平成31年4月11日 第12回 ドベネックの桶的「正しさ」

 先月、南海キャンディーズの山里さんが自身のラジオで「最近のテレビは怒ってる人ばっかり」と言っていたことが少し話題になっていました。テレビ好きな私が最近抱いていた感想と全く同じでした。
 今、日本は「正しくなきゃけない」時代にあると思います。正しいかどうかを判断する「正しさチェッカー」の人たちが、SNSで張り巡らされた網をつたってありとあらゆる場所を巡回し、「正しくない」ことを見つけたら、「怒り」をのせて発信する。誰かにそう言われなければ別に何とも思っていなかった人たちも、その「怒り」が伝染し、攻撃に加担する。そんな世の中を察知して、TV局も共感可能性の高い「正しさチェッカー」を番組に起用する。
 でも、その「正しさ」というのは、どのように決まっているのでしょうか?

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 「ドベネックの桶」を皆さんはご存知でしょうか。これは、「リービッヒの最小律」(植物の生長速度や収量は、必要とされる栄養素のうち、与えられた量のもっとも少ないものにのみ影響されるとする説)を説明するときによく引き合いに出されます。
 つまり、植物の成長を桶の中に張られる水に見立て、桶を作っている板を養分・要因と見立てる。これならば、たとえ一枚の板のみがどれだけ長くとも、一番短い部分から水は溢れ出し、結局水嵩は一番短い板の高さまでとなる、ということです*1。非常にシンプルで分かりやすいモデルだと思います。

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 私は、今の世の中の「正しさ」の決め方は、「ドベネックの桶」的だと思っています。桶に張られた水を「許容される行為すべて」、板の一枚一枚を「各人の『正しさ』の閾値」だとします。すると、非常に短い板(=正しさの閾値がいちばん厳しい人)が一枚でもあれば、それに合わせて桶の中の水(=許容される行為)が流れ出してしまうのです。
 SNSが活躍の場を与えた「正しさチェッカー」によって息苦しい世の中になったと嘆く人は多いですが、その息苦しさに拍車をかけているのは、このドベネックの桶的決め方にあると思っています。

 ではなぜドベネックの桶的になるのかというと、それはひとえに「無難だから」という理由に尽きると思います。
 一番短い板に合わせてさえいれば、とりあえずは誰にも文句の言われることはない。ひとりでも怒っているとき、そこに目線を合わせて謝りさえすれば、とりあえず場は収まる。
 すべては「無難」に事をすすめるためです。

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 そういう現状なのは分かった、じゃあこれからどうすればいいのか、という話を総論的に語るのはとても難しいので、いずれ「バラエティ番組はいじめを助長するか」というテーマで、より具体的に考えていく予定です。

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*1:この部分の説明は全面的にWikipediaに頼りました。