平成31年4月28日 第29回 いじりといじめ――「虚構のリアル」という共犯関係をめぐって

 私は、基本的には自分が「いじられキャラ」だと思っています。
 最初は自分から望んだわけではなく、むしろ完璧人間になりたかったのですが、現実は何をやってもボロが出てしまう人間で、気が付いたらそうなっていました。でも、自分のハードルを下げておけば何かと楽だし、後輩にも気を遣われずに済みます。自分で面白いことを言うより誰かの言葉にどう返すか考えるほうが性に合ってるし、そもそも「いじられ」ているのが嫌いではありません。また、私にとって本当に嫌なことは言わないという点について周りの人を信頼もしています。だから、「いじられキャラ」である自分の現状に満足しています。

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 以前からありましたが、最近ますますよく聞くようになったのが「いじり」と「いじめ」の境界がどこにあるのかという議論です。難しい問題ですが、私は「虚構のリアル」が成立しているかどうかというスタンスをとってきました。
 この「虚構のリアル」という言葉は、【第2回 アイドルが脱神格化された現代で、「虚構のリアル」を愛する】で使用した私の造語ですが、改めて正確に定義すると、
(a)もともと虚構であるものが、「リアルなもの」として提示されている
(b)本当にリアルだと信じこんでいるわけでなくても、受け手側もそれを「リアルなもの」として引き受けている
 という状態のことでした*1
 たとえば芸人さんが他の芸人を「いじる」ような発言があっても、あくまでそれはお笑いであって、本当に貶めようと思っているわけではないし、言われる側のほうの芸人もそれは分かっている。これが彼らのよく言う論理で、「おいしい」というような表現が象徴的です。もしその暴力性がもともと虚構でないとしたら、それは倫理的に許容されることではなく、お笑いとして成立しません。逆に、「その悪口、本気じゃないこと知ってますよ」と言ってしまってはその場が冷める。だからテレビの中の「いじる-いじられる」の関係は虚構のリアルを引き受けていると言えます。

 このように、「いじる」側の意識、「いじられる」側の意識、その両方が協力し合わないと虚構のリアルは生まれません。その意味で、虚構のリアルは共犯関係だと言えます。

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 「笑いをとる」という絶対的目標のもとに共犯関係であることが自明の前提である芸人さんどうしならば、(「それが第三者にどう見えるか」という問題はさておき*2)少なくとも当事者間においては虚構のリアルが成立していると言い切ることができます。しかし、日常生活となるとそれはたちまち難しくなってきます。
 こういうことについて考えるようになったのは、一年ほど前にRTでまわってきたツイートがきっかけです。少し長いですが、そのまま引用します。このツイートの主は『ボクらの時代』というトーク番組をたまたま観ていたようです。

Q)ボクらの時代。ハリセンボンの近藤春菜が「小学生の頃、ブタ!と呼ばれたときに傷ついていないように見せかけてリアクションしたら笑いが起こった。それが自分の原点」という内容の話をしてて辛かった。他者の容姿を嘲るという小学生の教室と同レベルの笑いを大人たちがTVで繰り広げている異常さ。
「ブタと呼ばれたことで自分がシュンとなったらクラス中が悲しい雰囲気になる。変な空気にならずに笑いになることが一番平和というか」
侮辱的な言葉を投げかけられた小学生の女の子が自分の気持ちよりも周りの空気を優先させる。誰も傷ついていないという見せかけの平和の為に自分が犠牲になる。辛い(UQ

 芸人さんの深夜ラジオが好きだという話を【第27回 人の痛みを慮る: TとNの対話篇】でしました。そのラジオで扱われる主題の多くは、「コンプレックスを笑いに昇華する」ことです。どんなに酷いことを言われても、どんなに酷い目にあっても、最後には、笑いで跳ね飛ばす。それが正義で、とても格好いいことだと思っていました。そういうお笑い文化にどっぷり浸かってきた自分にとってこのツイートの内容はあまりにショッキングで、でも同時にあまりに真っ当なことを言っていて、その瞬間、私は無自覚な「お笑い好き」ではなくなりました。いじりといじめの違いって何なんだろうと考え始めました。

 近藤さんの例がなぜ「見せかけの平和」なのかというと、それは私の言葉を使えば「虚構のリアルの成立要件を満たしていない」ということになります。なぜなら、定義(a)において、「いじり」側はもともと虚構であることが前提になっていますが、近藤さんの例では、当初同級生は「ブタ!」という言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていたはずだからです。近藤さんがそれにお笑いとしての解釈を与えたから笑いになっただけで、本質的にはただの「いじめ」です。
 つまり近藤さんは「いじり」を笑いに変えた、ではなくて、そもそも「いじめ」であるものを「いじり」かのように見かけ上の意味を変質させた、ということです。しかし同時にその近藤さんの言動によって、逆転的に同級生の悪口には虚構性を帯び始めて、「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることを可能にもさせます(彼らも、見せかけの「虚構のリアル」が成立しているかのようになったことで、罪悪感も軽くなったのではないでしょうか)。

 私の言葉で端的に言うと、「共犯関係」ではなく、「いじられる側」が共犯「させられている」のです。

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 ただ、この問題をさらに難しくさせているのは、近藤さん本人に「させられている」という意識が希薄であるということです。むしろ近藤さんがこの話を自分のポジティヴなエピソードとして話していたことからも分かるように、「自分が輝ける役割、本当の自分の価値を発見した」と思っている可能性のほうが高いでしょう。私は無類のお笑い好きですが、どれだけ贔屓目に見ても、それは歪んだ解決法だと思います。
 そう考えると、私は「いじられキャラ」だと思っていますが、気付いていないだけで、周りの人が自分を傷つけようと思って言っている可能性というのは否定できません。力関係の不均衡や悪意が存在するのに、私は「いじられキャラ」で愛されているなあと呑気に考えているだけかもしれません(自分は「いじらせてやってる」くらいに思っているのですが……)。

 近藤さんや私のこの辺りの無自覚さというのは、やはり、お笑いカルチャーに幼い頃から染まってきたということが大きく影響していると思います。
 上述のツイートには続きがあります。

自分さえ耐えればその場の「平和」は保たれる。傷ついたこと、辛かったこと、意に反していたことを告発すれば厄介者扱いされる。被害を受けた側が自分を押し殺す。
社会の至る所で見かける歪な構造。その再生産にTVが加担しているのは間違いないと思う。

 これについて考えるのは、【第30回 バラエティ番組はいじめを助長するか】に持ち越します。

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(計69580文字)

*1:今書いていて思いましたが、こういう概念って、誰かが違う言葉で既に使ってそうですよね。

*2:この「第三者にどう見えるか」という問題についても次回で論じます。