<お笑いと構造 第8回> 天丼はどこまで盛れるか?

 前回まで、お笑いの構造分析の三尺度として意外感・納得感・期待感を紹介し、さらにそれを先行文献と比較しつつ検討しました。

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  基礎理論の解説を終え、今回から個別の事例を取り上げて分析する応用編が始まります。その初回のテーマは、「天丼」についてです。天丼はお笑い用語の一つで、同じボケを繰り返して笑いをとる手法のことを指します。天丼には一般的に海老が二本載っていることが語源らしいですが、詳しいことは分かりません。

1. ナイツ:天丼は2回まで?

 天丼について考えるために、2008年のM-1グランプリ決勝一本目のナイツのネタから引用してみましょう。宮崎駿について「ヤホー」で調べてきた、という言い間違い漫才の中で、「『城』という単語で塙のテンションが下がる」という下りが三回繰り返されます。なお、並列して書いていますが、それぞれの下りの間にはボケがいくつか差し挟まれています。

ボケ①
塙:それが認められまして、1979年、『ルパン3世 カリオストロの……城』
土屋:最後まで元気良く言えよ。城の手前で何でテンション下がっちゃうんだよ。
ボケ②(天丼①)
塙:どんどん勢いを増していきまして、『天空の……城 ラピュタ
土屋:城でテンション下がるのなんだよ。城に何のトラウマがあるの。
ボケ③(天丼②)
塙:そして2004年、『ハウルの動く……』
土屋:城ねだから。多いなあの人。城が多い。

 さて、この三つのボケを三尺度を使って分析してみましょう。一つ目のボケに関して、意外感の大きさをS1, 納得感の大きさをA1, 期待感の大きさをE1とすると、面白さy1は以下の式の通りに示すことができます。

y1 = S1 × A1 × E1

 次はニつ目のボケです。同じボケが来るわけですから、当然、意外感は小さくなります。期待感に変化はありません。それではどうして天丼をするメリットをするのかというと、納得感が増すからです。観客は少し前に同じボケを目撃しているので、彼がその行動をする人間だ(「城」でテンションが下がる)というのをただちに納得できるからです。

y2 = S2 × A2 × E2 (ただし、S2<S1, A2>A1, E1=E2)

 この2式を比較すると、y1とy2の大きさがどちらが大きくなるかというのは、S1とS2、A1とA2の値次第だということが分かります。すなわち天丼が元のボケの面白さを上回るかどうかは、意外感がどれだけ減るかと、納得感がどれだけ増えるのかのせめぎ合いの中にあります。
 そして三つ目のボケ(二回目の天丼)です。「彼がその行動をする人間だ」という納得感が顕著に増加することは見込めないところに、一回目の天丼と全く同様にボケてしまうと、意外感が減ってしまうばかりで、積としての面白さは必然的に小さくなってしまいます。そこで、二回目の天丼では変化が加えるのがセオリーです。上述のナイツのネタでは塙さんが「城」をあえて言い切らずに、観客に対して想像の余白をつくって意外感を増す試みをしています。

y3 = S3 × A3 × E3 (ただし、S3>S2, A3≧A2, E2=E3)

 これによって、天丼によって面白さが重なっていくようなネタの構成になっています。お笑いというのはしばしば"3"という数字と縁があるのですが、このように、「同じボケは三回でワンセット(一回目は元となるボケ、二回目は天丼、三回目は変化を加えた天丼)」が基本です。

2. 千鳥:「天丼大盛り期待感」型

 さて、暗黙知のようにあった「天丼の回数の限界」について、それを漫才において破ったのが千鳥ではないでしょうか。ここでは千鳥の、「『奥さんに子供ができたと言われたときの、旦那の一言』の演技を練習する」という設定の漫才を見てみましょう。

