コロナ禍の卒前医学教育を、学生と教員で考える——今こそ「そもそも論」を

 私は、医学部医学科6年の学生です。このような状況下で、今後の実習がどうなるか、あるいはマッチングや国試も通常通り行われるのか、同級生たちのなかで日々不安が高まっているのを感じます。

1. 「学生の教育参画」とは

 このような有事には、大学において教員側からのトップダウンで物事が決定していくことが多々あります。世間の状況や病院の方針がある中で、「これ以外にあり得ない」という選択が存在するのは確かですし、また、情報の統制という意味でもそうした方が効果的な場面があるのも理解しています。
 しかし一方で、教育を受ける主体はあくまで学生です。その学生の意見が取り入れられることなしに「全てが」進んでいくというのは、適切な状況であるとは到底言えません。平時からも繰り返し言及されていた「学生の教育参画」*1ですが、このコロナ禍にあって、その重要性がより一層増していると私は考えます。
 ところで、「学生と教員とが協働して」と言うのは簡単ですが、それはどのようにして達成されるのでしょうか? 「学生の声を取り入れる」というのは、アンケートをとればそれで大丈夫なのでしょうか? これまで、教員が「上手くコミュニケーションをとれない」と感じたり、学生が「自分たちの意見が十分に反映されていない」という不満を持ったり、あるいは教員と学生の溝がかえって深まってしまったり……という経験はないでしょうか?
 本稿では、いかにして学生と教員の相互方向のコミュニケーション を築き上げ、このコロナ禍における卒前医学教育で最善を尽くすことができるのか、弊大学における学生有志の団体(仮に「A」とします)がかねてから行っている「学生と教員の懇談会」の知見をもとに論じたいと思います。

2. 今必要なのは「そもそも論」である

 先述したように、新型コロナウイルスの感染拡大の煽りを受け、全国医学部における授業・実習が、オンラインに移行もしくは中止になっています。2020年4月27日現在、緊急事態宣言が出ているのは5月初頭までですが、その頃には全てが収束しているという楽観的な見込みを抱いている人はもはやほとんどいないでしょう。少なくとも今年中は、あらゆることをこれまで通りに(十全に)行うことはできないという前提で話を進めなければならないと思います。
 そうなると必然的に、「最低限残さなければならないもの」が何なのかということが議論になります。多くの部分を断念しその残りもオンラインに移行せざるを得ないにしても、「それでも絶対にやらなければならないこと」とは何か。
 これはすなわち、一言で言うと「そもそも論」の重要性を指し示しています。臨床実習を行なってきたけれども、その目的とはそもそも何だったのか。教員はそもそも実習で何を学んでほしいと思っていて、そして学生はそもそも何を学びたいと思っているのか。コロナによってこれまでの手段のほとんど全ての変更を余儀なくされた今、学生と教員が「そもそも論」から話し始めなければならないときです。

