エスノグラフィーの歴史

 エスノグラフィーのごく基本的なことだけを知りたい方はこちらをどうぞ。

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1. 「異文化記述」の歴史

18世紀以前:人は、異文化を記述してきた。

 異文化を記述するという営みは、人類の歴史のなかで長い蓄積をもっています。たとえば古代ギリシャの歴史家ツキジデス(BC460頃~BC395)は、ペロポネソス戦争に参加し、異民族の心理に深い洞察を加えました。ローマ帝国ユリウス・カエサル(BC100~BC44)も、ガリア戦記のなかで異民族の生活慣習を活写しました。そこまで時代を遡らなくても、イブン・バトゥータ(1304~1368)やマルコ・ポーロ(1254~1324)といった旅行家は、行く先々の異文化体験を比較考察しながら興味深い文明論を展開しました*1

19世紀① ベランダの人類学者veranda anthropologists

 現代的フィールドワークと呼べるものが現れ始めるのは、19世紀になってからのことでした。初期のフィールドワーカーが直面した問題は、自分たちが行っていることと、やはり見たり聞いたりしたことを書物にしている他の旅行者の行っていることとの次元の違いをいかに示すのかということでした*2。これに対する答えの一つとして、1800年、人間観察協会の一員ジョゼフ=マリー・デジュランドーは「探検家の未開人観察における第一の欠点は、その不完全さである。彼らの滞在時間は実に短いため、その観察は単にそう思われるというだけのものでしかなく、注意力も散漫で、その発見には規則的な図式化がまったく見当たらない」と述べました*3
 実際に文献に初めて"Ethnography"という単語が登場したのは1834年のことです*4。初期のフィールドワーカーたちは、植物や動物を分類するのと同じように、各社会を分類し比較する規範的な社会科学の実践として「エスノグラフィー」を行いました。それは確かに、カエサルやバトゥータのそれよりは「科学的」な試みであったのかもしれません。
 しかしながら、当時のフィールドワークのやり方というのは、船に乗ったままにしろ、植民地末端の出先にしばし滞在するにしろ、現地の人びとの生活からは社会的にかなりの距離を保ちながら、インフォーマントを(たいていはお金を払って)呼びつけ、種々の話を採集するというものでした。彼らは、後の時代の人類学者たちに「ベランダの人類学者」と揶揄されることになります。

19世紀② 安楽椅子の人類学者 armchair anthropologists

 話の流れの都合上、ベランダの人類学者について先に書きましたが、実際、19世紀当時の人類学者は別の方法をとるのがより一般的でした。そのイギリスの人類学者のうち大部分を占めていた彼らは、後に安楽椅子の人類学者と呼ばれることとなります。
 安楽椅子の人類学者は、自分の執筆用作業場から出ることなく、遠く離れた場所や人々についての資料を読み、それをもとに研究を行いました。彼らは、植民地政策、軍事機密、貿易の拡大、宣教師の布教活動、冒険家によってもたらされる膨大な数の資料に加えて、現地の文通相手(=インフォーマント)を通じて情報を手に入れ、「フィールド」の「文化」についてまとめあげたのです*5

ベランダの人類学者にせよ安楽椅子の人類学者にせよ、19世紀までのエスノグラフィーは、フィールドから距離をとって異文化を記述するとことが当り前でした。

「強者による異文化記述」としてのエスノグラフィー

 さてここまで、19世紀までの異文化記述の歴史を簡単に辿ってきました。本節では、政治的な権力関係という観点に注意しながら、その歴史をもう一度最初からなぞってみましょう。
 先述した異文化記述のパイオニアたちは、いずれもが巨大で強力な政治権力――ツキジデスはアレクサンダー大王カエサルローマ帝国、バトゥータはイスラーム王朝、マルコ・ポーロモンゴル帝国――のなかにありました。彼らは強者として、あるいは強者に庇護されたものとして、異文化を上から体験し記述してきました。
 19世紀、"Ethnography"という単語の誕生が、イギリスやアメリカなどの中心的政治権力が「周縁」社会に侵入したときであったのも、こうした強者による異文化記述の歴史の延長線に位置づけることができます*6。当時の"Ethnography"研究の多くはイギリスのRoyal Anthropological SocietyやアメリカのSmithsonian Instituteの支援を受けていましたが、それも植民地拡張の手段の一つとしてみなされていたからなのです*7
 つまり"Ethnography"は、「未開社会」の間での習慣や信念の共通性を強調し、それらの社会が「近代化」する過程を追跡することで、植民地化を合理化する役割を果たしたのです。それはすなわち、文化が画一的・段階的に発展すると考える進化主義 evolutionismに基づいています。
 その後も文化人類学という学問は、欧米の大学に籍を置くミドルクラスの白人の研究者が中心となって発展していきました。

