平成31年4月23日 第24回 ヒッピーおじさん

 このあいだ、バーに行ったら、ヒッピーみたいなおじさんに会った。

 行きつけのバーの入り口はちょうど人の体の横幅くらいで、とても狭い。入り口を入って細長い廊下を抜けると、今度は横長に6畳くらいのスペースで店内が広がっている。向かって左半分はカウンター席が6つぎゅうぎゅうに並んでいて、右半分はテーブルとソファーがこれまた窮屈そうに置いてある。店の壁は、店主のアツミさんが好きな横山剣のポスターで埋め尽くされていて、いつも流れているファンキーな音楽も、私は知らないがたぶんクレイジーケンバンドなのだと思う。このアツミさん、30代後半くらいの子持ちの主婦なのだが、誰に対しても愛想がよく、でも媚び過ぎることなく、返ってくる答えに一本芯が通っているのが伝わってくる、とても魅力的な方だ。このアツミさんと話したいがために通っている節もある。

 その日は店が盛況だった。カウンター席が一席しか空いていないのが入り口を入った時点で見えていたのだが、私は正直行くかどうか躊躇った。なぜなら、細長い廊下から見えるもう一つの席に座っているおじさんが、背中からすでに分かるほど異様な雰囲気を放っていたからだ。そのおじさんはヒッピーみたいな民族衣装を着て、スポーツ用サングラスをかけ、カウンターの他の客と大きな声で話していた。話したことない人と話すためにバーに行くのだと【第13回 財布見つからない】で書いたが、さすがにそれは強烈すぎた。しかし、入り口にいる私に気が付いたアツミさんが「いらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれたので、もう入るしかなかった。私はそのおじさんの隣に座った。
 おじさんの右隣のカウンター席にも男性が二人座っていたが、おじさんは完全に体を左に傾け、私の左に座っている二人に話しかけていた。片方は私と同世代くらいで化粧が派手だが美人な女性(黒い帽子を被っていたいたので、黒帽と呼ぶ)で、他方は40代くらいの洗練された身なりでお金を持ってそうなおじさん(いけすかない髭の生やし方をしていたので、髭と呼ぶ)だった。黒帽はときおり敬語が混ざりながらも髭に甘えるような口調で話していて、髭はというと事あるたびにさりげなくボディタッチをしていた。二人で今京都旅行に来ているとのことだったが、こちらはこちらでどういう関係性なのかが気になった。
 二人はヒッピーおじさんの話を楽しそうに聞いていた。その間を割って入るのは何とも居心地が悪かった。隣に座ってみて分かったが、ヒッピーおじさんは、70代後半くらいのむしろおじいさんで、民族衣装の下にはなぜかスポーツレギンスを履いていた。あまりにも不調和であるという意味では調和しているなと思った。
 バーでは、新しい客が来たからといって会話が止まるわけではない。ヒッピーおじさんは、京都と東京のゲイバー事情の違いを二人に話していた。文字おこしするのが憚られるエピソードの応酬で、掘る・掘られるという単語が飛び交っていた。彼自身もバイセクシャルなのだそうだ。性に開放的であるという意味で、身なりだけじゃなくて生き方までヒッピーぽいんだなと思いながら聞いていた。
 もう別に今日は会話に入らなくていいや、このまま話を聞いてお酒を一杯飲んだら出ていこうと考えていたら、髭が私を会話に引きずり込んできた。
「ジュリーさん、そんな会話したら急に入ってきたこの男の子可哀想だよ、びっくりしちゃうじゃん」
 めちゃくちゃ余計なお世話だった。私は会話に入らざるを得なくなる。
「いや、全然大丈夫です、面白いと思って聞いていました」
 刹那、会話が止まる。もっと面白い返答を期待していたのか、ヒッピーおじさん(ジュリーさん)が興味なさげに日本酒をすする。こういうときの気の利いた返しの正解って何なんだろうか。

 率直に言うと、そのとき私は、ジュリーさんのことを自分とは一生交わらない違う世界の人だとみなしていた。その話の内容だけでなく、個性的なファッションや、気圧されるような強い語り口も相まって、私は完全に引いてしまっていた。全てが〈向こう側〉の世界だった。もしかしたらバーで色んな男に話しかけて揉め事起こすやばいタイプの人かなと思っていたのだが、アツミさんが注文を聞くときに「ジュリーさん、また新しい男見つけたんですか~?」と常連への接し方で親しげに話していたので、そうではないと分かった。
 ジュリーさんの話は、映画館で映画を観ていたら男に迫られたときのエピソードに移っていた。ますます自分にとっては<向こう側>の話だった。黒帽は「へえ~」と適当な相槌を打って聞いていたが、髭が話に割って入ってきた。
「それ分かりますよ、僕も若いころ、映画館に行ったときね……」
 この話に共感可能性があったことに驚いた。ジュリーさんと髭の会話はあるあるで盛り上がっていく。黒帽まで同調し始めた。
 ジュリーさんが<向こう側>の異世界の人で、他の三人は<こちら側>だと思っていたのに、私だけが<こちら側>に取り残された。こうなってしまうと、私が彼らにとっての<向こう側>である。<向こう側>と<こちら側>がない交ぜになり、よく分からなくなった。
 ジュリーさんは何度か私にも話を振ってくれていたのだが、そのたびに冴えない返しをしてると、ぽつりとこう言われた。
「君さ、普通過ぎてつまんないよ」
 俺が普通過ぎるのが悪いのか?……真剣に自分に問いかけた。

