M-1グランプリ2020感想

マヂカルラブリーは漫才でいいのかあかんのか問題

漫才でいい:99票

阪急電車に一礼をしない:1票

f:id:SatzDachs:20201223231407j:plain

素晴らしい漫才でしたね。

0. 「マヂカルラブリーは漫才か」

 普段、漫才を見ているときに「これは漫才なのかどうか」という視点をほとんど意識していないので、放送が終わったあとにそのようなことが議論になっていたこと自体驚きでした。思いのほか、視聴者の皆さんが審査員的な目線で漫才を観ているということなのでしょうか。
 この「漫才かどうか」論は、お笑いファン的には10年、いやそのもっと前から散々されてきた話なので、今さらイチから漫才の定義を考えるというのは周回遅れ感があるように思います。そしてこの話は限りなく不毛なこともわかっています。私はてっきり、去年のすゑひろがりずがこの辺りの議論に終止符を打ってくれていたんだと思い込んでいました……

 なのであまり気の進まない話題ではあるのですが、改めて私のスタンスを示すとすれば、それは「サンパチマイクの前で2人以上によって演じられるものはすべて漫才」でよいと思っています*1。わざわざ「これは漫才ではない」とシャットアウトして漫才の可能性を閉ざしてしまうのはお笑いファンとして全く本意ではないですし、そもそも「漫才とは何か」より「良い漫才とは何か」という問いのほうが意義あると考えているからです*2
 ただ、その観点から考えると、巨人師匠を筆頭に上方漫才のベテランが漫才における会話(かけ合い)を重視している、ということ自体はひとつの尊重しなければならない意見だと思っています。巨人師匠は一貫してかけ合わない漫才に対してシビアな評価をしていましたね*3。だからスタンスの問題ではあるのですが、ただそれでも巨人師匠も「これは漫才ではない」っていう言い方は絶対しないと思います。

 さらに考えてみたときに、私がマヂラブがこういう議論になっていることを新鮮に感じたのにはもう一つ理由があって、というのも、ちょっと前に「漫才ではない」と言われるような漫才といえばTHE MANZAI 2012のアルコ&ピースの「忍者になって巻物を取りにいきたい」というようなネタだったはずだからです。つまり、「生身の人間、その人そのものとして出てくる」という漫才の(暗黙の)前提を破って、出てきたときからすでに「〇〇な人」を演じている(上述のアルピーなら「相方の言葉をネタではなくて真に受けてしまう人」)場合に「これはコントだ」と言われるのがお決まりでした。それで言うとマヂラブは、最初は野田クリさん自信として出てきて、「見てて」と言ってコントインしていたわけですから、この点では漫才のお作法には則っているように思えるからです。
 それに沿って言うと、嶋佐さんが「軽犯罪をする人」という設定のニューヨーク、山名さんが「好きな人が今度楽屋に来るけどそれを隠す人」と言う設定のアキナのほうがよっぽどコントぽいことをしています。だから私にとって、マヂラブのほうが「漫才ではない」と言われたのは二重の意味で意外でした。

 ところで、トークライブでとある方*4がおっしゃっていたのですが、「漫才ではない」論の人たちは、NGKで15分間名を名乗り続けるザ・ぼんちとかを観たらどう思うのでしょうか。

f:id:SatzDachs:20201223233316j:plain

平子さんもこう言ってたので、この話はこれで終わりです。

1. はじめに

 毎年、なんだかんだM-1については文章を書いているのですが、いつもどういうスタンスで書こうか迷いながらやっています。今年は個人的理由で忙しくやめておこうと思っていたんですが、結局アウトプットしないとずっと頭の中でぐるぐるしていて邪魔なので、記事を書くことにしました。よって今年のスタンスは、「言語化しないと気持ち悪いので外に出します、なのであくまで自分用ですが興味ある方はどうぞ」でお願いします。
 そういう背景がありますので、ときおり、特に非お笑いファンの方々にはわからない固有名をいきなり使ったりする部分もあるのでご了承ください。また、自分の独自視点の批評で誰かにかまそうとかも考えていない*5ので、大して新しい知見とかはありません。ネガティヴな意見はキングオブう大のように対案を出せない限りは意味を持たないと思うので、基本的には書きません。あと気を付けてはいますが、筆が滑って偉そうになってしまうこともあるかもしれませんがそれはすみません。

