<お笑いと社会 第2回> バラエティ番組の「いじり」は「いじめ」なのか

 前回は、ごっこ遊びの定義と日常世界における「いじり」について考えました。今回はまずその内容をおさらいしてから、バラエティ番組における「いじり」について考えてみましょう。なるべく前回を読まなくても本記事だけで内容を理解できるように書こうと思っていますが、不十分なところがあれば適宜参照してください。

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 なお、本稿は以下の記事の内容をもとに全面的に加筆・修正しております。

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第Ⅰ部 「いじり」というごっこ遊び(前回のおさらい)

1-1. 「ごっこ遊び」とは

 はじめに、分析哲学ウォルトン(K. Walton: 1939-)の「ごっこ遊び(a game of make-believe)」という概念について紹介したいと思います。怪獣ごっこをする父と子供を考えてみましょう。

>父親は「本当に」怪獣ではないが、まるで怪獣であるかのように振る舞う。
>子供は「本当に」怪獣がその場にいると思っているわけではないが、まるで怪獣が目の前にいるかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は怪獣は存在しない・本当に怪獣だと思っていない)に明示的に言及しない。

 怪獣がその場にいると「思っている」けど「思っていない」、このアンヴィヴァレントな状態がごっこ遊びの核心です。ここで「思っている」というのは、ウォルトン流には「虚構的真理を信じている」という表現になります。この「虚構的真理」とは、「怪獣が存在する」というようなテーゼも「虚構の世界の中では」という注釈をつければ真であるとみなす考え方のことです。また、ここで「思っていない」とは、「虚構が虚構であると分かっている」ということを指します。
 そしてこのごっこ遊びが終わるのは、「虚構性に明示的に言及する」ときです。怪獣ごっこの途中に、子供がふと「お父さん、怪獣のマネ上手いね」と話しかけた暁には、父親は先程までのテンションで「グオー」と喚くことはできませんね。

1-2. 「いじり」と「いじめ」

 私の考えでは、「いじり」というのはごっこ遊びの一つとして理解することができます。

>Aが、「本当に」悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bに関する何かしらについて言及する。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない)に明示的に言及しない。

 そしてこれを踏まえると「いじめ」は、以下の条件のうち少なくとも一つを満たすものとして理解することができます。

>Aが、Bに関する何かしらについて「本当に」悪意をもって(相手を傷つけようとして)言及する。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害する(怒る/悲しむ)。

1-3. 「いじめじゃなくて、いじりでした」—遡及的な事実の改竄

 「いじり」には、二つの特徴があります。

①今から行うやりとりが「いじり」であるということは、事前に共通了解として持っている必要があるが、それは「暗黙のうちに」行われるものである。
 ※なぜなら、明示的に言及すると「虚構性」が崩れてしまうから。
②「いじり」における虚構的真理は、外部の人間が見て判断できない内面の部分(「悪意を持って」や「気分を害して」)である。

 だから、もし「本当に」Aが悪意をもっていたとしても、「自分は『本当は』悪意がなかったし、Bも『本当に』気分を害しているとは思わなかった(=ごっこ遊びが成立していると思い込んでいた)」という、遡及的な事実の改竄ができてしますのです。
 あるいは、Bが「最初は嫌だったけど、反応を変えると笑いが起きるようになり、その場が明るくなった」というように、B自身がその遡及的な事実の改竄に加担さえすることもあります。そしてそれが「いじめをいじりに変えた」という美談になってしまうのは、全くもって歪んだ世界です。

1-4. 日常生活における「いじり」の本来的な問題

 それでは、B本人が「自分の意思で『いじられ』ている。『本当は』傷ついていないから大丈夫」と思っていれば、それでよいのでしょうか?
 そんなことはなく、実はいじりというごっこ遊びに参加「せざるを得ない」状況に置かれている可能性を考えなければなりません。周りの「マジになるなよ〜w」というレスポンス、あるいはそういう返しが来るだろうというBの先回りの予見によって、「本当に」傷つく権利が周りによって抑圧されてしまうのです。この「『本当は悪意を持っていない』という暗黙の前提を分かっていない奴」になってしまうことの恐怖は、「いじる側」と「いじられる側」が本来的に孕んでいる非対称性・権力関係を端的に表しています。

 さらにその「いじり」が、「デブ」や「ブス」といった容姿差別的な言明であった場合は、ルッキズム的価値観の強化・再生産に加担しているという問題も発生します。

1-5. 「いじり」の3条件

 ここまで議論したうえで、日常生活における「いじり」を擁護するのは大変難しいです。しかしもし許される「いじり」が存在するとすれば、最低限それは以下のような条件を満たすべきだと現時点で考えています。

