平成31年4月5日 第6回 財布落とした

 財布を落とした。つい昨日のことだ。
 昔から忘れ物や落し物がひどく、帽子・手袋・家の鍵・自転車の鍵・原付の鍵・学生証・通学定期・財布・iPad・北海道で買ってきたお土産ぜんぶ……大学に入ってからの4年間だけでも、ありとあらゆるものを紛失してきた。最近はマシになっていたのだが、このメモ帳を始めてからずーっと考え事をしながら毎日を過ごしているせいで、またやってしまった。
 このまま失うだけでは悔しいので、これに関することで何か書けないかと考えた結果、私の敬愛する打海文三という作家について語ろうと思う。

 中学生のころ、伊坂幸太郎がエッセイで紹介していたのがきっかけで打海文三を知った。
 彼の作品の虜になった理由はたくさんある。まずは文体。ひらがなと漢字のバランスが、やわらかくて強くてうつくしくて官能的で、好きだ。

「ぼくたちはみんなすこしずつ壊れてる」「そうね」帆木が唇に薄笑いをうかべて同意を示した。「わたしは生きてなにをしたのか。おまえたちみたいな屑を産んだ。それだけよ」——打海文三『愛と悔恨のカーニバル』

 パソコンで打ちこむときや、スマホフリック入力するとき、私たちが何も考えなくても、向こうが勝手に漢字に変換してくれるのが今の時代だ。この言葉はひらがなか漢字どちらで書こうかなどどと迷う間もなく、知らない・書けない漢字でも自分の文章として書くことができる。ときには、予測変換をぽん、ぽん、ぽん、とタップしてさえいれば、かんたんに文章ができあがる(それは自分が「書いた」のか、あるいは「書いてもらった」のか?)。

「この度は」「宜しく」「お願い」「致します」「。」 予測された誠意を送る
 (××××/雑誌に応募してみたけど落選した短歌)

 便利さと引き換えに、言葉はぞんざいに扱われていく。手書きの時代がよかった、なんて懐古的に説教臭く言うつもりはさすがにないけれど、少なくとも私は、文章を書くときに信念をもってひらがなにしている言葉がいくつかある。それは確実に、打海文三に教えられた大事なことだ。

 あと、当時尻の青い中学生だった私にとって、彼は大人の世界を見せてくれる存在だった。登場人物は皆、思ってることをそのまま言わないし、やりたいことをそのままやらないし、損か得かを入念に天秤にかけたうえで損を選んだりする。大人って、回りくどくて、複雑で、素直じゃなくて、めんどくさいんだなと生意気にも思っていた。

「なぜ話してくれた」武井はきいた。エルはきっと顔をあげた。「あなたが嫌いだから」「意味がわからない」「あたしの人生を、あれこれ勝手に想像されるのは、我慢できません」「なるほど」――打海文三『兇眼』

 今はというと、大人の世界に片足をつっこみながら、あれってこういうことだったんだな、と、これまた生意気に分かったような口をきいている。

 いちばん好きな作品を教えてくれと言われれば、私は何の迷いもなく『ドリーミング・オブ・ホーム&マザー』を選ぶ。今挙げた打海文三のエッセンスが凝縮しているのはもちろんだが、作家の小川満利花という登場人物が、打海文三という人そのものの投影なのではないかと勝手に思っているのもある。「愛についての可能性を語らない」ところなどがまさしくそうなのだ。
 そして私は、この小説に出てくる一節を生涯大切に心に留めておこうと思っている。

「すでに起きてしまったことに気づく。そのくり返しが人生」——打海文三『ドリーミング・オブ・ホーム&マザー』

  これ以上は説明も何もしたくない言葉である。この文字列が語ってくれる内容は、この文字列としてでしか存在しえない。昔、この言葉が好き過ぎて英語スピーチのメインメッセージに据えたこともあったが、今から思えばあれは野暮だったような気がしてくる。

 ようやく話は最初に戻って、財布を落としたからと言ってなぜ打海文三の話をし始めたのか、の説明をしなければならない。それはひとえにこのようなフレーズを思いついたからに過ぎない。

「すでに落としてしまったことに気づく。そのくり返しが人生」

 財布を落とす。でもそれを落とすときには絶対に気付かなくて、知ることができるのは「すでに落としてしまったということ」だけ。私はその事実を引き受ける覚悟を決めなければならない。それを何度も何度も繰り返すのが人生というものなのだ。

 ちゃんとした常識人ならそんなに大事なものは失くさない、ましてや繰り返すなどあり得ないと誰かに言われたら、それに反論の余地は全くないことくらいは自覚している。

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