2. エスノグラフィー元年

イギリスの人類学者 マリノフスキーとラドクリフ=ブラウン

 現在のエスノグラフィーの原型とされる『西太平洋の遠洋航海者』が著されたのは、1922年のことです。
 ポーランド生まれのイギリス人人類学者プロニスラフ・マリノフスキーは、第一次世界大戦の勃発により、偶然にもニューギニア島東沖にあるトロブリアンド諸島での調査の継続を強いられました。数年間の滞在の間に、彼は現地の言葉を習得し、現地の人々の生活を観察し、社会関係に深くコミットしながら、「クラ」と呼ばれる腕輪や首飾りの儀礼的交換システムについて研究を行いました*8
 また同時期に、同じイギリス人類学者のラドクリフ=ブラウンがアンダマン島でおこなった調査研究も、現地長期滞在にもとづく一次資料収集という方法によっていました。1922年がエスノグラフィー元年と呼ばれることがあるのは、この二人、マリノフスキーとラドフリフ=ブラウンのエスノグラフィーが刊行された年だからです。
 マリノフスキーは「エスノグラファーが決して忘れてはならないことは、一言で言えば、そこに生きる人々のものの見方や考え方、それらとその人々の人生との関係、そして彼らの世界観を把握することである」*9と言いました。しかし同時に、研究対象とは常に一定の距離を保ち、「客観的に」社会構造を捉えることが重要であるとも説いています。彼にとってエスノグラフィーに主観が入りこむのは「非科学的」だったのです。

このようにして人類学者たちは、対象社会に長期間住みこんで「その社会の一員でありながら、研究者でもある」というアンヴィヴァレントな存在として自らを位置付けるようになります。これが参与観察という手法です。

アメリカの人類学者 フランツ・ボアズ

 マリノフスキーとラドフリフ=ブラウンから少し遅れて、アメリカでも、人類学者フランツ・ボアズによって長期滞在による参与観察という手法がエスノグラフィーの基本的方法として位置付けられました。
 実は、彼の功績はそれだけに留まりません。ボアズは、前節で述べた進化主義の考えをしりぞけ、代わりに「文化に優劣の序列はなく、それぞれが相対的に自立した価値を持つ」という文化相対主義 Cultural relativismの考えを提唱しました。文化相対主義はマーガレット・ミードやルース・ベネディクト等に受け継がれ、多くのエスノグラフィーが作成されていくことになります。

3. 第一次エスノグラフィー・ブームとそれに対する政治的批判

 「エスノグラフィー元年」以降、20世紀の社会・文化研究の方法的牽引車としてエスノグラフィーは発展していくことになります。それは時期的に見ると、二つの大きなエスノグラフィー・ブームの波としてまとめることができます。第一次ブームは第二次大戦後、第二次ブームは1970年代後半~1980年代前半です。本節では、まず第一次エスノグラフィー・ブームと、その揺り戻しとしてのエスノグラフィー・バッシングについて見てみましょう。

第二次大戦後:第一次エスノグラフィー・ブーム

 ボアズによって提示された文化相対主義という理念は、第二次大戦後、独立を達成しようとしていたアジア・アフリカ諸国に熱烈な歓迎をもって受け入れられました。

つまり文化相対主義のもとで書かれたエスノグラフィーは、それまで文明に対する未開として劣等視されてきた「周辺社会」が、自らの社会の固有で精妙な文化を提示し、それによって国際社会のなかで多文化と対等に伍していくための武器として大きな貢献をしたのです*10。これが第一次エスノグラフィー・ブームです。

