<旧版・お笑いと社会> 虚構を怖がる Fearing Fictions

 文狸(ぶんり)です。本稿は、分析美学を専門とする哲学者ウォルトン(K. Walton: 1939~)の1978年の論文「虚構を怖がる Fearing Fiction」*1をもとに、虚構作品を楽しむとはどういうことか、論じていきたいと思います。
 この論文が批判されているところでもあるのですが、ところどころ定義が曖昧だったり、分かりにくいところがあったりするので、本稿は元論文に加え、大阪大学人類学教室教授・中川敏のHPの解説*2も参照しています。基本的にウォルトンに忠実に沿っていますが、結論のところで彼自身のゲーム論と重ねた独自の解釈になっていて、その点に私が強く共感した、というのが選んだ最も大きな理由です。本稿では、さらに私なりの解釈も加え、話の流れも理解しやすいように全面的に改稿しております。

1. 映画を観て抱く恐怖は、「本当の」恐怖か?

 あなたは今、家で映画『ジュラシック・ワールド』を観ています。遺伝操作によってつくられた新種の凶暴な恐竜が迫り来るシーンを見て、あなたの心拍数は上がり、手汗をかき、思わずちょっと身をのけぞらせてしまうこともあるかもしれません。このように、パニック映画を観て恐怖を感じるというのは、誰しもが一度はしたことがある経験であるかと思います。
 さて、ここに重要な問いがあります。そのとき感じた恐怖は、「本当の real」恐怖と言えるのでしょうか?

 「本当の」恐怖とは、あなたがもし「本当に」ジュラシック・パークに行って、「本当に」巨大な恐竜が目の前に現れたときに感じるものです。そんなとき、もちろんあなたは「本当に」逃げ出します。
 しかしながら、あなたは今、都会のど真ん中のマンションの一室で、ソファーに寝転がりながら肩肘をつき、テレビ画面を通して映画を観ているわけです。「本当に」恐竜はいないと分かっているし、あなたは「本当に」逃げ出すこともありません(あなたの家族が、もし映画を観ていて慌てて家を飛び出したりしたら、心配しますよね)。
 それでもあなたは、「心拍数は上がり、手汗をかき、思わずちょっと身をのけぞらせてしま」って、「恐怖」を感じた(と思われるような反応を自分がした)。これは一体どういうことなのでしょうか?
 それは「恐怖」は「恐怖」なんだけれども、どうやら「本当の恐怖」とは何か違うみたいです。ここでは暫定的に、それを準恐怖quasi-fearと名付けておきましょう。この準恐怖とは何かを解明するということが、すなわち私たちの虚構作品との対峙の仕方を明らかにすることです。

2. ごっこ遊びとは、「思ってる」けど「思ってない」

 答えを最初に言ってしまうと、虚構作品を楽しむということは、ごっこ遊びに参加する participate in a game of make-believeことと同じだ、とウォルトンは主張しました。この「ごっこ遊び」という概念、単純そうに見えてややこしいので、ひとつひとつ丁寧に追っていきましょう。

 さて、「ごっこ遊び」とはいかなる性質を持つのでしょうか?
 Wikipediaの「ごっこ遊び」のページの一行目には、「ごっこ遊びはこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである」と書いてあります。例えば、父親が怪獣になりきって、「グオー」と呻きながら恐い顔をして子供を追いかける。子供は、「キャー!」と叫びながら逃げまわっている。こういう怪獣ごっこを子供のころ一度はしたことがあるでしょうし、既に親になっている方なら怪獣側にもなっているでしょう。
 ここで一つ、重要な問いがあります。この怪獣ごっこを楽しむ子供は、「本当に」怪獣がその場にいると思っているのでしょうか?
 答えはノーでしょう。そうやって走り回れるくらいの子供は、父親は人間であって、怪獣ではないということは理解できているはずです。なんせその「怪獣」は5分前にはリビングでテレビを観ながらゴロゴロしていたわけですから。
 でも子供は、「うわ、なんか36歳会社員の男が呻きながらこっちに寄ってくるわ、とりあえず叫んどくか」と冷めた目で父親を見ているだけでもないのです。子供は怪獣ごっこに熱中しているからこそ、「キャー!」と叫びながら逃げまわり、その瞬間を楽しんでいます。

 怪獣がその場にいると「思ってる」けど「思ってない」、この奇妙なバランスがごっこ遊びの核心です。

3. 「虚構的真理」とは

虚構世界に降りていくこと

 ごっこ遊びについて何となく見えてきたような気はしますが、このままではまだ言語化は甘いように思えます。今度は、「虚構作品を楽しむということはごっこ遊びに参加するということと同じだ」というテーゼに沿って、もう少し詳細に見てみましょう。

