医者になりたい

 令和2年2月20日の夜、私は、宿舎のベッドの上でプレゼンのスライドを作っていた。浅井東診療所での3週間の実習を終え、次の日の昼にまとめの発表をしなければならなかったからだ。午後の早い時間に準備を始めたのだが、すっかり外は真っ暗になっていた。3日前、部屋に侵入を許したてんとう虫の羽音が微かに聞こえる。あらかた完成したスライドを眺めつつ、締めの言葉を何にしようかなと考えたとき、ふと私は、医者になりたい、と思った。

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 遡ること5年前、平成27年の4月に医学部へ入学したとき、私は医者になりたくなかった。
 私はほんとうは小説家か哲学者になりたかったのに、同級生へのコンプレックスが原因で早々に諦め、「手に職」で安直に医学部に来てしまった。最初は完全に進路を間違えたと思った。しかし1回生の夏、何の気なしに行った僻地医療実習で孤独死の問題に関心を持ち、それが私を医学部に繋ぎとめることになった。そして孤独死への関心から派生して、公衆衛生学や医療倫理学に手を出して勉強することにした。どの分野もおもしろくないわけではなかったが、自分にはどうもしっくり来なかった。
 平成29年(3回生)の冬、中川米造という人物の著作に出会う。「医学概論」の専門家を自称していた彼は、医学哲学/医療倫理学・医療社会学/医療人類学・医学史を3本の柱にしながら、「医学とは何か」という壮大な問題について論じていた。私は端的に、おもしろいと思った。医学/医療について書いた人文社会科学系の書籍をひたすら読み漁ることにした。
 この辺りの経緯については、断片的ではあるがこれまで記事に書いてきた*1*2*3。結局、今から思うと、私はずっと「医者にならないでも良い道」を探していたのだと思う。「医者が嫌だ」というネガティヴな動機に少なからずドライブされていた。逃げていた……もちろんここで、医学部を出て医者にならない人を否定するわけではない。あくまで私の人生について話している。

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 平成31年4月、私は5回生になり、臨床実習が始まった。それと同時に、前の年に読み漁った書籍のうちの1つ『ボディ・サイレント』から思いつき、「臨床実習のオート・エスノグラフィー」という研究を始めることになった。私は平成31年4月~令和1年12月にかけて臨床実習に参加しながら、その経験をフィールドノートに記述した*4
 この、(オート・エスノグラフィックに)フィールドノートを書くという営為は、想像以上に私の身体に馴染んだ。その場を俯瞰で見て、どこに何があって誰がどうしていてそしてそこで自分がどう在るかを捉える――それは、昔から二重意識(常に、ちょっと上から自分自身を眺めているような感覚)と共にあった私にとって、日々生きながらいつもやっていることだった。自分のこんな特性が学問に生きるのか、と心の底から嬉しかった。文化人類学という学問を究めたいと私は思った。
 年が明けて令和2年になる頃には、オート・エスノグラフィー研究を医者になってからも続ける覚悟は固まっていた。もう少し正確に言うと、これを臨床実習の間だけでなく初期研修医・後期研修医でも継続すればおもしろい研究になるはずだという確信があり、それを考えれば医者になってもいいかな、と思うようになったのだ。つまり、「医者になること」それ自体が目的にはなっていないが、手段として医者になることについては前向きに考えられるようになった。これまでの自分を鑑みると、それはとても大きな進歩だった。曲がりなりにも「医者になりたい」という思いが生まれたのだから。
 私はこのまま、学生生活を終えて医師国家試験を迎えても自分に悔いはなかった。でも心のどこかで、純粋な動機を希求する気持ちは消えてはいなかった。ほんとうの意味で「医者になりたい」人になりたかった。まあでも、と私は思っていた。自分の生き方はこうなんだろうな。

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 そしてようやく話は、浅井東の、やたら天井の高い宿舎の部屋のベッドの上に戻ってくる。私はどうして、突然「医者になりたい」と(まっすぐに)思ったのだろう?
 率直に言うと、よく分からないというのが答えだ。ほんとうに、あのとき私のなかにふと湧いてきた感情がそれだったのだ。確かに、浅井東診療所の先生たち、そして医療人類学のS先生と語りながら過ごす3週間は、かつてないほど充実した日々だった。でもそのうちのどの経験が、自分をこういう気持ちにさせたのかは未だ分からない。
 私は今、焦って言語化してそれに現実が固定化してしまうのが怖い。だから、もしかしたら、これが関係あるかもしれない、ということだけここに羅列して書いておく。

