<お笑いと社会 第1回> 「いじり」とは「ごっこ遊びすること」である

 このシリーズは、「バラエティ番組の『いじり』は日常生活の『いじめ』を助長するのか?」という問いに答えるため、一年弱かけて不定期に連載してきました。今回、また記事を書くにあたって読み返してみると、長期間にわたって書いてきたために議論が混乱してしまい、改めて話を整理したほうが良いのではないかという思いが沸いてきました。しかし遡って書き直すというのも不誠実なような気がします。そこで今回から、これまでの内容を基本的には踏襲しながら、三回分を再編集した新版として前後半に分けて書いていきたいと思います。前半は、以下の二記事を下敷きに、ごっこ遊びの定義と日常世界における「いじり」について考えます。

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第Ⅰ部 ごっこ遊びとは何か

1-1. ウォルトン「虚構を怖がる」の議論から

 はじめに、分析哲学ウォルトン(K. Walton: 1939-)の「ごっこ遊び(a game of make-believe)」という概念について紹介したいと思います。
 例えば怪獣ごっこ遊びなら、父親が怪獣になりきって、「グオー」と呻きながら恐い顔をして子供を追いかける。子供は、「キャー!」と叫びながら逃げまわる。
 さて、この怪獣ごっこを楽しむ子供は、「本当に」怪獣がその場にいると「思っている」のでしょうか? 答えはノーでしょう。そうやって走り回れるくらいの子供は、父親は人間であって怪獣ではないということは理解できているはずです。しかし一方で子供は、「うわ、なんか36歳会社員の男が呻きながらこっちに寄ってくるわ、とりあえず叫んどくか」と冷めた目で父親を見ているだけでもないのです。子供は怪獣ごっこに熱中しているからこそ、「キャー!」と叫びながら逃げまわり、その瞬間を楽しんでいます。
 怪獣がその場にいると「思っている」けど「思っていない」、このアンヴィヴァレントな状態がごっこ遊びの核心です。ここで「思っている」というのは、ウォルトン流には「虚構的真理を信じている」という表現になります。「虚構的真理」とは、「怪獣が存在する」というようなテーゼも「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であるとみなす考え方のことです。また「思っていない」とは、「虚構が虚構であると分かっている」ということを指します。

1-2. ごっこ遊びが終わるとき

 ごっこ遊びから離脱する方法には大きく分けて二つあって、一つ目は「虚構性に明示的に言及する」ことです。
 例えば怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけたとします。そんなことを言われてしまった暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。同時に、そう言った後の子供がまた「キャー」と叫びながら逃げまわるのもおかしな話でしょう。
 つまり、ごっこ遊びの最中に、自分(たち)が「ごっこ遊びをしている」という事実に明示的に言及することによって、虚構性が暴露されています。それによって(虚構に降りていた)あなたは現実世界に引き戻されてしまい、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)は真ではなくなります。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残されてしまうのです。

 二つ目は、「虚構が真実だと誤解する」ことです。これは例えば怪獣ごっこなら、子供が「本当に」怪獣がその場にいると思ってしまう状態のことです。ごっこ遊びの二つの成立要件から見てみると、「思っている」と「思っていない」のうち後者、すなわち「虚構を外から見ている」視点が失われてしまっているわけですね。

第Ⅱ部 「いじり」とは何か

2-1. 「いじり」は「ごっこ遊びすること」である

 私は昔、よく滑舌の悪さについていじられていました。特にい段が苦手で、「き」「し」「ち」が言えず、「キッチン」や「チキン」「敷地」を発音させられて周りに笑われる、そして私が怒る、というやりとりをよくやったものです。しかしそれに私が嫌な思いをしていたかというと、そんなことはなく、仲の良い友達との一種の「お決まりの下り」として理解していました。
 この「いじり」の事例について、「ごっこ遊びすること」と重ね合わせて考えてみましょう。ここにおいて、「私の滑舌が悪い」ということ自体は(注釈抜きの)真理です。しかしながら、以下のやりとりの

①友達が、私の滑舌の悪さに悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
②私が、それを言われて気分を害する(怒る/悲しむ)。

