<裏>と<表>の奇妙な共存——今更ながら「せっせっせいや」を考える

はじめに

 以下の動画を観た友人から、質問を受けた。せいやさんが自らの「せっせっせいや」というネタを「ブリッジが長いっていうネタ」「一個乗ってる芸」と評しているが、これはどういう意味なのかという。それで思いつくままに説明しているうちに気付いたらそこそこの分量になり、勿体ないのでまとめてブログにあげることにした。走り書きなので事実誤認や解釈が甘いところもあると思うが、その辺りはご了承いただきたい。あと別にそこまで新しいことは書いていない。

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ゼロ年代テン年代のお笑い界

 まず前提として、「ネタをする→リズムに乗せたブリッジを挟む」というのは、エンタの神様やレッドカーペッドなどショートネタが流行った時代(ゼロ年代のお笑いブーム)に大量生産された形である。当時はテレビに出るならそれが一番の近道だった。代表格ですぐに浮かぶのは、オリエンタルラジオの「武勇伝」のネタだろう。
 しかしそれは、芸人あるいはお笑いのコアなファン層から「客ウケ(特に女性)だけを狙っている」として常に批判の的でもあって、ゼロ年代後半のM-1ブームと対をなす存在でもあった。すなわち、「賞レースで勝てる(=プロが本当に面白いと認める)」ネタと、「大衆迎合的で一過性に世間に消費される」ネタ。

 それからテン年代に入ってお笑いブームが翳りを見せ、そういう「分かりやすい笑いどころ+リズム感のあるブリッジ」というフォーマットは、ネタがファストフード的に消費された時代の負の遺産ともみなされるようになった。たくさんの人気があったはずの芸人の仕事がなくなり、それを自虐する「一発屋」という概念が生まれたのもテン年代前後のこと。

リズムネタの脱構築

  そしてようやく「せっせっせいや」の話になるが、この動画で「『ブリッジが長い』っていうネタ」と言っていたのは、そういう一連の流れ自体がフリになっているということだ。それまでのお笑いの歴史であったどのブリッジよりも長い尺で、「せっせっせいや」というフレーズが繰り返されているということが、一つのボケになる。つまり「せっせっせいや」というフレーズ自体が面白いのではなくて、その繰り返しているという状況自体が(これまでの既存のお笑いのフォーマットを踏まえたうえで)面白いという、「一個乗った芸」なのだ。
 以降、前者のような「フレーズ自体が面白い」事態を<表>、後者のような事態を(明示的に笑わせようとしている部分とは別の箇所で面白さが生まれているという意味で)<裏>と呼ぶことにする。

 「せっせっせいや」のネタにおいて、せいやさんは後半に迫るにつれて鬼気迫る表情で、「せっせっせいや」の繰り返しそれ自体が目的化していくかのような様相を呈していく。それに呼応するかのように、ブリッジに挟まれた(中身が伴わなければならないはずの)ネタ部分も支離滅裂になり、意味を失っていく。
 つまりここでは、ただ記号的に、ネタ→ブリッジの流れだけが反復される。そうやってリズムネタがリズムネタの内部で崩壊していく=リズムネタが脱構築されていく一連を観て、(ツッコミ側として設定された)観客が「何やってんだコイツ」と笑う、という構図になっている。この意味で「せっせっせいや」の核は<裏>にある。
  オフィシャルな方法は残されていないのであまり良くないが、可能であれば関西では年末恒例の番組「オールザッツ漫才2017」で「せっせっせいや」が披露された際の動画を観て欲しい。ここではツッコミの粗品さんがいるのでより見やすくはなっているが、執拗に繰り返される「せっせっせいや」のグルーヴ感にカタルシスさえ覚えるような時間になっている。当時、画面の前で衝撃を受けたのをよく覚えている。

<裏>と<表>の奇妙な共存

 さて、少し話がややこしいのはここからである。お笑いにおいて、<裏>を狙ったつもりが<表>になる、ということは往々にしてある。つまり「せっせっせいや」において、(本来記号的な役割を担うはずの)ネタ部分がそのままウケてしまう、ということだ。その場合はブリッジはそのままブリッジとして機能して、本来の=<表>としてのリズムネタが成立するという事態が発生する。

 「せっせっせいや」が学生に真似されるとか、(上述のようなお笑いの目線を持っていない)一般の人にとっても面白いものになる、というのはまさにそういう事態である。ここからは私の勝手な推測だが、本来モノマネを始めてとして何でも器用にこなすせいやさんであるから、出る番組によってネタ部分がそのまま<表>でウケるような作りに対応していたように思う(テレビで幾度となく「せっせっせいや」を観たが、もちろんすべてのテレビ出演をチェックしているわけではないので何とも言えないが)。

 ただ先に述べたオールザッツ漫才というのは関西の非常に伝統あるネタ番組で、観客席には大量の芸人が座し、そして観客も普段からライブに行きまくってるような人たちばかり、というセッティングである。そこでは以上のような文脈がかなりのレベルで共有されていたために、「常軌を逸したレベルで『せっせっせいや』という『ブリッジ』を繰り返す」というボケが成立したのだ。
 冒頭で挙げたYouTube動画でも、「せっせっせいや」の2回目で笑いが起きているのは、ネタ自体はあの場にいる全員が知っているはずなので、「この人『例の知っているアレ』をやってるわ」というので、ネタからブリッジに移行する際に笑っている。つまりあれはわかりやすく、完全に<裏>である。

おわりに

 少し前も『千鳥のクセがスゴいネタGP』という番組に出ていて、スタジオの千鳥はツッコミ側として<裏>になりつつも、ゲストの女性は<表>で笑う、という興味深い構図になっていた*1

 改めて「せっせっせいや」は、このように<裏>と<表>が絶妙なバランスでせめぎ合いながら同居している不思議なネタである。観るたびにどこがどのように受けるかが違っているような印象を受ける。この記事を読まれた方は、また今度「せっせっせいや」のネタを観る際は、違った目線で楽しんでいただきたい。

*1:『クセスゴGP』は、ポップの皮を被った、コアなお笑いファン層向けのネタ番組である。<裏>の笑いも多くあるのだが、<表>としての笑いも演出上担保されているので、結果的に一般層もコア層も楽しめるという稀有な番組だと思う。加えて最近で言うと、『有吉の壁』の「ブレイク芸人選手権」もそうである。本来あれは、まさしくゼロ年代のエンタ芸人のパロディであり、その文脈を理解しているお笑いファン向けの企画なのだが、それが時折まっすぐに面白いネタが生まれてくるのだから不思議である。
 このように、主目的は<裏>だがお茶の間的には<表>、という奇妙な同居を果たしている番組はある意味無敵である。個人的な話になるが、これだと家のテレビでかけていても(非-お笑いファンの)家族にも好評なのでありがたい。