 虚構作品と対峙するとき、私たちは単なる外側の観察者external observerではありません。もしそうなら、「心拍数は上がり、手汗をかき、思わずちょっと身をのけぞらせてしま」うことなんてないでしょうから。そのとき私たちは、虚構と「同じレベル」に立っているwe end up "on the same level" with fictionわけです。
 虚構と同じレベルに立つということは、私たちのいる現実世界と虚構の「距離の縮減」“decreased distance” between us and fictionsが達成されているわけです。大事なのは、この距離の縮減が、虚構を現実に引き上げるpromoting fictions to our level(=「『本当に』恐竜がいると思う」)のではなく、私たちが虚構に降りていくdescending to fictionsことによって達成されているという点です。

 ここで重要な概念、虚構的真理fictional truthを紹介しましょう。
 例えば、「恐竜が存在する」というテーゼは偽です。周りを見回してみても、T-レックスやトリケラトプスはどこにもいませんね。
 それに対して虚構的真理とは、「恐竜が存在する」というようなテーゼも、「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であると見做す考え方のことです。つまり、“『ジュラシック・ワールド』という映画において、「恐竜が存在する」というのは虚構的に真であるfictionally true”と表現できます。

 だから映画を観ていて迫り来る恐竜に身をのけぞらせたとき、私たちは虚構に降りていて、その降りた先の虚構の中で「恐竜がいる」と思っているのです。それは虚構的真理です。

虚構世界を外から見ること

 一方で、私たちは虚構に完全に埋没してしまうのかというと、そうではありません。同時に、私たちは虚構を俯瞰する目線もあります。

We see, now, how fictional worlds can seem to us almost as "real" as the real world is, even though we know perfectly well that they are not.

 繰り返しになってしまいますが、私たちは『ジュラシック・パーク』を観ていて家から飛び出したりはしません。なぜならそれが虚構だと分かっているからです。
 この点については、中川の挙げていた例もまた別の角度で非常に有用なので、そのまま引用しましょう。

ヒッチコックの映画『サボタージュ』(1936)に、それと知らずに時限爆弾をかかえて走る少年がでてくる場面がある。せまりくる爆発の時間を知っている観客は手に汗を握って少年を見守る。そして……なんと時限爆弾が爆発するのだ。観客はあっけに取られる。なぜ観客は驚いたのか――それはこの爆発が映画の文法を無視しているからだ。
「この事例がわたしの言いたいことを見事に説明してくれるだろう。すなわち、たしかに、手に汗にぎって少年を見守っているとき、わたしたちは虚構に降りていっている(のめりこんでいる)。しかし、もう一つの冷静な目、虚構を虚構として見ている視点が同時に存在したのだ。その視点は少年が爆死したときにあらわになる――その視点こそが、『なぜヒッチコックはこんな映画の文法を無視した展開をとったのだ』という感想として浮かび上がってくる視点なのだ」

4. 準恐怖=ごっこ上で感じる恐怖

 先に、「『思ってる』けど『思ってない』、この奇妙なバランスがごっこ遊びの核心です」と言いました。ここまでの読んでくださった方には、この「ごっこ Make-believe」という行為がまさに、私たちが虚構作品と対峙する姿勢と重なるということはお分かりなのではないでしょうか。
 すなわち、私たちは『ジュラシック・ワールド』を観ながら、恐竜がいると「思っている」(=虚構に降りて、虚構的真理を信じている)けれども、「思っていない」(=虚構を外から見ている)のです。この二つの視点を同時に持つ*3ことが、虚構を楽しむということです。

 ウォルトン流に書くと、「ごっこ上で Make-believedly」という彼独自の副詞を用いて、下記のようになります。

Make-believedly we do believe, we know, that Huck Finn floated down the Mississippi. And make-believedly we have various feelings and attitudes about him and his adventures.

 そしてようやく最初提示した疑問に戻りますが、準恐怖とはつまり「ごっこ上で」感じる恐怖のことである、と定義するとスッキリします。ここでも、恐怖なんだけれども恐怖じゃない、という奇妙なバランスを見ることができます。
 もう少し一般化した話として、虚構作品を鑑賞しているときに感じる情動は、準情動quasi-emotionsと呼ばれます。

5. ごっこ遊びが終わるとき

 これでウォルトンごっこ理論Make-believe Theoryについて大筋は理解できたと思いますが、本稿を締める前にもう一つ大事な点について考えてみましょう。それは、「どのようなときに人はごっこ遊びから離脱するか」という問いです。これはすなわち、「どのようなときに人は虚構世界の鑑賞から離脱するか」という問いとパラレルにあります*4
 本稿では主な離脱の方法と思われる2つをとりあげますが、これらが全てであるとは限りません。

