<お笑いと構造 第9回> 既存のお笑い体系からの脱出方法――シュール、メタ

 前回は、<お笑いと構造>応用編の第一回目として、天丼をテーマに論じました。

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 そこで最後にとりあげたのが千鳥の「開いてる店は開いてるけど、閉まってる店は閉まってる」漫才であり、これが既存のお笑い体系からの脱出の一つの方法ではないか、という話をしました。今回は、いかにしてお笑いの基本常識を覆すことができるのか、「シュール」と「メタ」の二つをキーワードを議論を進めていきましょう。

1. シュールとは何か:板尾創路

シュールの多義性、曖昧さ

 「シュール」という言葉、皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。ここまで多義的な言葉もないというくらい、「雰囲気のある」とか「ツッコミのない」とか「東京風」とか、お笑いにおいて「シュール」と言うときに込める意味は人それぞれです。
 しかし元々の語源はもちろん、フロイトの潜在意識の理論に端を発し「夢と現実の矛盾した状態の肯定」(アンドレ・ブルトン)を理想としたシュルレアリスム運動です。シュルレアリスム運動の流れを組む芸術作品が不条理で非論理的な風景を特徴としたように、語源に近い意味で使うのならば「シュール」なお笑いとは「不条理」で「非論理的」なものであってしかるべきでしょう。

1-2. 「ツッコミ不可能性」

 ただこれ以上、シュルレアリスム運動との関連で語るには私の知識は十分でないため、ここで、お笑いにおけるフォークタームとしての「シュール」を定義しておきたいと思います。お笑いにおける「不条理さ」や「非論理性」とは何か。
 私は「シュール」をひとまず、ツッコミ不可能性という概念から考えていきたいと思います。これは、かなり時代性を感じるブログですが、『130R 板尾創路について』という記事からヒントを得ています。この記事の著者は、ダウンタウン松本さんとの比較から、板尾さんがなぜ「シュール」たるかを論じています。

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 ダウンタウン松本さんの笑いもシュールと言われるが、しかしながら、松本さんの発想には元となる根拠が存在する。だからこそ、浜田さんがツッコむ事ができる。
「なんで、二回ゆーねん!」
 そう、無駄に二回同じ事を言っているから、そうツッコめるのだ。松本さんのボケには、しっかりとした意味・理由があるのだ。だから、ボケ+ツッコミの形式で伝える事ができる。理屈で説明する事も可能である。であるから、私の定義で考えると、松本さんの芸風もシュールではないと思う。

 このように、「ツッコミ可能」な松本さんに対して、板尾さんは「ツッコミ不可能」である。そしてこれがお笑いにおける「シュール」であるということだ、というのがこの記事の論旨です。

 「ダウンタウンのごっつええ感じ」のワンコーナー「板尾係長」での一言。「お前とお前は帰ってよし」*1。さて、これを、どう理屈で説明できるであろうか?
 (中略)シュールは理屈で説明ができない…。それだけではなく、さらに、シュールの定義としてあげられるであろう事は、シュールはツッコミを必要としない。または、シュールにはツッコむ事ができないという事は考えられはしないだろうか?
 (中略)と言うのも、現に、あのダウンタウン浜田さんでさえも、
板尾さんのシュールに対するツッコミは全て、「それ、なんやねん(笑)」である。そして、松本さんのツッコミも全て、「どうゆうことやねん!(笑)」なのである。

 シュールをひとまず「ツッコミ不可能なもの」として定義することとしましょう。これを私の三尺度で考えると、意外感につらなる系譜ではあるが、その「共通認識の明瞭さ」が「0」であると解釈することができます。しかしながら、それだと(意外感の大きさ) = (共通認識の明瞭さ) × (共通認識からの距離)の式に代入したときに「意外感の大きさ(=面白さ)」がどう足掻いても0になってしまい、お笑いとして成立していないように見えます。この(一見)矛盾した状況をいかにして説明すればいいのでしょうか?