f:id:SatzDachs:20201225165428j:plain

期待していた方には申し訳ないですが、本稿で「ケツ、おしまい説」には触れません。

2. 『吊り革』のグルーヴ感

  さて、私は今年の準決勝は配信で観させていただいたのですが、そこでマヂカルラブリーの『吊り革』のネタを観てからずっと、これは優勝できるネタだぞと思ってドキドキしていたので、ようやくこの話ができるようになって嬉しいんです。
 まず先ほどの話に戻るのですが、そもそもどうして(単に伝統であるということ以上に)かけ合いが大事なんでしょうか。これはプロの方々に今いちばん聞きたい質問でもあるのですが、さしあたり自分のできる範囲で考えた結果、その理由のひとつは、コンビが互いにけしかけあうことで盛り上がりを作っていくことができるからではないでしょうか。最もわかりやすい例は「4分の使い方抜群」でお馴染みのブラックマヨネーズで、2005年優勝時のネタのグルーヴ感といったら今でも全く色褪せない凄みがあります。
 そういう言わば漫才のゴールデンスタンダートに対して、『吊り革』は、完全にかけ合いのない非対称な関係でグルーヴ感をつくり出したのが革命的です。抽象的な言語で書きますが、間断なく動き続ける野田クリさんがひとりで中心になって竜巻を起こしている。そしてそれを横から村上さんが横から焚き付けて倍増させる感じです。
 だから最終投票は、その「ボケ役とツッコミ役の関係性で笑いを増幅させる」という漫才のお作法を使わない点を厳しく見るのか、あえてそれをやってみせた新しさを買うのか、で評価が分かれていたように見えました。あの票の分かれ方を見て、改めて現状のM-1審査員は恐ろしくバランスが良いメンバーだと思いました……

 「かけ合い」についてもう少し踏み込んで考えてみたいです。相方がひとりでやっていることに対してナレーション的にツッコむ形式を「実況型の漫才」*6と呼ぶとして、「実況型の漫才」はマヂラブだけの専売特許なのかというとそうではなくて、むしろ最近の賞レースのトレンドの一つですらあると考えています。程度の差こそあれ、明らかに10年前と比して増えています。例えば霜降り明星も、実はよくみると優勝時のネタにかけ合いはほとんどなく、舞台を動き回るせいやさんの実況を粗品さんが担当していると解釈することができます。スーパーマラドーナもそのような構成を得意にしてましたね*7
 この「実況型漫才」はある問題を抱えています。それは、ボケ役とツッコミ役の会話が間断なく続く漫才と比べ、個々のボケの間でどうしても時間が空いてしまいます。また、ふたりの関係性のなかで話を展開していくということを潔く諦めなければなりません。
 ただ、その限界を超えたコンビが霜降り明星で、後半にボケ数を詰め込んで畳み掛ける、というゼロ年代後半の「手数論」全盛期の時代にも使われた手法で盛り上がりをつくっていました。せいやさんの類稀なる運動量で間断のない展開を可能にしたのです。
 一方でマヂラブ『吊り革』は、ベースで「ずっとちょっとおもしろい」(「電車」というシチュエーションで話が進み続けている)というのがあって、最初に出したスピードをそのまま維持しつつ、それに上乗せする形で最後まで走り切る感じを見て受けました。会話なしに、野田クリさんひとりの身体のみで、コンマ一秒の隙のない時間を演出してみせたのです。それが斬新だし格好いい。「ボケ役とツッコミ役で話が進んでいく」ような展開性もクソもなくて、結局話の中身は何もないところがまた最高でした。そして大事なのは、村上さんが観客の気持ちを過不足なく代弁してくれて気持ちいので、ストレスなくグルーヴ感に身を任せることができる。

