もうすぐ僕は学生ではなくなるし、青春は終わるし、いつか死ぬ。

ああ なんとなく
僕たちは大人になるんだ
ああ やだな やだな
なんとなく いやな感じだ

銀杏BOYZ “なんとなく僕たちは大人になるんだ”

 これから僕が書くのは、ほんとうに当たり前の話ばかりですが、ここ最近で現実の手触りが大きく変わったことで、その感触をどこかに記録しておきたくてキーボードを叩いています。自分から出てくるのは何百回もダビングされたような言葉ばかりで、そうしている間にも原初の感覚は指からこぼれて落ちていってしまうのですが、それでも僕は書き続けるしかないので書きます。

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 家庭教師先の家から最寄りの駅までいつも送ってもらうのですが、22時頃のその駅にはたまに、高校生たちがたむろしています。どこの高校生かは分かりませんが、それはカップルだったり、4人くらいの女子グループだったり、全員坊主の野球部集団だったりします。彼ら/彼女らは改札に入る前のスペースにある手すりのようなものに腰掛け、無駄に過ごすために用意された時間をひたすらに無駄に過ごしています。
 僕は男子校出身なのでカップルの甘酸っぱい思い出などありませんし、所属してた部活でも駅でたむろするということもあまりしませんでした。それでもそんな様子を見ると、僕は「懐かしいな」という感情を抱いてしまいます。何か特定の光景というよりは、「高校生」という記号に付随する何もかもが懐かしくて、愛おしくて、羨ましいのです。そしてその感情の後にやってくるのは、「もう僕はそれを手に入れることは永遠にできないのだな」という寂しさです。

 もうすぐ僕は、高校生はおろか、大学生ですらなくなります。一年とあとちょっとです。小学生のときから数えると、僕は17年近く自分の身分が「学生」でした。自分が学生であるということを意識しなくてもいいくらい、それは当たり前のことでした。
 なんか、僕が学生でなくなることなんて一生ないって、心のどこかで思ってたみたいです。でも、終わりが来るもんなんですね。ついに僕も、俺が学生の頃はなあ、と過去形で語るときが近付いてきています。あれ言うの、自分とは別世界の人間だと思ってました。いやもちろん、あり得ないことだっていうのは頭では分かってるんですけど、でも自分があの妖怪「オレガガクセイノコロハナー」の仲間入りをするかと思うと、何とも信じられません。

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 この前、夜の百万遍をふらふら歩いていたときに、僕の目にふと入ってきたのは、何とも味のある店構えのおむら屋と、その隣にある古臭い銭湯でした。闇夜に味のあるやわらかな光をもたらしてくれるその光景は、僕がこの大学に入ってから何百回・何千回と見てきたものでしたが、なぜだかその日はその瞬間、いつもと違う感情が僕を襲いました。
 もう、この光景はじゅうぶん見たかもしれないな、と僕は思ったのです。京都という街が居心地良いばっかりに、京都に長くい過ぎたなあ、そろそろ出ていかないといけないなあ、という諦めにも似た感情が、おむら屋と銭湯の横を通り過ぎて、鳥貴族の前を通って、出町柳で電車に乗って、駅から原付に乗って、そして家に着くまでずっと、僕の頭から離れませんでした。

 一番の仲の良い友人のNとお酒を飲みながらうだうだ話していると、自分たちは今、停滞している、と感じます。それは悪いものではなくてむしろ気持ちの良い停滞で、社会にとって大事なことや、社会にはとるに足らないことでも自分たちには大事なこと、自分たちにとってもどうでもいいこと、その全てについて一つ一つ足を止めて考えられる最高の時間です。これこそが学生の、青春を過ごす者の特権であると僕は思います。
 しかしそれはいくら気持ち良くても、停滞は停滞です。いつまでも青春の残滓を舐め続けているわけにはいきません。僕たちは大人にならないといけないんです。京都に来て五年近く経ち、来年で六年目になりますが、本当に、最高の青春をこの京都で過ごさせてもらいました。僕は学生生活を振り返っても何一つ後悔はありません。だけど、というかだからこそ、さすがにもうそろそろ、潮時でしょう。

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 僕は今年、気胸のために一週間入院しました。初めて、息ができなくなって苦しくなる経験をしました。そして気胸の手術を受けて、初めて、手術後に自分の体が弱って起き上がることすらできないという経験をしました。尿道カテーテルを入れられて、自分の尿が自分の意志とは無関係にちょびちょび流れていくのを情けなく眺めるという経験をしました。生来健康だった僕にとっては、その経験のどれもが抱いたことのない感情を惹起し、耐え難いものでした。それでもやり過ごすことができたのは、一週間経てば(ほとんど)確実に自分が元気になって退院できるということが、医学の知識としてよく分かっていたからです。
 しかしそれ以降、ふとした瞬間に考えます。あれは自分が元気になるという前提があったから耐えられたけど、いつかは、「もう自分はこれから弱っていく一方である」という事実に直面しなければならないわけです。尿道カテーテルもいつか抜くと分かっていたから耐えられたけど、ずっと入れてないといけない日が来るかもしれない。ベッドでの生活も限りがあったからやっていけたけど、もう二度と自分の足で大地を踏みしめられないと分かる瞬間が来るかもしれない。
 そう思うと、僕は怖くて堪らないです。「いつか死ぬ」というその事実が、僕にはまだ受け入れられない。

 この思考には、自分が学生でなくなるということを考えている途中でも陥ってしまいます。自分が大学を卒業することを考えると、そこから就職して働き始めることを考え始めて、結婚して子供ができることを考えて、その辺で自分はどうやら周りの大人と同じように老いていくのだなと気が付いて、ということは、いつか死ぬんだな、と思います。そうなると、僕は何のために今生きているのだろうか、とも思います。
 限りある生をどう生きるか? 刹那的に、今が楽しければいい、というような生き方はどうやら僕には無理そうです。人生に「何か」を求めています。その「何か」が何かを探し続ける過程こそが人生だ、なんて格好いいことはまだ僕にはとうてい言えなくて、ただ毎日、何となく焦燥感と閉塞感だけを募らせていく。

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 今年はFacebookに投稿したのが76725文字、noteに投稿したのが123740文字。そして公開はできませんが、臨床実習をしながら書いていた、32週分のフィールドノーツは全部で251305文字。全部で451770文字です。この足し算にどれだけ意味があるかは分かりませんが、今年はこれまでの人生で最も文章を書いた一年であることはまず間違いないです。
 僕はしばしば、何の理由もないのにぐうっと落ち込んだり、自分という存在が気持ち悪くなったりします。しかしそんなときでも、文章を書いているときだけは、自分が生きているという実感を得、自分の生きた証をこの世に残せていることに安心し、そして自分をきちんと愛することができます。文章を書くのは前から好きなつもりでしたが、そういうことに気が付いたのは今年が初めてでした。
 以前は何の努力もせず、とにかく「自己肯定感が低い」と言ってはハードルを下げ、自分と向き合うことから逃げてばかりでした。でも今年は、少し変われた気がします。

 もうすぐ僕は学生ではなくなるし、青春は終わるし、いつか死にますが、それでも、来年も文章は変わらず書き続けます。僕は生きます。