突出して具体的で断片的なディテール――「100日後に死ぬワニ」的なもの

 何度か言及してきたように、私はここ一年くらいずっと、医学生としての経験をフィールドノートに書いている。記述を始めるにあたって指導教員に言われたことはほとんどなかったが、「それを読んだ人が、自分の見た光景と同じものを浮かべられるように書く」ことだけは強く教えられた。それが自分さえ情景が分かってればいい日記を書くこととの最も大きな違いと言ってもいいのかもしれない。
 例えば訪問診療についていったとき、まず部屋に入ってすることは「数えられるものは数える」ことである。机の上に置いてある本の冊数、脇にある椅子の数、薬カレンダーに入った錠剤の数……あとは部屋の大体の大きさを目測もしなければならない。それからベッドに横たわる老人の顔を見る。目は垂れ目、鼻はちょっとだけ鉤鼻、唇は薄い、顎には無精髭、頭髪は白くてやや薄い。よれよれの灰色の長袖シャツに半袖の茶色のジャケットを着ていて、下は灰色のズボン。"彼は部屋に入ってきた私たちにちらと目をやったあと、すぐに窓の外へと目線を外した"――
 こんな具合である。私は必死に現場でメモをとり、そのディテールの記憶がこぼれ落ちてしまわないうちに、パソコンに向かってフィールドノートを清書する。

 でも、とたまに思う。こんなに「詳しく」書き続けることにどんな意味があるのだろう?

* * *

 『現代思想』2017年11月号のエスノグラフィ特集で、岸政彦の論考「プリンとクワガタ――質的調査における断片的なディテールについて」も、このような一節から始まる。

 質的調査におけるディテールとは、何だろうか。何のためにそれを書き、そしてそれは読み手にとってどのような役割を果たしているのだろうか。

 最初に断っておかなければならないこととして、(岸も書いているように)質的調査で大事なことはただ「詳しく」書くことではない。同様に、文化人類学でたびたび引き合いに出されるギアツの厚い記述は、ただ「細かい描写がいっぱい入っている記述」のことではない。
 厚い記述の説明でよく引き合いに出されるのは、目配せの例である。それを単に「佐藤は右目のまぶたをいったん閉じ、そしてまたすぐに開いた」と書くことは、「詳しい」記述ではあるが、「薄い記述」である。
 結局、佐藤は愛情のしるしを示したかったのか、密かに伝えたいことがあったのか、あるいは単に埃が目に入っただけだったのか……その動作が、佐藤の生きるローカルな世界の文脈でどのような意味を持つのかまでを書いて初めて、それは厚い記述になる(さっきの例ならば、「彼は部屋に入ってきた私たちにちらと目をやったあと、すぐに窓の外へと目線を外した」は詳しい記述ではあるが、この時点ではまだ薄い記述である)。

 あらゆる記述は、社会学や人類学の先行研究が蓄積してきた概念枠組のなかに位置付けられ、そのなかではじめて、当人たちの解釈が再び解釈され、文脈付けられ、「理解」される。(略)だから私たちは、ある理論的な目的のもとでエスノグラフィーを書くことを意図して、そしてその枠組みのなかでディテールを描くのだ。

 だからとりあえずの結論として言えることは、「詳しく」書くことそれ自体が目的なわけでは、もちろんない。

* * *

 それでも、と思考を反芻するようにして岸の論考は進んでいく。

 ただ、ときにその枠組を超えるような、おそらくは書き手すら思ってもみなかったような、突出して具体的で断片的なディテールが、エスノグラフィーや生活史に紛れ込むことがある。

 この、"突出して具体的で断片的なディテール"というのが、私にはよく分からなかった。いや、その後に論考で引用されていた例に心を惹かれなかったわけではないのだが、岸が言いたいような鮮烈な感じを受けるまでには至らなかった、というのが正確なところだ。
 そう思っていたところに、私はTwitter上である4コマ漫画に出会い、衝撃を受けた。もしかするとこれが、"突出して具体的で断片的なディテール"なのかもしれないと思った。

* * *

 それが、「100日後に死ぬワニ」である。2020年3月7日現在87日目まで進んでいて、LINEスタンプがヒットするなど一躍大人気コンテンツと化している。私が本稿で語るのは、そういうワニくんとそれをとりまく動物たちのキャラ的な人気は全て脇に置いておいて、彼の1日目についてのみである。「100日後に死ぬワニ」の初日の鮮烈さこそが、このシリーズの核だと私は思っている。