 最後に、話が逸れるかもしれませんが少しだけ、霜降り明星マヂカルラブリーの比較をしておきたいです。霜降りは、せいやさんの動きだけでは何のことがわからなくて、粗品さんの言葉があって初めてボケとして完結する構成になっています*8。つまりツッコミが、すでに観客に可視化されているおかしな部分を指摘するという役割よりむしろ、複雑なボケを完結させる一部となる点が彼らは斬新でした。近年、ボケ役とツッコミ役がグラデーションな存在になってきていますが*9霜降りはその一つの完成形と言って間違いないでしょう。

 一方でマヂラブは、野田クリさんのマイムのまずパッと見て何をやってるかわかる視覚的な面白さがまずあって、その線を濃くなぞり直すような働きとして村上さんがいる構成になっています。志らくさんが「喜劇的」と評したのもこのような辺りのことだと思っています。こう比較すると、同じ「実況型」でもやっていることが全然違うことがわかります。それにしても、このようにボケ役とツッコミ役が明確なことから見ても、マヂラブのネタは「漫才的」ですよね。

f:id:SatzDachs:20201224001817j:plain

『フレンチ』の初速もえぐかったですね。

 3. おいでやす小田の叫び

  M-1あとの打ち上げ配信で、1本目に『フレンチ』をやるのか『吊り革』をやるのかは直前まで決まっていなかったが、おいでやすこがさんの漫才のあとにCMを挟んだことで野田クリさんは『フレンチ』でいく決断をした、という話が印象的でした。つまり、CMを挟まなければマヂラブの1本目は『吊り革』なっていたということで、それくらいおいでやすこがが今大会の空気を一変させたわけです。しかし一方で同時に、おいでやすこがのおかげで今大会は超パワー系がウケる空気になった節もあるので、結果的にはマヂラブへの追い風だったのだと思います。その辺りも順番の妙ですから、今年も笑神籤のまにまに……ですね。

 準決勝でもおいでやすこがは一、二を争うくらいのウケ量でしたが、私は決勝の会場で彼らがどのように受け入れられるのかということはずっと気になっていました。というのも、準決の会場のお客さんはお笑いが好きな方が多く、最初からおいでやす小田さんのキャラクターやR-1に出られなくなったという経緯を知っているため、その分で笑いが大きくなっている可能性があると思っていたからです。
 しかし、おいでやすこがの漫才が始まり、一つ目のツッコミで会場が爆発したまさにあのとき、その考えが杞憂だということがわかりました。かく言う私*10も、配信を初めて観たときと同じ温度で、涙が出るくらい笑いました。そこには「R-1がなくなったことの悲哀」とかは一切なかったと思いますし、そう解釈するのは失礼なことだったと反省しました。
 となると、小田さんのツッコミはどうしてあんなにも面白いんだろう、というのが気になってきます。「ただ、盛り上がるか〜!」のタイミングなど、確かに賞レース用に緻密に調整されてはいるのですが、言ってしまえば「オススメする曲が全部聞いたことがない」というシンプルなネタです。めちゃくちゃ新しい発想というわけでもありません。ここからはもしかしたら書き過ぎかもしれませんが、なんかもう私は、小田さんが叫ぶ、というより音を発してるだけで面白いんですよね。DCGで酒井さんも言ってましたが、ツッコミのキーもめちゃくちゃちょうど良い。頭で考えるより先に、身体反応としての笑いが自分に発生している、というような感覚を抱いています。だから何回観ても笑えるのだと思います。M-1終わってからも10回くらい観ましたが、まだ新鮮に面白いです。