シュールの定義

 私は、シュールを「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」として定義します。すなわち、「意外感の笑いにおいては、元となる共通認識が分かる」ということ自体が共通認識であり、それを裏切ることによって意外感の笑いが生まれる、という多層的な構造をしているのです。いわば、お笑いのルールそのものに対してボケている。
 裏返せば、その既存のお笑い体系を理解していなければ(=その観客にとっての「共通認識」と思わなければ)ボケにならないので、シュールなお笑いは「一般受け」せず、(より多くのお笑いのパターンを経験している)お笑いファンには面白いと評価される、という傾向があります。
 これは現代美術でも同じ構図がありますね。それまでの芸術の文脈があるからこそ、男性便器を美術展に送ったデュシャンが「裏切り」になるわけです。

2. シュールのその先:Dr.ハインリッヒジャルジャル

 さて、このお笑いにおける「シュール」という領域も、進化し続けています。ここでは、「シュールのその先」を見せてくれるコンビとして、二組のお笑いコンビを取り上げてみましょう。

2018年M-1準々決勝のDr.ハインリッヒ

 Dr.ハインリッヒといえば、お笑いファンなら誰でも知るシュール芸人の関西の代表格と言ってよいでしょう。本当に訳の分からない(=参照元である共通認識が分からない)ネタばかりをするコンビで、そのブレなさが私はずっと好きだったのですが、2018年のM-1準々決勝で彼女たちのネタを観て、私は衝撃を受けました。シュールの一段階上にDr.ハインリッヒは進化していたのです(こう書くと上から目線のようになってしまいましたが、私は彼女たち目当てに劇場に行くくらい、本当に尊敬しています……)。
 幸いなことに、公式のYou Tubeにそのネタがアップロードされていたのでリンクを貼りました。『トンネルを抜けると』というネタです。

 序盤を観ている限りでは、いつものDr.ハインリッヒです。

幸(みゆき):トンネルを抜けるとそこには、めっちゃデブの鰯が、炒飯食べてたわ。

 幸はその鰯を海に返す。するとすぐに戻ってきてまた鰯は炒飯を食べ出す。鰯が尾ひれを叩いて地面が割れると、そこから向日葵が咲く。その向日葵の顔の部分から、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」がいっぱい出てくる。その「銀色のやつ」に鰯を入れると、「イワシンス」の球根が出てくる。すると向日葵が咲き、その顔の部分から今度は炒飯が出てくる。
 その炒飯を食べにデブの鰯がやって来て、幸はそいつを海に返す。するとすぐに戻ってきてまた鰯は炒飯を食べ出す。鰯が尾ひれを叩いて地面が割れると、そこから向日葵が咲く。その向日葵の顔の部分から、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」がいっぱい出てくる……

 これこそまさにシュールレアリスム作品のような、脈絡のなさ、非現実性、幻想的な情景の数々。これだけでも最高なのですが、事態は彩の一言によって違った角度で見えてきます。

彩:ちょっと待って、自分ってさ、「短いめになった鉛筆の持つとこ長くする銀色のやつ」作んのに参加してない? 鰯、自分、向日葵、炒飯、この四つの輪廻の中であれができあがってないか?

 これが本当に素晴らしい。準々決勝の会場でもめちゃくちゃに受けていました(未だにこれが準決勝に上がらなかったことを私は恨んでいます)。
 彩さんのこの一言によって、一見不条理に思えた世界に秩序が与えられます。それは現実に戻ってくるというわけではなく、あくまで「その非現実世界における」秩序だということが大事な点です。ここに、シュールのお笑いから最も遠かったはずの納得感の笑いがあるのです。
 すなわち、「意外感の笑いにおいては、元となる共通認識が分かる」ということ共通認識から逸脱し、彼女たち独自の世界をつくっているうちにその中で新たなルールを生成し、それを「共通認識」とし、納得感の参照元としたのです。ただ「訳の分からない」ということが面白いだけ(で十分過ぎるくらい好きなんですが)ではなく、さらにその一歩先の展開があるのだということに、私は心の底から感動しました。

2018年M-1決勝・2019年M-1決勝のジャルジャル

 さて、その「自分たちだけの世界を勝手につくり、その中で新たにルールができる」という意味では、ジャルジャルの「ピンポンパンゲーム」「国名分けっこ」の衝撃も同様に説明できます。

