嫉妬の理由

 私は今、嫉妬している。それも、一度も会ったことすらない人に。

***

 その感情は、まず苛立ちとして現れた。Twitterでたまたまその人のアカウントを見つけ、フォローをして少し経ったときのこと。その人がnoteに書いた文章と、それを称賛するツイートがRTで回ってきたのを見た私は、大したことないだろ、何でこんな褒められてるんだよ、と思った。自分の書く文章のほうがもっと分かりやすいし、もっと面白いという自信があるのに、一学生でしかない私は評価されないという事実にムカついた。
 苛立ちは、その人が最近立て続けに出した2冊の書籍を読むことで増大した。このトピックについてこの程度の分析で良いのか、とか、この書き方は余りにも医療へのステレオタイプな見方だろう、とか、読みながら普段よりも過剰にストレスが溜まった。それが「批判的思考」の証左ならばいいのだが、なにか自分が必要以上に攻撃的に、冷笑的になっているような気がした。
 それから、心の奥底に渦巻くものの正体が単なる苛立ちでなく、嫉妬だということに気が付くまでには、そう時間はかからなかった。

 本稿では、自分の中の嫉妬という感情について考えたい。その際、私が持つ自分への自信、もとい、驕りについてはいったん脇に置いておく。もちろん、自分の書く文章が他の誰よりも優れていることなんてあり得ないし、そもそも前提として持っておくべき知識も圧倒的に足りていないことも分かっている。こうやって私は、脊髄反射でプライドを爆発させて、少し経ってそういう自分が気持ち悪くなる、というのを永遠に繰り返すわけだが、自尊心と自意識の狭間から見える景色について語ることに(少なくとも公では)正直もう飽き飽きしているので、今回は、嫉妬という感情が自分になぜ生まれたのか、それがこれからの人生で自分にとってどういう意味を持つのか、というところに目を向けてみる。
 
***

 そもそも嫉妬という感情は、いつ生まれるのだろうか?
 現代人らしくまずはgoogle先生に聞いてみると、「他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対して、うらやみねたむこと」と教えてくれた。しかし例えば、八村塁は中高6年間バスケ部だった僕よりバスケがめちゃくちゃ上手いし(当り前だが)、NBAでめちゃくちゃ活躍している。でも私は全く嫉妬しない。お笑いライブに行くと、素人の趣味の延長で漫才をしている私よりも当然技術が高く、観客を間断なく笑わせる漫才師たちが次々に出てくるが、しかし私は嫉妬しない。
 その答えは簡単で、私はバスケのプロ選手になる気も、お笑い芸人になる気も全くないからだ。逆に言うと、自分と同じ世界だと思っている人、自分の進む道の先にいると思っている人について、「自分より恵まれていたり、すぐれている」場合に私たちは嫉妬する。自分の思う自己との関連性の距離によって嫉妬の強さが決まる、と言い換えることもできる。

 どうしてこんな当たり前のことをくどくど言うのかというと、お分かりの方もいると思うが、上述の「その人」というのは医療人類学者である。つまり私は、自分が「嫉妬した」という事実から逆算的に、医療人類学者を「自分と同じ世界だと思っている人」と見做している自分に気が付き、新鮮な驚きを覚えたのだ。これは正直、ちょっと嬉しかった。
 何故かというと、それは私にとって、医療に関わる人文社会科学系の研究者として(医師として働いてからの予定なので、実際には数年後になるが)これからやっていくのだという自覚が自分にあるということの証明のように思えたからだ。一ミリも業績を残してないくせに何を生意気なお前は何様だ、という話だが、しかし誰にだって「嫉妬の権利」はある。ほえーすげえーなーおれにはかんけいないせかいだー、とボーっと見ている自分よりかは、なんだよちくしょうこれならおれにもできるぞやってやんよ、と腕まくりする自分のほうが、覚悟と根性を感じて好きだ。

***

 嫉妬という感情をポジティヴに捉えると以上の通りだが、一方で、ネガティヴな側面も感じずにはいられない。
 もともと私は、人と比較せずにはいられない性分だ。受験戦争のど真ん中で「勝つか負けるか」の世界*1を生きてきた私は、大学に入ってからもその思考から脱却できず、どうすれば勝てるのかを考え続けていた(そして勝てないことに絶望した)。しかし紆余曲折あり中川米造の医学概論をきっかけに医療を対象とする人文社会科学の魅力に憑りつかれ、それが結果的に医療側から見ると辺縁の地であり、争う人がほとんどいない環境に身を置くことによってそのストレスから解放された。
 ああ、これで私はルサンチマンで生きていかなくてもよいのか、と胸を撫で下ろしていたところに、またしても競争的な自分が顔を出してきたのだ。分かってはいたが、逃げても逃げてもそいつは追っかけてくる。嫉妬の感情はガソリンでもあるが、容易に自分を擦り減らすことにもなる。
 こんなことを書いているとアドラーを読めと言う方もいるかもしれないが、私はアドラーはあまり好きではない。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」というのは確かにそう言えるのかもしれないが、そう解釈することが「できる」ということ以上に意味を持たないと思うし、「自己への執着」を完全に捨て去ることは不可能だと思っている。そういう(実現はしない)理想論を掲げることの重要性という意味なら分かるが。

***

 私はたぶん一生、自意識とともに生きていく。だから、ありきたりだが、バランスかなと思う。嫉妬を燃料に投下してなにくそと歯を食いしばりながら、食いしばり過ぎて歯がボロボロにはならないように、ふっと、力を緩める瞬間をつくる。今のところ私はそれが抜群に下手だ。歯が丈夫な若いうちはそれでもいいかもしれないが、いずれ歯は必ず脆くなる。そのことを予期しつつ、自分の自意識や嫉妬の感情との付き合い方を考えなければならない、というのが暫定的な結論ということにして、本稿を締め括らせていただく。

 あれ、そういえば、結局私は自意識の話をしている。

*1:「いわゆる進学校の偏差値の高い学生たちは新自由主義的な思想に染まりやすい」というのを最近感じているのだが、これについてはまた機会を改めて書きたい。