私たちは忘れっぽい——だから記録する

 少し前、Facebookを眺めているときに、ふと昔の飲み会の写真を見つけた。それは明らかに2年以上前のものだったが、私は反射的に「うわ、これだけ大人数でしかも密集して飲み食いしてる、大丈夫なんかこれ」と考えてしまった。そのときは、「三密」なんて考えなくてもよかったはずなのに。またある日、大好きな漫才の動画を観ていても、彼ら/彼女らの口から発せられる唾が気になってしまった。見えていないのに唾が見えてくる。
 最近はそんなことばかりだ。確実に、新型コロナ以降の思考に着々と頭が侵食され始めている。

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 一方で、いつからこのような思考になってしまったのかというと、なかなかそれを思い出すことは難しい。変化はある日突然起こるわけではない——少なくとも、日本に住む私たちにとってはそうではなかった。COVID-19は初め、中国の武漢で発生した、(私たち=日本人の生活にはほとんど関係しないという意味において)「取るに足らない」新型ウイルスのひとつだった。しかしご存知の通り、COVID-19の猛威は世界全体に広がり、着実に日本人の生活世界も変えていった。そして今も現在進行形で変えている。
 さらに恐ろしいことに、私は、こうなってしまう前に世界がどんな姿をしていたのかさえも、思い出せなくなりつつある。今や、何十人・何百人・何千人も集まるイベントを<感染リスクを考えることなしに>開催できていたときの感覚が信じられない。<感染リスクを考えることなしに>マスクをしないで歩いていても白い目で見られることのない世界が遠い昔のようだ。<感染リスクを考えることなしに>愛すべき友人たちと膝を交えて——唾を飛ばしながら——話していた日も。
 そう、私(たち)は忘れっぽい。

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 だからひとまず言えることとして、大事なことは、この変わりゆく世界を記録しておくことである。「世界」というと大仰な話に聞こえるかもしれないが、何も小難しい評論を求めているわけではない。私たちが日常において感じる小さな変化、あるいはそれについての省察、を何でもいいのでスマホのメモ帳にでも書きつけておくことである。そうでもしないと、私たちがかつてどう生きていて、それがどう変化して今どう生きていて、そしてこれからどう変化していくのか、すぐに分からなくなってしまう。どんなに微細な変化でも重要な意味を持ち得ると思う。逆に言うと、何が大事な変化で、何が大事でないのかは、常に「一週間先、どうなっているか分からない」世界に生きている今の私たちには到底語ることはできない。
 肝要なのは「変化」を感じた瞬間にすぐに書くということである。「当たり前」になってしまったことを記述するのは非常に難しい。なぜなら「当たり前」だからだ。自分の思考・行動に染み込んでしまった暗黙の前提を問い直すには準拠点がいる。(文化人類学ならその準拠点を異世界の他者に求めるだろうが)今の私たちは、「かつての世界」との比較によってしか「当たり前」を問い直すことできない。
 「当たり前」になり切ってしまう前に、「変化」をほんの少しでも嗅ぎ取れば、それが書くべき時である。

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 世界に目を向けてみると、少し調べただけで、今このコロナ禍の経験を記録して集めることを目指すプロジェクトがいくつか見つかる。 

(1)CALL FOR PERSONAL ACCOUNTS AND REFLECTIONS ON EVERYDAY LIFE DURING THE COVID-19 PANDEMIC

(概要)カルチュラル・スタディーズの研究者と人類学者によるプロジェクト
(目的)COVID-19のパンデミックが、私たちの日常生活・経験がどのような影響をもたらしているのかを明らかにするため
(対象) 誰でも
(内容) ①日常において「感染」を予期するのはどんなときか
     ②日常でどのようなmoral questionが立ち上がったか
(形式) どんな形式でも可、長さ制限なし

(2) COVID-19 Global Health Diaries

(概要)国際政治学の研究者たちによるプロジェクト
(目的)個々人の記録を集めた上でどのように分析するかは明記されていない
(対象)誰でも
(内容)science-basedでもpersonalでも、何でも良い
(形式)old diaryの形式でも良いので、毎日800語書き続ける

(3) First Denial, Then Fear: Covid-19 Patients in Their Own Words

(概要)アメリカのサイトWIREDによるプロジェクト
(目的)このクライシスを経験している人たちのリアルタイムの声を捉える
(対象)誰でも
(内容)"Living with Covid-19"と"Critical Condition"の二つに分かれている
(形式)Twitterの呟きなど、最もラフなものも含めて拾っている

(4) Call for respiratory nurses to record Covid-19 experiences

(概要)Solent Universityの呼吸器看護師によるリサーチプロジェクト
(目的) 看護師の生の声を通じて、このコロナ禍にどのように対応し、あるいは何を学んだのか、互いに共有し合う
(対象)呼吸器看護師
(内容)臨床実践における省察、あるいは、日々感じるストレスについて
(形式)?

 私が調べ切れていないだけで、世界にはこのようなプロジェクトがまだまだあるだろう。

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 一方日本では、調べてみたがあまりヒットすることはなかった。唯一私が現在知っているのは、知人がやっている以下のプロジェクトである。

(A) 私たちにとっての新型コロナウイルス 感染症-医療系学生・若手医療者の視点-

(概要)「人と医療の研究室」によるプロジェクト
(目的) 「ナラティヴのアーカイヴ」を作ること
(対象) 医療系学生・若手医療者
(内容)医療系学生・若手医療者が何を考え、どのように行動しているか
(形式)自由

 このような取り組みは今後増えてくると思う。もし現時点で、同様の取り組みを知っている方がいればぜひ共有して欲しい。
 また、このようにオープンな形でなくても、ある特定の職種の人たちに新型コロナによる変化・その省察についてのインタビュー研究が行われ始めているとも聞く。だからもしかしたら、まだ世に出ていないだけで、同じことを考えている人はもっとたくさんいるのかもしれない。

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 自分の思考・経験について記録する際に、意識すると良い点が一つある。それは「他者の目を意識して書く」ということである。これは、その記録を公開するのか、クローズドなものに留めておくかに限らず、大事なことである。他の人に分かってもらおうとして初めて、その言語化する試みに引っ張られるようにして、思考が進んでいくことはままある。また、経験を記述する際、相手の頭に同じ映像を浮かべようと努力することによって、描写の解像度を上げることができる。

 繰り返しになるが、今は、COVID-19によって世界のあらゆる価値観が転覆し、露わになり、問い直され、目まぐるしく更新され続けている。いわゆる「アフターコロナ」と呼ばれるような時が来るのか、あるいは「ウィズコロナ」として歩んでいくことになるのか、それは今の段階では断言できないが、いずれにしても、この混乱の時代に起こるあらゆることは記録に値することであろう。後になって振り返って考証する際に、どんな個人の経験でも必ず貴重な資料になる。そしてそれは、まさに「今」しか書けないのである。

 ——私たちは忘れっぽい。だから、記録しよう。