1960年代末:第一次ブームへの政治的批判

 進化主義から文化相対主義への移行に伴い、<外部>から記述していた人類学者たちが、<内部>から記述することを試みるようになりました。しかしながら、いくら人類学者たちが<内部>へ入ってもなお、「先進国」の人類学者が調査する側に立ち、「発展途上国」の人々が調査される側に立つことという構図には変わりません。そこには依然として「記述する側」と「される側」という非対称な権力関係があります。

つまりエスノグラフィーによって、「先進国」と「発展途上国」とが、「強者」と「弱者」の不平等な関係として固定化され、逆転不可能なものにしてしまう。「文化相対主義」を標榜しながらも、エスノグラフィーはこのような植民地主義的性格を拭いきれていないのではないかという批判の声が高まったのが、1960年代末でした*11

補足

 植民地主義との関連において「調査する側」と「される側」の関係性への批判が出てきましたが、そもそも「調査者が特権的な立場から調査される人々について一方的に書いて発表する」というのは、エスノグラフィーが本来的に内在する性質です。この手法の中では、書き手は自分の声に「科学」の権威的な役目を与え、一方で、調査される人々の声には研究に使用する情報源としての「インフォーマント」という役目を与えられるのです。
 この点については、後述するジェイムズ・クリフォード『文化を書く』においても、改めて指摘されることとなります。

4. エスノグラフィーと社会学

 これまで、エスノグラフィーを文化人類学と一対一対応でお話してきました。確かに文化人類学にとってはエスノグラフィーは必須条件ですが、一方で、エスノグラフィーは文化人類学だけの専売特許ではなく、それ以外の様々な社会科学の領域でもこの手法は採用されています。(少し脇道に逸れて)本節では、なかでも歴史的に重要なエスノグラフィーと社会学との関係について、簡単に触れておきます。
 エスノグラフィーを社会学の分野にいちはやく持ち込んだのは、シカゴ学派でした。シカゴ学派社会学は、1920年代頃、シカゴ大学社会学部おいてに都市社会学者たちを中心に形成されたグループです*12
 シカゴ学派エスノグラフィーを用いた研究で対象にしたのは、遠い外国の未開民族ではなく、日常に近接した近代的な組織でした。1931年、人類学者であるロイド・ウォーナーがシカゴ郊外のホーソン工場に招かれ、働く人の文化や規範に関する調査方法を指導したホーソン実験での参与観察の研究が開始されました。これは「エスノグラフィー元年」から10年も経たないときのことです*13
 シカゴ学派社会学の都市エスノグラフィーの古典して最もよく知られているのは、1943年に出版された、ウィリアム・フート・ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサイエティ』です。ボストンのイタリア人コミュニティの参与観察に基づくこの著作も、ロイド・ウォーナーの影響を受けています。

このムーヴメントを中心として、これまで慣習的に「奇妙」で「エキゾチック」な文化を対象としてきたエスノグラファーたちは、日常の仕事、コミュニティ、組織場面における見慣れた文化にも関心を持つようになりました。かくして、エスノグラフィーの対象は現代社会のあらゆる場面へと拡張されてきたのです*14

5. 19世紀以降の思想史と、第二次エスノグラフィー・ブーム

 さて、話を戻します。これからの話題は、1970年代後半~1980年代前半にかけての第二次エスノグラフィー・ブームです。本節では、(ややこしいですが)時計の針を少し戻して、どのような思想上の問題が19世紀以降に提起されていたのかを順に追っていき、そこから第二次エスノグラフィー・ブームに至る流れへと見ていきましょう。

19世紀:啓蒙主義実証主義

 19世紀に産声をあげた社会学や人類学などの学問は、その中心に啓蒙主義実証主義を据えていました。すなわち、科学と理性によって人間社会の真理を追究し、進歩を遂げることができるのだと信じていました(啓蒙主義)。そして、超越的な存在や内観的・直感的な方法に頼ることなく、あくまでも観察によって確かめられるものに基づいて真理に到達することが目指されました(実証主義*15

