『出来損ないの小説家』書評

 久しぶりに短編小説『出来損ないの小説家』を読み直し、書評を書こうと思い立ち筆をとった。ネタバレ有りですのでまだ読んでいない方はご注意を。

 荒井という男は、自分を見る冷ややかな目線を携えている一方で、「世界を変えたいから小説を書くんだ」と(本気で)言ってしまう一面も同時に持つ。そのどうしようもない青臭さを嫌いになれない自分と、その嫌いになれない自分を気持ち悪く思う自分とが、彼のなかには同居している。屈折した男である。

 彼は書くことについて重大なスランプに陥っていた。きっかけは或る絵画で、写実的に描かれた林檎の横に素っ気なく"apple"と書きこまれていた(因みにこの絵は、実際に存在する横尾忠則の絵画である)。林檎ということは見れば分かるのに、写実的な雰囲気を壊してまでわざわざ"apple"と書いたのはなぜか。彼にはその理由が分からない。その分からないという事実が彼には耐えがたい。彼は文字に対する信頼感を失う。
 そのスランプは娘の死をきっかけに加速する。文学が想像力を文字で描くことだとすれば、その想像力への信頼感すら彼は失う。彼は死ぬ前に娘が何を思ったのか、全く想像することができない。何も分からない。そんなクソな自分はクソな文章しか生み出すことができない。それなのに、世間からの彼の文学への評価は変わらず、彼は失望する。自分がこれまで書いてきたものを、誰も何も理解してくれなかったのではないだろうか。果たして彼は自分の文学が嫌いになる。
 そして彼は妻をも失う、「もうあなたはわたしが好きだったあなたじゃない」という言葉を残して。(ラストで明かされるように)当時彼は自分の実存を全て妻に委ねていた。存在の支柱が外れ、彼は寂寞とした地に投げ出される。
 彼は自分のことをこう表現する――「出来損ないの小説家」だと。

 そんな彼を救うのが乃木ヒカリという存在である。乃木ヒカリは、荒井修二という作家の大ファンで、彼がクソだと思っていた小説さえもすべて愛していた。彼女は、自分の好きな作品を荒井に「お金が必要だったから、仕方なく、とりあえずで書いただけの小説」とまで言われてもなお、こう答える。

「いいですよ、別に」
「え?」
「色々考えましたけど、全然気にしないですよ、わたしは」
「気を遣ってくれなくても、失望したなら失望したと罵ってくれてもいいんですよ」
「別に気を遣ってるわけではないです」乃木ヒカリはきっぱりと言う。
「正直今、驚きました。あの作品がそうやってできたのかということと、作家の方がそんなことを一ファンであるわたしに言ってくれるのかということで。でも思ったんですけど、わたしが荒井さんの小説に共感して、感動して、元気をもらったっていうのはやっぱり事実だし、そのおかげで今こうしていられるというのは確実にあるんです。『かぼちゃと少女』はもちろんですが、『そこに牡丹が落ちていた』も、『苦い思い出』も。あれがわたしに色んなものをくれたっていうのは揺るぎないことですから」

 荒井は乃木という一人のファンの存在について、自分の作品の意味について考え始める。自分が小説をどう思って書いたとしても、それによって救われた人がいるという紛れもない事実を彼女は教えてくれた。彼女の感謝を丸っきり無視して、「違う違う、自分の小説は本当はサイアクなんだ」と駄々をこねるのは自分のエゴでしかないのではないか。そうやって自分の小説を真摯に読んでくれる人を正面から受け止めてあげるのが誠実さではないのか。
 彼は徐々に変わる。自分の小説に出てくる人間が生きてるとか死んでるとか、自分の小説を「本当に」理解してくれるのかどうかとか、それにはもう拘泥せず、彼は「書く」という行為それ自体に集中するようになる。彼は新たな短編小説を書く。結局それが妻に認められることはなかったが、彼は新たな自己認識のもとで小説家としての人生を生き始める。
 それは彼が「出来損ないの小説家」ではなくなったというわけではない。むしろ、彼が自分のことをそう思わなくなる日が来ることはないだろう。それまでと違うのは、「出来損ないの小説家」である自分と正対しているということだ。自分をただ卑下することは、自分が見えているようでいて、実は自分を見ることから逃げてもいる。自分の評価を低くつけて、それ以上期待しないことは、その期待が裏切られないという意味で、楽である。しかしそれでは決定的に、何かが足りない(その「何か」が何かはたぶん作者は分かっていないし、今の私にも分かっていない)。
 別に自分を「最高の小説家」と思わなくていい。「出来損ないの小説家」でいい。それでも、自分のこの作品だけは好きとか、この表現だけは自信があるんだとか、一つだけでも小説家として愛せる部分があれば、それを存分に愛してあげればいい。そうすれば、自分の小説が誰かにとって救いであることを信じることができるし、もっと言えば、世界を変えることができるかもしれないと無邪気に願うこともできる。別にそうしないと駄目というわけではない、ただ、たぶんそのほうが人生は楽しい。

 この小説の難点を挙げるとすれば、乃木ヒカリが都合の良い登場人物になってしまっていることである。乃木は荒井の物語を進めるためだけに都合よく登場し、彼女自身に決して興味は向かない(自分にしか興味がない)。乃木ヒカリの存在はいたって空虚であり、自分を肯定する存在を希求する作者の欲望の表出か、とまで言うのはさすがに意地悪か。

 蘊蓄的になってしまうが、新井修二という主人公の名前、そしてその新井の作品とされる『かぼちゃと少女』『そこに牡丹が落ちていた』『苦い思い出』というタイトルから、或るひとりの偉大な作家へのリスペクトが感じられるところも、この作品の楽しみどころのひとつである。