- 7月
- 8月
- 20071 松本大洋 作『青い春』(小学館文庫, 2012)
- 20072 長尾大志 著『レジデントのためのやさしイイ胸部画像教室』(日本医事新報, 2014)
- 20073 『藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>2 定年退食』(小学館, 2000)
- 20074 郡司ペギオ幸夫『やってくる (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)
- 20075 頭木弘樹『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)
- 20076 錦織 宏・三好 沙耶佳 編『指導医のための医学教育学 実践と科学の往復』(京都大学出版会、2020)
- 20077 『世界哲学史8』(ちくま新書、2020)
- 20078 『現代思想 2020年8月号 特集=コロナと暮らし』(青土社, 2020)
- 20079 ティム・インゴルド『人類学とは何か』(亜紀書房、2020)
- 20080 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』(閏月社、2018)
- 9月
- 20081 アネマリー・モル『ケアのロジック―選択は患者のためになるか』(水声社、2020)
- 20082 磯直樹『認識と反省性: ピエール・ブルデューの社会学的思考』(法政大学出版局、2020)
- 20083 Paul Atkinson "Thinking Ethnographically"
- 20084 東畑開人『日本のありふれた心理療法: ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房、2017年)
- 20085&86 ミン・ジン・リー『パチンコ』(文藝春秋、2020)
- 20087 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2020)
- 20088 『カモガワGブックス vol.2 英米文学特集』
- 20089 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)
- 20090 江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)
- 10月
- 20091 ファウスト vol.01 (講談社、2004)
- 20092 『私立恵比寿中学HISTORY―幸せの貼り紙はいつもどこかに』(B.L.T.MOOK 51号)
- 20093 稲原美苗ほか 編『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す(ナカニシヤ出版、2020)
- 20094 永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998)
- 20095 野口善令、 福原俊一 著『誰も教えてくれなかった診断学―患者の言葉から診断仮説をどう作るか』(医学書院、2008)
- 20096 岩田健太郎『診断のゲシュタルトとデギュスタシオン』(金芳堂、2013)
- 20097 『ダ・ヴィンチのカルテ―Snap Diagnosisを鍛える99症例』山中克郎(CBR、2012)
- 20098 熊代享『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス、2020)
- 20099 岸政彦ほか『質的社会調査の方法——他者の合理性の理解社会学』(有斐閣ストゥディア、2016)
- 20100 ヘンリク・R. ウルフほか『人間と医学』(博品社、1996)
- 11月
- 12月
読書ノートにあげた感想をもとに本記事を書いています。良ければフォローしてください。
7月
20065 川喜田愛郎『近代医学の史的基盤』(岩波書店、1977)
20066 Heewon Chang"Autoethnography as method" (Routledge, 2008)
以下の記事を書く際に参考にしました。
20067 Heewon Chang"Collaborative Autoethnography" (Routledge, 2013)
20068 民谷健太郎『医師国家試験の取扱説明書』(羊土社、2018)