19世紀後半~20世紀前半:啓蒙主義実証主義への懐疑

 しかし19世紀後半から20世紀にかけて、啓蒙主義そして実証主義には疑問が投げかけられるようになります。
 代表的なのが、フリードリヒ・ニーチェです。彼は、それまでの西洋の思想のなかで当然視されていた「理性」や「論理」が、決して価値中立なものではないことを明らかにしました。それらはむしろ、各時代の権力を支えるため、「真理」とされる事柄の正統化に用いられてきたというのです*16。かくしてニーチェニヒリズム Nihilism は、それまで物事の基準となっていた最高の諸価値の崩壊を宣言しました*17
 また19世紀後半、カール・マルクスは、「合理性」は特権階級が労働階級を支配し搾取するためのイデオロギーだと主張しました。20世紀初頭には、ジークムント・フロイトが、「合理的」な意識というものは本能的欲望を隠して制御するバリアーとして働いていると主張しました。
 いずれにせよ、これらの近代思想家たちが明らかにしたのは、首尾一貫した合理的論理に至上の価値をおき、客観的真理を希求していたはずの近代科学が実は、現実の世界の一部しか対象化していなかった、ということです。ここにおいて、実証主義は根本から疑義を呈されることになります。「理性」は「真理」や「意味」を発見するのではなく、それらを構築する道具なのです*18

20世紀初頭:言語論的転回

 上述のような考えを発端にして20世紀初頭に生じた動きの一つが、「言語こそが意味を構築しているのだから、世界そのものを見ようとするのではなく、いかに言語が世界をつくりあげているのかを見るべきである」という言語論的転回でした。その筆頭にいたのは、フランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールです。
 ソシュールが明らかにしたのは、言語的記号(シニフィアン)が、その言及する世界(シニフィエ)と極めて恣意的な関係にあるということです。つまり、物事の秩序が先にあってそれに名前がつけられるのではなく、むしろ、言語の内部にある差異の働きが意味を生むのです*19。 

第二次大戦後:構造主義

 ソシュール言語学理論の流れを受け、第二次大戦後に出現したのが構造主義です。構造主義の社会科学者たちは、話し言葉や書き言葉だけでなく、すべての人間行為が言語と同様に意味を持ち、世界をつくりあげるものとして分析の対象としました。どの言語にも規則があるように、どの文化にも規則があり、人間行為の「意味」は、その規則を理解すれば暗号を解くかのように解釈できる、と考えられるようになりました*20
 構造主義人類学を代表するクロード・レヴィ=ストロースは、ある文化のなかで婚姻関係の背景にある構造について研究しました*21。彼は、様々な文化の構造を研究することによって、最終的には、どの文化にも共通する普遍的な構造が見えてくると信じていました。

1950年代~1960年代:ポスト構造主義

 「ポスト構造主義」の名のもとで(粗雑に)まとめあげられる思想家にはミシェル・フーコージャック・デリダ、ジル・ドゥールーズ、フェリックス・ガタリフランツ・ファノンシモーヌ・ド・ボードヴォワールなどがいますし、その思想は本当に様々ですが、紙幅の関係と私の知識不足でその全てを論じることは到底できません。そこでここでは、フランス人哲学者デリダについてだけごく簡単に触れておきます。
 デリダは、構造主義的人類学を徹底的に批判しました。彼はレヴィ=ストロースの婚姻関係の研究をとりあげながら、「自然―文化」の二項対立が厳密には成立していないことを論証しました。そしてさらに、構造主義は「理性」「自由」「人間性」「神」と同じような超越的な存在を想定してしまっている時点で、形而上学という西洋の伝統的思考から脱却できていないという批判をしました*22

かなり難しい話になってきました(私自身、十分に理解できていません)。しかしともかく大事なこととしては、ニーチェ以降、科学的進歩や普遍的な人間理性といった「大きな物語」への懐疑が通底してあり、そこからの脱却を図ってきたということです。

1970年代後半~1980年代前半:第二次エスノグラフィー・ブーム

 こうした一連の科学への懐疑は、科学を包む政治、経済、文化に対する再検討も必然的に引き起こしました。その時代において、エスノグラフィーから得られた知見は、近代西洋文明を自省し問い直す知的営みとして格好の題材を提供したのです。市場論理を絶対視しない経済や、官僚制を伴わずに民主的な政治を可能にする政治形態、障害者や女性を排除せず社会に包摂する開放的社会システムなどが、各地のフィールドからエスノグラフィーとして報告されました。

