<お笑いと構造 第2回> お笑いの構造分析における三尺度 ①意外感

 文狸(ぶんり)です。前回は、全てのお笑いが共通してもつ構造を、「自分が面白いと思ったものを、なぜ面白かったのか後から分析する」というスタンスのもと、「意外感」「納得感」「期待感」という観客視点の3つの言葉を使って納得可能な説明を目指す、という話をしました。今日はその一つ目、「意外感」の解説をしていきます。

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用語についての注釈――桂枝雀に着想を得て

 お笑いについて語るときに「意外感」という言葉が使われることはあまりなく、よく耳にするのは「裏切り」というタームです。基本的にはほぼ同義と思ってもらって構いませんが、なぜ本稿でわざわざ馴染みのない「意外感」という用語を採用するのかというと、他の尺度「納得感」「期待感」と同じく「観客がどう感じているか」で分析するように視点をそろえたいからです。「裏切り」だと演者側の視点になってしまいます。

 この辺りのワーディングには、桂枝雀(1939-1999)のお笑い理論に着想を得ました。彼はかつて自身の著書*1でこう語っていました。

ものごとを分類しようかちゅうときに、いちばん先にしとかなならんことは何やと思いなはる? 視点を定めることですわ。どの立場から対象物のどの面を観て判断するかということを決めとかんと、あっちこっちから視点定めんと言うだけでは統一性がおまへんがナ。

 これはまさしくその通りで、世でお笑いを語る人々のほとんどはそこを混同してしまっている(意識すらしていない)印象を受けます。
 少しだけ補足説明しておくと、桂枝雀は、現在私の知る限り、最も包括的で緻密なお笑い理論体系をつくりあげた偉大な先人です。恥ずかしながら最近までその詳細を知る機会がなかったのですが、昨年(2018年)ようやく彼の著書を読み、私の理論との類似性、もとい、実際に落語家というプレーヤーとして活躍する者にしかわからない(=私の考えの及ばない)ところまで分析し尽くされたその理論に大変感銘を受けました*2。本連載のどこかで、桂枝雀の理論の全貌について、私の三尺度の概念と比較しつつ書く予定です。

「意外感」を「意外」たらしめるものとは

 少し話が逸れました。本題に戻って、「意外感」について考えていきましょう。
 「意外感」という概念は、いわゆる「ボケ」という言葉を聞いたときにすぐに想像できるものだと思います。変な顔、変な言葉、変な行動――普通ではあり得ないことが起こったり、誰かがおかしなことを言ったとき、人はその「ズレ」を笑う。とてもシンプルな構図です。
 しかしこれで説明が終わってしまうと、当り前のことを何をドヤ顔で語っているんだと言われてしまいそうです。もう少し掘り下げて考えてみましょう。「意外感」を「意外」たらしめているものとは何なのか。

 例えば、「川に溺れている子供を助ける」というシチュエーションのコント漫才があるとします。溺れる子供を発見して「大変だ! 177に電話しなきゃ!」と言えば、面白いどうかはともかく、これが紛れもなくボケだというのは万人の納得するところだと思います。本来ならば119番にかけて救急車を呼ばなければならないところを、177番(天気予報)にかけてしまうのです。こんな間違いをしてしまっては子供を助けられません。
 さて、これはどうして「ボケ」なのでしょうか。それは簡単で、「救急車は119番」という共通認識が、漫才を見ている人全員に備わっているからです。それを演者が裏切り、観客が意外感を抱いたからこそ、ボケたり得るのです。
 無意識下なのか、はっきりと意識しているかの違いこそありますが、漫才師の方々だけでなく一般の人々も、(「意外感」の)ボケとは共通認識の反対をいくものだということをよく理解しています。例えば、大阪人が日常会話で「北海道まで歩いて行くわ!」と言ったらこれはボケになりますが、これは、大阪から北海道までは莫大な距離があるのだという共通認識があるからこそ、ボケとして成立します。

「意外感」の大きさは、「共通認識の明瞭さ」と「共通認識からの距離」で決まる

 さらに深く考えるために、この日常会話における例を別のシチュエーションで考えてみましょう。先ほどは(暗に)相手も日本人であることが前提とされていましたが、今度は相手が、ガイドブックなど事前に読まないまま日本に来たばかりの外国人だったとします。その場合は「北海道まで歩いていくわ!」と大阪人が言ったとしても、「意外感」は惹起されないでしょう。なぜならその外国人にとって「大阪と北海道は遠く離れている」ことは「共通認識」ではないからです。
 また、「川に溺れている子供を助ける」漫才についてももう一度考えてみましょう。救急車が119番であることを知らない人はさすがにいないでしょうが、177番が天気予報の番号であることを知らない人はもしかしたらいるかもしれません。このとき、177番を知らない人と知っている人の「意外感」を比較すると、前者は「なにか119番とは違う番号を言ったな」くらいの認識しかないのに対して、後者は「このシチュエーションでなぜ天気を聞くのだ」と、緊迫した状況との不和がより際立って見え、「意外感」は増幅され(る可能性があり)ます*3
 つまり、「意外感」のボケが前提としている「常識」「共通認識」が観衆に明瞭に共有されていればいるほど、笑いが起きやすいのです。