3. 「学生と教員の懇談会」の概要

 Aでは、このような状況になる前から、「そもそも論」から卒前医学教育を考える試みとして、「学生と教員の懇談会」を開催してきました。元々は、以前行なっていた、医学部教授が一堂に会するFDワークショップにおける「学生アンケートの報告」という形式での教育参画への反省から、この取り組みは生まれました。その報告においては、学生が自らの学習効果の改善のために、授業あるいはカリキュラムの問題点について多数決方式で意見を募り、「こうすべきだ」という要望は学生のなかで既に決まったものとして提示されていました。
 しかしながら学生が「個々人の学習理解」の向上しか考えていないと視野狭窄に陥り、教員の意図や、大学の構造的制約について無知なまま、自分の見えている範囲だけで発言することになります。 また、「目標の固定化」によって学生の不満や要求の一方的な突きつけになり、教員との対立構造を生み、教員・大学からのフィードバックに対する柔軟さを失います*2。 さらにそれが、教員からの学生に対する説教(=これもまた、一方的なメッセージ)を惹起することもありました。 
 このような反省を踏まえて、Aは学生アンケートの報告という参画の仕方を改め、2016年から「学生と教員の懇談会」という取り組みを探索的に始めました。
 「学生と教員の懇談会」の基本コンセプトは、学生数名と教員数名が集まって「そもそも論から議論する」ことです。どのテーマにも共通する主要な問いは、以下の3つです。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 これを学生と教員とで議論することになるのですが、Aのこれまでの経験上、ただ場を設定すれば自然とそのような議論が可能になるわけではありません。様々な前準備が必要であったり、また「懇談会」本番において工夫しなければならない点・気を付けなければならない点が多々あります。
 それを全て実現しようとすると多大な労力がいるため、実現可能性も考慮した上で「学生と教員の懇談会」を今実施するならこうすべきなのではないか、という案をまとめました。その概要および各段階で注意する点は以下の通りです。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する
 ①「何%か」の数字をとりたい箇所と、「なぜそう思うのか」を問いたい箇所を、意識して分ける
 ②後者について、なるべく自由記述欄を増やす
(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する
 ①アンケート結果を眺めながら、フォーカスしたいテーマを設定する
 ②自分の意見の理由(ア)や、予想され得る反論(イ)、あり得る構造的制約(ウ)等について、学生だけで可能な分はこの段階で議論しておく
(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う
 ①「そもそも論」から考える——同じ立場から医学教育を俯瞰する
 ②参加する学生に「代表性」を求めない
 ③議論し尽くされた後の最後の手段が「多数決」である

 

4. 「学生と教員の懇談会」の詳細

 以下、先にあげた概要について補足説明をしていきます。

(1) 学生全体向けのアンケート(オンライン講義やコロナ下での臨床実習の方向性等について)を実施する

 こちらでやはり重要なのは、「自由記述欄」です。オープン・クエスチョンにすることによって、アンケートを書く全ての学生を、「一個人の意見」としてこれ以降の段階においても尊重することができます。これらは全てカットあるいは編集することなく、教員にすべて渡すべき資料です。リーダビリティを考えると、ある程度は同じような意見をグルーピングするのもよいかもしれませんが、あまりやり過ぎると意見の多様性がかき消される可能性があることには留意しておいてください。
 また、数字をとりたいところも、あくまで全体像を把握するためであり、この時点で「賛成か/反対か」を直ちに迫るような(あるいはこの「投票」によって物事が決定されると思わせるような)構成にならない方が良いかと思います。後に書きますが、「多数決」は議論が醸成した上で最後にとるべき選択肢です。
 もちろん、テーマや緊急性によってはこれは当てはまりません。

(2) 「懇談会」に参加する学生のみで議論する

 これは、もし学生に意欲があって、かつ負担になり過ぎなければですが、前日に一時間だけ喋るという形式でも行ったほうがよいと考えています。理由は、学生と教員がスケジュールを合わせて話し合いの場を持つというだけで大変ですし、限られた時間の中で最大限建設的な議論をするためにも、学生だけで考えられる部分は事前にやっておいたほうが良いと考えるためです。
 ここで強調しておかなければならないことは、話したいテーマを抽出した上で、あくまで以下の問いに照らし合わせて考えるということです。つまりここにおいて、学生たちが共通の意見(common vision*3)にまとまる必要はなく、「学生と教員の懇談会」での「そもそも論」への助走というイメージです。ここには「代表性」の問題が関わってくるのですが、これについても後で書きます。

(ア)学生自身は、「そもそも」教育に何を望んでいるのか
(イ)教員自身は、「そもそも」何を目指して教育をしているのか
(ウ)「そもそも」大学および社会における構造的制約とは何なのか

 学生側だけに事前の議論が必要で、じゃあ教員側は事前に十分な議論をし尽くしているのか、という点については、学生の私からの提言に含めるべき内容ではないので、言及していません。が、基本的に医学教育に携わっている教員の方々は、今は特に毎日のように講義・実習をどうすべきかという点について議論されていることと想像します。私が付け加えることが何かあるとすれば、(1)の段階でとったアンケートを見ながら、教員の方々だけで同様に事前に議論する場を作っておいてくれると、とても嬉しいです。

(3)学生数名と教員数名で「学生と教員の懇談会」を行う

 繰り返しになってしまうのでもう何度も書きませんが、大事なのは「学生vs教員」の対立構造を無闇に作らず、「そもそも論」から考えることです。

"そもそも臨床実習って何のためにあるものなのだろうか?"