(A) 「いじり」が発生する前に、お互いが十分に良好な関係を築いている(そしてそのことをはっきりと双方が共通理解として持っている)
(B) 相手の本当に嫌なことは言わない
(C) 相手が嫌かどうかに関わらず、社会的に容認できない価値観は採用しない
この、「いじり」という「ごっこ遊び」が成立する信頼関係のことを、「内輪」と呼ぶ。

  今後、「いじり」という「ごっこ遊び」が成立する信頼関係のことを、「内輪」と呼ぶことにしましょう。

第Ⅱ部 バラエティ番組における「いじり」

2-1. バラエティ番組は芸人どうしの「内輪」である

 例えば体重が100kgを超えていて「お前はデブだ」といじられている芸人Bを考えてみましょう。ある芸人Aが、直接的な表現か暗示的な表現かはさておき、太っていることを嘲るようなことを言う。芸人Bは怒ってそれに言い返す。また周りの芸人が別の言葉を返す。今度は芸人Bはしゅんとして、悲しそうな顔をする。
 これがもし「いじり」である限りは、そのすべてが本当であるわけではなくて、先述の議論と同様に以下のような構図が成り立ちます。

>Aが、「本当に」悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bをデブだと言う。
>Bが、それを言われて「本当に」気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>そしてお互いの虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない)に明示的に言及しない。

 よく「芸人はプロフェッショナルである」という言説は聞きますが、それはすなわち、彼らは同意の上で芸人という職業として罵り/罵られているということを意味します。芸人同士の信頼関係=「内輪」のなかで、「いじり」というごっこ遊びをしているのだと。
 しかしこのやりとりが「いじめ」なのではないか、と批判されることが増えてきたのがここ十数年です。そしてそれに対するバラエティ番組側からの反論は、お世辞にも上手くいっているとは言えません。なぜなのでしょう。

2-2. コント番組とバラエティ番組における虚構性の比較

 その理由を考えるためにまずは、議論の下地として、コント番組の虚構性とバラエティ番組のそれを比較してみましょう。
 芸人が何らかの役を演じるということが明示的に分かるコント作品では、(ごく一部の例外を除いて)そこで描かれているのは明らかに虚構の世界ですし、観客側も皆そのことを承知しています。そこに出演する人、描かれるもの、そのすべてが虚構的真理です。

 一方で、バラエティ番組は、基本的にリアルな、現実世界に存在する人間が出演しているという前提に立っています。BならばBという人間として出演をします。これは注釈なしの真理です。さらに「Bが太っている」というのもまた真です。客観的指標として体重あるいはBMIによって「太っている」ということは示されますし、そもそもBの姿をパッと見ればそれはすぐに分かることでしょう。
 そんな「本当のこと」で埋め尽くされたなかで、微妙に虚構にスライドする部分が存在します。それが、「悪意をもって」と「気分を害して」というところです。これは前回の日常生活における「いじり」の議論でも見たように、外部の人間が見て判断できない内面の部分で、非常にわかりにくいのです。

2-3. バラエティ番組で笑うということ

 それでは次に、視聴者がバラエティ番組を観て笑うときにどのようなことが起こっているのかを考えてみましょう。
 太っている芸人Bがいて、芸人Aが「デブだ」と貶める。これがもしドキュメンタリー(現実世界の話)だとしたら、これはただのいじめであり、Bに優越感を感じ笑うというのは、いじめに加担しているということです。しかし上述のように、バラエティ番組での芸人のやりとりはフィクションですから、あなたが倫理的に許容されない存在になることは回避されます。一方で、「ただの演技」と思う(=虚構世界を外から見る)だけでは笑いは起きません。
 だから視聴者は、バラエティ番組という「虚構世界の中では」という条件付きではありますが、「太っている芸人Bが、芸人Aに『デブだ』と貶められ、傷ついている」ということが真だと思わなければなりません。つまりそれは視聴者が、虚構的真理を信じるということです。この構図を整理すると以下のようになります。

>Aが、本当に悪意を持っているわけではないが、まるで悪意を持っているかのように表面上は振る舞いながら、Bに関する何かしらについて言及する。
>Bが、それを言われて本当に気分を害したわけではないが、まるで気分を害したかのように振る舞う。
>Cが、Aが本当に悪意を持っているわけでもBが本当に気分を害しているわけでもないことは知っているが、まるでAが悪意を持っていてBが気分を害したものとしてそのやりとりをみる。
>そしてA, B, Cいずれも、その虚構性(本当は悪意を持っていない・気分を害していない・本当は「悪意を持っている・気分を害している」と思ってない)に明示的に言及しない。

