今の俺を見てくれ

 大学生になった頃の私は、LINEでスタンプを使う男が嫌いだった。特にかわいいスタンプを使っている奴に対しては、「自分の顔見て出直して来いよ」と思っていた。我ながらほんとうに酷い話だ。
 そういう考えの根源にあったのは、男子校6年間の生活で鍛え上げた卑屈な精神だ。私は自分の顔のあらゆるパーツが心底嫌いで、そしてそんな気持ちの悪い人間が絶対かわいいスタンプなんか使っちゃいけないと思っていた。その自意識が、他者に対する攻撃性として表れていた。
 それから時は流れ、今の私は、そこそこの種類のかわいいスタンプを愛用している。そうなったのには色々理由がある。まずもって自己否定感との向き合い方を徹底的に考えてきたこと、コミュニケーションのツールとして何を使おうがそれは人の自由だと思い直したこと、ましてやそれを人の容姿と結びつけることがいかに偏狭な考えなのかに気が付いたこと。特に自己否定感云々の話は散々書いてきたので今さら触れないが、ともかく私は、あの頃とは考えを変えた。

 大学生活の終わりも近付く今考えてみると、高校卒業したての自分とはかなり違う人間になっていると思う。それは、自分の人間性という意味でもそうだし、社会におけるあらゆる事象についての考え方という意味でもそうだ。
 自分の良くなかったところ、至らなかった点、未熟な考え方、不適当な思いこみ——というのは、たいてい現在進行形では分からない。少し経って、あるいは何年もかかって、他人に勝つことを至上の価値とする生き方でどうするよとか、自分を否定するばかりじゃなくてもっと愛してあげもいいとか、あのときあの人のことを何も分かってあげてやれていなかったなとか、まるで世の中にはマイノリティが存在しないかのような発言をしてしまっていたとか、自分の持つ権力性に無自覚だったなとか、相対主義的態度で解決しないことは山ほどあるなとか、自分が今いる環境はすべて自分の努力で勝ち取ったというのは浅はかな思い上がりだとか、自分が生きていない世界への想像力があるつもりで全然なかったとか、そういうことにはたと気づく。良いように言えば内省的、悪いように言えば些細なことについてグチグチと考え続けることをやめられない性格がそうさせている(そしてそういうところだけはずっと変わってない)。
 そうやって次から修正できることならいいが、気づいた時点ですでに取り返しのつかない状態になっていることも多々ある。特に最近、相変わらずの生活でつらつらと考える時間がたくさんあるせいで、過去に戻って自分の行動・発言を訂正したい気持ちにたびたび苛まれている。しかしタイムマシンは未だ存在しないし、そもそも訂正したいというのはこちらのエゴでしかないので、ひとり自室で頭を抱えて反省するのみである。

 とにかく、フィードバックをかけて自分を更新し続けることだけはやめてはいけないと思っている。もちろん根本のところではそう簡単に変われないのかもしれないが、ちょっとずつ、日々違う私に生まれ変わって生きていきたい。
 しかし本人はそのつもりでも、周りにそれが簡単に伝わるかというと全然そんなことはない。誰かと話しているときに、「あ、これ多分、ちょっと昔の俺のイメージのまま喋ってるなこの人」と思うことがしばしばある。そういうときは悔しいしやるせないし、「今の俺を見てくれ」と叫びたくなる。でもさっきも書いたように、それはこちらのエゴだ。「過去はそうだったかもしれないけど、訂正させてくれ、昔の良くなかった自分は忘れて、今だけを自分の印象にして欲しい」というのは、あまりに身勝手な話だ。人は過去の堆積物として現在を見る。私は過去の私をそう簡単には脱ぎ捨てられない。
 だからそういうことがあったときは、唾を飛ばし早口で反論したくなる気持ちをぐっと堪えて、とにかく丁寧に、今の自分の考えを相手に伝える努力をしている。自分のこれからの言葉・行動で、「今の私」をちょっとずつ分かっていってもらうしかない。こう書くとあまりに綺麗な話だが、自分はできた人間でもないので不貞腐れたり対話を諦めたりしてしまうこともままある。またそれを反省し、次はうまくやろうと決意を新たにする日々である。

 かくして、マスクの下、もとい、心の中で「今の俺を見てくれ」と思うことの多い私だが、最近それについて思うことがもう一つだけある。それは、そうなっているのは何も私だけではなくて、世の中のどれだけの人が「今の自分を見てくれ」と叫んでいるかという話だ。自分のことについては偉そうに言っておきながら、私だって、誰かを「この人はこういう人」というイメージを固めて接してしまうことは多い。確かにそのほうが圧倒的に楽だし、先に書いたように人の根本というのはそうそう変わらないわけだが、それでも、これまで私が相手から変化の可能性を奪ったことがなかったかというと自信がない。
 だからここに誓いたいのは、今後誰かと接するときに、常に「今までのその人と違う人間に更新されている可能性」に開かれた態度であろうということである。昔はああいう人だったけど、今は違うかもしれない。前はあんなこと言ってたけど、考えがそのあと変わってるかもしれない。そうやって接するのは恐らく負荷のかかることだが、他者を理解することとか、他者に寛容であることにおいて、大事なことであるような気がする。

 本稿を締める前に、最後に一つだけ訂正しておきたい。前回の備忘録で「特に誰かに向けてではなく、自分のために書くつもりだ」と書いたのだが、一人でも読んでくれる人がいるのならば、やっぱりこれは自分だけではなくその人のための文章でもあるなと、今は思っている。