 とまあこのような抽象的な言葉を並べていても仕方がないので、ひとつだけ考えを書いておくと、「一個目のツッコミの強さ」がこの漫才における特異点であり、新規性であると思います。いわゆるあそこは(広義の)「ネタばらし」の部分で、この漫才はこういう話ですよ、ということが最初にわかる部分です。よくあるパターンで考えると、そこからボケ役がエスカレートしていって後半にかけて盛り上がっていくわけですから、0の状態からまず30くらいのツッコミで入って、そこから40、50と上がっていって、ラスト数十秒で100のツッコミに至る。あるいは、最初70くらいで強めに入って、40-50くらいを保って、最後は同じく100。みたいなテンション配分になると思うんですよね。
 それを、おいでやす小田さんは、0の状態から、瞬間的に100まで引き上げるんですよね。レバーをいきなりガーーン!ってMAXまでやっちゃう感じです。相方が話の流れのなかでどういう感情になって、というのを丁寧に表現しようとする漫才なら、普通こんなことはしないと思います。だから割と賭けでもあったと思うのですが、ただそれが小田さんのキャラであり、ピン芸人として培ってきた部分で、今回はその力技がものすごく良いほうに転がったのだと思います。
 事前のインタビューで「漫才師ぽくやらない」ということに言及しておられた*11のですが、それはまさにそういう部分だと思いました。力のあるピン芸人ピン芸人が手を組むと、「漫才師ぽい」振る舞い方では生まれ得なかったこんなにも強大なエネルギーを生むのかと……末恐ろしい気持ちになりました。

f:id:SatzDachs:20201225005226j:plain

最終決戦、「0の状態」の小田さん。

4. 賞レース漫才における「伏線回収」

 そしてもちろん見取り図にも触れなければいけません。彼らはほんとうにすごいです(偉そうで恐縮ですが)。決勝に来るの3年目で、手の内もかなりバレてるのに、毎年新しいフォーマットで出続けてるのは並大抵のことではなく、素人の想像にも及ばないような努力が裏にあると思います。大阪vs和気の地元対決というクラシックな(漫才の王道的な)対立構造が軸にありながら、「ドアノブカバー」「便座カバー」の繰り返しで面白くなるくだり、「ドラキュラ」「モハメドアリ」というワードセンス、加えて「あとマロハ島ってどこ?」という伏線回収が最後に来る、という4分の賞レース漫才のお手本みたいな構成だと思いました。あそこまで仕上げて勝てないのはつらいです。
 ただ、和牛やかまいたちスーパーマラドーナなど伏線回収を含んだ賞レース漫才のここ数年のM-1での発展は凄まじく*12、そのように急激に高められた分野でちょっとやそっとでは審査員も驚かなくなってるのは一因かなと思いました。もちろん、「伏線回収」という雑な言葉でまとめ切れないほどそれぞれ個々に違った魅力があるのですが、ああいう方面で我々は物凄いものを見過ぎてきたような気がします。ほんと難しい……

f:id:SatzDachs:20201225002222j:plain

YouTubeで、リリーさんがマヂラブを評して言った言葉が印象的でした。

5. 「自己紹介」するということ

 今大会私は、もちろん皆さん大好きなのは大前提として、かねてから決勝に上がって欲しいと願っていたという意味で錦鯉、東京ホテイソンウエストランド*13を応援していました。特に東京ホテイソンは、ショーゴさんのマイムに対してたけるさんが備中神楽の囃子ことばの調子でツッコむ、という強力な(ナイツ塙さんが言うところの)「ハード」を発明したのにもかかわらず決勝に進出できず、それでもなお独自のガラパゴス的な進化を遂げ、「回文」、そして「英語」という画期的なネタをつくり出してもやはり準決勝に留まる、という経緯がありました。