 彼らはもっと徹底的に記号化された世界のなかで、さらに4分の中でルールの再生成・破壊を幾度となく繰り返すのですが、それを「小学校のときの遊び」のような一見ポップな切り口で見せているのがジャルジャルの凄さです。「シュールで訳分かんないことやってんな」ではなく、「ジャルジャルぽいな」と受け取られるのは、彼らがこれまで積み重ねてきたプロップスの大きさ故でしょう。もちろん同時に、知名度があるからこそ「斬新だ」という評価がやや小さくなる、というデメリットもそこにはあるわけですが。

3. メタとは何か:アルコ&ピース

メタフィクション

 小説におけるメタフィクションとは、小説というのはもちろん言語によって構成された虚構世界なわけですが、その虚構性を登場人物が自認し、明示的に言及する作品のことを指します。私のメタフィクションの思い出といえば、三大奇書の一つでアンチ・ミステリーの傑作として知られる中井英夫『虚無への供物』ですね。まだ読んでいない方のためにネタバレは避けますが、中学生の私がこの作品のクライマックスを読んだとき、衝撃で当分の間頭から離れませんでした……

お笑いにおけるメタの定義

 少し話が逸れました。シュールほど議論はややこしくなく、お笑いのネタにおけるメタの定義は簡単です。それは、「ネタ中のお笑い芸人が、『今自分たちがネタをしている』という事実、もしくはお笑い一般の枠組み自体に言及する」ことです。
 ここにおいて強調しておきたいのは、「自分たちがネタをしている」という事実に触れること自体は、ある意味で簡単にできるということです。「ツッコミ多いな」「このネタ何やねん」「観客もっと笑うと思ってたわ」……ネタに転調を加えるにあたって便利過ぎるが故に、M-1の予選などで安直にメタに走ってしまうコンビが少なからず観られるのもまた事実です。しかしな簡単にできるからこそ、自分たちにしかできない独自のメタの切り口を探求すべきではないか、と一視聴者として私は思います(また少し偉そうになってしまいました)。

2012年THE MANZAI決勝のアルコ&ピース

 ほとんどのお笑いファンは、このメタのお笑いの最高傑作としてアルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りに行く」を挙げるでしょう。ちなみにですが、私はこのネタを観たとき、テレビの前で興奮で震えていました。
 このネタの導入は、忍者になって巻物を取りに行きたいから今から演ろうと言う酒井に対し、平子が一言、「じゃあお笑いやめろよ」と言うところから始まります。これは、漫才でよくある「〇〇やってみよう」というコントインの台詞を逆手にとったメタ発言です。
 普通ならこれを「いや漫才だから演じればいいんだよ!」と酒井がツッコみ、その下りは終わるはずですが、このネタはそう一筋縄ではいきません。今[2012年当時]の自分たちを取り巻く厳しい状況、お笑いにかける熱い思いを平子さんが滔々と語り、「忍者になって巻物取りに行く時期じゃねえだろ」と酒井さんを叱りつけるのです。そして次第に、忍者になるという設定の馬鹿馬鹿しさと、真剣な平子の語り口とのギャップが大きな笑いを生みます。「忍者になって巻物を取りに行く」がキラーフレーズとなり、それが平子の口から出るたびに、漫才を辞めて手裏剣をシュッシュッと飛ばす酒井の姿が観客に見え始めます。

 詳細に順を追ってお笑いの構造分析をしてもいいのですが、とにかくこのネタの何より凄いところは、メタ発言を出発点として、そのまま最後までメタで一本突き通した点です。それでいて高い水準の笑いを保ち続けたネタは、後にも先にもアルピーの『忍者』だけでしょう。その意味でこれはメタお笑い界の記念碑的作品で、漫才の歴史が書かれるならば必ず載るべきネタです。
 このTHE MANZAIの直後、2013年の春に当時高校3年生の私は、次のように感想を書いています。