 別の例を考えてみましょう。例えば、大阪人が「北海道まで歩いていくわ!」と言った場合と、「奈良まで歩いていくわ!」と言った場合を比較します。後者だと、歩くというのは「共通認識」から外れてはいますが、完全に不可能であるとは言いきれませんね。これだと少し面白味は半減してしまいます。
 つまり、「意外感」のボケが前提としている「共通認識」からの距離が大きいほど、笑いが起きやすいのです。
 以上のことを、式として表すと以下の通りになります。

(意外感の大きさ) = (共通認識の明瞭さ) × (共通認識からの距離)

「意外感」の「共通認識」のギミックとしての補強――漫才における「フリオチ」

 このような理論的基盤を意識してかしないでかは分かりませんが、プロの漫才師の方々は「意外感」のボケをする際に、対象にしたい「共通認識」をより強く観客に意識させるための工夫をしています。それがいわゆる「フリオチ」の概念です。ここで話題にしたい「フリ」*4とは、後に来るボケのために、ツッコミが(影の協力者として)特定のフレーズを言ったり状況を設定したりすることであり、「オチ」はそれが実際に覆され(て観客に「意外感」を引き起こされ)ることです。
 抽象的に語っていても分かりにくいので、例えばM-1グランプリ2009のパンクブーブーの二本目のネタ「陶芸家の先生に弟子入りしたい」の一節を例にとって考えてみましょう。

黒瀬「こういうのは手をついて頼みこむもんだろ」
佐藤「(壁に手をつく仕草をしながら)お願いします、僕を…」
黒瀬「壁にじゃないよ、ゆーかーに!」

 これは非常に綺麗なフリオチです。黒瀬さんの「手をついて頼む」という言葉によって、「床に手をつく」と決して明言したわけではないですが、常識的な考え方(=共通認識)として、佐藤さんが土下座をして懇願する様子が観客全員の頭に浮かびます。しかしそれを、佐藤さんの壁に手をつく仕草によって覆す。つまり、フリというミスリードによって、気づかぬ間に観客の「共通認識の明瞭さ」が増大したわけですね。
 このフリオチの素晴らしいところはどこかというと、フリによって共通認識が観客のなかでほぼ単一に限定されるので、オチ(=裏切り)が分かりやすく、観客が「意外感」を抱きやすいということです。例えば先ほどの下りを、こういう風に改変(改悪)してみましょう

黒瀬「こういうのはちゃんと頼みこむもんだろ」
佐藤「(壁に手をつく仕草をしながら)お願いします、僕を…」
黒瀬「失礼だろ!」

 ボケの言葉は変わっていないのに、これで一気に台無しになります。「ちゃんと」の言葉では佐藤さんの頼みこむ様子は限定されず、その次のボケで覆される共通認識が明確にならないからですね。

終わりに

 本稿では、お笑いの構造分析の3尺度のうちの1つ、「意外感」について解説しました。そして「意外感」は観客の「共通認識の明瞭さ」と「共通認識からの距離」で決まることを説明し、それを「フリオチ」の概念に関連付けて考えていきました。次回は、2つめの尺度「納得感」について解説します。

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*1:桂枝雀. らくごDE枝雀. ちくま文庫, 第1版; 1993.

*2:なお、大急ぎで付け加えておきますが、彼の理論にはなくて私の理論にしかない部分もたくさんありますし、だからこその「『現代』お笑い概論」です。

*3:もちろん「177番が天気予報ということを知っていたとしても、『面白さ』は変わらない」という立場の「観客」もあり得ます。「全てのものを全ての人が同じように面白いと感じるとは限らない」という主観性の限界は、お笑い評論の永遠の課題です。私はその呪縛から、「自分が面白いと思ったものを、なぜ面白かったのか後から分析する」というスタンスで脱却を目指します。つまり、私の目標は「自分が面白いと思ったこれってこういう風に説明できるよね」という謂わば「主観の言語化」のところで留まっており、「客観的な、普遍的な、誰もが同意する」面白さの説明はそもそも目指していないためです。ゆえに、私の「主観」を投影させた、ある一つの可能性としての存在である漠然とした「観客」を登場させたとしても、本理論に支障は生じないと考えます。

*4:あまり指摘されていませんが、「フリ」という用語が表す意味にはざっくり分けて2種類あり、それらが区別されないままどちらも同等の頻度で使用されているのが現状です。具体的には、本稿でとりあげた、後で覆すために状況等を設定する「フリ」と、「覆す」ことを目的とせず、単に何か特定のボケを導くための決まったフレーズ等を指す「フリ」の2つです。