 そのような問いに始まり、同じ立場から医学教育を俯瞰して、どうしたら学生・教員・大学にとって良い方向に進んでいくのかをともに考える。そういうスタンスが、誰しもが「十全な」条件でできない今の状況で、最も大切なことではないかと考えます。
 さらに大事なこととして、参加する学生に「代表性」を求め(過ぎ)ないことです。「代表性」を求めることには、二つの弊害があります。一つ目は、参加する学生にとって重いプレッシャーになることです。特に今、自分の意見によってカリキュラムが決定的に変わるとなると、そのような責任を負いたくないという気持ちが働いて、教育について意見をするのを躊躇ってしまうでしょう。
 二つ目は、懇談会に出る(実際に意見してくれる)わずか数名の学生に「代表性」を求めることは、互いに微妙に異なって様々な背景があるはずの「学生たち」を、一つの集団として均質化させてしまうことに繋がるからです。「そもそも論」を積み上げていく上で、一つ一つの意見はそれ自体として検討されるべき価値を持っています。よって、<自らの意見の一般化には限界があることを理解しつつ><代表性から自由な個々の人間として><カリキュラム、コミュニティを俯瞰して教育のあり方を考える>フィロソフィーを学生と教員とで最初に互いに確認してから、会を始めるべきでしょう。
 そして、例えば臨床実習をどうするかについてなら、そもそもそれは何のためにあるのか、学生は何を望んでいるのか、教員は何を教えるべきと考えているか、大学および社会全体における構造的制約は何か、それぞれについて充分に検討し、そして全学生に周知した上でようやくとられるべき方法が、多数決になるでしょう。

5. おわりに

 以上が、私の提案する「学生と教員の懇談会」のコンセプトです。今は誰しも大変な状況ですが、私が何か力になれることはないかと思い、本稿を書かせていただきました。少しでも多くの医学生あるいは医学教育者の方々に読んでいただけますと幸いです。
 また、本ブログ記事を踏まえた論文が、『医学教育』誌から公開されました。

www.jstage.jst.go.jp

6.付録

 以下、「臨床実習」について「そもそも論」でから議論するにあたってどのような点を考慮すべきか、試論を置いておこうと思います。

(1)「オンライン講義&レポート提出」という代替案

 このような状況ですから、まずは敢えて構造的制約を出発点にして考えてみようと思います。このまま医学生が病院に立ち入ることができないという状況が継続し、かつ臨床実習を「完全に中止」にしないのであれば、「臨床実習がオンラインへ移行する」というのがあり得る帰結の一つでしょう。となると一番最初に思いつくのは、「①これまで臨床実習中に行われていた講義をオンラインで行う」ことと、「②(担当患者を割り振るかどうかはさておき)当該科に関する内容でレポートを書いて提出する」ことです。
 これによって、臨床実習が通常通りに行われれば教授されるはずだった「医学的知識」に対しては、ある程度補うことができるでしょう。しかし一方で、(ビデオを視聴するなどして一定のレベルの学習を行うことはできるかもしれませんが)「実際にその場にいて、やる」ことが必要不可欠である身体診察や臨床手技の教育については、十分に行うことができないかもしれません。そしてコミュニケーション教育については、患者と接することができない以上、かなり厳しいと言わざるを得ないでしょう。

(2) 医学的知識と身体診察・臨床手技とコミュニケーション能力と……あとは?

