平成31年4月16日 第17回 中川医学概論は(いつ)やるべきか

 先日、新入生セミナーという××医学部の新入生向けのイベントのスタッフをしていました。学生の自主的な運営で、「大学に入ったらこんなことができるんだ!」と視野を広げてもらうためにやっているのですが、その目玉企画が、4,5人の小グループに分かれ先輩のこれまでの学生生活を語ってもらう『自分史紹介』という時間です。
 【第7回 辺縁を歩くためには芯が要る】で語ったように、私は医学史・医療社会学/医療人類学・医学哲学/医療倫理学という分野に関心があります。自分の好きな領域に興味を持ってもらおうと、私はスライドを入念に作成して威勢よく挑みましたが、結果は惨敗でした。4サイクルあったのですが、誰かに響いた手応えはまったくなく、発表が終わったあとに「何か質問ある?」と尋ねた私を待ち迎えていたのは4回とも沈黙でした。
 こういう分野について、昔から文系志向が強かったとかでもない限り、医学部に入ったばかりの学生に興味を持ってもらうことは非常に難しいのだと痛感しました。もちろん、単純に私のプレゼンが悪かった可能性は大いにありますが。

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 自分の興味を紹介する際に私はいつも「医学史・医療社会学/医療人類学・医学哲学/医療倫理学」と書きますが、こういう書き方をする背景には中川米造(1926-1997)という人物がいます。
 中川米造は、「医学概論」という学問領域の専門家を自称していました。医学概論は、(現在各大学のカリキュラムにあるような)単なる入門編という意味合いではなく、「医学とは何か、それを歴史的に、社会的に、および哲学的あるいは論理的に研究するもの」として中川によって定義されています。この3つがそれぞれ「医学史」「医療社会学/医療人類学」「医学哲学/医療倫理学」に対応していると考えているため、あのような書き方をしたのでした。「医学史」は時間軸による相対化、医療社会学/医療人類学」が空間軸による相対化を目指すようなイメージです。
 ややこしいので、中川米造の言う意味での医学概論のことを今後は「中川医学概論」と呼びます。
 ではなぜ彼が「中川医学概論」という学問をつくりあげるに至ったのかというと、ある原体験があったからのようです。以下の文章は、1945年4月に京都大学医学部に入学した中川米造がカリキュラムについて抱いた当時の感想です。

「医学とは何か」という基本形を学ぶ前に、いきなり解剖学や生理学、生化学などの、それも部分的講義から始まったのである。少なくとも、私は失望した。それぞれの学問の必要性は私もおぼろげながらわかっていたが、それらが医学の中にどう位置づけられているものなのか、とくに『医学』というものについて、教師の誰も語ってはくれない。――中川米造『学問の生命』

  中川は、「医学とは何か」というビックピクチャーを描くことを目指した人でした。

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 現在、全国82医学部の多くには、低回生用に「医学概論」や「医学入門」「医学導入」というような名前の授業があります。しかしながら、(「医学概論」という名前がついているかどうかに関わらず)その多くは中川医学概論的アプローチではなく、臨床・基礎の主要な講座の先生がリレー方式で登場するいわば顔見せ授業や、早期体験実習的や研究体験的な内容になっています*1
 中川医学概論の魅力に憑りつかれてから、私は「顔見せ授業じゃいけない、医学を人文社会科学の観点から俯瞰するべきだ!」と馬鹿の一つ覚えのように言っていたのですが、実は最近、考えが少し変わり始めました。今私のなかに3つの問いがあって、順に中川医学概論の重要性についてより懐疑的になっていくような見方です。

 <問い1>中川医学概論は1回生にとって面白いものなのか?
 私の自分史に興味を持ってもらえなかったということだけを根拠にするわけではありません。
 「医学を相対化しよう」という視点は、その「医学」そのものについて「知って」いればいるほどそのカタルシスは大きくなります。新入生にとっては、右も左も分からない状態で、その「医学」がそもそも何なのかよく分からないのに、「相対化」しようと言われても困ってしまうのではないでしょうか。その意味では、顔見せ授業のほうが「医学の何たるかをぼんやり知る」にはベターです。

