平成31年4月1日 第2回 アイドルが脱神格化された現代で、「虚構のリアル」を愛する

 アイドルは、かつてその言葉本来の意味通り、「偶像」でした。雲の上の存在。手の届かない存在。一般の人とは、そもそも存在論的意味から違う。だからこそ、山口百恵がマイクを置くことは、その偶像の死を意味しました。

 しかし現代では、アイドルに「会いに行」くことができます。テレビで放送されない「オフ」の場面でも常にカメラはまわされ、「何者でもない、ただのひとりの女の子」でしかなかった子たちが、「アイドル」(という得体のしれない何か)になっていく過程は全て記録されます。この前とある番組で乃木坂46高山一実さんが、「舞台裏などが映像コンテンツとして流れるので、理想のキャラを演じていてもすぐにバレる」と言っていましたが、やはりこの人はとても明晰な方だなと思いました(高山さんは奇しくも、山口百恵に憧れて芸能界に入ったそうです)。
 このように、アイドルは「脱神格化」されました。完璧な偶像としての存在が、不完全かつ未完成な存在で、その成長過程を追うというのが一般的なアイドル像になって、より本人の人間性や感情が問われるようになりました。だからアイドルファンは「わちゃわちゃ」(ライブの舞台裏でアイドル同士が仲良くしている姿)が好きだし、あるいは逆に誰と誰が不仲とかいう話を永遠にしています。そしてその不仲というのも、いつか「仲直り」して、それがまた感動の友情ストーリーとして昇華されます。
 つまり、現代のアイドルは、その生身の人間としての「生き様」を消費され続けているのです。

 ここまでは、少なくない人が(言葉を変えながらも)論じてきたような話です。ここからは、個人の経験を通じて、もう少し深いところまで見てみたいと思います。
 私は好きなアイドルは何組かいますが、一番はじめに好きになったのはももいろクローバーZでした。高校3年生のときに、文化祭でももクロを踊ることになった友人たちの練習のビデオ撮影を手伝わされているうちに、なんだかとてもいい曲だなと思うようになったのが出会いです(ちなみに、Z女戦争でした)。
 そこからYouTubeなどでちょこちょこ動画を観るようになったのですが、本格的にハマるようになったきっかけは、本屋でぶらぶらしていたときにたまたま読んだQuick Japanという雑誌の記事でした。その記事では、さわやかというライターの人たちが、ももクロのライブの裏側を克明にレポートしていました。様々な逆境を乗り越え、アイドルとして、一人間として成長していく様に、心を打ちぬかれました。小説にそんなことが書かれていても「なんだよその陳腐なサクセスストーリー」くらいにしか思わなかったであろうものが、いま、現実の話として、確かに存在している。彼女たちが今日もこの地球上のどこかで頑張っている。その事実に虜になり、私は雑誌のバックナンバーをさかのぼり、ももクロのライブレポートを初期のころからひたすら読み漁るようになります。そのときは、実際のライブ映像を見たこともないのに、その記事ばかり読んでいたのですから、かなり特殊なタイプのハマり方だったと自分でも思います。

 受験勉強中にも関わらず、国立競技場ライブのDVDを購入し観ることで、私のなかでいったん物語は「完結」してしまいます(少し逸れますが、あのライブにおける百田さんのスピーチは今まで聞いたあらゆるスピーチのなかでも5本の指に入るほど良いです)。私は次に、ももクロの妹分である私立恵比寿中学というアイドルを知ります。
 ももクロは、大人から与えられた試練を次々と乗り越えていくスーパーヒーローという感じなのですが、それと対照的に、エビ中はどこまでも普通の女の子、という感じです。どこか自信なさげで、どこか自己肯定感が低そうな彼女たちのモラトリアムを陰ながら見守る、そんな感覚を私は抱くようになります。私は、彼女たちが平和に生きられること、ただそれだけを願うのですが、私立恵比寿中学には、メンバーの度重なる脱退やひとりのメンバーの急死など、とにかく理不尽な不幸が襲い掛かります。スーパーヒーローでない彼女たちは、苦しみ、もがくのですが、それでも彼女たちなりの答えを探していきます。エビ中は、(彼女たちも含めて)人は誰でも「頑張ってる途中」なのだと語りかけ、「幸せの張り紙はいつも背中に」あるんだよと教えてくれます。そして、中学生設定を守る気なんて最早さらさらないのに、「熟女になっても」ずっと中学生を続けると嘯いて、私たちが歳をとるにつれて失っていく無邪気さのようなものを思い出させてくれます(以上好きな曲のタイトルからの引用でした)。

 私はこういうももクロエビ中像を抱いているのですが、とても現実的なことを言うと、それがどこまで「本当のこと」なのかは分かりません。雑誌の記事はある程度脚色されているだろうし、ドキュメンタリー映像も都合の悪いところはカットされているでしょう。
 でも、私はそれで別にいいんです。ももクロエビ中の「舞台裏」として提示されたものを、私はそのまま飲み込むつもりです。はじめから、「虚構としてのリアル」を愛そう、と心に決めているのですから。「本当のところ」なんていうものは、興味がないし、知りたくもないのです。
 いまや、アイドルのスキャンダル報道は日常的なものになってきました。「生身の人間」としてのアイドルのすべてを知りたいという欲求がエスカレートした結果、そのような興味が尽きないのだと思います。(先に書きましたが)「インタビューでは普段も仲良さそうに繕っているけど、実は不仲」みたいな話も、「裏側」のそのまた「裏側」を暴いてやりたいという気持ちからきているのだと思います。高山さんの言うように、ドキュメンタリー映像で「舞台裏」は流れますが、いまや消費者の欲望は、さらに「その先」、「ほんとのほんとのところ」までを求めているのです。
 でも、そんなこと知っても、何も幸せなことないじゃないですか。ただでさえ、現実世界は厄介で理不尽なことばかりなのに、どうしてわざわざアイドルを追ってまでそういう人間関係のごちゃごちゃを背負わないといけないんでしょうか。私はそんなの勘弁です。私はアイドルで世界平和を確認したいだけなんです。

 誰と誰が「本当は」不仲であろうと構いません。「実は裏では」どんなに性格の悪い奴だったとしても構いません。願うことは、エンターテインメントとして見える範囲では、私たちに(「アイドル」像、というと、今やあまりに多義的過ぎるので)「ももクロ」像「エビ中」像を私たちに提示し続けてくれることです。
 私は、「虚構のリアル」を楽しみたい、それだけなんです。
 自分のスタンスの歪さは自覚しているつもりですが、それがこの時代のアイドルの一つの楽しみ方なのかなと思っています。

2768文字
(計5249文字)