①虚構世界にとらわれる be caught up in the fictional world

 例えば、『ジュラシック・ワールド』を観たあなたが「恐竜が怖い!」と家から飛び出してしまったとします。そのとき、あなたは虚構を現実に引き上げ、虚構世界で起こっていることを現実世界で起こっているのだと倒錯しています。あるいは、「虚構世界の中では」という条件付きで真であった虚構的真理が、注釈抜きに「真理である」と信じてしまっている、と言い換えることもできるでしょう。これが、「虚構世界にとらわれる」状態です。
 これをごっこ遊びの二つの成立要件から見てみると、「思っている」と「思っていない」のうち後者、すなわち「虚構を外から見ている」視点(=これが映画だと分かっている)が失われてしまっているわけですね。

②虚構性を暴露する expose the fictionality

 例えば怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけたとします。そんなことを言われてしまった暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。「ま、まあ、せやな」といった感じです。同時に、そう言った後の子供がまた「キャー」と叫びながら逃げまわるのもおかしな話でしょう。
 映画でも一緒です。『ジュラシック・ワールド』を観て準恐怖を抱いているあなたに、部屋に入ってきた父親が「そんな下らない映画で何ハラハラしてんだよ」と言った瞬間、あなたの気持ちは一気に醒めます。あるいは外部の人間を用意しなくても、ホラー映画を観て抱いた準恐怖が余りにも大きくなってしまったときに、震える手を抑えながら自分で自分に「これはただの映画だから」と言い聞かすこともありますよね。
 これらの例では共通して、<ごっこ遊び>/<虚構作品の鑑賞>の最中に、自分(たち)が「ごっこ遊びをしている」/「虚構作品を鑑賞している」という事実に明示的に言及するexplicitly mentionことによって、虚構性が暴露されています。それによって(虚構に降りていた)あなたは現実世界に引き戻されてしまい、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)は真ではなくなります。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残されてしまうのです。

 以上のように、「虚構を現実に引き上げる」ことと「虚構性を暴露する」ことは、<ごっこ遊び>/<虚構作品の鑑賞>からの離脱を導きます*5

6. ごっこ理論と「虚構のリアル」理論は同じものを見ている

 さて最後に、蛇足かもしれませんが、ウォルトンごっこ理論を、私が勝手につくった「虚構のリアル」概念と比較してみましょう。虚構のリアルとは、

①もともと虚構であるものが、「リアルなもの」として提示されている
②本当にリアルだと信じこんでいるわけでなくても、受け手側もそれを「リアルなもの」として引き受けている

 という状態として私が定義した用語で、「いじりといじめ」の問題を論じるうちにたどり着いた概念でした。
 この虚構のリアルという概念を見返してみると、まさに、ごっこの定義と重なる(より正確に言うと、言いたいことは同じなのだけれど、言語化のレベルにおいて私のほうが生煮え)ですね。「虚構のリアル」が「ごっこ」とイコールで、「虚構的真理」とは全然イコールではないというのがややこしいところですが……
 そこで次回は、「バラエティ番組の『いじり』は『いじめ』なのか」という問題について、以前と基本的に考え自体は進んでいませんが、「虚構のリアル」という自分の未熟な概念ではなくて、ウォルトンごっこ理論に則って考えてみましょう。

satzdachs.hatenablog.com

*1:Walton, Kendall L. "Fearing fictions." The Journal of Philosophy 75.1 (1978): 5-27.

*2:http://www.merapano.net/~satoshi/anthrop/class/quotation/fiction.html

*3:この「二つの視点」の議論とラカン鏡像段階の議論の類似性に中川は触れています。すなわち、鏡の中の自身を初めて見た幼児が「鏡の中の自分」と「鏡の外側の自分」という二つの視点を同時に体験したとき、「自我」が生まれるのです。
 さらに中川は、この「二つの視点」の議論を、人類学者が参与観察に向き合う姿勢とも重ねます。以下に引用しますが、中川フィクション論の用語法的に、「融即」は「虚構に降りていく」こと、「一抜ける」は「虚構を外から見る」ことを指します。

 人類学者は融即している現地の人でも、一抜けて、観察している旅人でもない。それでは人類学者はどのような態度で異文化に接しているのだろう、と。答は、彼女は融即と観察とを同時に行なっているのだ、ということになる。まさに融即・観察あるいは参与・観察である。

 参与観察を行なう理想の人類学者は、原住民のように妖術師を怖がる(融即)のではなく、ましてや『妖術師などいない』と一抜けるのではない(観察)。異文化という虚構の中で現実の妖術師を怖がる自分自身を演じるのだ。これが異文化の遊び方であり、正しい人類学のありかたである。

中川敏. "異文化の遊び方." 日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第 50 回研究大会. 日本文化人類学会, 2016.

*4:この問い自体、完全に私のオリジナルのものです。論じる必要がなかったから誰も論じてこなかったのでしょうが、私が目論む今後の議論の展開には欠かせない部分なのです。

*5:逆に言うと、例えば、自分たちが「ごっこ遊びをしている」/「虚構作品を鑑賞している」という事実への明示的な言及を避けることは、<ごっこ遊び>/<虚構作品の鑑賞>を持続させる一つの方法だということです。