という「悪意をもって」と「気分を害する」の部分が虚構的真理です。周りの友達は「本当に」傷つけようとして私のことを貶していないし、私も「本当に」怒っているわけではない。それが虚構であると暗黙のうちに分かったうえで、それでも、「本当に」貶された私が「本当に」怒っているものとして表面上のコミュニケーションがとり行われるのです。
 このように「いじり」は、虚構が虚構であると分かっていながら虚構的真理を信じる営みであり、その意味で紛れもなくごっこ遊びの一亜型であると考えることができます。

2-2. 「いじり」が成立しなくなるとき

 先ほどのごっこ遊びの議論に即して、「いじり」が成立しなくなる条件について考えてみましょう。一つ目の「虚構性に明示的に言及する」は、「ま、これはいじりだから、本気で言ってるわけでも、本気で怒ってるわけでもないんだけどね」宣言してしまうことです。
 二つ目の「虚構を真実だと誤解する」は、例えば友達が「本当に」私の滑舌の悪さに悪意をもって言及したわけではないのに、私がその悪意を「本当のものとして」受け取って気分を害する、ということになると思います。

第Ⅲ部 日常生活における「いじり」と「いじめ」

3-1. 「いじめ」とは何か 

 さて、ここからは「いじり」と「いじめ」の問題について考えたいと思います。周知の通り、「いじり」と称して行われていたことが実質的には「いじめ」であった、として批判されることは世の中にままあります。それではいったい、こう言うときの「いじり」と「いじめ」は何が違うのでしょうか。ごっこ遊びとしての「いじり」を踏まえて考えるならば、以下の条件を満たした場合にそれは「いじめ」になると考えられます。

①Aが、Bに関する何かしらについて「本当に」悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
and/or
②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する(怒る/悲しむ)。

 「and/or」と書いているのは、①②両方の場合はもちろんですが、その片方だけでも満たした瞬間にそれは「いじり」ではなく「いじめ」になるという意味です。 私の例に即して言うのならば、友達が私の滑舌について「馬鹿にして攻撃してやろう」と思って言及した場合には、私がどう感じようと(気にしていなくても)それは「いじめ」です。また、友達側は傷つけるつもりはなく「いじり」と思って私の滑舌に言及したとしても、私がそれで気分を害すればそれは「いじめ」です。

3-2. 「いじり」は容易に「いじめ」へとスライドする

 賢明な読者の方ならお気づきかと思いますが、この「いじめ」になる例のうち後者(②Bが、それを言われて「本当に」気分を害する)は、そのまま第Ⅱ部の「いじりが成立しなくなるとき」で「虚構が真実だと誤解する」として挙げた例と一致しています。このように両者の境界は非常に曖昧であり、「誤解」によって容易に「いじり」が「いじめ」へとスライドしてしまうことになります。
 つまり、表面上は全く同じやりとりでも、相手の受け取られ方によってはその意味が大きく変わることになるのです。

3-3. 「いじめ」を遡及的に「いじり」に変換できる

 もう少し、「いじり」と「いじめ」の境界の曖昧さについて考えてみましょう。ここで、一つのエピソードを紹介します。2018年、女性芸人のXさんがとあるテレビ番組に出演し、自分が芸人となった原体験について話していました。

 Xは小学生時代、「ブタ」と呼ばれていた。それに「シュン」と萎縮してしまうとクラス中が悲しい雰囲気になる。そこで、「ブタって何よ!」と傷ついていないかのように言い返すと笑いが起き、その場が明るくなった。その体験から、イジられても「変な空気にならずに笑いになることが一番平和」だということを感じ、芸人となった今も「ふってくれることに対しては絶対応えたいという気持ちでいる」。

 ざっと、彼女の発言を要約すると上述のようになります。一見、まるで美談であるかのように語られていますが、しかしここには大きな問題があります。
 それは、Xさんとその周りの同級生たちは(彼女の発言から判断するに)事前に良好な関係を築いていなかったということです。つまり同級生は「本当に」悪意をもって、ブタという言葉を本人を嘲笑する/傷つける意図で言おうとしていた。そしてXさんは「本当に」悲しんでいた。これは虚構などではなく、れっきとした真実です。
 その後、Xさんのリアクションによって教室は笑いに包まれ、彼女と同級生たちは「良好な関係」になりました。この「良好な関係」はすなわち「ごっこ遊び」の成立のことであり、「ブタ!」という言葉には「本当に」悪意があるわけではない、という解釈が付与されるということです。また同時に、Xさんも「本当に」悲しんでいるわけではなかった。ここに虚構的真理ができあがる。
 しかしながら、ここでいくら強調してもし足りないことは、その虚構的真理への転化はあくまで遡及的retrospectiveであるということです。上に述べたように、同級生のXさんに対する態度は、最初はれっきとした「いじめ」でした。それが彼女の応答によって「あれはいじりだった」と遡及的に意味が変質してしまったのです。それに伴い同級生たちも「始めからこれは『いじり』でしたよ」という顔をすることが可能になり、彼ら/彼女らの罪悪感も軽くなったのではないでしょうか。これは、「いじり」における虚構的真理は外部の人間が見て判断できない内面の部分であるために起こることです。

