平成31年4月27日 第28回 外面、内面、イスラーム

 褒められるのが極度に苦手です。一時期、服を褒められたとき、「これ、全部道で拾ってきたやつなんですよ!」いう意味不明の返し方をしていました。そういう表面的なものはまだいいのですが、自分の人間性について褒められると特に困ります。後輩から尊敬の言葉を伝えられでもすると居心地が悪く、たちまち逃げ出したくなります。大勢の人の前で色紙をもらうとき、どんな顔をしたらいいのか未だに正解が分かっていません。
 その理由は、照れも確かにあるのですが、むしろそういうときに私の心のなかにあるのは罪悪感です。「あー、自分って本当はそんな良い人間じゃないのにな、騙してしまって申し訳ないな」といつも考えています。「良い先輩」みたいな虚像としての自分と、実像たる自分とのジレンマで大変くるしい思いをするのです。
 なぜ自分がそうなってしまったのかを考えると、昔から家で「お前は外面が良いだけだ」と言わることがよくあったことが影響しているかもしません。自分がどれだけ家族に支えられているのか何も分かっていなかった中高生のころは特に、家で不遜な態度をとることも多く、「外面(そとづら)を良くできていると思っているかもしれないけど、そういう内面(うちづら)のボロはいつか出るぞ」と忠告されていました。最近はそう言われることもなくなりましたが、その言葉自体は楔のように私の心に残り続けて、「外面」と「内面」の乖離というのが自分にとって大きなテーマになっていきました。今でも、ひとに「優しい」と言ってもらっても、いや、むしろ言われれば言われるほど、「自分は『本当は』そんな立派な人間じゃないから」「相手のためを思ってやったわけじゃなくて、自分が良い人だと思われたいっていう自己中心的な目的からやったんだ」という思いに必ず苛まれています。

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 あるとき、上述のような話を親友のNにすると、彼は一冊の本を教えてくれました。それは、中田考の『イスラーム 生と死と聖戦』というイスラームの入門書的な本でした。

イスラーム社会はプライバシーを重んじる。心のなかは人間同士では誰にも分からない。神にしか分からないから、誰も内面には干渉してはいけない。

  Nが引用したのはこの一節でした。Nは「この考えが個人的にとてもしっくりきているんだ」と言っていましたが、確かに私も良いなと思いました。
 彼の言葉を借りて説明しますが、この考えに従うならば、「客観的に何をしたのか」という観察できる態度や行動だけが重要になります。それによって、「席を譲るときは『本当に』お婆さんのことを思っていなくてはいけない」とか、僕の例だと「後輩に何かしてあげるときには『本当に』相手のことを思っての行為でなければならない」とか、そういう内心重視の考え方は相対化されるのです。Nは「この考えを知って以降、自分が何かをする時の『動機』についてあまり真剣に考えなくなった」と語っていました。

 ――人間の心というのは複雑なものです。例えばの話ですが、金儲け主義で知られるビジネスマンが医療界に参入したとして、「あれは金儲けのためだ」「『本当に』医療が良くなって欲しいと思ってないだろう」と批判する人がいます。しかし、仮に人の心を完璧に読める機械が存在したとして、その人の心が「完全に100%金儲けのためだけ」ということがあるのでしょうか? 30%か、3%か、0.3%か、その割合は知りませんが、少しは「社会のために役立ちたい」という気持ちがあるのではないでしょうか(と、考えるのは楽観的に過ぎるのでしょうか)。利己的な理由と利他的な理由、それはゼロイチではなく、グラデーションで存在していて、それは私たちも同じなのではないかと。私も今医学部にいて、人の役に立ちたいと思っていますが、その一方で、自分の利益のことも少なからず考えています。そんな自分が、他の誰かをつかまえて「お前、利己的だな」と言うことは決してできないです。だから、基本的には「何をしたか」で評価すべきであると思っています。

 これ、実は3年ほど前に、他ならぬ私が医療ビジネスについて書いた文章です。Nのイスラームの話を聞いて思い出したのですが、まさしくという内容です。自分にはもともとこういう考えもあったのでした。なのにそれが、(【第7回 辺縁を歩くためには芯が要る】でも自分が医師になる動機について書きましたが)自分の内面となると適用されていないというところに、今、不思議さを感じています。

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 ここで改めて人の内面という話を考えてみると、もしかしたら私は、どこかに"完全無欠の、無私、利他的、ハイパー優しい人間"が存在すると思っていたのかもしれません。だから「この人のために何かしたいな」という気持ちがありつつも、「こうやったらよく思われる」と小狡いことを考える自分は、「優しい人」ではないと思っていました。
 でも、そんな「優しい人」って本当にいるのでしょうか。私の知ってるあの「優しい人」も、もしかしたら心のなかでは私と同じような考えがあったかもしれない。じゃあだからといって、私の思う「優しい人」にしてもらったことが無になるかというと、そうではない。いや、そりゃ、中には本当に「優しい人」もいるかもしれません。でも結局、イスラームの考えが教えてくれるように、それは誰にも計り知ることができない。

 もしかしたら、皆そんなことは当たり前に知っていたんですかね。自分の「内面」にそういう部分があるかもしれないと分かりながらも、それでも、その人に見せた私の「外面」を正面から受け止めて、自分のことを褒めてくれていたのかもしれません。もしそうだとしたら、私はそういう人たちのことを無下にしてきたのだと気が付きました。もっと言うと、私は「ハイパー優しい人間」だと思われていると勝手に自惚れていたわけです。

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 この文章、実は、2ブロック目までは4月の初旬に既に書いていたのですが、色々思うところがあってFacebookに出さずに温めていて、「ここで改めて~」のところから今朝書きました。この1か月、書くことを通じて自分と向き合ってきて、かなり考え方が変わってきたのを実感しています。
さて、じゃあこれから自分はどう生きていくのか、それについては最終回で書こうかなと思います。

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