5回生くらいで読んでもいい本だと思うが、今の時期に読んでも、とかく問題の演習量をこなして焦ってしまう自分を歯止めする役割として良かったと思う。「似たような疾患群をグループ化」「演習の負荷を上げる(正解以外の選択肢から想起できることも考える)」「選択肢を見る前に鑑別疾患を挙げる」「本番には必ずモヤモヤ問題が存在する」などなど。つくづく自分は勉強があまり得意ではないなあと思う。関係ないが、合間に挿入されるコラムがいかにもな「医者的価値観」の押し売りと自分異端ですよアピールてんこ盛りで嫌な感じだった。
20069 週末翻訳クラブ バベルうお『BABELZINE vol.1 』
『ンジュズ』——子を「編み上げる」儀式が、<未開>のそれにも近未来の世界のそれにも見えるのが、この作品の上手いところだと思う。筋書き自体もいいけど、それ以前に情景描写の強度で殴ってくる感じがたまらない。 『母の言葉』——ただひたすらに切ないし辛い。翻訳小説だが、複数の言語にまたがる作品としてその技法は成功していると思う。 『二年兵』——冒頭で一気に引きこまれて、ここから何か展開あるのかなと思いながら読んでたら、そのグロテスクなまま終わっていって愕然とした。よい。
巻末の評論で紹介されてた二作品も興味深い。このコロナ禍において、もし個室に隔離されて一生を終えるようになった世界における家族、セックスってどうなるのかとちょうど考えていたので。
20070 桑山敬己 編『詳論 文化人類学:基本と最新のトピックを深く学ぶ(ミネルヴァ書房, 2018)
充実の内容。「このトピックについて、人類学ではどのように語られているのだろうか」と外観するには打ってつけの本である。参考文献リストもかなり役に立つ。
8月
20071 松本大洋 作『青い春』(小学館文庫, 2012)
映画は非常によくまとまっていて好きだったが、原作の漫画のほうも、一つ一つが粒立っていて別な魅力があって良い。『ピース』が一番好きかもしれない。「ゆきおくんは大人になったら何になりたいの?」ーーどうにも立ち行かなくなりつつある青春の閉塞感と絶望、そこで何をするか。
20072 長尾大志 著『レジデントのためのやさしイイ胸部画像教室』(日本医事新報, 2014)
20073 『藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>2 定年退食』(小学館, 2000)
「ノスタル爺」がオチも含めて好き。「コロリころげた木の根っ子」は、ラスト一コマのカタルシスが良い。
20074 郡司ペギオ幸夫『やってくる (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)
これでも分かりやすくなるように書き直したらしいが、流石にちょっと書き散らし過ぎで、著者のこれまでの作品を読んでないとついていけないかな?と思ってしまった(私の理解力の問題もあるかと思うが)。せめて最初にこの本で何を書きたいかのロードマップを示して欲しい。
20075 頭木弘樹『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院 ,2020)
UC(潰瘍性大腸炎)になったカフカ研究者による著書。消化器内科に携わる如何に関わらず、全ての医学生はこれを読むべきだと思うくらい、その病いの経験が読み易い文章で書かれている。また、自らの苦しみを通して、他者理解の地平が開けていく様も同時に描かれていて、大変読み応えがあった。「わからない」のだけれども、少しだけでも「ためらい」を持って人と接するということ。
見えない人たちが、じつはたくさんいる。病人だけではない。さまざまな人たちがいる。いても見えない、見えないけどいる人たちだ。(303ページ)
20076 錦織 宏・三好 沙耶佳 編『指導医のための医学教育学 実践と科学の往復』(京都大学出版会、2020)
自分はそういう立場ではないので偉そうなことは言えないが、教育にあたる臨床医にとって道標的な一冊だと思う。文献リストとしても充実している。しかし時折、他分野からの知見を引用したいがあまりのガバガバ文化論みたいなのも散見されて、そこがあまり気に入らなかった(そのぶん、13章の「文化」についての筆致は丁寧で、好感を持った)。いきなり話が飛ぶところもあり、そこを面白いと思うか、ただの趣味の押しつけで必要な情報を伝える上でのノイズになってしまっていると捉えるかは、評価が分かれるところだと思う。
