中動態とは何か

 本稿に書かれてあるのは、基本的に國分功一朗『中動態の世界―意志と責任の考古学』(2017年、医学書院)に全面的に依拠した私的メモであり、特に何ら新しいことが書いているわけではありません。

1. 中動態とは何か

「中動態は能動態と受動態の中間」ではない

 能動態は、行為の矢印が主語から外側に向かうことであり、受動態は逆に矢印が主語に向かうことです。それでは「中動態」はこの能動態と受動態の中間にあるのかというと、名前が非常にミスリーディングなのですが、そういうわけではありません。
 それどころか、かつては<能動態―受動態>という対立関係すら存在していなかったと主張するのが、エミール・バンヴェニスト(1902-1976)という言語学者です。彼によると、もともと<能動態―中動態>という対立があり、この中動態が持っていた意味の一つとして受動を含んでいたのです。その受動がいつの間にかdominantとなり、<能動態―受動態>という新たな対立関係へと変化しました。

<能動態中動態>の対立関係

 この変化の過程で、「能動態」という概念も決して静的な存在だったわけではなく、「中動態と対置される能動態」の意味は、「受動態と対置される能動態」のそれとは根本から異なります。<能動態―中動態>の対立は、バンヴェニストによって以下の通りに定義されます。

 能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中道では、動詞や主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。

 もう少し噛砕いて言うと、動詞によって示されている行為が、自分の外でその過程が終わるなら能動態、自分がその過程の場になっているなら中動態、ということです。だから先述の<能動―受動>の対立とは違って、矢印の方向とは関係がありません。
 具体的には、「(物を)壊す」や「(物を)あげる」は、自分の外で完結するので能動です。一方で、「欲望する」や「感動する」「生まれる」は、自分が場所になって起こるので中動です。

中動態は、自動詞表現にも受動表現にも翻訳できる

 ギリシア語のファイノー(φαίνο)という動詞は、phenomenon(現象)という言葉の語源で、I show「私が見せる」という意味です。私が見せて、誰かが見るわけですから、主語の外でその過程が完結している。よって能動態です。
 ファイノーが中動態に活用すると、ファイノマイ(φαίνομαι)という単語になります。自分がその過程の場所になるわけですから、自分が何かを見せるのではなくて、自分が見てもらうことになる。「見てもらう」というのは、自分が現れるということです。
 よってファイノマイを英語に翻訳すると、まずはI appear「私が現れる」という自動詞で表現することができます。一方で、現れるというのは「私が見られる」ことでもあるので、I am shownと受動態でも表現できます。すなわちファイノマイという中動態は、現代の言葉ではI appearという自動詞表現、I am shownという受動態表現、そのどちらでも表せる意味の複合体なのです。

 同様に、先ほど中動態の例として挙げた「感動する」も「生まれる」も、英語であればそれぞれI am moved、I am bornと受動態で表現できます。しかしどちらも意味を考えると、自動詞で表現してもよいはずです。

 つまり以上のことから、<能動態―中動態>ではなく<能動態―受動態>の対立関係の支配する英語において、本来なら中動態を使うべきところを、自動詞、もしくは(自動詞がなければ仕方なく)受動態で表現されている、ということが起こっているのだと分かります。

2. 意志と責任を考える

「尋問する言語」意志(will)について

 ここまで見てきたように、中動態なら単にファイノマイ=私が現れていると表現されていたのを、現代の言語ではI appear(能動態)なのかI am shown(受動態)のどちらかに訳さなければなりません。ここで、自発的に来たのか、それとも誰かに言われて仕方なく来たのか、を何としてでも区別する必要があります。すなわち能動と受動が対立する言語は、同じ事実であるのにもかかわらず「お前が自分でやったのか? それともやらされたのか?」と執拗に尋問するのです。
 この、「自発的に来たのか? それとも誰かに言われて仕方なく来たのか?」という尋問において問われているのは、意志の概念の有無です。自分の意志で現れたのか、それとも自分の意志ではなかったのか。
 國分の仮説は、<能動態―中動態>の対立から<能動態―受動態>の対立への移行によって意志が問われるようになった、というものです。

意志は、行為の責任を負わせる

 意志という概念がもつ機能について、ジョルジョ・アガンベン(1942-)というイタリアの哲学者が、『身体の使用』という書籍で以下の通りに書いています。

 意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に従属させるのを可能にしている装置である。

 つまり、意志という概念を使うと、行為をある人に所属させることができるというのです。例えば、ある病気で入院している患者(Aさん)が、自分の治療方針について決定したとします。それがAさんの「意志」によるうものだとしたら、その「決定」という行為はAさんに帰属します。
 これが何を意味するかというと、「自分の意志で決めたから、自分の責任だ」ということで、その行為の責任をその人自身が負うということです。すなわち意志は行為の帰属を可能にし、行為の帰属は責任を問うことを可能にする。