 そのようにしてあの「ハード」に対して高度に発展したネタが『謎解き』で、あの場で初めて東京ホテイソンを観るという人たちには少し難しかっただろうと推察します*14。彼らは確実に(既に多くの人が指摘しているように)もう少し早く決勝に上がっておくべき人たちだったのですが、でも、一ファンとしては、こういう人たちだという自己紹介を今年で終えたという意味でポジティヴに捉えたいと思っています。今後は、あの備中神楽のツッコミがあった上で、何をするのかというところを見てもらえるようになると思うので。もしかしたら数年以内に、東京ホテイソンが2本目に『回文』のネタをもってきて優勝する、なんていう未来もあるのではないのでしょうか。

 漫才師はよく「ニン(人柄)」が大事だと言われているのですが、そういう芸術的な領域は素人には計り知れないところはあるので、こういうネタの考察を書くときは基本的にネタの構成という明らかに見て判断できる部分に言及するように気をつけています。
 ただ、錦鯉だけは、ニンを語らざるを得ないんですね。何よりまさのりさんが、ほんとに明るくて素敵で愛さずにはいられない方。ラジオも聴いていますが、ネタ中通りのお人柄です。今大会はまさのりさんの自己紹介ができただけでも万々歳、と思っています(もちろんご本人たちは悔しいでしょうが)。
 今後、テレビ出演などが増えて
まさのりさんのキャラがもっと周知されれば、彼らはどんどん強くなっていくことでしょう。錦鯉を好きになったきっかけは去年の敗者復活の「まさのり数え歌」なのですが、今はどこにもアップロードされていないので、また観られる機会があることを願っています。

 この「自己紹介できた」というのはウエストランドも同じこと*15で、彼らにもぜひ同じスタイルを貫いて欲しいです。Creepy nutsオールナイトニッポン0を聴いていたらウエストランドのネタをDJ松永さんがいたく気に入ったみたいで、刺さるべきところに刺さってるなと嬉しくなりました。

f:id:SatzDachs:20201224100941j:plain

日曜日からずっと、このメロディーが頭から離れないです。

6. M-1の「ストーリー」

 ただ彼ら3組と比べて、オズワルドだけは、次どうしたらいいのかマジでわからない評され方をしていて、来年が大変だな……と思いました。ご本人も「死ぬほど難しい宿題」とおっしゃっていましたが、松本さんから「静かでよかった」、巨人師匠から「最初から元気に入るべき」という一見逆のコメントをもらったのです。おそらくそれはもともとロートーンで話を展開する去年までのスタイルが残像として残っているせいで、今年はどっちつかずに見えてしまったのかなと思いました。
 これまで書いてきたように、今年のM-1のテーマのひとつは「かけ合い」になりましたが、そういう意味でオズワルドは、「改名をする」というテーマからあそこまで話を発展させ、しかもそれが全てロジカルに筋が通っている、という飛び抜けて凄いことをしていたと思います。もともと「シュール」と評されることも多く亜流な芸風とされていましたが、一周回ってド正統な関東のしゃべくり漫才師になってるなと思いました(偉そうな書き方になってしまいました)。改名したいという畠中さんの飄々した感じに、それを阻止したい伊藤さんに感情移入して「かけ合い」を見られるし、後半の盛り上がりどころ(「お前ずっと口空いてる」)やキラーフレーズ(「雑魚寿司」)もあって、4分間の一つのテーマでの会話として完璧だなと思いました。
 今回はおいでやすこが、マヂカルラブリーによってパワー系の大会になったので、もうほんとに順番の妙だと思います。ただ、会話する漫才を既にネクストレベルでやってるオズワルドが絶対に評価されるときは来ると思います。ベースはあのままでも、単純にウケ量が変われば「成長した」とか言われるのだろうか……