20077 『世界哲学史8』(ちくま新書、2020)
千葉雅也のポストモダン論が読みたくて購入した。ドゥルーズ、デリダ、フーコーを「ダブルバインド思考」(二項間の否定を「未完了」のまま宙づりにすることで、二項を同時保持する)から論じていて、これまで自分が学んだことの整理になった。あとは檜垣立哉「ヨーロッパの自意識と不安」が良かった。そのほか、前知識のない章は、ぎゅっと凝縮された内容を読むのがなかなかきつかった。
20078 『現代思想 2020年8月号 特集=コロナと暮らし』(青土社, 2020)
20079 ティム・インゴルド『人類学とは何か』(亜紀書房、2020)
いわゆる存在論的転回を担う一人として知られるティム・インゴルドが「人類学とは何か」を論じる。第1章は、バイロン・グッドのbeliefについての議論を思い出し、別の潮流として捉えていたそことそこが同じ話をしているのかという意外感がある一方で、ポストコロニアリズム人類学にとってそれだけ重要なテーマなのだと勝手に納得した。
人々によって感知されかつ演じられている世界は、彼らにとっては全面的に現実なのであるが、実際には、観念や信仰や価値から組み立てられている構築物であって、そうしたまとまって一般に「文化」と呼ばれるものが出来上がっているのだと、私たちは全知の権威を纏いながら宣言する。(22ページ)
20080 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』(閏月社、2018)
講演に通底するテーマはサルトルの「世界内存在」「独自的普遍」であるが、「普遍的なものと独自的なものとのあいだの緊張」というのはエスノグラフィーにも通じる問題で、非常におもしろく読んだ。それから、一個の独自の存在であることと(逃れ難く)民族の一員であることという両義性から在日の問題を説いていくのだが、それはまた別の「自由意志と責任」という伝統的な哲学的課題を想起させ、これらがこう繋がるのかという明晰さに感動を覚えた。文芸批評というあまり明るくない入り口から、自分の頭の中の種々の問題系に接続されていく感覚。
「一人の人間とは決して一個人ではない。人間を独自的普遍と呼ぶ方がよいだろう。自分の時代によって全体化され、まさにそのことによって、普遍化されて、彼は時代のなかに自己を独自性として再生産することによって時代を再全体化する」(サルトル)(69ページ)
確かに日本人のなかにも善意の日本人がいます。しかしその人も、日本人であることのために不利益を蒙ることはないし、権利を奪われることもありません。逆に、日本人という存在の一員であることによって、日本人でない者の権利を奪っているのですから、否応なしに差別の構造に組みこまれているわけです。どんなに善意の日本人も、個人としは責任がなくても、一方に日本人でないために屈折した生涯を送ることを強いられる者がいるのですから、その責任は担わなければなりません。(167ページ)
9月
20081 アネマリー・モル『ケアのロジック―選択は患者のためになるか』(水声社、2020)
冒頭で、「ケア」と「治療(キュア)」の区分は避けると宣言していたことにまず掴まれた。
慢性疾患の人びとの生活と身体に対する介入が、しばしば知識集約的で科学技術に依存していたとしても、それらの介入をケアと呼ぶ正当な理由がある。(28ページ)
それからモルは、「自由に選択してもよい。ただしその結果についての責任はすべて患者が負うべきだ」という「選択のロジック」で議論し続けるには弊害があるとして、支配—自由という対立軸からケア—ネグレクトという対立軸を設定し直すことを目指す。
モルが本書は「ケアのロジック」のみを称揚するわけではないと断っているように、現実は「選択のロジック」や「他のロジック」、そして「ネグレクト」や「失敗」があるわけで、個人的にはその混ざり合った「実践」が気になりながら読んだのだが、それは本書に求める役割ではないか。 (医師がこれまで経験談的に書き散らしてきた)病院における「ケアのロジック」を丁寧に人文社会科学の言語で描くことを目指している本書はひとまず成功しており、その意味では読まれる価値が十分にあると思う。
[糖尿病の]合併症の一つは失明である。血糖値を測定することは失明を避ける手段である。しかし、ヤンセンさんは、最初の日から、指先の正面ではなく側面を刺すように学ぶ。これは、最大限の努力をしたにもかかわらず失明してしまった場合、世界を感じるために指先の正面が必要になるからだ。だから、まさに刺し方を学ぶその瞬間に、健康を希望することと病気を受容することの両方がある。(75ページ)
