医師という、得体の知れない何か

 「一部の人文社会科学研究者は『医師』という大きな主語で語り過ぎではないか?」と前から思っている(と言うとき私も、『人文社会科学研究者』という大きな主語で語っていることは自覚している)。例えば「医師は『合理的な専門家 vs 非合理な素人』の枠組みで考える」や「医師は要素還元的な思考をする」という批判。榊原哲也の『医療ケアを問い直す』という本で「そうじゃない医師」として何名かの名前が挙げられていたが、実際は、「そうである(大多数の)医師」と「そうじゃない(少数の)医師」の二極が存在するわけではなくて、スペクトラムとして存在しているのではないだろうか。「医学」で説明できないこともあるし、全てをできるわけではないよなと思いつつ、日々の仕事として目の前にいる患者さんに何かをしなければいけないからやる、こなしていく、そんな混沌としたなかに医療現場はあるのではないだろうか。もちろん未だ医学生でしかない私はそれを実感を持って言うことはできない。しかしそういう一部の人文社会科学研究者やlay peopleの「医者は病気を見て病人を見ない」というある種ステレオタイプ化された医師像は、攻撃するためにつくった虚像なのでは、とすら思う。

 一方で何でもかんでもスペクトラムで片づけては話が進まないのも事実である。医師という職能集団が(外れ値はあるにしても)ある一定の特徴を共有していることは十分にあり得るだろうし、私は「医師にも色んな医師がいるよね」みたいなしょうもない相対主義的な結論に落ち着けるつもりはない。ただ、医師が日々どのようなことを考えながら仕事をしているのか、ということについてはもう少し細やかな目線を向けてもよいのではないだろうか?(と、医学生でしかない自分でも読んでいて思う)。昨日投稿した読書録の中でも書いたように、私は医者の生態に興味がある。他者が未知のフィールドに入っていくというのは確かに文化人類学の基本だが、しかし同時に同じ職業者だからこそ話せないこと、理解できないこともあるのではないだろうか。だから私は臨床医として働きながら文化人類学者になれたらいいと思っている。

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 先日、Twitter上で医学生と風俗嬢が喧嘩していて、その一連の流れをスクショでまとめたツイートが拡散されていた。
 発端は風俗嬢(以下、A)の「セックスで中出しされた精子は洗っても膣内に残ってて死滅しても染色体というのが体に染み付く」というツイートである。それに対してある医学生(以下、B)が「染色体の数とか受精のプロセスとか知らなそう〜つって腕組みしながら唸ってる」と引用ツイートしたところ、Aが「教科書しか信じてなさそうw」と返した。それに対しBが「教科書は“信じる”ものでなく、“理解する”ものです。トンデモ論も話半分に聞くのは面白いですが、最低限のエビデンスも無いものを事実かのように拡散するのは悪質だと思います」、そしてAが「だからその教科書が真実だと思い込んでるんだよね?w」といった具合である。議論は全くの平行線だ。その後、B「〇〇(Aのアカウント名)……俺の負けだ……お前がナンバーワンだ……」→A「あ、敗走するときよく使うやつだw」と続く。
 このAの「その教科書が真実だと思い込んでるんだよね?w」というのは案外鋭い指摘だ。「教科書」というものの正当性は何によって担保されているのか? もう少し話を広げると「科学」とは何なのか、という科学哲学の話につながっていく。Bの返答はそれに十分に答えておらず、「教科書は教科書だから信頼に足るんだよ」というトートロジーな反論にしかなっていない。
また同時に、「染色体」というAにとっては耳馴染みのないだろう「科学」の言葉が、「染み付く」という極めて感覚的な、Aの内的な体験として回収されているのも大変興味深い。そのような、上述の言説がAのなかでどのような受け止められ方をしていて、どのような理由で「信じて」いるのかという部分に対するBのまなざしは一切感じられない。
公平を期すために書いておくと、Aの問いは「教科書の意見」の正当性への再考を促すのには良いが、別にそれが彼女の意見の正当性を担保することにはならない。彼女もまた、自分の意見を「信じこんでいる」のも事実かもしれない。また、「教科書しか信じないガリ勉」といような捉え方も、かなりステレオタイプ的で、相手を枠にはめるよう姿勢である。そもそも「教科書が真実だと思い込んでるんだよね?」という問いもどこまで考えて言ったのかは神のみぞ知るである。

 どっちもどっちなところはあるのだが、私はこの一連の流れを見て、どちらかというと、この医学生は相手の話をシャットアウトして馬鹿だと決めつけて、なんて傲慢な奴なんだ、仮にも将来医者になるならこういう人にどう説明するかって大事だろう、ということをまず最初に思った。
 しかし拡散されていたのは、この一連の流をスクショでまとめて「生物学の話で医学生に風俗嬢が噛み付いてんのバカおもろいな」と嘲笑うように書いたツイートで、そのリプ欄を覗いてみても「議論しようとしたのに木刀振り回し続けられたらそりゃ逃げるしかないですわ」「IQが20違うと会話が成り立たないそうです。IQの差とはなんと残酷な…」という、風俗嬢Aを叩くツイートばかりで驚いた(もちろん選択バイアスはあるだろう)。そのリプ欄にあったツイートの少なくない数が医学生によるもので、私はとてもショックだった。こんな医学生がいっぱいいるのか。医師は皆が皆「『合理的な専門家 vs 非合理な素人』の枠組みで考える」わけではないだろう!という私の憤慨は、少しのどか過ぎる意見だったのかもしれない。

 ここで改めてふり返って考えると、私がこれまで関係してきた医学生や医師の方というのは、集団として大きな偏りがある。家庭医の方々はもちろん患者一人ひとりに丁寧なまなざしを向けているし、医学教育の畑の方々も決して断定的な物言いをしたりしない。私のこういう話を一緒に考えてくれる友人もたくさんいる。そういうなかで私がつくり上げてきた「医師像」というのもまた、歪んでいるのかもしれない。これもまた、私が医師として働かなくてはいけない、と思う理由の一つである。自分の好きな領域の話を理解してくれなさそうな、「医師」っぽい人の多い空間も良いのではないかと思っている(それは絶対にしんどい体験だけれど)。ともかく私は余りに「医師」のことを知らなさ過ぎる。今のままでは、私にとって医師という存在は、得体の知れない何かでしかない。

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 それでもなお、私は医師をただ批判するだけではなくて、「医師ってこういう人間なんだよ」ということを伝える橋渡しのような存在になれないかなと思っている。暴露本的になってはいけない。それは医師の聖像を破壊することになるかもしれないが、しかし、絶対に必要なプロセスになのではないかと、漠然と考えている。

 ここまで書いて、in medicineでも、of medicineでもなくて、これからはwith medicineなのだという話を少し前に聞いたことを思い出す。そのときは十分に理解していなかったが、数か月かかってストンと腑に落ちた感がある。ある言葉が、時間が経ってからようやく「わかる」体験はままあるが、とても気持ちがよい。