 ところで、この「医学的知識」と「身体診察・臨床手技」と「コミュニケーション能力」以外に、臨床実習の意義は存在しないのでしょうか? アンケートをとっているわけではないのでもちろん確証はありませんが、少なくない人がノーと答えるのではないでしょうか。ある人は、「病院や診療科の雰囲気を知る」ことや「医師の仕事がどういうものか学ぶ」ことが大事だと言うかもしれません。またある人は、「医師としてのプロフェッショナリズムを習得する上で必要不可欠な過程だ」と主張するかもしれません。またある人は、「実習を通じてなんとなく『医師』になっていったなあ」という素朴な実感を話すかもしれません。
 あくまで私の肌感覚ですが、臨床実習には、「皆がハッキリ言語化できるわけではないけど、医師になる上で何か重要なこと」が存在している(かつ、その存在を少なくない人が認識している)ように思います。臨床実習という場で、医学生が「医師になる」上で重要な「何事か」が起こっている。その、「何事か」とは何か?

(3) 医学教育モデル・コア・カリキュラムにおける臨床実習

 ここで、臨床実習の意義を考える素材として、「医学教育モデル・コア・カリキュラム」を見てみましょう。その概要は以下の通りです*4

 モデル・コア・カリキュラムは、各大学が策定する「カリキュラム」のうち、全大学で共通して取り組むべき「コア」の部分を抽出し、「モデル」として体系的に整理したものである。このため、従来どおり、各大学における具体的な医学教育は、学修時間数の3分の2程度を目安にモデル・コア・カリキュラムを参考とし、授業科目等の設定、教育手法や履修順序等残りの3分の1程度の内容は各大学が自主的に編成するものとする。

 「学修時間数の3分の2」を占めるわけですから、このモデル・コア・カリキュラムを参照することは、「臨床実習はそもそも何のためにあるのか?」という問いを考えるにあたって重要なことだと思います。莫大な量の記述があるのでその仔細な検討は難しいですが、どんなことが書かれているのかをざっと見てみましょう。
 「G 臨床実習」の章は、「G-1 診療の基本」「G-2 臨床推論」「G-3 基本的臨床手技」「G-4診療科臨床実習」の4つのセクションに分かれています。「G-2 臨床推論」と「G-3 基本的臨床手技」はタイトルから内容が大体推測できるとして、他の2つをこれから見ていきます。
 「G-1 診療の基本」は、さらに3つのセクションに分かれていて、それぞれ「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」「G-1(2) 診療の基本」「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」です。「G-1(1) 医師として求められる基本的な資質・能力」は別の章である「A 医師として求められる基本的な資質・能力」に基づいていて、そこに書かれているのは以下の通りです。先ほどの「プロフェッショナリズム」についてもきちんと明言されているわけですね。

1. プロフェッショナリズム
2. 医学知識と問題対応能力
3. 診療技能と患者ケア
4. コミュニケーション能力
5. チーム医療の実践
6. 医療の質と安全の管理
7. 社会における医療の実践
8. 科学的探究
9. 生涯にわたって共に学ぶ姿勢

 「G-1(2) 診療の基本」も別の章である「F 診療の基本」の内容を基盤としていて、それはには「症候・病態からのアプローチ」「基本的診療知識」「基本的診療技能」が含まれています。
 「G-1(3) 学生を信頼し任せられる役割」は面白い項目の名前ですが、「それぞれの診療科で『臨床実習で学生にどのような業務を信頼して任せることができ るか』『初期臨床研修の初日にできなければならない業務は何か』について考慮」するとあり、以下のようなかなり具体的かつ基本的な「医師の仕事」ができるようになることを求めています。

1. 病歴を聴取して身体診察を行う。
2. 鑑別診断を想定する。
3. 基本的な検査の結果を解釈する。
4. 処方を計画する。
5. 診療録(カルテ)を記載する。
6. 患者の状況について口頭でプレゼンテーションする。
7. 臨床上の問題を明確にしてエビデンスを収集する。
8. 患者さんの申し送りを行う・受け取る。
9. 多職種のチームで協働する。
10. 緊急性の高い患者さんの初期対応を行う。
11. インフォームド・コンセントを得る。
12. 基本的臨床手技を実施する。
13. 組織上の問題の同定と改善を通して医療安全に貢献する。

