「わかる」がわからない

 哲学者になる気は毛頭ないのだが、何を論じるにも基礎体力として必要になるし、何より物事を語る語彙を豊富にしてくれるので、恥ずかしながら、ちょびちょびと、独学で、哲学の勉強を続けている。例えば、今はカントについて大学に入りたての頃よりわかった気になっている。でもこういうとき、一体私は何をもって生意気にも「わかった」と言っているのだろうか?

* * *

 哲学の勉強においてよくあるのは、例えばまず、『アプリオリ』についての誰かの「わかりやすい」説明を読んで、わかった気になる。でも、また別のときに、違う人の『アプリオリ』についての説明を読んだり、あるいは(フッサールの超結論的経験とか)何かしら他の哲学について勉強したりしていると、「あ、あれってこういうことを言っていたのか」と得心がいくときがある。その場合、それ以前の私は「間違って」いたわけではなく、「わかって」いたのは確かだ。ただ、その「わかった」の深さが違うのだ。
 そういう、「あ、そういうことだったのか」という瞬間は不意に訪れ、不連続に深度が増す。一度で進める深さは僅かだが、それを何度も何度も繰り返して、ちょっとずつ階段状に「よりわかった」状態へ歩を進める。だから私にとっての哲学の勉強は、完全に「わかり尽くす」ことを目指すというよりは、常に「わかっていく」という過程のなかに身を置くことだ。
 別にこれは哲学に限った話ではなく、人文社会科学系の概念を理解するときにいつもある感覚だ。少し前の備忘録で「with medicineという言葉が数ヶ月かかってストンと腑に落ちた」と書いたが、まさにあれもそういう体験だ。

* * *

 以前ブログで、以下のような文章を書いた。

satzdachs.hatenablog.com

 人文社会科学によって相対化する視点というのは、「当たり前」を問い直し、「当り前」(だと思っていたことそれ自体)に気が付くということだと思います。その「当たり前」を言語化して輪郭を与えた人がえらい、そういう理解を私はしています。
 しかし私が話を聞いた学生は、それを「当たり前のことしか言ってないじゃん」と受け取っていました。つまり、そこでは「言われてみれば確かにそうじゃん」に到達するに至った過程およびその距離は無視されています。結果だけ見て、「それは何となく思ってはいた、何『当然』のこと言ってるの」というわけです(それは同時に、多くの人に納得可能であるという意味では優れた概念であるとも言えるのですが)。
 少し雑な仮説かもしれませんが、多くの医学生にとっては、「すでにあったものに気付かされる/気付く」ことよりも「全く知らないことを新たに知る」ことの快感のほうが大きいのではないでしょうか? 前者は少しずつ積み上げていく地道な作業ですが、後者は簡単に大量の新規の知識を手に入れることができます。どっちが良いとか悪いとかではありませんが、やっぱり後者のほうが分かりやすく自分が「勉強している」実感が湧いてくるのかな、と思います。

 このとき、「すでにあったものに気付かされる/気付く」と「全く知らないことを新たに知る」という対比で書いて、「前者は少しずつ積み上げていく地道な作業ですが、後者は簡単に大量の新規の知識を手に入れることができます」と書いたが、これはまさしく「わかる」の性質の違いに(期せずして)言及した表現だったのだと、先ほど「わかった」。
 このときは「当たり前じゃん」となるから(少なくとも私の周辺の)医学生に対する社会科学系の授業のウケが悪いという論理展開だったが、その「当たり前じゃん」となってしまう原因をさらに考えてみると、それはひとえに上述のような「よりわかる」経験をこれまでしてこなかったがために、「わかり尽くした」気になってしまうのだ。彼/彼女が「当たり前じゃん」と言ったとき、それは「わかる」の階段のたった1段目に過ぎないのだが、(受験勉強、毎週の試験勉強、CBT、医師国家試験の)「わかる/わからない」の二元論しか知らない彼/彼女はそのことを自覚することができない。

* * *

 さて、なぜこのような文章を書こうと思ったかというと、それは、永井均という哲学者の少し前に書いていたことが「わからな」かったからだ。

 難解で有名な(難解であることが有名という意味ではない)本を分かりやすく説明してもらいたがる人は多い。これは探究のパラドクスに似た不思議なところがある。分かっていないなら それ を分かりたがることはできないはずだし、分かっているなら分かりたがるはずがないから。実は何を求めているのかな?
 というわけで、分かりやすい説明をよい説明だと思ってしまう人が多い。分かりやすい説明とはもともと分かっていた範囲を大きくは超えない説明ということ。もとの本は発想の根幹からしてその範囲を極めて大きく超えているのに。それで世の中には分かりやすい作り話が氾濫することになる(なっている)。
 だから、分かった(と思う)とき、分かりたかったことが分かったのかどうか決して分からないというのが探究のパラドクスだが、分かった(と思う)とき、分かりたかったことが分かったと思ってしまうというのがこのそれに「似た」ものの特徴である。この二つはじつはとても「似ていない」のだ。
 どう似ていないかは明らかだ。真摯な探究に於いて実際に起こるのと似て非なる問題がスノビズムにおいても起こるということだ。前者に於いてイデアの想起によって解決されたことが後者に於いては分かりやすさによって解決される。後者に於いては、何を分かってもとにかく分かりさえすればよいのだから!
 そうでなければ『 (まんがで読破) ツァラトゥストラかく語りき』のような本が売れるはずがない。以前にも書いたと思うが、この本の内容はニーチェの『 ツァラトゥストラかく語りき』と全然関係がない。思想を歪曲しているとかそういうレベルではなく、文字どおり全く違うお話が載っている。

 「分かっていないなら それ を分かりたがることはできないはずだ」というパラドクスは一旦置いておくとして、この永井の「分かりやすい説明とはもともと分かっていた範囲を大きくは超えない説明」というのはよく理解できるし、「わかる」ということの不連続感も基本的には同意できる。しかし、私はその不連続な「よりわかる」の階段を少しずつ登っていくイメージなのに対して、永井は、もっと大きな、断絶とすら思えるような「わかった」のイメージである。その証拠に、先ほど私は「それ以前の私は『間違って』いたわけではなく」と書いたが、永井は「思想を歪曲しているとかそういうレベルではなく、文字どおり全く違うお話が載っている」とバッサリ断じている。
 これはどういう意味なのだろう? これを「わかる」ことができないのは、私が本当の意味で哲学を「わかった」経験がないからなのだろうか?

 と、袋小路に入ってしまって、今もって抜け出せていないのだが、とりあえずその袋小路に入るまでの過程を記録しておきたく、本稿を書いた次第である。