才の進化の凄さというのは、単に「笑えた/笑えない」「好き/嫌い」という感覚で語れる次元はとうに越えている、とだけ言っておきます。

改めて、何をもって漫才を評価すべきなのだろうか

 スーパーマラドーナの武智さんは、あのNON STYLEの石田さんをもって「あいつは毎日NGKM-1のことだけを考えてネタを書き続けている。本当に頭が上がらない」と言わしめた人です。私のチンケな漫才理論など比べものにならないほど、考えに考え抜かれた、4分という時間でいかに勝ち切るネタをつくるかについての緻密な計算をされていたのだと思います。「賞レース的」な漫才について間違いなく日本で最も考えたうちの1人と言ってよいと思います。でもだからこそ、「好き/嫌い」という感覚的な言葉を中心に審査のコメントを述べる上沼さんに対して不満が溜まってしまったのではないでしょうか。
 しかし私が皆さんに問題提起したいのはこのポイントです。本当に、「好き/嫌い」という基準で審査するのは、良い審査ではないといえるのでしょうか?
 確かに私は、お笑いをロジカルに考えている人はとても好きだし審査員として適任であると個人的には思っています。過去に取材記事を読んだときからファンだったのですが、今回のM-1でも常にロジカルな分析をネタに加えていた塙さんは心からリスペクトしています。ただ同時に、「面白い/面白くない」「好き/嫌い」という感覚的なところに基づいて審査することが良くないことかというと、必ずしもそうは言い切れないと思っています。むしろ、そのほうがM-1の言う「とにかく面白い漫才」という審査員基準に沿っていると考える立場があっても良いとさえ思っています。
 結局のところ最も問題なのは、「適切な審査」に対するオープンな場での生産的な議論が圧倒的に不足してるということであると思います。新人を発掘する大会だから新規性を重く評価すべきだ、とか、いや芸歴制限が15年まで延びたしもっと「上手さ」「人間性」を見るべきだ、とか、統一感のないベスト盤のようなネタでも個々のボケの強さを評価すべきだ、とか、その場でいちばん笑いをとった者が正義だ、とか、いやどれも大事だから各評価軸に重きを置いた審査員をバランスよく配置すべきだ、とか……そういうところを飛び越して、あの審査員はおかしいとかそういう話ばかりしているから、非生産的な議論になるのです。
 皆さん、まずは、「M-1ってどういう漫才師を評価する/すべき場なの?」というところから、議論を始めませんか。
 別に全員がコンセンサスを得られるとは思いません。ですがまずその点についての自分の立場を明確にして、そして違う立場の人間と意見を交換して積み重ねていくというプロセスを経ない限りは、いつまで経っても同じ話ばかりしていることになると思います。

今、私が「良い審査」について意見できること

 「何が良い審査基準」なのかということについては自分のなかでも結論はまだ出ていません。あるいは出たとしてもそれは一意見でしかないので、今ここにそれを書こうとも思いません。
 ただ1つ、今確実なこととして言えることがあるとすれば、「少なくとも、審査員個人のなかでは辻褄のあう審査、もっと端的に言うと『一貫性のある審査』ではなければならない」、ということなのではないでしょうか。2組の漫才師についてある点が全く同じだったとして、一方では高く評価し、その一方では低く評価する、ということがあればそれは「良い審査」であるとは言えないでしょう。どのような基準であれ、少なくとも同大会ではそれを一貫して守って欲しいものです。
 そのために、大変おこがましいことですが、一つ審査員の方々にお願いがあるとすれば、「Judging Philosophyを書いて欲しい」ということです。Judging Philosophyとは、例えば学生のスピーチやディベート大会ではよくあるのですが、「私はこの基準に従ってここの点についてはこう評価する」ということを詳細に書いたものです。漫才の大会でJudging Philosophyを書くとすれば、さっきの評価軸を使えば、「会場のウケ量は私はそこまで加点はしない」「新規性があるかどうかをまず一番重視する」「人(ニン)が出ていると感じられた漫才には○点加点する」というようになるのでしょうか。それを書いて公表することが、「私はこの基準で審査する」ということの意思表示になるし、また視聴者側も「その基準に沿って本人は審査しているのか」という目線で観ることができ、「一貫した審査」ができているかの指標となります。だから、「自分が笑えたかどうかということだけで評価する」人がいて本当にそれを突き通して審査したとしたら、一貫しているという点では良い審査であると言えるでしょう。
 漫才という非常に繊細なものをスポーツのように得点制にはできないとか、結局その提案はお笑いをロジカルに語ることを求めているとか、すぐ思いつく反論だけでもたくさんあります。そもそも大変お忙しい芸人さんの方にこのようなことを求めることが馬鹿げたことであるのも分かっています。だから、あくまで1つのアイデアとして受け取ってくださいますと幸いです*3

最後に

 私は、本稿において、笑いには様々な切り口であるというところから始めて、「M-1ってどういう漫才師を評価すべき場なのかというところから議論を始めませんか」と、「Judging Philosophyを公表してほしい」という2つの提案をさせていただきました。すべては漫才を観るのがただただ好きで、毎年あの幸福な時間を与えてくれるM-1という大会の向上に少しでも役に立ちたいという気持ちから筆をとりました。その思いが少しでも多くの人に伝わると嬉しいなと思います。

*1:お笑いを「分析する」という行為について、あまり良く思わない芸人さんのほうがマジョリティであるということは重々承知しております。しかしながら、お笑いを観ているその瞬間は無心で楽しんで2回目以降観るときに初めて「分析」をすること、「なぜ面白かったんだろう」を説明するためであって何かをつまらないと貶めるために「分析」は極力やらないこと、自分のお笑いの見方を誰かに押し付けたりは絶対にしないこと、をルールに楽しませてもらっています。自己満足の趣味として見逃していただけますと幸いです。

*2:敗者復活はまた事情が異なってややこしいので本稿では触れません。

*3:本稿の構成上おさめきれませんでしたが、1人が極端な点数の付け方をするのも少々問題だと思っています。せっかく7人も審査員を呼んでいるのに、その人の判断だけで運命が左右されてしまうので。これも馬鹿げた提案ですが、マリオカートのアレみたいに、審査員一人一人が、全組のネタを見たあと順位をつけて、その順位に従って予め点数が付いてる(1位:15点 2位: 12点 3位:10点……)というのが、点数の配分が公平になるのかなと思っています。今の点数の付け方はそれこそ余りにも「感覚的」なので。