かくして欧米の人文社会科学者たちは、近代西洋文明の危機に対する処方箋を求めて、こぞってエスノグラフィーが提示する「周縁」「辺境」的知の可能性に飛びつき、その愛好者となっていきました*23

1986年:『文化を書く』

 しかし1986年、ここに、歴史学者ジェイムズ・クリフォードの『文化を書く』によって、重要な批判が提出されました。それは、そもそもエスノグラフィーそれ自体も、「現地で発見した『事実』を『客観的』に記録し、『科学的に』分析すれば、非西洋の文化の『真理』が見えてくる」という暗黙の前提に基づいているのではないか、という疑問に端を発します。エスノグラフィーとそれにもとづく民族誌イデオロギーと実践を、徹底的にかつ根源的に批判した『文化を書く』の内容を、これから見ていきましょう。

文化人類学は「西洋」の権威を前提に成り立っている

 先述したように、この論点は既に1960年代から提出されていますが、『文化を書く』において決定的に重要な批判として受け入れられました。この時代の民族誌的権威の問題は、批評家エドワード・サイードが1978年に出版した『オリエンタリズム』の強い影響があります*24。サイードによれば、「オリエンタリズム」というのは、西洋が東洋を負のイメージとしてステレオタイプ化する「思想の様式」であるともに、その思考様式によって西洋が東洋を支配し再構成し威圧するための「支配の様式」であったことを示す語です*25

② 書き手は意図的に取捨選択している

 エスノグラフィーの書き手は、特定の人の意見について書き、それに一致しないさまざまな声を黙らせることがあります。書き手が無関係であるとみなせば、ある個人的環境や歴史的環境は記述から排除されてしまいます。さらに、暴力的感情・行為、過剰な喜び、ひどい混乱状態、重大な失敗など、自分自身の感情や失態については書かれない傾向にあります*26
 実は、こういった指摘の萌芽は、1967年に既に見られます。その年はちょうどマリノフスキーの没後25年で、先述の彼がトロブリアンド諸島のエスノグラフィーを執筆中に現地で記していた『厳密な意味での日記』が出版されました。日記の中でマリノフスキーは未開のインフォーマントらをけなし、彼らへの苛立ちや嫌悪をあらわにし、辺境の地で経験した深い孤独感について語っていました。「客観的」で「科学的」であることを目指し、理性の象徴のような存在だったマリノフスキー像を揺るがすようなその内容は、当時の文化人類学者に衝撃を与えました*27

エスノグラフィーは「私」の社会の知識体系の再生産である

 『文化において書く』において、最もエスノグラフィーに対して根源的な批判をしているのはここです。クリフォードは、フィールドの現実を切り取る概念やそれを表現する語彙、そしてそれらを生み出す知識の回路すべてが、フィールドワーカーが属する社会のなかにすでにインプットされていて、エスノグラフィーはそれを参照することによって次々に再生産されているだけだと主張したのです*28
 この考えのもとでエスノグラフィーは、主題であるネイティブな文化についてよりも、むしろそれ以上に著者について読者に語る、文学的産物として捉えられます*29

要するに、「大地を上から眺めて、人間の生活様式を地図に描くような見晴らしのよい場所」など存在しません。民族誌に描写される真実は、唯一の絶対的な「真実 the truth」ではなくて、複数の「部分的真実partial truthなのです。以上のような指摘をもってクリフォードは、人類学者が民族誌を書くことの自明性や正統性を批判的に問い直そうとしました。

7. 『文化を書く』以後のエスノグラフィー

 今に見てきたとおり、『文化を書く』が出版されて以降、エスノグラフィーをとりまく状況は全くもって変化してしまいました。クリフォードが指摘した問題点を乗り越えようと、様々な実験的民族誌が提唱されています。

