最近は全然コロナについて考えていない。

 3日前、ふと思った。最近、コロナについて全然考えていないなと。

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 LINEを検索してみると、私が初めて「コロナ」という文字列を打ち込んだのは2/27(木)のことである。それはちょうど、COVID-19の影響を受けて大規模イベント等が次々と中止・延期になっていた頃だった。私は、権威ある漫才の大会が中止になること、また一方で独り芸の全国的なお笑いコンテストが無観客で行われることを知り、知人にニュースのリンクを送った。

 NHK上方漫才コンテストっていう、権威ある漫才コンテストも延期……

 しかしこの頃はまだ、「自分の好きなエンタメが奪われる」という程度の認識しかなくて、まさかこんなにも時代を変えるほどに大きな影響を持つとは予想だにしていなかった。

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 私はがCOVID-19関連の記事・文献・書籍を——特に人文系を中心に——可能な限り追うことに決めたのは、4月のはじめ頃である。それ以降、見つけたものは友人とslcakで共有しさらに考えたことを文章におこして投稿して、ということをずっと続けてきている。おかげで、こういうときにそれぞれの学問領域の専門家がどのような概念を持って何を言うのか、ということについての見晴らしがだいぶんつくようになった。またそのsclackのチャンネル自体が、将来的に貴重なアーカイヴになると思っている。
 ただ始めた直後と比較すれば、slcakで記事をあげる頻度はやや減っているように思う。ひとつ事実としてあるのは、能動的にCOVID-19の記事を探すということについて少し息切れしつつあるということだ。ずっとCOVID-19のことについて考え続けるというのは、色々な意味で消耗するし疲れる。それと私自身の今の環境のいろいろが重なり合って、冒頭のようなことを考えたのかもしれない。
 でもカレンダーを見てよくよく考えてみれば、COVID-19に関する思考から自由な日など一日もなかった。5日前は緊急事態宣言の解除について家庭教師先のお母さんと話し合っていた。4日前はこの状況における臨床実習について先生や学生たちと話し合っていた。3日前など、いつものようにslcakにCOVIDー19に関する論考をアップし、それについて考えを述べていた。そのあとに私は「最近は全然コロナについて考えていない」と「ふと思った」のである。

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 思うに、COVID-19というものが、私の思考の前提に深く侵入し過ぎたせいで、その存在を意識しないまでに至ってしまっているのだと思う。当初のように「能動的に」について考えることをしなくても、すでに私はCOVID-19について「考えている」のだ。それは今の私の生活のあらゆる細部を支配している。
 それは単純に(臨床実習がなく、ほとんどの時間を実家で過ごしているという)今の私の生活を規定しているという意味でもあるし、思考の様式を侵しているという意味でもあるし、また私の身体そのものに介入してきているという意味でもある。ここまで、外を歩いていて、自分あるいは他者の鼻や口、指、唾に神経を尖らせながら生きたことはなかった。しかしそこにおいて「COVID-19のために」という文言はワンテンポ遅れてやってくる。触らないために触らないし、近づかないために近づかないのだ。
 だから私は、「最近は全然コロナについて考えていない」と思った自分にゾッとした。そうやって「新たな日常」を受容してしまうのがすごく怖い。受容することそれ自体より、そこの無自覚さに恐怖を覚える。これから自分の思考あるいは身体がどう変化しようと、それに意識的であることに踏ん張り続けるにはどうすれば良いのか。

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 ついでに日記めいたものをここに書いておく。このところ、私はずっと一階の和室に机を置いて時間を過ごしている。今日の18時頃、窓を開け放って作業をしていると、リビングから、そして隣の家から、安倍首相の緊急事態宣言の解除の記者会見が聞こえてきた。今まで知らなかったのだが、同じテレビと言っても微妙な時間差があるのか、安倍首相の声がダブって聞こえてくるのが非常に気持ちが悪かった。別にどうでもいい場面なのだが、なんかこれはこの期間における記憶の一つとして当分忘れないだろうなという確信が私に訪れた。
 単純に、そもそも自分ひとりの部屋がないからそうなっているのだが、来る日も来る日も、和室という同じ空間で毎日を過ごしている。そうしていると、日々がだんだんと溶け合っていって、なんだかひとつのぼんやりとした大きな塊になっていくような感覚がある。要するに、時間の遠近感覚が極限までに鈍っていくのだ*1。昨日も今日も明日も同じ一日である。
 だから頻繁に不安になって、カレンダーを見ながら、「何日前に何をした」という「特異的な」思い出を見つけ出そうとする。すると五日前の出来事がちゃんと五日分くらい前の出来事のように感じるので、とてもホッとする。
 一方で、この生活が始まった二ヶ月くらい前を思い出してみると、もう随分前のように思える。この間、かなりたくさん本を読み、かなりたくさん文章を書き、かなりやるべきことを消化できた。正直、こうならなければ生まれ得なかった生産性だと思う。そういう意味で充実しているのは有り難いが、このまま溶け合うような日常がこれからも過ぎていく可能性について考えると、頭がおかしくなりそうになる。
 ぼんやりとした大きな塊からいかに抜け出すか。気を抜くと飲み込まれて、抜け出せないループを永遠に繰り返してしまうような気持ちにもなる。自分は何が楽しくて生きていたのかもよくわからなくなる。でもたぶん、いや確実に、朝起きたらまたこの和室に私はいる。