 「G-4 診療科臨床実習」は、まず「G-4(1) 必ず経験すべき診療科」と「G-4(2) それ以外の診療科」が挙げられているのですが、いずれの場合も「ねらい」として

1. 将来、該当診療科の医師にならない場合にも必要な該当診療科領域の診療能力について学ぶ。
2. 該当診療科の医師のイメージを獲得する。

 が書かれています。(私の個人的感想として)意外にも、「科のイメージを掴む」というような抽象的なことにまで言及されています。そして「G-4(3) 地域医療実習」「G-4(4) シミュレーション教育」と続きます。

(5) コアカリは「そもそも論」にどこまで有用か

 さて、話が錯綜としてきました。これでもかなり抜粋して書いたのですが、モデル・コア・カリキュラムは非常に情報量が多く、項目を追っていくだけで疲れました。それなりに臨床実習における様々な側面について目配りができているし、網羅性という意味では一定以上役に立つかもしれませんが、「臨床実習で何を教えるか」を議論するにあたって、この項目の全てを一つ一つ学生と教員で検討していく……というのはいささか現実的ではないでしょう。
 また、この「モデル・コア・カリキュラムに基づいて検討していく」という方法は、別の意味でも問題があると私は考えます。それは、「教えられること(教員が教えようと意図していること)」と「実際に学生が学ぶこと」は、全く違うとは言いませんが、必ずしも同じものとして考えられないからです。「コアカリを見れば教育の全てを考えられる」という思考からは、学生の実際の経験という観点がご反りと抜け落ちています。
 「そもそも論」における議論を今一度思い出すと、「そもそも教員は、どういうことを意図して教えているのか」、「そもそも学生が、臨床実習で何を学ぶことを望んでいるのか」という問いが重要です。それにあたってコアカリを傍らに置いておくのは有用かもしれませんが、教員の思い・学生の思い・大学および社会全体の構造的制約の3つが交わるなかで「結局学生は、臨床実習で実際に何を学んでいる/いたのか」を各大学の文脈で考えるには、話を整理するための何か他の軸(それもシンプルなもの)が必要であるように思えます。

(6) レイヴ&ヴェンガーにおける「アイデンティティ」概念

 先ほど、「何を教えているか」と「何を学んでいるか」は違うと書きました。それと同じことを主張している文献は既に存在して、それはレイヴ&ヴェンガー『状況に埋め込まれた学習』(産業図書, 1993)です。彼/彼女らは、学習を教育とは独立した営みであるとして、「学習は、本人が『学ぶという営みをどういう実践と捉えているか』に大部分が依存している」と主張しました。
 さらにレイヴ&ヴェンガーの議論の面白いのは、「学習者が何を学ぶのか」を追究した結果、学習が「職業アイデンティティ形成(professional identity formation)」の過程を成していると説いた点です。上に挙げた文献に於いて解説の福島真人は、ブルデューハビトゥスの概念を念頭に置きながら、以下のように論じます。

 社会実践をこうした実践の共同体内に定位することで、実践というものが、緩やかに変化する環境(それは実践共同体内での地位変化に対応するが)の中での、継続的な学習の過程であるという重要な帰結がここで得られることになる。ブルデュー流に言えば、暗黙の内に学習する能力を持つ社会的身体が、この緩やかな螺旋運動の中で、その親方に具体的に代表されている認知・判断・行為の全体的マトリクスを、その共同体に参加するという行為によって、自然と身体化していくという事なのである。それゆえ、ブルデューにおいて抽象的にハビトゥスと語られてきたものは、ここでは熟練のアイデンティティと呼ばれている。これが全人格的な「アイデンティティ」と呼ばれるのは、まさにそれが社会的身体の全領域を含んだ体得であり、決して単にある特殊技能の習得だけではないからである。しかもハビトゥス形成の過程がより具体的・視覚的に表現されている。(157ページ)