3-4. 「『いじり』は暗黙の了解のうちに始まる」という前提

 今回はXさんのリアクションありきの話ですが、仮にそういう反応が受け手側からなされなかったとしても、「あれは『本当に』悪意を持っていたわけではなかった」と遡及的に説明を与えることによって、「だから『いじめ』じゃなくて、『いじり』(のつもり)だった」という弁明が可能になります。
 重要なのは、この弁明には、「いじりはそもそも互いの暗黙の了解のうちに始まる」ということが前提にあることです。ここに、「いじり」と「いじめ」問題についての最も難しい点の一つを見ることができます。
 第Ⅱ部において、「いじり」というごっこ遊びを成立させなくする方法の一つに、「虚構性に明示的に言及する」ことを挙げました。つまり、「今からするやりとりは『いじり』です」と明言してしまうと、それはもう「いじり」として成立しなくなってしまう。一方は「本当に」傷つけようとしているわけではないし、もう一方も「本当に」悲しんでいるわけではない、ということを暗黙のうちに、共通了解としてはじめに持っている必要があるのです。逆に言えば、その前提を悪用し他のが、「共通了解の『つもり』だった(=ごっこ遊びが成立していると『思い込んで』いた)」という、遡及的な事実の改竄による言い訳なのです。

第Ⅳ部 たとえそれが「いじり」であったとしても

 Xさんのエピソードにおいて、遡及的な「いじめ」の「いじり」への転化が問題であることはわかりました。それでは、「いじり」として成立して以後のやりとりは全て何の問題もないと言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。以下、二つの問題点を提示します。

4-1. 「マジになるなよ〜w」の圧力—ごっこ遊び「せざるを得ない」

 はじめに論じたいのは、「いじり」を継続するのはXさんの「意に反していた」のかどうか、という点です。つまり、Xさんは自ら望んでごっこ遊びを継続「していた」のか、あるいは無理やり「させられていた」のか。
 この意見に対して反論する人が一定数いることは容易に想像ができます。Xさんが望んで「いじる」「いじられる」の関係をつくったのだ、現に、本人が番組で美談として話しているのがその証拠じゃないか、と。

 しかし注目したいのは、Xさんの元々の発言で「変な空気にならずに」という表現があったことです。ここで「変な空気になる」ことは、Xさんが友達の言葉に「シュン」とする、すなわち「本当に」怒る/悲しむことによって引き起こされます。
 これは、「いじり」というごっこ遊びが成立しなくなるもう一つの方法、「虚構を真実だと『誤解』する」にあたります。「誤解」にかぎかっこを付けたのは、それは決して「誤解」などではなく、当然Xさんには友達の言葉に「本当に」傷つき、そしてその怒り/悲しみを主張する権利があるからです。しかしそれは、周りの「マジになるなよ〜w」というレスポンス、あるいはそういう返しが来るだろうというXさんの先回りの予見によって、抑圧されてしまうのです。
 そんな状況下で、Xさんが取ることのできる行動は、「いじり」という関係を維持し続けることしかなかったのです。ここで重要なのは、それ以外の選択肢がなかったことだと私は考えます。同級生たちに「ブタ!」と言われること、「シュン」とした空気になること、自分自身が傷つくこと……そんな苦しい状況の中で、その全てを解決する手段は、「いじりとして処理すること」だけだったのです。彼女の見ている世界では、現状を変えるにはそれしかなかった。「いじり」にすれば、同級生の反応は変わり、空気は明るくなり、自分も傷つかなくなる……その問題点は既に指摘した通りですが、しかし、彼女にとってその変化は救いだったのでしょう*1*2