 つまり視聴者がテレビの中の「いじり」で笑うということは、そのごっこ遊びに新たに(「観る立場」として)参加することを意味します。演者A(いじる側)・演者B(いじられる側)の共犯関係に視聴者も加わることで、「内輪」が拡張されていくのです。
 実はこれについて似たようなことをバナナマンの設楽さんが言っていて、前回「内輪」という言葉を持ち出してきたのもその影響です。タレントどうしの「内輪ネタ」に終始するバラエティ番組は時代錯誤なのだ、と主張する宇野常寛さんに対して、設楽さんはこう返します。

設楽:要はどんだけ巻き込むかのことをやってるか、しかないんだよね、実は。クラスの仲良しグループが友だちの話してることでゲラゲラ笑ったりしてるのを、オレらは規模をどんどんデカくしてるだけなんだよね、仕事的にはね。だからその、どこまでが内輪ネタかにもよるけど、この人(=宇野)がおもしろいと思うネタが、もしかしたら内輪ネタの領域に入る可能性もあるもんね。 

 そして設楽さんのこの発言を知ったのは、飲用さんというテレビウォッチャーの方の素晴らしい論考なのですが、この記事からは他にも重要な示唆をいくつも得られるので、また本稿の最後で触れたいと思います。ひとまずは、バラエティ番組の「いじり」に対する批判についての論考に戻りましょう。

第Ⅲ部 バラエティ番組における「いじり」は「いじめ」なのか?

3-1. バラエティ番組を批判する人は、何をどう見ているのか

 さて、そんなバラエティ番組でのやりとりを観た人が、「Bに対してやっていることはいじめだ!」と批判したとします。その人はバラエティ番組の抱える虚構性を鑑みず、(Bと周りの人間関係・やりとり・外に表現している感情を含めた)番組の全てを「本当のこと」として捉えていることになります。「現実世界」に起こっている「いじめ」を目の当たりにして、彼ら/彼女らは批判をするわけです。
 このとき批判したのは、ごっこ遊びに参加していない、つまり「内輪」の外にいる人たちなのです。
 お笑い好きはそのたびに憤慨するわけですが、しかし考えてみると、こういう批判が出てくることはある意味当然であるとも言えます。なぜなら先ほど触れたように、明らかに虚構であるコント作品などと比べて、バラエティ番組における虚構へのスライドは極めて微妙なものなのです。バラエティ番組に親しみのない人が、Bが現実世界に存在するBという人間として出演しているのを観て、それを「あの人はある部分で演じている」とはつゆとも思わないのは仕方がないと思います。 

3-2. 「バラエティ番組のいじりは、いじめではない!」と反論するのはなぜ難しいか

 「Bに対してやっていることはいじめだ!」という批判に対して、バラエティ番組を擁護する術はあるのでしょうか?
 真っ先に思いつくのは「バラエティ番組の芸人どうしのやりとりは虚構だ、だからいじめではない」と言うことです。しかし前回も書いたように、「いじり」であるという前提は、事前に暗黙のうちに共通了解として持っている必要があります。このように虚構性に明示的に言及することは、虚構に降りていた視聴者すべてを現実世界に引き戻し、「虚構の中において」という接頭句付きで真だったもの(=虚構的真理)が真でなくなることを意味します。そして「虚構を外から見ている」あなただけが後に残され、バラエティ番組のいじりで笑うというごっこ遊びからは離脱を余儀なくされるのです。
 つまり、ごっこ遊びを守ろうとしたまさにその行動が、ごっこ遊びを成立させなくしてしまうのです。だから誰も「あれはフィクションなんだ」とはっきりと言えず、批判に対して口ごもるのです。

第Ⅳ部 バラエティ番組の責任

4-1. 松本人志の「名言」

  ここまで、バラエティ番組に対して擁護的に書いてきました。しかしながら、これまで論じたような問題を解決しさえすれば、バラエティ番組の「いじり」に批判されるべき点はないのかというと、そんなことはありません。
 1994年に発売され、250万部を超える大ベストセラーとなった松本人志さんの『遺書』に、以下のような一節があります。

百歩譲って、オレの番組が子どもに悪影響だったとしよう。でも、それなら親であるあなた方が、『マネしてはいけませんよ』と言えばいい。たかだか一時間の番組の、ほんの数分間の一コーナーの影響力に、あなたたち、親の影響力は劣っているのか?