 その4コマで起こったことは皆無と言っていい。主人公がただ、一人でテレビをボーッと観て、面白いところがあれば笑って、それ以外のところではまたボーッと観て、を繰り返しているだけである。
 この「1日目」は出てすぐに物凄いスピードで拡散され、きくちゆうきさんをフォローすらしていなかった私のもとに届くまで数時間もかからなかった。私が見た時点でリツイートは数千を超えていたと思う。どうしてこんなにも、「100日後に死ぬワニ」の初日は大きな反響を呼んだのか。

 私たちにとって、「ワニ」は全くの他者である。人間とワニは、哺乳綱と爬虫綱で綱のレベルから違う。私たちはこの現実世界に実際に生きる存在だが、このワニはあくまで漫画に描かれた一キャラでしかない。また、長く連載が続いた漫画でもなく、感情移入できるだけの彼のバッググラウンドを知らない*1

 それでも私たちがワニを自分自身に読み替えることができたのは、ここで描かれている場面の何でもなさが決定的に重要だったのだと思う。誰もが一度は経験したことがある、でも余りにもありふれていてそれを言語化する機会も一生なかったかもしれないような、本当に何でもない場面。その「何でもなさ」がワニと私たちを結びつけ、そして漫画のキャラとして誕生した瞬間に既に「100日後に死ぬ」ことを運命づけられた彼を自分と重ねて見ることを許したのだ――例えば、「日常はずっと続いていくと思って過ごしているけど、私も、もしかしたら『100日後に死ぬ』のかもしれない」と。

 そしてその何でもなさは、こうやって漫画の形で具体的に、詳しく4コマを使って絵が描かれなければ、達成されないものだった。

* * *

 前掲と同じ『現代思想』2017年11月号の岸政彦と國分功一朗の対談「それぞれの『小石』―中動態としてのエスノグラフィー」で、岸はこう言っていた。

 "要するに、ディティールを書くことによって実は何かを「一般化」しているのではないかと思うのです。それが何かはよく分かりませんが、とりあえず「人間の理論」とでも言いましょうか。"

 それを受けて國分が「個別を何個か集めて一般化するのではなくて、個別を通じて普遍に至るというか」と言っていたのも、また私の指導教員がよく「エスノグラフィーは"一点突破、全面展開"」と言っているのも基本的に同じ意味であると思う。

 先ほどの「プリンとクワガタ」のほうには、この点についてもう少し具体的に説明されている。

 ディテールをなぜ書かなければならないのか。それはしばしば、ケースの特殊性、固有性、一回性を際立たせるためだと言われる。そういうものをたくさん描いて、私たちはケースを「ケースとして」理解し、一般化してはならないと言われる。しかし、あるケースを理解するということは、その特殊性や固有性を、一般性や普遍性のもとで理解する、ということである。
 ここで描かれているディテールはどれも、「何かについて自分たちも何かを言いたくなる」瞬間に現れているのだ。それは、私たちが現場で出会ったディテールを通じて、なにか一般的なもの、普遍的なものに触れた瞬間である。エスノグラファーたちはこの瞬間を描くことで、読者とのあいだで理解を再現しようとする。

 断っておかなければならないのは、岸の論考で言っている「ディテール」は実際に起こった出来事のことであり、一方でもちろんワニは現実世界に存在しない。しかしこの「100日後に死ぬワニ」という他者の特殊で、固有の、一回的な出来事を通じて、なにか普遍的な、「人間の理論」のようなものに触れるという営みは、エスノグラフィーのそれと相似形にあると言ってもいいと思う。

* * *

 人はいつか死ぬ。当り前だ。ここで「当り前」というのは、分かり切っているということでも、全ての人に当てはまるということでもある。だから「人はな、いつか死ぬんだぞ」と誰かに言われたとしても、「説教くせえなこのおじさん」くらいにしか思わない。しかしそれが"突出して具体的で断片的なディテール"に乗せて私たちの目の前に現れたとき、そのメッセージの鮮烈さ、重さは余りにも違って見える。

 私はエスノグラファーとしてまだまだひよっこで、「100日後に死ぬワニ」的なものを書けているのかは自信がない。それは意識的に書けるものなのか、気付いたらそこに在るものなのかすら分からないが、最終的に自分が出す成果物がそういう領域にまで到達することは、無謀かもしれないが一つの目標としたい。

*1:87日目まで来て、彼の友人関係、恋愛、仕事、家族について深く知りつつある私たちにとってのワニの死は、初日に予期したワニの死とは全く別の意味を携えて立ち現れてくる。それゆえに私は本稿で「初日」のみに注目した。