平成31年4月22日 第23回 言葉のウチとソト

 少し前に読んだ牧野成一『日本を翻訳するということ』(中公新書)に出てきた、「ウチ」と「ソト」という概念がとても印象に残っています。一連のエッセイのなかでも、実はウチとソトという単語を何度か使っているのですが、牧野のそれを意識して登場させていたのでした。
 ただ、本稿を書くにあたってサーチしてみると、「ウチ・ソト」という概念を文化の解釈にまで拡大することには疑問符がついている*1ようなので、あくまで日本語文法の解釈・説明における「ウチ・ソト」という概念について扱うことにします。

 『日本を翻訳するということ』という本では「ウチ・ソト」概念の明確な定義は示されていませんが、いちばん分かりやすい記述は以下の通りです。

交替が起こる場合のコミュニケーションの矛先は、ソト形の場合は聞き手(あるいは読み手)向きで、ウチ形の場合は自分向けです。

  そのように意識がウチに向くのかソトに向くのかによって、使われる日本語が変わるというのが牧野の基本的主張なのですが、今回はそのなかでも「ですます」と「である」に注目したいと思います。以下は、とある雑誌において、「家庭の味」をテーマに行われた座談会の記事からの抜粋です。

①うちでは、おふくろがお饅頭をふかしたり、柏餅を作っていたし、味噌や醤油は村で共同で作るんですよ。②またお客さんが来ますと、おやじがそばを打つ。③そして必ずその日には、鶏が一羽いなくなる。④あれはうちのおやじのごちそうだったんですね。

  「ですます」(敬体)と「である」調(常体)が交替して現れていますね。それぞれ、どのようなタイミングでどちらが使われているのか、その特徴は分かりますか?

 端的に言うと、「ですます」が他者を意識したソト形であり、「である」が内的な思考のウチ形になります。以下が、牧野成一の解説です。

上の男性発話者は自分の家族の料理のことを話していて、①の文では座談会の他の人たちにソト形を使って直接話をしています。それに対して、②と③の分では生前の父親が繰り返していた下準備のなつかしいイメージを独り言的にウチ形を使って語っています。三人の聞き手をまるで無視するかのように自分の心の中に深く刻まれている記憶をそのままウチ形を使ってウチ向きに表現しているのです。④では、はっと目が覚めたかのように、コミュニケーションの矛先を切り替えて、ソト形にしています。

  もし自分がですます調で書いた文章があれば、ぜひ見返してみて欲しいです。この説明通りに、ですますとであるを使い分けているはずです。

 どうしてこんな話をしたのかというと、私が××××××を書くときに心がけていることに通じるからです。この一連のエッセイを書き始める際に、私は、基本的にはすべてですます調で書こうと決めていました。
 それは、そもそもなぜ日記ではなくFacebookに投稿しているのか、というところにつながります。それは、他者に伝えることを意識することで、自分の頭の中のものを言語化して輪郭を与える努力を怠らないようにするためです(日記だったら、自己完結が許されてしまう)。だからソト形である敬体を選択すべきだと考えました。
 ただ、すべてですます調で書こうとしていると、どうしても書きにくいテーマが出てきました。それはやはり、内省的な側面の強いものや、自分が体験したときに感じたことを描写するものなど、ウチ向きの思考にあたる内容でした。牧野の主張が正しいことを今回身をもって学びました。
 なので、このような理由で、【第3回 透明人間にはなれない】【第6回 財布落とした】【第13回 財布見つからない】【第16回 じぶんという輪郭】【第20回 財布見つかった】【第21回 死にたくない】については、である調で書かせていただきました。その場の気分で敬体か常体か決めていたわけではなくて、一応そういう考えがあって使い分けていた、というお話です。
 皆さんも、文章を書くときにですます調とである調にするのか、目的によって考えてみてはいかがでしょうか。

1727文字
(計50758文字)

*1:前田均.(2002).牧野成一の『ウチとソトの言語文化学』への疑問.外国語教育,(28),1-12.