 ここでハビトゥスについて簡単に説明を加えておくと、しばしばそれは「構造化された構造であると同時に構造化する構造」であると言われます。呪文のような言葉なので少しずつ紐解いていくと、「構造化された構造」というのは、暗黙のうちに学びとられ、当事者の主観世界をいわば背後から基礎づける身体的な傾向性の基盤のことです。また、既に学習した身体が生み出す行動様式(=プラティック)は、全くの自由な実践(=プラクシス)ではなく、反省的思考によっては容易に変えられない緩やかな傾向性の制限の中で行動を再生産していく、という意味で、「構造化する構造」でもあります。
 また少し話が込み入ってしまいました。要は何が言いたかったのかというと、「何を学んでいるのか」を考えていった際にそこに「意図していないが、暗黙のうちに学んでいるもの」がある、ということがまず一つです。そして別の話として、「知識」と「技能」の他に、「アイデンティティ」形成のような、平たく言えば「医師らしさ」を獲得するような過程がある、というのがもう一つの話です。

(7) 私たちは、臨床実習で学んでいるのだろうか

 以上を話を全て踏まえて、「医学生が臨床実習で学んでいるもの」を整理する際に、以下の(A),(B)の2軸で考えることを提案します。

(A)
公式に学ぶだろうと期待されていること
非公式に、しかし意図的に学ぶだろうと期待されていること
意図していないが、しかし暗黙のうちに学んでいること

(B)
知識
技能
アイデンティティ(医師としてのハビトゥス

  この、3×3=9のマトリックスに応じて「臨床実習を学んでいくか」を考えていけば、整理された議論をすることが可能なのではないでしょうか。複雑過ぎず簡単過ぎず、必要十分な内容を目指したつもりです。これに加えて、コアカリ、そして各大学独自のシラバスを眺めながら議論していく、という形を想定しています。

(8) おわりに

 最初は現在の構造的制約から考え始めたはずが、最終的にはそれとはずいぶん飛躍した位置に着地しました。もともとこの文章を書くに至ったのは、このコロナ禍で「そもそも臨床実習は何のためにあるのか」という議論をしていくにあたって、「皆が皆きちんと言語化していないけど大事なもの」がこぼれ落ちていってしまうのを防ぎたくて、「いったい私たちは臨床実習で何を学んでいるのか」について言語化を目指した、というわけです。本稿で書いたような内容は、今の状況に限らず、今後も臨床実習を考えていく上で重要ではないかと考えます。何かご意見などありましたらコメント頂けますと幸いです。

*1:「医学教育分野別評価基準日本版 世界医学教育連盟(WFME)グローバルスタンダード 2015年版準拠」には、「カリキュラムの計画、運営、評価、および他の学生関連事項への学生の参画についての方針を持たなければならない」という記載があります。

http://ttps://www.jacme.or.jp/accreditation/wfmf.php (accessed 25 April, 2020

*2:学生エンゲージメントをどのように理解すればいいのか、ターミノロジーは基本的に以下の文献に拠っています。
Ashwin P, McVitty D. The meanings of student engagement: implications for policies and practices. The European higher education area. Springer, Cham, 2015, 343-59.

*3:例えば以下の文献でも、学生の教育参画についての論文は、「学生が『common vision』を持つべきだ」というような指摘が多く、それは一見もっともらしく聞こえますが、私は上述の理由でそれに対して疑問を抱いています。
Dhaese SAM, Van de Caveye I, Bussche PV, Bogaert S, De Maeseneer J. Student participation: To the benefit of both the student and the faculty. Education for Health 2015;28:79.

*4:医学教育モデル・コア・カリキュラム(平成28年度改訂版)
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/06/28/1383961_01.pdf