桜が好きだ

 緊急事態宣言が出る前の日、私は木屋町通を歩いていた。当分は大阪の家からほとんど出ないことを見越して、大学の研究室から必要なものを引きあげる予定だった。
 阪急河原町駅から大学まで歩こうと思うとそれなりの距離がある。普段は京阪祇園四条駅で乗り換えるところをどうしてわざわざ木屋町通を歩いていたかというと、理由は一つ、桜が見たかったからだ。ピークは過ぎて少し葉桜になりかけていたが、十分に美しかった。想像はしていたが辺りに人は少なく、木屋町通りは不気味なほど静かだった。世界は柔らかに壊れていた。

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 私は今年で24歳になるが、相変わらず、自分が何のために生きるのか分からない。干支を2周してもなおこんな中学生みたいな悩みを抱えているとは思わなかった。情けないが、実際に分からないし悩ましいので致し方ない。
 以前の備忘録でも書いたが、私は基本的に、何かに突き動かされているような気持ちを抱きながら生きている。

satzdachs.hatenablog.com

 [私の休日の過ごし方は]大抵は、本を読むか、研究を進めるか(あるいは義務として医学の勉強をするか)だ。それが自分のやりたいことだし楽しくて仕方がないので、別に苦ではない。ただそうしているとたまにどうしようもない閉塞感に苛まれて、何かを求めて「遊びに」行く。行ったら行ったでこれも楽しいなと思うけれど、でも結局、読まないといけない本・進めないといけない研究を思い出して焦燥感に駆られて、また部屋に籠る。こう思うとき、私にとって読書や研究は「やらなければいけないこと」になってしまっているのだろうか?

 コロナのせいでほとんど全ての予定がたち消え、今は自分の自由にできる時間が無限にある。そのことが余計に、「無駄に過ごしてはいけない」という気持ちを増幅させ、私はどうにもならない焦燥感のなかで毎日を過ごしている。
 論文を書く。学会の準備をする。論文を読む。本を読む。医学の勉強をする。一秒も「無駄に過ごした」と思いたくなくて、必死に毎日を過ごしている。

 自分にとって無為の時間が必要なのではないか、とは何となくずっと思っている。しかし無為の時間を過ごすことがとても苦手だ。無為を求めた瞬間にそれは無為でなくなってしまう。というか、そもそも無為の時間って何なのだろうか? みんなはどうやって無為を為しているのだろうか?

 有意義なこと。将来の何かにつながること。自分にとってためになること。自分が「〜のため」にがんじがらめになっているのは自覚している(そして私の「ためになるか」の定義はしばしば酷く恣意的だ)。
 意味性の呪縛は趣味の領域にも及ぶ。読書はずっと好きだが、純粋に楽しんで読んでいるより、必要な知識を手に入れるためにという意味合いが強くなってしまった。息抜きのために合間の時間にお笑いを観たりもする。しかしどうしても、これはどうやったら構造分析できるだろうと考え始めたり、あるいはポリティカルコレクトネス的に不適切なところがないか探したりしながら観てしまう。お笑いを好き過ぎるがゆえに評論を始めたことによって、評論が観賞を侵食し始めたような感じだ。目的をもってお笑いを観てしまう。
 以前に備忘録を投稿したときも、有難いことに多くの友人から「無為に過ごすこと」の重要性、あるいは「無為の過ごし方」についての指南をいただいた。にもかかわらず、恥ずかしながらどれも上手くいかなかった。私は相変わらず毎日をひたすらに焦りながら生きている。

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 ハイデッガーによると、世界は広義の道具の連関として立ち現れる。例えば目の前にあるハンマーは、「目」で見られるよりも前に「手」に対して差し出されている。わたし(現存在)にとってハンマーは、「何かを打ち付けるためのもの」として出会われる(道具的存在)。ハイデッガーの言う道具の連関としての世界が、明確にあらわれるのは戦場や兵営においてである。すべてが「戦争資材」として整序されていく。
 現存在にとって世界はかくして「有意義性」においてあらわれ、その世界へと関わり、世界に住う存在として、すなわち「世界内存在」として、現存在は存在することになる。

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 まだ緊急事態宣言が出るかも分からなかった一週間ほど前(というか私たちは今、つねに一週間先にどうなっているか分からない世界を生きているが)のことだ。私は今出川通から四条通まで、鴨川沿いを徒歩で移動した。もちろん京阪電車で南に下ったほうが早いので、明らかにタイムロスだ。でも私は先に書いたような息苦しい生活に風穴を開けたくて、時間がかかるの分かったうえでわざと歩いた。焦燥感や罪悪感といった感情が次々に去来してくるのを無視しながら、鴨川を歩いた。

