休日の過ごし方

 今日は大学の創立記念日で実習が休みで、Nと出町座で『愛がなんだ』という映画を観た。煮え切らなさを煮詰めたような作品だった。そのあとは鴨川デルタに座りこみ、缶ジュースを飲みながら覇気のない会話をした。犬に引っ張られるようにして飛び石を渡る女の子が危なっかしくて、ハラハラしながら見ていた。私たちが心配しているのなんてお構いなしに、その女の子は無邪気に笑っていた。

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 私がこのような休日の過ごし方をすることは少ない。大抵は、本を読むか、研究を進めるか(あるいは義務として医学の勉強をするか)だ。それが自分のやりたいことだし楽しくて仕方がないので、別に苦ではない。ただそうしているとたまにどうしようもない閉塞感に苛まれて、何かを求めて「遊びに」行く。行ったら行ったでこれも楽しいなと思うけれど、でも結局、読まないといけない本・進めないといけない研究を思い出して焦燥感に駆られて、また部屋に籠る。こう思うとき、私にとって読書や研究は「やらなければいけないこと」になってしまっているのだろうか?

 義務感というよりは、使命感に突き動かされている感じがある。私は私の人生で、私にしかできない、世の中にとって大きな、良いことをしたい。どうしようもないくらい青臭くて馬鹿みたいな言葉だが、根底には人と比べてしまう自分の性格もある。誰にも負けたくない。何者かになりたい。この1,2か月で、複数の人に自分のそういうところについて指摘されたし、自分でも(前より)自覚するようになった。変わったほうがいいんですかねと口では言いながら、それが自分のガソリンになっている側面は確実にあって、あんまり治す気がないというのが本音なのだと思う。客観的に見て。

 自分にとって無為の時間が必要なのではないか、とは何となくずっと思っている。しかし無為の時間を過ごすことがとても苦手だ。無為を求めた瞬間にそれは無為でなくなってしまう。というか、そもそも無為の時間って何なのだろうか? みんなはどうやって無為を為しているのだろうか?

 本を読むこと、研究をすること、それ以外のことは私にとって「無駄なこと」である(でもただ一つ、恋愛については自分もその位置づけがよく分かっていない)。もちろんこの価値観を周りに押し付けるつもりはない。あくまで私のやることを私が評価するうえでの話である。でもその「無駄なこと」は私の欲している「無為」とはまた違う。こういう思考そのものが閉塞感の原因なのだと言われれば、それは否定できないだろう。しかし「もっと肩の力を抜いて、楽しく生きればいいじゃん」と無責任に言われても、できないものはできないのだ。今日も私は母に「生き急ぐなよ」と言われる。

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 夕下がりの涼しい風を頬に感じながら、飛び石を無事に渡り切った犬と女の子の姿を見届けた私が考えているのは、この体験が私にとってどう有益になり得るのか、ということだった。それを自覚し、少し嫌な気分になって、私は缶ジュースの残りを地面にぽたぽた垂らした。