平成31年4月9日 第10回 あの夏の日は、まちがいなく、エモかった

 昨年の夏のことです。私は所属する医学部ESSの大会のため、神戸に滞在していました。ちょうどその大会の期間が、神戸港で行われる打ち上げ花火の開催時期と被っていたので、同じスピーチセクションの上回生たちで話し合い、現地まで観に行くことはかないませんが、大会会場の近くにある公園の高台から花火を皆で楽しもうじゃないかということで盛り上がりました。
 集合時間を決め、いったん解散になりました。私は×××××××××××ので、そこへいったん戻り、時間になるのを待ってから家を出て、ひとりで歩いて公園に向かいました。一年でいちばん大きな大会というお祭り気分のなかで、大学の仲間たちと一緒に花火を観るなんて、なんか青春してるなと嬉しくなってきました。荷物も何も持っていない僕は身軽でした。柄にもなく少しスキップしてみたりしました。暗闇で誰も見えないのを良いことにニヤニヤしていました。そして今でも忘れられないのは、そのときつけていたイヤホンから私の耳に流れてきたのが、フジファブリックの『若者のすべて』という曲だったことです。夏の終わりの花火を描いたその歌詞は、その瞬間にこの上なくぴったりでした。そして、その『若者のすべて』という曲のタイトルを、なるほど、もしかしてこれは今の自分たちのことなんだな、と自惚れるだけの若さを私は生きていていました。
 そのとき、私は心の底から思いました。「ああ、なんてエモいんだ」と。

 さて、皆さんは「エモい」という言葉をそもそもご存知でしょうか? 「エモい」は、感情的な様や情緒的な様を意味する「emotional(エモーショナル)」の略と言われています。この前Twitterで「『エモい』は『えも言われぬ』の『えも』から来ているんだ」という(嘘の)ツイートがバズっていたように、「色んなものがこみ上げてきて何とも言えない感情になる」というようなニュアンスで使われることが多い印象です。
 このような若者言葉は得てして、「語彙力貧弱だ」と批判されますが、私はそうは思いません。むしろとても雄弁で、素敵な言葉だと思っています。

 なんというか、感情を表す言葉としての鋭利さがあると思うんですよね。「感情が揺り動かされる」とか「感慨深い」とか「懐かしい」とか「切ない」とか「よい」とか、何かよく分からないけど色んな複雑な感情が一気に胸の中に湧き上がってくることってあるじゃないですか。その辺りの感情を、グダグダ言わずに、ただ「エモい」の一言でぎゅっと凝縮できることに魅力を感じます。とある知人が、「リンゴとかオレンジとか列挙せずに『ミックスジュース』って言えるスマートさがある」と評していたのですが、言い得て妙だなと思いました。
 逆に、「深い」とかはあまり好きじゃありません。私にとっての「深い」って、「よく分からないけど、とりあえず意味がありそうだし、『深い』って言っとくか」という印象です。先ほどの喩えを引用すると、「中に入ってる果物が何なのかはさっぱり分からないけど、とりあえず『ミックスジュース』って言っておけば間違いはないやろ」っていういい加減さ、粗雑さを感じます。
 そう考えると、より詳細な言葉で換言可能なうえで、シンプルに言えるかどうかが私のなかで鍵になっているなのかなと思います。

 もちろん、こういうはっきりとしたコンセンサスを得られていない言葉について、良いとか悪いとか言うのは、単に私自身がその言葉にどういう文脈をみているのかということの表れでしかありません。今までのはすべて、とても自分本位な論の進め方だというのは重々承知しています。その意味で、コミュニケーションにおいて使うのには十分注意するべきでしょう。「エモい」のニュアンスを同じように共有できている相手でないと、「自分の思いを言語を用いて相手に伝える」というコミュニケーションの目的は全く達成されない、不誠実な表現であると言えます。

 そのことを踏まえてなお、自分のなかで自分の感情に名前を与えるという自己完結な世界においてだけでも、「エモい」という言葉の与える影響は偉大だと思っています。
 なぜなら、「エモい」という言葉を知る前に、私が今「エモい」と表現している感情を抱いたとき、そのときの自分がどういう言葉を使っていたのか、もう既に思い出せないんですよね。少し回りくどい表現になりましたが、要は、イヤホンから『若者のすべて』が流れ出してきたときに、もし「エモい」という単語を知らなかったら言っていたはずの言葉が全く想像つかない、ということです。何か色んな言葉をダラダラ並べ立てていたかもしれないし、若干ニュアンスの違う言葉で仕方なく表現していたかもしれない(私が古人だったら、「をかし」とか「あはれ」だったかもしれないですけど)。
 それくらい、私にとっての「エモい」は、あの状況にピッタリで交換不可能な表現だったのです。この言葉のおかげで今の私には、あのとき感じた「エモさ」が、他の似たような何かではなく、そっくりそのまま保存されているのだと思います。もし「感慨深いなあ」とか言ってたら、あのとき抱いた感情も今は違う色に変色していたんじゃないかなあと。だから、私はこの言葉をつくってくれた人に感謝しています。

 【第5回 愛か恋かゲーム】で説明したように、言葉というのは、それによって意味を輪郭で囲うということです。それにならうと、新しい言葉というのはすなわち新しい輪郭をつくることになります。だから新語がある程度一般に膾炙するということは、その輪郭の、今まで誰もしてこなかった新しい囲い方に一定数以上の人が納得できるものだったということを示しています。私はその新しい囲い方を考えた人に最大限の敬意を表したいです。
 SNSが高度に発達し、新しい言葉が発明されては捨てられるというサイクルが何倍・何十倍にも加速している今、新語をどのように捉えるかというのはとても難しい話ですが、「言語は生き物」ということを忘れずに、そのときの自分の感情・考えを最適に表せる言葉を常に選び続けられる人でありたいなあと思います。

蛇足
 我田引水的にまたお笑いの話をちょこっとだけしておくと、「クセがすごい」も本当に大きな発明だと思うんですよね。「クセがすごい」という言葉以前に、今「クセがすごい」とツッコまれている状況に出会ったとき、人々が何と表していたのかさっぱり分かりません。お笑いの世界でも、そういう言葉の発明はめまぐるしいスピードで行われています。

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