ノブ:行ってきます。
大悟:おぬし。
ノブ:いやおぬしじゃない。

 ノブさんは「あなた、私、できちゃったみたい」というセリフを言わせたいのですが、何度やっても大悟さんは「おぬし」としか言いません。驚くべきことに、ボケがこれしかないのです。例えば2018年の「東西ドリームネタ合戦」という番組では、「おぬし」だけを八回繰り返していて話題になりました。異常なまでのしつこさです。
 先述の議論が正しければ、三回目以降は納得感はほとんど増加しませんし、ボケに変化を加えることがなければ意外感もどんどん減っていくばかりです。それではなぜこのネタが面白いのかというと、期待感が増していくからです。四回、五回、六回……と繰り返した果てに、観客は「おぬし」というフレーズを期待するようになるのです。実際、最初の一回目、二回目の天丼で盛り上がった後、中盤で盛り下がるのですが、また後半にかけて尻上がりにウケ量が増していくのがこの漫才です。それはひとえに観客の期待感が指数関数的に増加しているからです。
 <お笑いと構造 第6回>で紹介した吉本新喜劇のように、期待感というのは通常、長い歴史のあるお決まりのフレーズなどで生まれることが多いのですが、千鳥はたった4, 5分の中で「あの『おぬし』のフレーズが聞きたい」と観客に思わせる漫才をつくり上げました。天丼を過剰なまでに大盛にすることで期待感を煽るという、漫才における一つの型を発明したのです。そしてこの型はひとつのセオリーになりつつあります。

 このセオリーの期限を千鳥とするかどうかは、大いに諸説あるでしょう(現代の漫才師の代表格なのは間違いないですが)。私のdigが足りない可能性は大いにあるので、その議論にこれ以上深入りするつもりはないのですが、実は、「同じボケを何度も被せて期待感を煽る」型は、漫才よりむしろ他の領域でたくさん見られるようになっっています。

3. にゃんこスター:音楽ネタと天丼

 その一つの領域が、音楽を用いたネタです。「天丼大盛り期待感」型の構成は、音楽ネタと非常に相性が良く、特にここ数年のキングオブコントでしばしば見られる構造です。ある曲において、「同じフレーズの繰り返し」や「Aメロ、Bメロからのサビ」など、音楽として予測できるパターンのようなものがあるため、音楽を用いたネタは通常より観客に期待させる展開をつくりやすいのです。

 その最も顕著な例が、にゃんこスターの『リズム縄跳び』です。当時、あのネタは「笑いの固定観念を覆した」的な言説とともに称賛されていましたが、むしろ逆に根底にあるのは手堅い鉄板の構成です。
 大塚愛の『サクランボ』の曲に合わせてアンゴラ村長さんが縄跳びをする、それを観ている「縄跳び大好き少年」ことスーパー三助さんがいる、というのがこのネタの基本構図です。

三助:もっとスピード上がるの? 凄い凄い凄い! サビが来るよ? これサビどうなっちゃうの?

 三助さんはこのようにして、「サビはもっと凄い縄跳びの技術が見られるはずだ」という共通認識を植え付けます。いわゆるフリをきかせるというやつですね。そしてその共通認識は、縄跳びを投げ捨てるアンゴラ村長によって鮮やかに裏切られます。

三助:……飛ばな~~~~い! サビで縄跳び飛ばないの~? 何で?

 教科書に載せてもいいほどの綺麗な意外感の笑いです。それからすぐさま、アンゴラ村長さんは「飛ばない」というボケを被せます。

三助:何で飛ばないの? 持って、持って、持って……飛ばな~~い!

 そして「天丼は二回まで」のセオリー通り、サビの間に天丼がもう一回被せられます。

三助:サビで、縄跳び、飛ばない、ですか~? どうして? 持って、飛んで、飛んで、お願い、お願い……飛ぶ気まったくないっ!

 それで曲のサビは終わり、またAメロに戻ります。その間に何が起こるのかというと、スーパー三助さんによって、期待感を煽るような注釈が加えられます。

三助:サビでそれやったらいいじゃない? なんでそれサビでやらな……あれぇ~? この動き*を求めてる俺がいる? この動きが頭から離れない!
*サビでアンゴラ村長さんが「飛ばない」ときにしていた動き

 本当はこの段階では、観客はまだ「飛ばない」ボケを明確に期待するまでには至っていないのですが、この三助さん(=観客とのパイプ役)のセリフによって、半ばドーピング的に期待感が高まっていきます。そしてその最高のお膳立てがありながら、もう一度サビに突入していきます。

三助:サビが来る!まさか?……待ってました~~~! この動き待ってましたぁ~! 

 ここで観客を掴んでしまえば、もう一度重ねても期待感の笑いが増幅していきます。

三助:それがいい! それもいいよ! え、持っちゃうの? 持っちゃうの? 持たないで……ありがとう~! この動きサイコーだよ!