 ここにおいて、「能動―受動」のパラダイムのままで表現するならば、Xさんは自分で望んで「していた」とも言えるし、「させられた」とも言える。意志の在り処が曖昧になる「せざるを得ない」という表現が最も近いのかもしれません。近藤さんのその帰結を責めることはできませんが、しかし、「本人が『自分の意志で』リアクションしたと思って/語っていた」からと言ってただちに「いじめではない」と判断できない、ということがこれらの分析から分かります。

4-2. ルッキズム的価値観の再生産への加担

 それでは、取りうる選択肢が豊富にあり、お互いが了解の上での「いじり」ならそれは全てオッケーなのでしょうか? 私は、「ルッキズム的価値観の再生産への加担」という観点から、そうは言えないと考えます。
 ルッキズムLookismとは、容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことです。同級生が「本当に」悪意をもって、ブタという言葉で近藤さんを嘲笑していたのは、明確にルッキズムです。
 しかしそれが遡及的に「いじり」へと転化され、「ブタ!」と言っていた同級生たちが免罪されることによって、「別に、ああいうことを言っても良かったんだ」とルッキズム的な価値観が正当化されてしまうのです。そして彼ら/彼女らは、悪びれることなく、また別の場面でも同じような言動を繰り返す。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められる。
 このようにして、Xさんのような「いじり」を許容することによって、ルッキズムが強化・再生産されてしまうのです。

第Ⅴ部 どのような「いじり」なら許されるのか

5-1. いじりの3条件

 以上、Xさんの事例を見ながら、「いじり」に付随する問題について考えてきました。さてここからは、以上の議論を踏まえて、許される「いじり」が存在するとすれば、それはどのような条件を満たすべきなのか、を論じてみたいと思います。この部分に関しては私もまだまだ考えている途中なので、これはあくまで暫定的な案ですが、条件を3つに分けて書いてみました。

「いじり」の3条件
①「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている(そしてそのことをはっきりと双方が共通理解として持っている)
②相手の本当に嫌なことは言わない
③相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない

 一つ目の条件で「前に」と書いたのは、遡及的に「ごっこ遊び」が成立されてしまうことを防ぐためです。二つ目は、虚構的真理が守られるために当然必要な条件です。そして最後が難しいところです。「以前から良好な関係であるAとBしかいないクローズドな場で、『ブタ!』と言うことが社会的に容認できない価値観であり、他の場面で適用されないということは分かった上で、お互いに完全に同意のもとでAがBを『ブタ!』といじる」ことは許されるかどうか、というのが争点です。悩みましたが、
・いくら「他の場面で適用されないということは分かった上で」とは言っても、このようなやりとりを日常で例外的に認めることによって、「社会的に容認できない価値観」を内面化そして再生産する潜在的なリスクを否定し切ることはできない。
・上述の「せざるを得ない」の議論から、表面上「完全に同意」があったとしても、受け手側がその「社会的に容認できない価値観」への抵抗感がある可能性を排除し切れない。
 という理由から、「相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない」という記述にしました。

5-2. 「内輪」という信頼関係

 ともかく、AとBが「いじりの3条件」を満たせているのだとすれば、それは相当な信頼関係の上に成り立っていると考えてよいと思います。ここで、次回以降の議論のために、「いじり」というごっこ遊びを行うことのできる信頼関係のことを、「内輪」と名付けたいと思います。

5-3. いじりとは本来的に非対称な関係である

 しかし改めて見てみると、当り前のようでいて穴だらけな「3条件」であることが分かります。「十分に」とは何か、「良好な関係を築いている」という判断は誰がどのように担保するのか、「本当に嫌なこと」と言うときの「本当に」はゼロサムの表現だがそのように明確なラインはあるのか、同じく「本当に」の判断は誰がどのように担保するのか、「社会的に容認できない価値観」と言うが一体それは何を指しているのか、など、無限に問題があることが分かります(特に最後のやつはヘヴィです)。ですが紙幅の都合から、これらについてはまた別の機会で詳細に論じて固めることとします。
 ただ一つだけ言えることがあるとすれば、「いじり」とは、「いじる側」と「いじられる側」が存在する、本来的に非対称な関係であるということです。ここが、「する側」と「される側」の存在しない「ごっこ遊び」と最も異なる点であると思います。かくして「いじる側」と「いじられる側」は、権力勾配のある緊張を常に孕んでいる。それはどこまで言っても「十分に」「良好な関係」と言えるのか? この問いに関しては、いずれ必ず答えなければならないでしょう。

