受験戦争と新自由主義

 本稿では、いわゆる受験戦争を勝ち抜いてきた高学歴の学生と新自由主義の相性がなぜ良いのかをまず論じ、医学部においてそれがどのように表出しているのかに目を向けたあと、教育において何をすべきかについて考えてみたいと思います。

1. 上野千鶴子の東大スピーチ

 もう全然タイムリーではありませんが、今年の4月、上野千鶴子さんの東京大学2019年度入学式のスピーチが話題になっていました。

www.u-tokyo.ac.jp

 スピーチの終盤に以下のようなくだりがあります。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

 上野さんはスピーチの前半で東京医大の入試不正に言及していますが、この辺りからはジェンダーの問題にとどまらず、より広い話として捉えられます。例えば私が今の大学に入学できたというのも、小学五年生から中学受験用の塾に通うためのお金、六年間私立の中高一貫校に通うためのお金、大学受験対策の予備校に通うためのお金、大学を受験するためのお金、その他とうてい列挙しきれない莫大なお金を両親が私に投資してくれたからこそ叶ったことなわけです。別の言い方をすると、自らの家庭が恵まれた環境だったおかげで私は「がんばれた」し、「報われた」のです。

2. 反発する東大生

 ところが、入学式当日、(反響が大きかったことを受けて、事後的に)Twitterで #東大入学式2019 のハッシュタグでツイートを検索してみたのですが、この部分に怒りを覚えている東大生あるいは京大生が一定以上見られました。以下は一例です。

そりゃ祝辞で出てきた奴にお前らが入れたのは周りの環境のおかげで努力したわけでは無いとか言われたらキレていいぞ

 大学受験に向けて努力に努力を重ね、ようやく晴れて東京大学に入学することになったその日にこう言われてしまい、自分の努力が否定されてしまったような気持ちになってしまったのでしょう。これを、東大生らしからぬ短絡的な思考だ、と貶すのは簡単ですが、しかし私はすごくその気持ちは分かるのです。今の私なら上述のようにこのスピーチを受け止められますが、大学に入ったばかりの私が聞いていたら、彼らと同じように憤慨していたと思います。
 やっぱり、受験戦争というのはそれだけ熾烈なものなのです。とにかく死ぬほど勉強します。周りがどんな勉強をしているのか必死に横目で窺って、その少しでも先をいくように勉強して、模試の結果で一つでも順位を上げなければならない。競争を常に迫られる世界で、そこを勝ち抜いてきたというプライドが生まれないほうが不思議だと言ってしまってもいいかもしれません(だからといってその状況を肯定しようとも思いませんが)。一回生の頃、私はバイトでしている家庭教師のことを「自分で努力して得たスキルをお金にしている」と表現していたのですが、今振り返ってみると傲慢で嫌な言い方だなと思います。「俺一人の力で今の学歴を手に入れたんだ」というプライドがそこに滲み出ている。
 繰り返しになりますが、もちろん、その「努力してきた」という事実それ自体を否定したいわけではありません。その「努力」の根底を支えているものがあるということへのまなざしは常に携えておかないといけないという話です。たとえ悪気はなくても、中学受験塾コミュニティ、中高一貫校コミュニティ、国立大学コミュニティという閉じた世界の中で暮らし続けていると、その俯瞰をその人のなかで偏った「ふつう」が形成されてしまい、「自分の成功はすべて、自分の努力の賜物である」と考えることになります。

3. そして自己責任論へ

 最近、『東大医学部』(安川佳美/中央公論新社)という、東大医学部に在学していた著者が自身の学生生活を振り返った書籍を読んだのですが、そこに、このような記述がありました。本人はこういう文脈で書いたわけではありませんし、むしろ読んでいて上述のような話にかなり無自覚な人だなと思いましたが。

勉強とは本質的に、努力を裏切らないものだと思います。「勉強はやったぶんだけ返ってくる」という紛れもない事実を、小中高大と18年間の学生生活を通して、私は何度となく実感し、刷りこまれてきました。(162ページ)