 ジュリーさん、あんたみたいな奴に出会えて最高だったよ、という言葉を残して、髭と黒帽の女が帰っていった。いつの間にか右隣の男たちも帰っていて、店内は私とジュリーさん二人だけになった。話し相手がいなくなったジュリーさんは、静かに飲んでいた。そのタイミングでちょうど私が飲んでいたハイネケンのビールがなくなった。帰るかどうか迷ったが、さっきの狂騒とは打って変わった今の雰囲気なら何か話せるかもしれないと思い、私は追加でギムレットを注文した。
 ちらと横を見ると、ジュリーさんがピンク色のデジカメを取り出して覗きこんでいた。
「ジュリーさんは、カメラとかお好きなんですか?」
 勇気を出して問いかけてみた。
「こうやって、色んな場所で出会った人と写真に撮るのが好きなのよ」
 そう言って、ジュリーさんは鞄の中から小さなアルバムをいくつも取り出して見せてくれた。そこにはバーや派手なクラブで出会った様々な人と写真におさまるジュリーさんがいた。どれもとても嬉しそうだった。なかには目を思わず覆うような写真も混ざってはいたが。
 ひとつ、気になる写真があった。30代くらいの男性と女性、そしてジュリーさんが家の中だと思われる場所で撮った写真だ。
「これ、誰なんですか?」
「ああ、これは、息子と娘だよ」
 ジュリーさんがきちんとした家庭を持っているのも意外だったが、さらに重ねて言った言葉に私は驚いた。
「この息子、××出身なんだよ」
 何たる偶然。私も××大学なんですよという言葉が喉元まで出てくるが、すんでのところで飲みこむ。
「そうなんですね。立派に育てられたんですね」
「まあな。俺ももともと××出身だから、嬉しかったよ」
 今度こそ、心底驚いた。自分とは全く違う世界の住人だと思っていた人間が、今自分と同じ大学の出身だというのだ。<向こう側>だと思っていた地平がぐっとこちらに近づいてきて、そのスピードに酔ってしまいそうになる。彼をどう位置づけていいか分からず困惑する。
 私が黙っていると、ぽつりぽつりとジュリーさんは身の上話を始めた。
「俺、もともと××で哲学を専攻してたんだけど。『生きる意味』がどんどん分からなくなっていって、毎日落ちこんでて、自殺する一歩手前までいったんだよ。結局、生きることの究極の目的なんて無いんじゃないのかって、何度も自分に問いかけてた。そんなとき、たまたま悪い友達にゲイバーに連れていかれて。そこで、俺は目覚めたんだ。自分の当り前が覆ったんだ。生きる意味とか考えてたけど、俺はこの快楽のためだけに生きようって思った。そっから今みたいな生活が始まったんだ」
 単なる性に開放的な男性だと思っていたのが、少し印象が変わった。快楽のためだけに生きるというのは、自分は共感しないしそうしようとは思わないが、ある意味で徹底していると思った。
「ジュリーさん、色々苦労してきたんだもんね」
 とアツミさんが付け加える。ジュリーさんはちょっと微笑みながらうなずく。さっきまでとは別人のようだった。
 人生の大先輩に何か相談してみたら、とアツミさんに言われたので、私は悩んだ挙句、自己否定感が強くて悩んでいるんです、と言った。するとジュリーさんは、それは難しい問題だよなあと言って、考え始めてくれた。もっとあっけらかんとした返事を想定していたので、意外ときちっと考えてくれるんだと思った。また<向こう側>がこちらに近づく。
 そのあと色々話してくれたのだが、うまく理解ができていなかったのと、夜も更けてだんだん疲れていたのとで、とりあえず「なるほど」と答えていたら、「思ってないだろ」と言われた。何から何まで見透かされていた。

 ジュリーさんがお会計を済ませたあと、「一緒に写真を撮ろう」と言われた。肩をがっつりと組んでアツミさんに撮ってもらった。デジカメの写真を確認しながら、こういうことするのが幸せなんだ、と呟いていた。本当に幸せそうに見えたので、「そういう楽しみがあるとずっと健康でいれますよね」と私が言うと、ジュリーさんは嬉しそうに答えた。
「そうなんだよ。私の今の健康のモチベーションは、こうやって飲み屋で出会った人と写真を撮ることと、あとはテッペーくんを待つこと」
「テッペーくんって誰ですか?」
「俺の彼氏で、30歳なんだけど。今××寺ってところで、修行してるんだ。それを始める前に俺に、『今から3年間修行してきます、立派な男になって帰ってくるんで必ず待っておいてください』って言われたのが、嬉しくてさ。だから3年後までちゃんと健康でいなきゃいけないっていうのが、俺の今の生きがい」
 どういうジャンルの話なんだと思った。情報量の多いエピソードだった。
 ジュリーさんは私の肩を叩いて、しっかり生きろよ、まだまだ若いんだから、と言い残して帰っていった。

 皆帰ってしまって客が私一人だけになった店内で、ジュリーさんとの会話を聞いていたのかどうかは分からないが、アツミさんがグラスを磨きながら、ぽつりと「人にすがるんじゃなくて、自分にすがらなあかんよ」と言ったのが、なぜだか強く心に残っている。

4259文字
(計55017文字)