① 告白的なエスノグラフィー confessional ethnography*30

 この実験的民族誌においては、「私」という一人称単数が用いられ、エスノグラファーが舞台の中央に登場します。自伝的でほとんど告白的な要素がエスノグラフィーの作成に入りこみ、自分自身の欲望、混乱、奮闘、取引など、以前は「無関係」であった話題が記述されます*31
 すなわちここでは、自己再帰的なまなざしのなかで、「知識」や「事実」そのもの――「私は何を知っているのか」――だけでなく、それらがもたらされた背景――「それを知っている私は誰か」――を描き出すことに主眼が置かれています*32 

ネイティヴエスノグラフィー gone-native ethnography

 伝統的なエスノグラフィーの手法への反発として、告白的エスノグラフィーは、研究者自らのアイデンティティを最終テクストに明示するという手法をとりました。それに対して、ネイティヴエスノグラフィーでは、研究対象となる文化のなかに意図的に研究者のアイデンティを埋没させることを目指します*33

 それはすなわち、ネイティヴの文化に長期滞在することにとどまらず、エスノグラファーが文化の日常的次元を可能な限り純粋なレベルで経験するために、ネイティヴの一人に「なる」ことを意味します。 実験的民族誌は以上に挙げた例に他にも様々ありますが、いずれにしても大きな研究成果をあげるまでには至っていないという評価がなされています*34
 『文化を書く』が巻き起こした論争の大きさにもかかわらず、それ以降の民族誌を書くという作業には、決定的と言える変化は依然として見られないのが現状です。 

※新しいエスノグラフィーの一つ、オートエスノグラフィーの解説はこちらから。

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*1:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002

*2:John Van Maanen. フィールドワークの物語: エスノグラフィーの文章作法. 現代書館, 1999.

*3:Moore, F. T. C. The Observation of Savage People (byJ.-M, de Gerando),(with a preface by EE Evans-Pritchard). University of California Press, 1969.

*4:木原雅子, and 木原正博. 現代の医学的研究方法: 質的・量的方法, ミクストメソッド. メディカルサイエンスインターナショナル, 2012.

*5:John Van Maanen. フィールドワークの物語: エスノグラフィーの文章作法. 現代書館, 1999.

*6:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*7:木原雅子, and 木原正博. 現代の医学的研究方法: 質的・量的方法, ミクストメソッド. メディカルサイエンスインターナショナル, 2012.

*8:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*9:Malinowski, Bronislaw. Argonauts of the Western Pacific. EP Dutton & Co, 1922.

*10:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*11:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*12:中野正大, and 宝月誠. シカゴ学派社会学. 世界思想社, 2003.

*13:金井壽宏, and et al. 有斐閣. 2010.

*14:Pushkala Prasad. 質的研究のための理論入門. ナカニシヤ出版, 2018.

*15:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*16:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*17:小阪 修平. そうだったのか現代思想: ニーチェからフーコーまで. 講談社+α文庫), 2002.

*18:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*19:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*20:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*21:Claude Lévi-Strauss. Les structures élémentaires de la parenté. Presses Universitaires de France, 1949.

*22:仲正昌樹.〈ジャック・デリダ〉入門講義. 作品社, 2016.

*23:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*24:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*25:張玉玲. 誰が如何に文化を語っているか: 文化人類学の文化認識の現在. 山口県立大学学術情報, 2017, 10: 75-85.

*26:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.

*27:マリノフスキー. 谷口佳子訳. マリノフスキー日記. 平凡社, 1987.

*28:松田素二, and 川田牧人, eds. エスノグラフィー・ガイドブック: 現代世界を複眼でみる. 嵯峨野書院, 2002.

*29:Pushkala Prasad. 質的研究のための理論入門. ナカニシヤ出版, 2018.

*30:John Van Maanen. フィールドワークの物語: エスノグラフィーの文章作法. 現代書館, 1999.

*31:Pushkala Prasad. 質的研究のための理論入門. ナカニシヤ出版, 2018.

*32:Pushkala Prasad. 質的研究のための理論入門. ナカニシヤ出版, 2018.

*33:Pushkala Prasad. 質的研究のための理論入門. ナカニシヤ出版, 2018.

*34:藤田結子, and 北村文, eds. 現代エスノグラフィー: 新しいフィールドワークの理論と実践. 新曜社, 2013.