 そう考えると、オズワルドは確実に来年以降もこれまでの比較として審査されますよね。その日、その場での審査とは言いつつ、M-1は確実にそれまでのストーリーが大きく影響していると思います。もちろん漫才は人間あってのことなので良い悪いではないですが、それでも審査員のコメントを聴いていて「ストーリーって昔もこんなに大事だったっけ?」って考えていました。まあ、もしかしたら、10年前はここまで深く賞レースを予選から追ってなかったので、単に自分の観方が変わったというのもあるとは思います。
 実はその辺の理由で、(決勝の結果だけは何がどう転ぶかわからないからGYAO3連単の予想はやらないと言いつつ)今年優勝の可能性が高いのはニューヨークだと思っていました。去年M-1で結果を残せず、からの、今年バラエティ番組で活躍して、からの、キングオブコントで準優勝し、からの、「多少の軽犯罪を良しとする人」を揶揄するという彼らの得意な皮肉の効いたネタ、だったので、布石はすべて揃っているように思っていました。ですがやっぱりM-1は読めないですね……
 それはともかく、ニューヨークの
嶋佐さんがちょうどそういうことを言いそうな風貌で、かつそういうトーンで話すのが上手いですよね。それを腐す屋敷さんも含めて、おふたりにぴったりの漫才だと思います。本稿のはじめでコントインの話をしましたが、ほんとうに演技力が高い。

 さて「ストーリー」についてもう少し考えてみると、そもそもマヂラブも上沼さんとの因縁があったことがツカミになっていて、場を受け入れ態勢にするのに有利に働いてましたね。それを考えると、やはりSNSの発達が大きな一因になっているように思います。さらに和牛の3年連続準優勝というインパクトもあると思います。特別ファンでない人も含めて世間全体が「和牛のM-1挑戦物語」を共有していたような空気感でした。あとは「M-1アナザーストーリー」のようなドキュメンタリー番組、そして多くの芸人さんがGERAをはじめとするネットラジオYouTubeトークをする機会に恵まれている現状、があるのでしょうか。 

f:id:SatzDachs:20201223234110j:plain

敗者復活で大活躍だった国崎さんは、来年以降のストーリーに繋がっている気がします。

7. 台本の存在

 敗者復活はインディアンスがいちばん笑いました(ので投票もしました)。ああやってアドリブで脱線していく感じが観ていて楽しかったです。
 インディアンスはいつも、丁々発止のやりとりで稽古量が伝わってきて、でもそれゆえに台本ぽいなあと思う瞬間が時々ありました。あのネタも何回か観たことがあるのですが、きむさんが言い間違えて揚げ足とる箇所で「わざと間違えたんでしょ?」みたいなちょっと冷めた目で見てしまう自分がいました。先日ラジオでナイツの塙さんは、きむさんが言い間違えるのではなくて、普通に喋ってるのを田渕さんが揚げ足をとったほうがいいというコメントをしていて、その辺もそういう「あざとさ」あるいは「台本が見える」ことへの指摘なのかなと思って聞いていました。
 それがあれだけアドリブがたくさん入ると、台本とアドリブの境目がなくなってきて彼らふたりそのものとして見れるようになるというか、だから(見たことあるネタでも)あざとさみたいなのが全然気にならなくて驚きました。結局、しゃべくり漫才でも、コント漫才でも、初めから設定に入ってる漫才でも、そのほかジャンルレスな漫才でも、「台本の存在」というのは常に問題ですね。そういう意味でも、最初の話に戻りますが「ここから先は漫才ではない」という明確な線を引くことはできないと思います。
 ともかくインディアンスについては、田渕さんは去年の決勝でネタを飛ばしたことをずっと気にしておられたので、それが今年のM-1後の配信では憑き物が取れたようにスッキリした顔で「楽しかった」と言ってて、ほんと何よりだなと思いました。来年がめちゃくちゃ楽しみです。

