平成31年4月3日 第4回 「編む」と「殺す」の境目

 先月、知人に頼まれて、とある本の編集作業を手伝っていました。「手伝う」というより、有り難いことに私に与えてもらった裁量が大きく、ある程度文章が整理された(書きおこしそのままではない)会話調の原稿を、分かりやすい日本語に直したり、冗長な部分を削ったり、あるいは綺麗な流れになるように本全体の構成を変えたりなど、イチから本をつくっていくような感覚を味わうことができました。
 その作業をしながら思っていたことは、「あ、この作業、楽しい」というものでした。

 文章を何もない状態から生み出すというのはとても面倒くさく、大変で、できればやりたくないことです。私は文章を書くのはとても好きですが、それでも書き始めるときはひどく億劫な気持ちと闘うことになります。今も、一か月間は文章を書くんだと決心したのでこうやって継続していますが、毎日パソコンに向かうたびに、いつもブルーな気持ちになっています。重ね合わせるのは大変おこがましいですが、Twitterで出回っている画像で、宮崎駿さんが作業デスクに向かいながら「面倒くさい」を連呼する様子を見たことがありますが、こういう気持ちなのかなと勝手に想像しています。

 その点、編集というのは、ゼロから生み出す必要が全くないので、とても楽でした。何もないところから文書を絞り出すしんどさがあるのとないのとでは、天と地の違いです。より適切な日本語に直したり、分かりやすい流れを考えるということ自体はそれなりに得意だと思っていたので、作業量がいくら多くてもあまりストレスなくすいすいと作業を進められました。
 いや、ストレスがないどころか、もともとの流れでは離れていたところを「こことここは一緒の話じゃね?」とくっつけたり、「これをこの前に持ってきたらこの話が映えるんじゃないか」と組み替えてみたり、断片たちを編集によってうまくつないで一つの流れにしていく作業は、私にとってこの上ない快感でした。気持ちよく「整理」されていく様を見てひとり悦に入り、「もしかしてDJってこんな気持ちなんだろうか」と勝手な妄想もしていました。

 しかし、すべての作業を終えできあがった文章を見返したときに、私ははたと気付きました。私が「編集」したあとに残っていたのは、どことっても、××が書いた言葉、××が書いた文章、××が考えた構成――何から何まで××で溢れていたのです。私は罪悪感に襲われました。もとの原稿の、それぞれの登場人物が発した言葉の端々にのっていた人間性や、その人にしか話せない何かをうまく残せていたのかと言うと、私には自信がありませんでした。平田オリザが言うところの「冗長率」(一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない"無駄"な言葉が含まれているか)を極限までに低くすることを目指していましたが、それで良かったのか。「編集」という行為の名のもとで、元の文章を蹂躙してしまったような気分にさえなったのです。
 そして、「編集は楽だなあ」と舐めたような口をきいていた自分のことを深く恥じました。私は何も分かってていなかった。

 自己弁護するわけではありませんが一応言っておくと、編集作業はそのときの私にとってのベストを尽くしましたし、確実に内容がまとまって読みやすくなった自信はあります。その本の内容自体はとても面白いものに仕上がりましたし、是非とも期待していただきたいです。またご紹介します。
 ただ、私はこの経験を通じて、「編集」という行為において何を目指すべきなのかということがさっぱり分からなくなりました。文章を切って貼る過程でどうしても自分が顔を出してしまうのですが、それはどこまで許されるのでしょうか。あるいは、どこまで自分を出すべきなのでしょうか。一体、「編む」と「殺す」の境目はどこにあるのでしょうか。
 恐縮ですが、今回の話は現時点では自分のなかの結論は何も出ておりません。ただ、「編集哲学」のような本があれば読んでみたいな、良いものご存知ないですか、という皆さんへの問いかけです。

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