池田清彦『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫、1998)

 この本のおかげで、カント、ソシュールフッサールウィトゲンシュタインらの哲学を個別には何となく知っているつもりではありましたが、それらが初めて有機的につながって理解できました。おすすめです。以下、本からの一部抜粋です(文頭の数字はページ数です)。

93 カントはまずア・プリオリに物自体(外部世界に自存する実在)を措定し、これが人間の認識装置を介して、少しあるいは大いに変容して、我々に現象として感じられる、という構図を考えました。
91 現象の原因としての外部世界という構図を採用してしまうと、外部世界自体を言いあてられるにせよ言いあてられないにせよ、外部世界の実在自体は養護せざるを得なくなる
91 フッサール→確実に存在するのは、私、観念(コトバ)、現象
92 私の様々な心的な経験やら対象やらのうち個別直観(知覚直観)だけは私に外部の存在を確信させずにはおかないようななにかです。フッサールの偉いところは、ここで踏みとどまって、だから外部世界は実在するのだという話にしなかったこと
92 フッサールは個別直観を本質直観に転換させる仕方の同型性に共通了解可能性の根拠を求めようとしたのです。つまり個別直観(自分自身の経験)は少なくとも自分自身にとってはあいまいさがないはっきりしたものであるから、それをコトバで言いあてられれば、コトバを通して人々の経験(現象)は共通了解可能なものになるはずだ
98 ソシュール:現象から同一性(シニフィエ)を抜き出すという規則は恣意的であるが、皆に同じように(同型に)取りついている
100 私の「現象→シニフィエ」とあなたの「現象→シニフィエ」の間には完全な平行性が成立し、この平行性はシニフィアンの同一性にささえられて完全な共通了解可能性をもち得る
98 カントが言っている物自体を認識するために我々が持っている先験的形式というのは、物自体→現象を導くための→ではなくて、実は現象→同一性(シニフィエ)を導くための→のことである(もっと詳しく言うとその逆関数)と読み換えることができる
101 ウィトゲンシュタイン(晩期):帰納主義や実証主義の論理的基礎となる考えをやめてしまい、人間のやっている事は、科学をも含めて、結局のところ、コトバの同型性をたずねあうゲーム(言語ゲームと呼びます)なのだ
101 フッサールや後期ウィトゲンシュタインの考えは、第一章で述べた科学論の話で言えば規約主義の正当性を裏付けているとも言えます。すなわち、規約とは自然言語(我々が話す普通の言語)を基礎的規則としてもつ、現象から何らかの同一性への変換規則(の同型性)のことであり、科学とはこの規則の同型性を通して獲得した何らかの同一性が、すべての人々にとって共通であるという確信(信憑)をくり返し相互に確認し合うゲームである、ということになります。

 どうしてこの本を紹介しようと思ったかというと、今、日本プライマリ・ケア連合学会学術大会に来ていて、この本を元に着想した発表があったのですが、聞いていてどうも話をややこしくしているだけで何とも生煮えに感じて、モヤモヤしたからです。
 この学会をぶらぶらしていて、社会科学の知見を取り入れようというスタンスが少なからず見られてそれはとても良いのですが、常に「医学と他の領域を結びつけた! わーい!」っていう喜びで終わってはいけないということに意識的である続けるべきだと思っています。