f:id:SatzDachs:20201225220817j:plain

インディアンスもまた、「ネオベタ」ですよね。

8. 最後に

  M-1が終わったあと、お笑いファンでない人のなかでもここまで話題になるというのは、漫才をここまで愛してくれる人がいるということなので、とても嬉しいことです。ただ、確かにM-1は最高最強の大会ですが、一方で、M-1、まして決勝大会その日だけがお笑いの全てではない、ということは肝に銘じておくべきことかと思います。M-1グランプリ決勝の10組のネタだけで「2020年の漫才全体」あるいは「お笑い全体」は語れませんし、それを利用した社会批評もさすがにガバガバ過ぎます。また、あの場でウケなかったからといってそれがその芸人さんのすべてではありません。
 なので、M-1M-1としてスポーツのような競技大会として楽むのはいいとして、その日が終われば、漫才含めお笑いに対して審査員的に振る舞うのはちょっと違うかなと思います。もちろん、料理だったらぐるなび、映画だったらfilmarksがあるように、ある作品に対して評価的態度をとるというのは個々の自由なので別に良いですし、私もこんな風に普段から考察してしまいがちです。ですがあまりにお笑いを腐すことに意識がやられ過ぎて、面白いものを面白いと素直に思えなくなるのは勿体ない*16なという話です。
 だから、毎年書いてから自戒の念に駆られるのですが、こういうのはほどほどに、ですね……

f:id:SatzDachs:20201224105631j:plain

結局今年も長々と書いてしまいました。でも自覚があっても自我が勝つから!

9. おまけ

 最後に、今年のM-1の自分的ハイライトとして、準々決勝で大ウケだったものの、惜しくも決勝で観ることは叶わなかったラストイヤーのDr.ハインリッヒを置いておきます。

www.youtube.com

 

*1:これまで「サンパチマイクの前で2人以上が立っていれば」という言い方をしていたのですが、今年のマヂラブを見てこっそりマイナーチェンジしました。

*2:定義はそもそも恣意的なものですし、「〜とは何か」という問いの立て方からして前期ウィトゲンシュタインに怒られそうですね。

*3:一方で、そういうところに同様にシビアなイメージのあった礼二さんがマヂラブに96点をつけていたのはびっくりしました。めちゃくちゃ嬉しかったです。

*4:有料だったので名前を伏せます。

*5:過去の自分への反省です。

*6:「実況型の漫才」という言葉を自分で書いたときに一番最初に思い出したのが麒麟で、彼らはどうだったかなとネタを思い返してたところ、「実況型」と言えどもかけ合いはしてたなという結論に至りました。麒麟というとM-1最初期から活躍しているコンビで、この辺りからも私の文章は歴史の認識とかがガバガバであることがわかると思うので、話半分で読んでもらえると嬉しいです。しかしそろそろ「かけ合い」がゲシュタルト崩壊しそうです。「かけ合い」とは何なのか。

*7:もちろんこれは一つのまとめ方でしかなくて、だからといって彼らがすべて同じだいう暴論は成り立ちません。

*8:先に粗品さんがオールザッツで評価されていたこともあって、「せいや粗品のフリップだ」と言われていた時代もありました。彼らがM-1優勝という結果を残して「漫才」として認められてからは、そんなことを言う人もいなくなりましたが。

*9:新しい「ツッコミ像」についてはこの記事に詳しく書いています。satzdachs.hatenablog.com

*10:遡ってみたら、過去3年のR-1で毎回小田さんの応援ツイートをしてました。

*11:こちらの記事です。

natalie.mu

*12:もはや3回戦レベルから伏線回収は当たり前になりましたね。

*13:ウエストランドに至っては、彼らのネットラジオを8年以上毎週聴き続けているので、万感の思いがありました。

*14:しかしそんななかで、サンドウィッチマンの富澤さんはホテイソンの歴史も含めて褒めるコメントをしていたので、さすが事務所(グレープカンパニー)の先輩!と思いました。

*15:奇しくもぶちラジ!の最新回で、井口さんが「錦鯉、ホテイソンと自分たちは知ってもらうことありきだ」という話をしていました。

*16:もちろん、政治的公正に反するものは話が別です。