「純粋なゼロからの自発性」としての意志

 しかしここで、立ち止まって考えてみましょう。
 確かにAさんは自分の治療方針を決定しました。しかしそれには、医師に言われた説明が影響していることでしょう。家族に言われた言葉があったのかもしれません。そしてその家族は、本で読んだ同じ病気の患者のストーリーに感化されたのかもしれません。その本は、家族の友人によって薦められたものだったのかもしれません。
 このように行為の原因というのは、いくらでも、過去と周囲とに遡っていくことができます。人というのは、自らの人生の歴史をもっていて、そして今まさに周りの人々・環境とつながって生きています。その全てから孤立した条件下での行為など存在しません。
 ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線を切断することができます。「君の意志がこの行為の出発点になっている」と言えるわけです。言い換えれば、意志は行為の因果関係の連関を切断することにより、「純粋なゼロからの自発性」を目指しているのです。

3. 中動態がなぜ重要か

新自由主義と意志

 現代社会は意志の概念に強く依存しています。とりわけ、昨今の新自由主義体制と意志概念の相性は良いです。「あなたには選択の自由があります。選択はあなたの意志で行われることです。その代わり、選択の結果はすべてあなたの責任です」というわけです。

意思形成支援から、欲望形成支援へ

 医療現場においてもはや当たり前の言葉になった、インフォームドコンセントにおいても同様です。もともとは医療に根強くあったパターナリスティックな考え方に反発する形で、インフォームドコンセント概念は登場しました。しかしそれは、「私は説明しました。あなたは説明を聞きました。あとはあなたの責任で、自分で決めてください」ということです。Aさんに、自らの治療方針の責任を全て背負わせる働きなわけです。
 最近は「意思決定支援」という言葉がしばしば医療現場で使われていますが、國分の最近の主張は、代わりに「欲望形成支援」という言葉を使うべきだというものです。斎藤環との対談を収録した記事[1]によると、欲望形成支援とは、「切断ではなくて、過去との連続性や周囲とのつながりのなかで、『自分は何をどう欲望しているのだろうか』について誰かと一緒に考え、自分の欲望の形をハッキリさせていく」ものだと國分は述べています。
 私は医学生でまだ医師ではないですが、終末期の患者さんや独居老人の方々と接する医師の話を聞いたときのことを思い出し、この欲望形成支援という概念は、医師の営みを一定以上のレベルで言語化しているのではないかと感じました。実際、國分は「非常にわかる」「そういう言葉を探していた」と医療者側からの反応を得たと同じ記事で話しています。
 しかし、この「欲望形成支援」はまだ生煮えの概念です。この言葉に「共感する」と言う人々のもつ多様な経験を十把一絡げにしていいのか、また、この言葉があることでどんな良いことがあるのか、そして「欲望形成支援」のある医療とはどんな姿なのか――依然として不明瞭な部分がたくさんあります。

中動態は責任を問い直す

 少し話が医療に寄り過ぎました。『中動態の世界』の本筋に戻ると、上述のような、意志の概念を使って人に押し付ける責任を、國分は「チープな責任の概念」と呼びます。本来「責任」はresponsibilityであり、応答すること(response)と切り離すことができません。自分の直面した事態に応答しなければならないこと、それが責任です。しかしこの「チープな責任」は、応答すべき人が応答しないものだから、仕方なく、「応答すべきは君なんだから応答しなさい」と強いているだけなのです。
 國分は、意志という概念から離れて、「人は応答すべきものに応答できるだろうか」という論点から、responsibility/responseというものを考えなければならないと説きます。そしてこの、「私はこれに応答しなければならない」と感じることはまさに、中動態的なプロセスです。責任感は中動態によってこそ記述できます。だから、『中動態の世界』における意志の否定は、責任の否定ではなく、責任の再肯定を目指した検討を求めているのです。

 この部分が本稿で最も直感的に理解しにくく、そして、私もよく分かっていません。「欲望形成支援」が生煮えなのと同様に、國分も、再検討の果てに得られる、新たな「責任」概念の全貌が未だ見えていないのではないでしょうか。

4. 結語

 以上で、中動態についての説明は終わります。これまで見てきたように、國分が作ったのはあくまで議論の下地で、医療に限らずそれぞれの現場で実際に中動態がどのように有用なのかについては、まだ議論が成熟していないのが現状です。私もこれでいったん整理できたので、中動態概念をめぐる言説には引き続き注目していきたいです。