 こう見ていくと、三助さんの奇矯なキャラは、観客の感情を強引に引っ張っていくために必要不可欠なものだったということが分かります(普通の人間なら、あそこまで早く「あの動き」を期待しないわけですから)。そのような過剰にデフォルメされたキャラや、「リズム縄跳び」を自明なものとしてネタを進める説明のなさ、オチ部分で「にゃんこスターでした〜」と締める(故意犯的な)幼稚さが、あのネタをこれまでにない斬新なコントとして見せることに役立っているのです。それは彼らの演出方法の圧倒的な勝利と言っていいと思います。しかしその根底には、これだけの周到さ、そして手堅さがありました。

4. 再び千鳥:天丼漫才のその先

 昨年(2019年)本稿を作成している段階では、ここで説明を終える予定でした。しかし昨年末の『THE MANZAI 2019 マスターズ』の千鳥の漫才を観て、私はこのネタについて書かなければいけない、という強い使命感に駆られてこの章を足しています。私はあの漫才が、自らの十八番の「天丼大盛り期待感」型漫才をさらにアップデートし、その先の世界へ至るきっかけになると信じています。

大悟:ラーメン屋さんって開いてる店は開いてるけど、閉まっとるとこは閉まっとるからな。

 このセリフで幕開けするこの漫才ですが、実はこれがネタの全てです。最初から最後まで徹頭徹尾、大悟さんが「開いてる店は開いてるけど、閉まってる店は閉まってる」というフレーズをリフレインするのです。言うなれば、トートロジー天丼メガ盛り漫才。

大悟:10時っていうのはな、開いとる店は開いとるけど、閉まっとるとこは閉まっとるからな。

 この漫才について考えてみましょう。
  序盤では、「開いてる店は閉まってるし、閉まってる店は閉まってる」っていう、絶妙に何かを言ってそうで何も言ってない、正しいのだけれど単なるトートロジーに過ぎない、そのフレーズ自体の面白さが先に立ちます。ここでdominantなのは意外感の笑いでしょう。
 それを繰り返しているうちにだんだんウケなくなってくるのですが、中盤、一定の段階を超えるとまた笑いの量が増えていきます。それは「開いてる店は閉まってるし、閉まってる店は閉まってる」という大悟さんのフレーズを期待するようになるからです。天丼大盛りへの期待感。ここまでは千鳥の得意な形と同じです。
 問題はここからです。この期待感のフェーズを更に超えて、大悟さんは「開いてる店は閉まってるし、閉まってる店は閉まってる」という言葉を繰り返し続けます。飲用てれびさんが「トランス状態」と称した*1ように、その様子はいかにも異様で、観ているこちら側の境界を揺るがすような力を感じます。

 ここにおいて見られるのは、漫才の「予想される展開」からの逸脱です。つまり終盤、普通の天丼漫才なら言葉や被せ方の変化など展開があるはずのところを、全く話が一歩も前に進まないまま執拗に「開いてる店は閉まってるし、閉まってる店は閉まってる」を繰り返し続けることの異常さがそこにあります。特にお笑いを一定以上観る人にとって、「これまでの漫才ならこう展開するだろう」と予感が前提としてあり、そこからどんどん逸脱していくことにカタルシスを覚えるような構造になっているのです。だから逆に言うと、その「予感」があるかどうかで面白いと思うかを分ける漫才になっていて、いわゆるお笑いファンの評判のほうが良かったように思えます。
 まとめると、この漫才は、意外感からの期待感、そこからさらに一周回って意外感へ到達する、という(同じ言葉を繰り返すだけという静的な構造に見えて)動的な展開を有していることが分かります。自らが一つのジャンルとして確立した「期待感大盛り」型漫才それ自体をフリとして、千鳥は新しいお笑いの形をここで提示しています。

5. 終わりに

 今回は、ナイツ、千鳥、にゃんこスター、そしてまた千鳥のネタを題材に、天丼を重ねていった先にある世界を見ていきました。最後にとりあげた「開いてる店は閉まってるし、閉まってる店は閉まってる」漫才は、ある意味で、既存のお笑い体系からの脱出する一つの方法だと言えると思います。これまでのお笑いがあるからこそ、そこから逸脱することで「新しい」構造の笑いが生まれるのです。そこで次回は、「既存のお笑い体系から脱出する方法」と題して、この点をもう少し詳しく見ていきたいと思います。

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