もしかしたら、自分の声のトーンを褒められたから、かもしれない。
 とても印象に残っている出来事がある。第2週目の木曜日、私は自己紹介と称して診療所で自分のこれまでの学生生活について話した(上述のような内容だ)。それが終わったあと、ある人がコメントで「声のトーンが人を安心させるから、医者になって欲しい」と言っていた。
 私はそれが、妙にめちゃくちゃ嬉しかった。これまで医学に関係のない領域で知識を持っていたり研究をしていたりすることについて褒められることはあっても、医者になる資質について褒められることはなかった。その日のフィールドノートに、私はこう記述している。
“「医者になりたい」とストレートに思ってるわけじゃないのに――いや、思っていないからこそ嬉しかったのだろうか? その言葉が、自分を医療に繋ぎとめる、よすがのような
気がしたのだろうか?”

もしかしたら、浅井東診療所におもしろい人たちがいたから、かもしれない。

 浅井東診療所の人たちは、それぞれが自分なりのやり方で「医者している」ように見えた。私はそれをフィールドノートに記述した。こちらがどんな質問をしても、彼ら/彼女らは必ず明確な答えを返してくれた。その質問がその人にとって未知の話題だった場合は、その場で丁寧に考え始めてくれた。毎晩、私はそれを持ち帰ってS先生と議論して、また次の日はここを聞いてみよう、見てみようと思って実習に臨んだ。すると「医者する」ことについて、新しい発見があった。そしてまたそれをフィールドノートに記述した。こんなに書き甲斐のある実習は初めてだった。毎日刺激的だった。
 これまで「医者を記述する」ことがおもしろいと思っていたのが、そんな繰り返しのなかで彼ら/彼女らを見ているうちに、「医者する」こと自体もおもしろいのではないか、と思うようになった……のかもしれない。

もしかしたら、フィールドノートの手応えを得られたから、かもしれない。

 これまで自分の書いたフィールドノートを、その登場人物に読んでもらったことがなかった。今回、初めてそれをやってみて、ひとりの先生に「自分の日常がここにある」と言ってもらえたことが嬉しかった。自分の書いているものが見当外れではなく、彼ら/彼女らの生きる意味世界の少なくとも一端は捉えられているという感触を得られたからだ(今までは、自分は結局何を書けているのだろう、と不安に思うことも多かった)。
 もし私がノートに書いてきた医師の世界がある程度本当であるならば、この世界に入ってみるのもおもしろそうだし、そうしないと出会えない世界をこの目で見てみたい……と思ったのかもしれない。

もしかしたら、医療という実践共同体に(どれだけ周辺にせよ)参加した気持ちに初めてなれたから、かもしれない。

 今までの実習はすべて2週間単位だったが、今回は、その2週間を超えて3週間も診療所にいた。この3週間目が大きかった、と私は思う。紙幅の関係でここには引用できないが、第3週目の火曜日に、診療所の医師・看護師・私がとある共通の話題で笑った、という些細な場面をノートに書いている。その場面をなぜ書いたかというと、これまでどの診療科に行っても、私は「外」にいてそのコミュニティを眺めているという感覚だったのが、今回初めて浅井東診療所の「中」にいるような感覚に陥ったからだ。それがこれまで述べてきたような濃密な関わりに繋がったとも、あるいは濃密な関わりが「中」にいる感覚に繋がったとも言える。
 むろん、「浅井東診療所」を拡張して医療という実践共同体として話してしまっていいのか、という点において議論の余地はあるのだが、いずれにせよ、その感覚が私を前向きな気持ちにさせた……のかもしれない。

もしかしたら、「医者になりたい」人になるきっかけを探していただけ、なのかもしれない。

 正直なところ、これはないわけではなかったと思う。逆に言えば、あの瞬間において「医者になりたい」と宣言するに足る材料が揃ったのだ、ということでもあるのだけれども。

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 たくさん書いた。ともかく今の私は、これまでと微妙に、しかし決定的に違った意味で、「医者になりたい」と思っている。先にも書いたように、そうでなくてもよいと私は思っていた。が、事実としてこうなってしまった以上、私はこの私を歓迎する。令和2年2月21日が、私の新たな始まりの1日目だ。その必要があるのかは分からないが、一応、ここでこで宣言しておく。