平成31年4月29日 第30回 バラエティ番組はいじめを助長するか

 めちゃイケという番組が昨年の3月に終了しました。(私の誕生年月と同じ)1996年10月にスタートし、一躍人気を博してフジテレビを代表するバラエティー番組となり、私が物心ついたときには既に「土曜8時はめちゃイケ」が当たり前でした。間違いなく、私をお笑い好きにした犯人のひとりです。
 2000年頃のめちゃイケのコーナーに、「七人のしりとり侍」という企画がありました。このコーナーでは、3文字縛りのしりとりをリズムに乗せて行い、敗者は罰ゲームを受けます。その罰ゲームが「野武士集団」と呼ばれる十数人の男に袋叩きに遭うという内容で、いじめを助長するという視聴者からの苦情が殺到、BPOが「暴力やいじめを肯定しているとのメッセージを子どもたちに伝える結果につながると判断せざるを得ない」として、わずか1年で打ち切られました。
 昨年のめちゃイケの最終回で、この企画が17年ぶりに復活していて、当時を振り返ったナインティナインの岡村さんの皮肉が一部のお笑いファンで話題になりました。

よかったんじゃないでござるか? このコーナーがなくなったことで、世の中からいじめがなくなったんでござるから。

 「バラエティ番組はいじめを助長するか」という議論は、ここ二十年ずっと並行線のように見えます。お笑い好きの人は「古き良きお笑い」が許されなくなっていくことへのノスタルジー以上のことを言わないし、批判する側の人はお笑い番組の何たるかをイマイチ理解していないように思えます。
 そこで本稿では、お笑いを愛していて、かつその現状を憂いてもいる立場として、この難しい問題について考えてみようと思います。

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 日本のお笑い史における平成の30年間を一言で表すとすると、間違いなく「ダウンタウンの時代」でした。東京に進出したばかりのダウンタウンが出演していた『夢で逢えたら』の全国ネット放送が始まったのが平成元年ですが、それ以降、彼らが現代の日本のお笑いのパラダイムをつくりあげてきました。
 ダウンタウンのお笑いは一言では表せないほど多面的ですが、その特徴のひとつに「暴力性」があると思います。彼らは臆することなく先輩芸人の頭をはたき、後輩芸人に粗野な関西弁で暴言を吐いてきました。こうやって文字面だけ見ると信じられないかもしれませんが、このような暴力性が(もちろんそれだけではありませんが)当時の若者の圧倒的支持を持って「面白い」ものとして受け入れられました。いや、「時代の熱狂のせいで『面白い』と思いこんでいた」などと言うつもりは私は一切なく、むしろそれは本当に「面白」かったのだと思います。

 誰かに暴言を吐いたり、誰かがいじられたり、誰かが罰ゲームを受けたり、誰かがドッキリをかけられて酷い目に遭ったりする、そういう暴力性を孕んだお笑いは、昔ほどの過激さはないにしても、今も依然としてバラエティ番組で見ることができます(もちろん、そのようなお笑いばかりというわけでもありません)。なぜそれが「面白い」のでしょうか。
 それを考えるヒントになる概念が哲学者のホッブズ(1588-1679)によって提唱されています。ホッブズは笑いを「他人の弱点、あるいは以前の自分自身の弱点に対して、自分の中に不意に優越感を覚えたときに生じる突然の勝利」として定義しました。つまり、私たちは、テレビの向こう側で「いじられ」ている人間に優越感を抱いて笑っているのです。

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 「優越感」について、テレビと視聴者の関係からもう少し深く考えてみましょう。
 例えばコントは、誰もがそれを虚構だということを知っている前提でつくられているという意味で、それは虚構を虚構として楽しむエンターテインメントです。
 一方で、バラエティ番組は、あくまで建前上は素の(リアルな)人間が出ているという前提に立っています。しかし実際は、【第29回 いじりといじめ――「虚構のリアル」という共犯関係をめぐって】で述べたように、バラエティ番組の中での芸人さん同士の「いじる-いじられる」関係は虚構のリアルとして存在します。

 バラエティ番組を観る側の立場として考えてみると、虚構のリアルを本当の「リアル」として捉えてしまうと、例えば誰かが酷いことを言われるとか、「袋叩きに遭う」とか、それはとても痛ましい状況です。そしてそれを観て「優越感」を抱いている自分もまた、倫理的に許容することができない存在になってしまいます。しかし受け手側がもし「リアル」だと捉えていないのなら、その「他人の弱点」は偽物であり、「優越感」もまた偽物になります。笑いにはつながりません。だから、その「リアル」が「虚構のリアル」だと分かっていても、「リアル」だと信じこまないといけない。