  この、「やったぶんだけ返ってくる」という発想は、どういう考えに繋がっていくのでしょうか?
簡単な話ですが、「努力をしていれば、成果が返ってくる」の対偶は、「成果が返ってきていない人は、努力をしていない」です。対偶なのでこちらも真だということになります。つまり、自分と同じ立場にない奴は頑張っていないからだ、怠惰な人間だからだ、という結論になってしまうことが往々にしてあります。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 上述の上野千鶴子のスピーチは、このように続きます。(本人の責任でなく)恵まれない環境にあるせいで「がんばれない」あるいは「がんばっても報われない」人がいるということを東大生に気付かせたいという意図なのだと思います。しかし、閉じたコミュニティの中で形成されてきた「ふつう」を崩すことは相当に難しい。
 このような、競争的意識および自分と異なる世界に対する想像力の欠如は、安易に自己責任論へと帰着します。成績が悪いのはそいつが努力していないせい。低収入なのはそいつが頑張って勉強してこなかった、働いてこなかった結果。それに比べて自分はこんなにも頑張ってきて、競争に勝ってきたんだ――こんな風に、受験戦争と新自由主義的発想というのは非常に相性がいいのです。
 ここで一応確認のために触れておきますが、今ここで私は、そのような発想になってしまう学生が「存在している」ということについて言及しているだけで、「東大生・京大生は皆こういうもんだ」と主語を大きくして語りたいわけではありません。ただ、どうしてそういう思考回路になり「得る」のか、その背景を見ているだけです。

4. 私が聞いた言葉

 これまでは偏差値の高い大学一般の話をしてきましたが、ここで医学部に目を向けてみましょう。私は今、日々病院で実習をし、きたる国試に向けて勉強を(しようと)している医学部の5回生ですが、最近印象的だった言葉が二つあります。

COPD患者に対して

 一つ目は、更衣室前の学生用の休憩室のようなスペースにいたとき、その人はおそらくパソコンで患者のカルテを見ながら、別の人と会話をしていました。私はその会話に参加していたわけではないのですが、ある言葉が耳に入ってきました。それは、COPD(慢性閉塞性肺疾患)という、長年の喫煙が主な原因でなる病気の患者に対しての感想でした。

この患者、COPD増悪何回もしてるのに、タバコ最近までやめてへんやん。なんでやねん。そんな患者治したないわ。

 新自由主義的な価値観のもとでは、「病気になるのもそいつが健康管理を怠ったせい」*1です。確かにその人の意志の弱さもあるかもしれません*2が、その人がタバコを吸わざるを得なかったような、ストレスの溜まる状況があったのかもしれません。娯楽がそれしかなかったのかもしれません。幼い頃から、タバコを吸うのが当たり前のような環境でしか育ったことがないのかもしれません。そういった、背後にあるかもしれないものを全て捨象して、単純に「こいつが怠慢だから、こいつの責任で病気になった」としてしまうのは、あまりに暴力的に聞こえます。
 私の見方は少しナイーヴ過ぎるかもしれませんが、身近で聞いたその台詞がずっと残っていて、もやもやと考えた結果としてこの記事を書いたようなものです。むろん、カジュアルな会話で、「俺はこんな大胆なことを患者に言っちゃうことができる」みたいな単なるカマシの可能性もあるので、どこまで信用できるかは分かりませんが。

勉強する理由

 もう一つは、医師国家試験に向けて相当量の勉強をしている同級生と話していたときに、私が「今からそんな勉強して凄いなあ」と何の気なしに言ったところ、返ってきた言葉です。

だって、将来研修してるときに、他の大学から来た奴に知識でマウントとられたくないやん。

 「将来医者になったとき困らんように」や「直前に焦るのが嫌やから」といった返答を予想していたのですが、「マウントとられたくない」がいの一番に理由として出てきたことに驚いました。この話を友人にしたところ、別の成績優秀な友人も勉強している理由として「他の奴に知識で負けたくないから」という答えが返ってきたという話を聞きました。もちろん、本当にその単一の理由のみだというわけではないでしょうが、それでもそう答えるというのは少なくともその人のなかでの優先順位が上だということは言ってもいいと思います。
 先に引用した『東大医学部』においても、初期研修先の病院をどこにするか迷う筆者が、以下のような葛藤を吐露します。

私が自尊心を保つには、自分で決めたそれなりに困難な目標に向かって努力し、達成して勝ち取る……というプロセスを定期的にくり返していくよりほかなくて、そのために一番手っ取り早いのが、難関といわれる試験に受かることでした。(173ページ) 

 ともかく、受験戦争を終えてもなお「マウントとられたくないから」「負けたくないから」をモチベにして勉強し続けられるというのは(嫌味でなく)単純に凄いなと思う一方で、そう考えるのが癖になってしまっているだろう、とも思います。でも、そうやって果てしない競争を続けるのには果てしないエネルギーが要りますし、途中で燃え尽きてしまったりしないのでしょうか? いつか自分のこれまでの論理が通用しない場面が訪れたときに、ぽっきり折れてしまわないのでしょうか?