結語

 本稿では、ウォルトンごっこ遊びの概念を用いて「いじり」という営みを記述し、またそれに付随して起こる問題について論じてきました。最後に「内輪」という言葉を登場させましたが、これはバラエティ番組における「いじり」を考えるにあたって次回以降のキーワードになっていく予定です。

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*1:私もかつて、過度に貶めるような言葉を投げかけられたり、バッグを隠されたり、その他大っぴらには書けないような酷い仕打ちを恒常的にされ続けて苦しんでいた時期がありました。そしてあるとき、それを全て「笑いで返す」=「遡及的にいじりにする」ことによって抜け出そうと決心し、何とか地獄の日々から脱出した、という経験を持っています。その意味で、私は全く他人事には思えないのです。
 確かに「『いじり』にする」ことは本稿で論じたように問題だらけですが――それでも、と私は思います。苦境を解決する方法が「それしかない」ように見えている人に、「お前は悪しき価値観の再生産に加担している」と言うのはあまりに酷です。ましてや、「それを選ぶな」とは口が裂けても言えません(もちろん、本人がそう「せざるを得ない」社会構造を変えなければいけない、ということは改めて強く主張しておきます)。

 そんな風に悩んでいるときに、私は一つの記事に出会いました。それは、かつていじめを受けていたものの、文化祭でやるコントの脚本を書いたのをきっかけに一躍クラスの人気者になった、という経験を持つ霜降り明星せいやさんのインタビューです。

 このエピソードもともすれば、「いじめを笑いによってはね返した」という美談として語ることはできそうです。しかしせいやさんは一貫してそれを拒否します。

――高校生のせいやさんは、コントが書ける力を持っていたからこそ、あの状況をくぐり抜けることができたとも言える。一方で、多くの10代は、せいやさんと同じようないじめを受けたとき、ギブアップしてしまう人がほとんどだと思います。つらい思いをしている「普通」の10代に今、せいやさんが伝えられるメッセージを聞かせてください。

 これが一番言いたいんですよね、結局。僕は別に、自分の経験談を押し付けたいわけじゃないので。
 やっぱりね、逃げた方がいいですよ。立ち向かわなくていいです。僕は別に闘ってないんですよ。笑いではね返したっていう言い方をすることもありますけど、笑いに逃げただけ。僕には笑いっていう逃げ場所があったから。笑いって対人やから、向かっていったみたいになってますけど。
 音楽に逃げる。ゲームに逃げる。睡眠に逃げる。何でもええです。とにかく、そんなやつらに、人生終わらされてたまるかっていう気持ちを持ってほしいですね。そんなやつらに合わせる必要もないし、そんな環境に合わせる必要も全くない。自分の好きなことを、本当にチャンスやと思って見つけてほしいですね。

 せいやさんは一貫して、苦しい状況にあるときに「『いじり』にするしかない」「笑いに転化するしかない」なんてことはない、ということを強く主張しています。確かにお笑いは「助けて」くれる。でも他に選択肢はいくらでもある。逃げればいい。「あいつら」に合わせる必要はない。
 あの時期にこの記事があって、私が読むことができていれば、なんてことを考えてしまわないわけではないです。しかしそんな意味のない反実仮想よりも、今私が願うのは、もし今いじめに苦しんでいる人がいるならば、何かの検索で引っかかってこのせいやさんの記事にたどり着いて、ちょっとでも救われたらいいな、ということです。

*2:もう一つ、お笑いコンビレギュラーのこの記事もずっと気になっています。

r25.jp

 彼らは今、老人ホームの「余暇時間」でネタを披露するという活動に力を入れています。そこで認知症を「いじる」ことについて、こう言います。

 「介護の現場では、かわいそうだから笑ってはいけない」というのは、間違っていると思うんです。

 たしかに身体が不自由な人や認知症の人たちは、間違うことや、おかしなことを言ってしまうこともあります。

 でも、決して「かわいそう」ではない。本人たちは普通に言っているのに、まわりが「これはかわいそうなことなんや」と決めつけて、隠そうとするほうがかわいそうやと思うんですよね。

 ルッキズムの話と同等に考えるのならば、認知症について「いじる」ことも許容されません。ただ、彼らの言うように、そうやって自分のネガティヴな笑い飛ばすことが本人にとって活力になるのであれば、それを外野から批判することはできるのでしょうか?