 これはしばしば「名言」であるかのように紹介される一節です。私も、かつては格好いい発言だと思っていました。しかし次節の議論を見ると、簡単にこんなことは言えないのだということがわかります。

4-2. 社会的に容認できない価値観の強化・再生産

 冒頭の「いじり」の例では敢えて「デブ」という言葉を用いた例を使用しましたが、これは紛れもなくルッキズム(容姿が魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱い)です。その様子をバラエティ番組としてテレビが放映することは、例えその本人どうしが同意のもとでやっている(=「内輪」の関係にある)のだとしても、そのルッキズム的な価値観を容認するメッセージを世の中に発信することになります。テレビの前の視聴者は「別に、『いじり』なら『デブ』って言っても良いんだ」と納得し、彼ら/彼女らは日常生活で同様の言動をすることを正当化します。そして言われた側は、「いじり」にして「面白く」返すことを(暗黙のうちに、時には明示的なルールとして)求められることになるのです。
 ルッキズムの強化・再生産という問題は、前回の日常生活の個人的なやりとりでも取り上げましたが、それが何百万・何千万という人が観るメディアであればなおさら深刻であるということは、言わずもがなです。つまり松本さんのあの発言は、バラエティ番組の責任の重さをひどく軽視したものです。
 今回はルッキズムに限定して話しましたが、そのほかの問題(特にジェンダー関係)についても、お笑いという言説(ディスクール)が、権力関係のもとで再生産・強化してきた知識への反省というのは、今後、徹底的に行われなければなりません。

4-3. 「いじり」の本来的な非対称性

 それでは、社会的に容認できない価値観を含まない「いじり」なら全く問題がないのかというと、そんなことはありません。これも前回と同様の議論ですが、「いじり」には「いじる側」と「いじられる側」という本来的に非対称性な関係があります。「テレビで観たから」という理由で、本人が望んでいないにも関わらず「いじり」というごっこ遊びに参加せざるを得ない状況に置かれてしまう人が現れてしまう。
 「いじり」の3条件が非常に厳しい基準を設けているように、「内輪」の形成には十分過ぎるほどの信頼関係が必要です。それを、いくらテレビのなかのお笑い芸人たちが「プロフェッショナル」としてやっているからといって、それを観た視聴者たちのパーソナルなやりとりで同じことが言えることは全くないのです。
 これは一部の視聴者がテレビのことを「わかっていない」とかそういう話ではなくて、メディアが社会の価値形成に与える影響の大きさをもっと自覚しなければならない、ということです。

結:終わらないごっこ遊び

 本稿を終える前に、「バラエティ番組のいじりは、いじめではない!」という批判に対する反論について、もう少し考えてみましょう。
 たとえば怪獣ごっこについて、先述したようにその最中に「これはごっこ遊びですよ」って言ってしまうと、確かにそこで遊びは終わってしまいます。しかしごっこ遊びがしたい子供は、最初に「怪獣ごっこしようよ」と言いますし、終わったあとには「怪獣ごっこ楽しかったね」と言います。つまり、ごっこ遊びの外側でその虚構性に明示的に言及することは、別にその面白さを削がないのではないか、と考えることもできます。
 しかしそれでも口ごもる人が多いのは、バラエティ番組自身が、どこからどこまでが虚構かよくわからなくなり始めているからではないでしょうか。「リアルであること」を志向した結果、番組の内部はもちろん、オンエアが終わったあとも(出演者のキャラやプライベートという形で)終わらない「ごっこ遊び」が続いている。
 バラエティ番組の「外部のなさ」が顕著になってきているからこそ、ごっこ遊びの「外側」に出て虚構性に明示的に言及する試みは常に失敗し、「内側」でその面白みを決定的に削いでしまうのです。

 この「外部のなさ」は非常に危険です。なぜなら「本当に」悪意を持っていない・「本当に」気分を害していないという虚構性は、まさにその「外部」の存在によって担保されていたからです。それがなくなれば、ごっこ遊びはいつまで経っても終わらず、あとには「いじめ」という現実が残るのみです。
 だから私は、バラエティ番組の仕組みを語ることはその面白みを削がないし、むしろごっこ遊びの「外側」を守るために重要な働きであると信じて、この文章を書いています。

 さて次回は、「なぜテレビと視聴者のごっこ遊びが成立しなくなったのか?」について考えたいと思います。それには主要な論点は2つあるでしょう。1つは、つい先ほど論じたように、バラティ番組の「外部のなさ」が問題です。もう1つは、飲用さんのブログを引用しながら既に言及したように、演者A-演者B-視聴者という「内輪」が切断されつつあるという事態です。
 元々はバラエティ番組を観るのが大好きで、だからこそ「いじり」と「いじめ」の問題について論じてきたのですが、考えれば考えるほど、擁護できる部分が低くなっていくのを感じます。しかし今後も、あくまでフェアな立場からこの問題を考えていければと思っています。