――今後仮に誰かがメタだけで構成された漫才をしたとしても、必ずこれと比較されるし、そう早くはこれを凌駕するようなものは生まれないと思う。

4. メタ、シュールを超えて:ぺこぱ

 さてここまで、「既存のお笑い体系からの脱出方法」として、メタとシュールについて語ってきました。シュールの一歩先の世界としてDr.ハインリッヒジャルジャルを紹介し、メタに関しては「そう早くはこれ[忍者]を凌駕するようなものは生まれない」と書きました。しかし昨年2019年のM-1グランプリで、シュール的な要素とメタ的な要素のどちらをも含みながらそれだけでない、既存のお笑い体系からの完全に新しい脱出方法が提示され、私は久しぶりに画面の前で震えました(その型を初めて見たのは3回戦のGYAO!動画でした)。そのコンビとは、皆さんご存知、ぺこぱです。

 彼らのスタイルについて命名は未だ定まっていませんが、今のところダウンタウン松本さんが言っていた「ノリツッコまないボケ」が私は一番好きです。シュウペイさんのボケに対して松陰寺さんがツッコむと見せかけて、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する。これが基本フォーマットです。
 このとき、漫才にツッコミは存在しません。松陰寺さんも、既存の漫才の構造――ボケがあって、それにツッコむ――をフリにしてボケているわけであって、観客個々人がそのおかしさを見出して笑うわけです(ここで観客自身が心の中でツッコんでいるという表現を使っても良いと思います)。そして「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」という意味では、シュールのお笑いと共通点を持ちます。ただし一見して「ツッコミ不可能性」がなく、「既存のお笑いの枠組みからの逸脱」であることが明示的である点では、ぺこぱはよりポップで分かりやすいのが素晴らしいです。

 しかし彼らのネタを詳細に分析していくと、「シュウペイさんのボケに対して松陰寺さんがツッコむと見せかけて、そのまま言葉をつなげて最終的に相方の発言を許容する」だけでないことが直ちに分かります。
 例えば、最終決戦の「漫画みたいなボケって言うけどその漫画って何」というくだりは、「漫画みたいなボケするな!」というよく漫才で使われがちなフレーズに対する非常に批評性の高い言葉になっています。言ってみれば、これは(既存の)ツッコミに対するツッコミであり、お笑いの枠組み自体に言及しているという点でメタ的な意味合いを備えています。
 また、以下の下りも印象的です。

シユウペイ:今ボケのたたみかけ中ですけど、みなさんどうですか?
松陰寺:いや聞かなくていい!……けど、実際のところどうですか?

 これも「たたみかけ」という賞レース漫才用語をネタ中に出すという点では、メタの範疇に含まれます。しかし先ほどの漫画の下りがツッコミに対するツッコミによる納得感の笑いだったのに対して、こちらは「最終的に相方の発言を許容する」のと同じ、「既存のお笑いの枠組みからの逸脱による、意外感の笑い」です。このように、既存のお笑い体系をフリにしながら、その脱出方法が一通りでなく、あらゆる類型がマージされているのです。そしてその意味でも、(俯瞰で見ると、大きな展開として)ぺこぱは私たちを裏切り続けているのです。
 この複雑な多重性を備えたぺこぱの漫才は、ここ数年の漫才界で最も大きな発明だと私は思います*2

5. 終わりに

 今回は、「既存のお笑い体系からの脱出法」と題して、メタとシュールを大きなテーマに解説をし、Dr.ハインリッヒジャルジャルアルコ&ピース、ぺこぱのネタを取り上げました。いかにして賞レース漫才が進化してきたか、その一端を皆さんに分かっていただけたかと思います。
 次回は、漫才の進化が顕著に分かる別の題材として「ツッコミ」に焦点をあて、「現代ツッコミ論考」を展開したいと思います。

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*1:このセリフ、「板尾係長」のコーナーがどういうものかが分からないと余計に理解不能だと思うので、ぜひ「ごっつええ感じ」のDVDなどでご覧ください。

*2:あるいは別の見方をすると、この漫才が成立するという事実が、「こういうものが漫才である」という認識がかなりのレベルで一般の人々に浸透しているということの顕れである、という意味でも大変興味深いです。M-1が毎年これだけ盛り上がり、賞レース漫才の認知度が飛躍的に向上した結果ですね。