 このように、バラエティ番組それ自体(提供側)と視聴者(受け手側)もまた、虚構のリアルという共犯関係にあります。

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 殺人事件を扱うドラマが「殺人を助長している」と言うのは、ほとんどの人に馬鹿馬鹿しい主張として受け入れられると思います。なぜならそれは虚構だからです。

 一方で「バラエティ番組がいじめを助長している」と主張することは、バラエティ番組を「リアル」として捉えることを意味しています*1。つまりそれは、虚構のリアルという共犯関係からは逸脱した立場からの意見なのです。
 その意見に反駁するには「これ、虚構なんだ」と言ってしまうしかないのですが、それはバラエティ番組の根幹である虚構のリアルそのものの否定につながります。だから、これまでのお笑いを守りたい人たちは、共犯関係をなんとか維持するために「これ、虚構なんだ……でも、虚構じゃないんだけどね」と口ごもるしかありません。
 それでも「お笑い芸人はプロフェッショナルだから」(=お互いに合意のうえで仕事してやっていることだから、口出ししないで欲しい)というフレーズでその虚構性を明らかにしようと試みる人は少なからずいるのですが、それでもバラエティ番組は建前上「生身の人間が出ている」という見かけを崩すわけにはいかず、「いや、それを観てリアルだと解釈する人もいる」と言われてしまうと、何も反論できなくなってしまいます。

 岡村さんの「このコーナーがなくなったことで、世の中からいじめがなくなった」という皮肉はそれとは別角度からの反論で一定の評価に値すると思いますが、しかしながら、「七人のしりとり侍」以降、類似の企画がなくなったわけでは全くありませんし、そもそも「『本当に』バラエティ番組いじめを助長するのか/しないのか」は悪魔の証明的なところがあるので、結局はそこを深めても水掛け論になるだけのような気がします。

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 【第12回 ドベネックの桶的「正しさ」】で、今の時代の「正しさ」の基準は、正しさの閾値がいちばん厳しい人によって決まっていると言いました。誰かひとりでもバラエティ番組がいじめを助長すると「解釈できる」以上は、それが皆のとるべき(あるいは、とらざるを得ない)スタンスになっていくと思います。
 だから私は、「『本当に』いじめを助長するかどうかは分からないが、『暴力性』を伴ったバラエティ番組が淘汰されていくのは仕方がない」というスタンスをとっています。
 しかしそれは、お笑い好きにとって悲しいお知らせなのでしょうか? 私はそうは思いません。

 最初にダウンタウンの笑いは「多面的」であると言いましたが、何も日本のお笑いは人を貶めることだけで成り立っているわけではありません。昨年のM-1グランプリを観ていても、現代漫才の構成の・精緻さは驚くほどの進化を遂げています。いや、別にわざわざM-1の例を挙げなくても、世の中には「いじめ」もとい「いじり」の笑いを差し引いても面白いお笑いはたくさん存在します。それが何なのか、またなぜ面白いかを語りだすとキリがないので、気になる方はぜひ私の『お笑い概論』の今後の連載を読んでください。

 だから私は、「古き良きお笑い」が許されなくなっていくことに絶望はしていません。むしろ、この時代を超克した先に次はどんなお笑いが待ってるんだろう、とワクワクしながら待っている、しがないお笑いファンのひとりです。

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*1:リアルとして捉えることが容易であるという点に、虚構のリアルという概念が本質的に内在する脆さが現れていると考えています。虚構のリアルの成立要件は
(a)もともと虚構であるものが、「リアルなもの」として提示されている
(b)本当にリアルだと信じこんでいるわけでなくても、受け手側もそれを「リアルなもの」として引き受けている
 だという話はすでにしました。
 この(a)において、どんな虚構も「リアルなもの」として提示できるかというと決してそうではありません。虚構が、「リアルなもの」として提示されるには、そもそもの虚構にある程度の「リアルさ」が必要です。
 つまり、虚構とリアルがはっきり分かれているように言いましたが、実際にはその輪郭は溶け合っていて、容易にどちらとも解釈することができます。このあたり、まだまだ概念と用語の整理が必要ですね……