 <問い2>中川医学概論は医学生にとって面白いものなのか?
 ついこの間、臨床実習のオリエンテーションのひとつとして医療社会学の授業があって、「生物医学の特徴とは何か」等の議論をしていました。私は今5回生ですが、それを聞いている学生皆の顔が死んでいて、「これ、正直医学生にとって面白いものなのか?」という疑問を抱きました。そこである学生に授業の感想について聞いてみると、「こういう授業って、当たり前のことしか言わんよな」という答えが返ってきて、一理あるなと思ってしまいました。
 人文社会科学によって相対化する視点というのは、「当たり前」を問い直し、「当り前」(だと思っていたことそれ自体)に気が付くということだと思います。その「当たり前」を言語化して輪郭を与えた人がえらい、そういう理解を私はしています。
 しかし私が話を聞いた学生は、それを「当たり前のことしか言ってないじゃん」と受け取っていました。つまり、そこでは「言われてみれば確かにそうじゃん」に到達するに至った過程およびその距離は無視されています。結果だけ見て、「それは何となく思ってはいた、何『当然』のこと言ってるの」というわけです(それは同時に、多くの人に納得可能であるという意味では優れた概念であるとも言えるのですが)。
 
 少し雑な仮説かもしれませんが、多くの医学生にとっては、「すでにあったものに気付かされる/気付く」ことよりも「全く知らないことを新たに知る」ことの快感のほうが大きいのではないでしょうか? 前者は少しずつ積み上げていく地道な作業ですが、後者は簡単に大量の新規の知識を手に入れることができます。どっちが良いとか悪いとかではありませんが、やっぱり後者のほうが分かりやすく自分が「勉強している」実感が湧いてくるのかな、と思います。
 少なくとも、「全く知らないことを新たに知る」勉強に単純に慣れていることは間違いなく言えると思います。

 別の観点として、授業数が限られていることが原因なのですが、総論的過ぎると面白さを実感しにくいというのもあると思います。そこから議論が広がっていくのを知ってると楽しめますが、一つの授業でもともと関心のない学生の心を掴むのはなかなか難しいのではないでしょうか。

 <問い3>というかそもそも中川医学概論は医師にとって有用なものなのだろうか?
 先ほどまでの問いと違う点は2つです。「医学生」ではなく「医師」である点、そして「面白い」ではなく「有用」である点です。
 これは医学生の私が語るには大変難しい。医師にならないと語れないというのは、文系の学者は医学を語れないという排他性に繋がるので、とるべき立場ではないのは分かっているのですが。また、人文社会科学を「有用かどうか」で語るのもあまり気が進みませんが、こういう話をしていたら今後必ずくる質問だと思って、問いを立ててみました。

 結論から言うと、今の私にはうまく答えることができません。努力しましたが書けませんでした。
 なぜ難しいのかという理由の一つに、中川医学概論というフレーミングを使うことそのものがあると思うんですよね。基本的に中川の立場は、ビックピクチャーで語ろうとするところだと思うんですけど、「有用性」は個別の学問で語るほうが簡単だと思います。実際に、「医師養成課程の中の社会学」という文献は実際にあります*2。「医師養成課程の中の中川医学概論」だと、雑すぎるんですよね。となると、中川医学概論っていう輪郭のつくり方自体は今後必要なのかどうか、という問いも建てられてしまいます。
 あるいは、中川医学概論というのは、医学史・医療社会学/医療人類学・医学哲学/医療倫理学という個々の学問の寄せ集め以上の何かがあるのか、問いのほうがより適切かもしれません。その答えも私はよく分かりません。ともかく、私はまだまだ中川米造のすべてを理解しきれていないことを痛感しました。

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 結論の出ていないことについて書いたので、問い主体になってしまいましたが、これが私が中川医学概論について考えていることの全てです。分かりにくいところも多いと思うので、色々質問していただけますと幸いです。

*1:これを調べているのが実は私の2つめの研究で、また、論文が無事にacceptされたら皆さんに詳細を説明したいと思います。

*2:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/61/3/61_3_321/_article/-char/ja/