平成31年4月30日 第31回 パッチワークをつくりながら生きていく

 家の中でお風呂上りに裸を見られるのと、修学旅行先の温泉で男友達に裸を見られるのとでは、わけが違う。
 それは、「見られているという意識」があるかどうかの違いだ。
 無防備に何も考えていないときと比べて、今同級生にどう見えているのだろうとドキドキしているうちは、私は「本当の意味で」裸ではない。

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 【第1回 「余白」について】で、私は「自分で自分を肯定しないと」と言った。
 【第24回 ヒッピーおじさん】で、アツミさんは「自分にすがれ」と言っていた。
 それができるのは本当に強い人なのだと思う。でも私は、まだそこまで強くない。

 【第18回 家庭教師の感情】で、生徒のキダさんに対する怒りについて書いた。キダさんだけでなく、私には得てして、気に入らない相手がいたり、馬鹿にしている相手がいたりする。
 『ナナメの殺し方』というエッセイで若林正恭さんは、他者の価値下げによって自分を肯定しようとしていたことに気が付いたと書いていた。目に映るもの全ての良いところを書く「肯定ノート」を始めることで、それは改善されたという。
 私もやろうとしたが、できなかった。自分のなかに巣食う人を見下す感情に、私はまだ勝てない。

 【第11回 SUSHIBOYS】で書いたように、私は(それ自体無意味な)意味の追求に追われている。
 【第16回 自然言語にwell-definedを求めるな】で書いたように、私はうまく相手の言葉の真意を読み取れない。
 【第27回 人の痛みを慮る】で書いたように、人を判断するのに先入観を捨てきれない。
 私は不完全な人間で、自分のその不完全さが嫌でたまらない。軽やかにぽーんと生きられて、ついでに周りも幸せにできちゃう人を、私は一生憧れ続ける。

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 私はとにかく人の目を気にする。そして、"いいかっこしい"だ。この31回にわたる連載を通じて、私は自分のことを良いように書いていた節はある。
 【第7回 辺縁を歩くためには芯が要る】で自己正当化しているが、つまるところ私は自分の敵わない相手からは逃げてきた。
 【第8回 過剰な相対主義】で「自分が絶対に正しいと思わないようにしている」と書いたが、「俺の何が間違っているんだ!」と叫びたくなるときはままある。
 【第19回 お望みのジュースを出してあげる】で「少しは大人になった」と書いたが、やはり天邪鬼な性格はそう簡単には治らない。

 もっと正直に言ってしまうと、自己肯定感が低いと言い続けてきたが、自分にも良いところが全くないと思っているわけではない。
 まあそれなりに真面目だし、まあ話していてもそこまで退屈ではないはずだし、まあ面倒見も良いほうだ。自分の書いた文章、読んできた本、今している研究、どれもそれなりに気に入っている。そう思っているのに、今までそれを言わないようにしてきたのは、自分でもとても狡いと思う。
 私は、自分のことが嫌いだけれど、それ以上に自分が好きで、でもそういう自分を好きな自分が嫌いなのだ。

 【第6回 財布なくした】で「大人って、回りくどくて、複雑で、素直じゃなくて、めんどくさい」ことを打海文三から学んだと書いたが、あれは結局、自分のことを投影していただけなのかもしれない。
 そして私は「大人」でもなんでもない。

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 そんな屈折した自分が他者にとってどういう見えているのかとか、どうしてこの人は私と仲良くしてくれるのだろうとか、そういうことを考え始めるとキリがない。
 でも、【第28回 外面、内面、イスラーム】で書いたように、「心のなかは人間同士では誰にも分からない」のだと思う。
 「本当のところ」を考え続けても意味はなくて、「相手が自分をどう考えてくれていて、何をしてくれているのか」をきちんと受け止めなければいけない。

 【第15回 じぶんという輪郭】で「他者にとっての自分」が他者の数だけ存在すると書いた。
 一連のエッセイを書くにあたって、この1か月間、良い機会だと思って色んな人と話してみることにした。すると、私は周りの人に恵まれているのか、皆が「私がその人に見せている外面」を正面から受け止めてくれているのを実感して、とても有り難いと思った。
 こんな人たちを差し置いて、「誰も肯定してくれない」と子どものように喚くのは、あまりにも身勝手な行為なのだと気が付いた。

 【第2回 アイドルが脱神格化された現代で、「虚構のリアル」を愛する】【第29回 いじりといじめ】【第30回 バラエティ番組はいじめを助長するか】の3回にわたって、<虚構のリアル>というオリジナルの概念を援用して書いた。
 最近、これまで考えてきた色んなことが、この言葉に回収されていくような感覚がある。
 「本当のところ」ではないけれど、見えている外面を「その人」として受け止めるという意味で、人間関係も虚構のリアルなのかもしれない。

 そういう結論に至ったあとで、「そういう悪い部分があるのも分かったうえで、自分は話していますよ」と言ってくれた人がいたことも思い出す。
 案外、「本当のところ」も全部、見透かされているものなのかもしれない。
 でもこの言葉には続きがあって、もちろん、別にすべてが分かったとは言いませんけど、とその人は付け加えていた。私も、そこまで含めてそう言える人間でありたいと思う。

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 私はずっと、全身を包んでくれる大きな毛布を求めていた。それも、家の中での裸を見たうえで、自分の体のサイズにピッタリなものを。それ以外は全部はねつけ、ごみ箱に捨てていた。
 でも今は、膝かけでもハンカチでも布きれでも何でも、他者が私にくれるものは、ひとつひとつ丁寧に集めていこうと思っている。たとえ相手が私の服を着た姿しか見たことがなくても、その姿もまた紛れもなく私自身である。その私自身を見て渡してくれた膝掛けであり、ハンカチであり、布きれなのだ。
 そうやってもらったものを全部、パッチワークみたいにつなげていけば、いつかは自分の全身を包む大きさになるのかもしれない。いや、できるのだと思う。だから私はこれから、パッチワークをつくりながら生きていく。

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 これで終わっても良かったのだが、「良いこと言ってるっぽい文章で『思慮深い自分』を演出してるだけじゃないか」と自分を詰る自分がいる。と、書くことで、「『内省的な自分』をアピールしたいのか」と指摘する自分がいる。というかそもそも内省的どころか中学生みたいな悩みだな、と揶揄する自分がいる。
 [[[[自分を見る自分]を見る自分]を見る自分]を見る自分]を見る自分……の連鎖は止まらない。この癖ばかりはどうにもこうにも治りそうにない。だから一生付き合っていくしかないのだが、それもまた「引き受ける」ということなのかもしれない。

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