 そこには桜が咲いていた。

 私には、美しいものを「愛でる」感覚のようなものが自分には欠けていると常々思っていた(美しいものを美しいと思う感覚とはまた別である)。しかしそのときに見た桜はほんとうに綺麗で、私は幸福感に満ちていて、いつまでも見ていられると思った。歩を緩め上を向きながら、普段は絶対にやらない写真をパシャパシャ撮った。
 そこで初めて、私は桜が好きだということを自覚した。思い返せば、桜が咲く季節、私はいつも浮かれていた。神宮丸太町駅から研究室に歩くまでの間に桜の木がいくつか生えているのだが、3月の暮れから徐々に開花していくにつれて、確かに私は毎年ワクワクしていた。明らかに自分の体温が一段階上がっていた。この感覚は明らかに他の花に抱くそれとは違うし、あるいは紅葉や雪とも違っていた。私のなかで、桜だけが特権的な位置を占めていた。

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 先にも書いたように、ハイデッガーによると、<何が何のためのどのような道具であるかが了解されている、道具の連関としての世界>のなかで、現存在は「世界内存在」として生きているのだという。しかしそれに対してレヴィナスは、世界の一切が「道具」であるわけではない、と反論する。
 レヴィナスは、ハイデッガーの用いた戦場の例で説明する。「兵営」は寝るために、「掩蔽壕」は隠れるために存在する。この「ために」は、もはやそれ以上の「ために」を指示しない。道具的連関はそこで止み、むしろそれ自体が「目的」となり「糧」となる。レヴィナスはそう主張する。

 私たちは『おいしいスープ』、大気、光、風景、労働、観念、睡眠、等々によって生きている。これらは、表象の対象ではない。私たちはそれらによって生きているのである。道具を使用することは目的関連を前提し、他のものに対する依存をしるしつづけているけれども、これに対して、~によって生きることは自存性をえがきとっている。享受とその幸福の自存性は、いっさいの自存性の本源的な構図なのである。(レヴィナス『全体性と無限』)

 レヴィナスによると、享受というのは、「食べること」や「眠ること」といった行為を、何かの目的のために行うのではなく、それ自体を目的(糧)として味わうという、ひとの根底的な生のあり方である。ひとは呼吸するために呼吸し、飲食するために飲食し、散歩するために散歩する。そしてあのとき私は鴨川で、桜を見るために見ていた。あるいは桜を楽しむために楽しんでいた。桜を享受していた。

 効用もなく、純粋な損失として、無償に、他のなにものにも送り返されることなく、純粋な浪費として享受すること、ここに人間的なものがある。生きるとはたんなるたわむれであり、生の享受なのだ。(レヴィナス『全体性と無限』)

 そのような、生きること自体がすべてであるような生き方には、ひとが生きることに特別な理由はない。そんなことにはお構いなしに、ひとはこの世に放り出されている。(ハイデッガーの思想には、このような「世界が否応なく在る」という事柄の消息が失われている)。
 ひとの存在の根拠は、ひとが生きている事実それ自体にある。すでに事実として存在しているものには、その理由をあとづけで説明する必要はない。ひとは生きているそのことだけですばらしい存在者なのだ。レヴィナスはこのようにして、ひとが存在することについて必ず何か特別の理由を見出してきた西洋哲学の伝統から、自由になろうとした。レヴィナスの哲学は、私(たち)を意味性の呪縛から解放させてくれる可能性を持っている。

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 それから一週間、暇があれば鴨川を散歩していた。そこで気付いたことがもうひとつある。
 桜が咲いていようがいまいが、私は鴨川を歩くのが好きだということだ。
 京都に住まう多くの大学生と同じように、鴨川には京都に来てからの思い出がたくさん詰まっている(そのほとんどは下らなくて陳腐で、学生生活の一回性という点においてのみ大きな意味を持つ)。しかしそういう文脈を抜きにしても、鴨川を歩くというそれ行為自体が、どういうわけか私を幸せにさせるのだ。春も、夏も、秋も、冬も、私は、鴨川が好きだ。これもまた確かに陳腐な感情なのだが、しかし自分にとっては紛うことなき事実だ。
 私はまた考える。意味性の呪縛から逃れるためには、こうやって、自分が享受できるという事実をひとつひとつ見つけていけばいいのだろうか?*1

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*1:参照した文献は以下の通りです。
熊野純彦レヴィナス入門』(ちくま新書, 1999)
小阪修平『そうだったのか現代思想』(講談社+α文庫, 2002)
小林義之『レヴィナス 何のために生きるのか』(NHK出版, 2003)
榊原哲也『医療ケアを問いなおすーー患者をトータルにみることの現象学』(ちくま新書, 2018)