5. 「目標設定・達成サイクル信仰」の裏側にある恐怖

 これまでかなり批判的に書いてきましたが、一方でこの話を友人のNにしたときに、そういう「目標設定・達成サイクル信仰」の裏側には恐怖があるのではないか、と彼は言っていました。

 つまり、目標設定・達成サイクルを信仰する人は、その裏返しとしてそのサイクルが成立しなる瞬間を切実に恐れている。だから、そのサイクルが成立しない世界があるということに意図的に目を向けないようにしている。だからその結果として、「そういうサイクルが回らない人々」への(意図的な)無理解、そしてスティグマが生まれる。

 これを聞いて、彼の指摘はかなり当たっているのではないかと私は思いました。そうしないと生きていけない、信仰による自己防衛のような側面は確かにあるのかもしれません。そうなると、そうやって信仰を抱かざるを得なくなったさらにそのまた背景があるわけで、私たちはそちらへのまなざしも忘れてはいけません。「高学歴の奴らは人の気持ちが分からない酷い人間だ」というような単純な結論で済まない話なのです。

6. ではどうすべきか?

 かなり散漫に話をしてきました。最後に立てるべき問いは、「自分と異なる世界に対する想像力」の涵養はいかにして達成されるか、ということでしょう。
 先に、「今の私なら上述のようにこのスピーチを受け止められますが」と書きましたが、ではどうして私自身がその状態から本稿で書くような考えへと変わっていたのか? その理由にはいくつかあると思います。
 一つ目は大学に入ってから、自分のいるコミュニティの外の人と話す機会が多くあったからです。いや、正確にはそれまでもあったのでしょうが、傲慢な私は他者に自分と違う部分があると「あいつのああいう部分は間違っている」とか「あいつのことは理解できない」みたいにシャットアウトしてしまっていました。大学生になって以降けっこう色々あり、「ほんとうに、相手が間違っていて、自分が正しいという発想でいいのだろうか?」「彼/彼女はなぜあのようなことを言うのだろうか?」ということを考え始めました。この相手に投げかける「なぜ」は自分にも反射し、自分の思考を成立させているものの基盤について目を向けるようになりました。
 二つ目は人文社会科学的な知識を身につけたことです。いや、もちろん、「人文社会科学的な知識」って、何なんだという話なんですが、あくまで独学で哲学やら社会学やら人類学やらを勉強し始めてから、明らかにこの世界の解像度が上がったような気がするのです。高校まではほとんど娯楽小説しか読んでいませんでしたが、大学以降に読んだ本によって、世の中には本当に様々な人間が生きている、ということを知りました。社会において色んなことが起きてきていて、今も起きていて、それに名前が付いている(言語化されている)ことを知りました。
 つらつらと書いてみましたが、私のn=1の経験で結論を出すわけにもいかないので、結局のところ何が最善の案なのかはよく分かりません。というか私もまだまだ不十分なところは多々あるでしょう。
 「自分の知らない世界の人と接するようなバイトをしろ」というのは、間違ってはいないと思いますが、たぶん曝露するだけではだめです。社会学とか人類学の概念をダラダラ授業するだけでは確実に寝ます。倫理のディスカッションの授業の多くは茶番感がして、誰も真面目に取り組まない雰囲気を感じます*3。こういう話は説教臭くもありますし、「フラットにやる」のも非常に難しい領域なのだと思います。この点についてはこれからの大きな課題です(結局、教育の話は避けては通れませんね)。

終わりに

 最後に、上野千鶴子に戻ってきましょう。上述の彼女のスピーチは、さらにこう続いています。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。 

*1:もっとも、もう少し広い目で見ると、「病気になるのは当人が健康管理を怠ったせい」という発想は、医療社会学の分野でよく言われているように、特定病因論から、(多重原因論とリスクファクターを特徴とする)確率論的病因論へと移行し、「自分の健康は自分で管理可能なものである」という思想が根付いてきたからであるとも言えます。

*2:否が応でも中動態の議論を思い出しますが……

*3:倫理のディスカッションの授業の「つまらなさ」は、以前、書いた記事をベースに、また機会を改めて書こうと思っています。

satzdachs.hatenablog.com