20082 磯直樹『認識と反省性: ピエール・ブルデューの社会学的思考』(法政大学出版局、2020)
お世辞にも全てを理解したとは言えないが、とりあえず目を通した。ハビトゥス・界・資本という基本的三概念、階級と社会空間について、「認識と反省性」をテーマに論じていた。
20083 Paul Atkinson "Thinking Ethnographically"
エスノグラファーにとって主要な諸概念を平易な言葉で説明していく。冒頭で、社会構築主義の立場にありながらも、「現実reality」を描かないわけではない、と強調していたのが(当たり前のことながら、人類学の歴史を鑑みると)印象的だった。全部は読めていないが、英語で手軽に読める入門書なので、これから分からない概念にぶつかればちょくちょく参照しようと思っている。
20084 東畑開人『日本のありふれた心理療法: ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房、2017年)
そもそも臨床心理学(あるいは心理臨床学)について知らないことも多かったので、中盤の事例研究の精神分析的な記述に面食らいながらも、その歴史も含めて著者なりの見解が示されていて勉強になった。ただ、自分は人類学の本を読むことが多かったからか、本書内での「文化」の扱われ方にやや戸惑いを覚えた。おそらく、心理療法の理論的枠組みから解釈したときの「文化」と、人類学のそれとですれ違いがあって、著者はあまりその点については無自覚に混ぜながら書いているような気もした。
具体的には、あくまで本書を読む限りでの感想だが、心理療法的な文脈でよく語られてきたのは、「日本人には〇〇の文化がある」(ex. 甘えの構造)というような本質主義的な「文化」の見方か。著者は冒頭で、このグローバルな時代にあって単一な「文化」を語れないとしながらも、81ページにおいて「そしてこの『支持的要素』とは、我々の文化の基調にある『和をもって貴し』としたり『気遣い』したりするような、ありふれたケアする関係の型に内在するものである」と書いたりしているように、その見方に一定以上親和性があるように思える。
北山による、日本の精神分析が(恥への不安・オモテとウラの二重性などの)「日本人的心性による文化論的抵抗によってもたらされた」(74ページ)という議論も肯定的に東畑は紹介している。 そういう臨床心理学における「文化」の捉え方の是非はひとまず置くにしても、そういう議論に慣れていない一読者の身として引っかかる部分は少なくなかった。
自らが範とする心理療法の説明モデルと、臨床実践が属するローカルな文化の説明モデルの二つを同時に考える。それらがそれぞれにいかなるものであり、それらが混じり合うときに、それぞれがいかなる意味で妥協したのかをよく見る。その上で、常識を尊重して、個々の評価を行う。(86ページ)
本書では、この心理療法とローカルな文化の交流を見てみたい。それは文化と文化が出会い、交流し、混淆する「間文化性」の問題である。心理療法という文化がローカルな文化と接触するとき、そこでいかなる交流が生じるのだろうか。(197ページ)
それゆえに、上述のような書き方をするときに、筆者の言う「文化」は曖昧模糊としていて、(言いたいことは汲み取れないことはないが)見えてこない。 ただ書いているうちに、こういう感想を抱くのも自分の不勉強が原因なのではないかという気がしてきたので、ひとまず今のところ抱いた所感としてここに留めておくことにする。
あとは関係のない感想を2つほど。以前から思っていたが、クラインマンへのヘルス・ケア・システムの話は、心理学および精神医学の領域だからこそすんなり議論に組み込めるなと感じる。医学生の身としては、やっぱりどう考えてもCRP値の上昇を「生物医学の側からの一つの説明モデルですよねハイハイ」と言われるのはキツい。例えば癌の代替医療(それは得てして非常に高額である)を、「説明モデルの一つ」として相対化してそれでよし!とできるかというと難しい。クライマンの重要性はもちろん認めているので、この辺の折り合いをどうつけるか。
あとは、221ページで注として薄字で書かれていた以下の話が、とても興味深かった。存在論的転回云々を思い出した。
住宅地に森があり、その森の中には「ウタキ」と呼ばれる聖地があって、色々なところでユタと共に儀式をする人を日常的に見かけた。そして、沖縄のお盆の夕べには確かに死者が帰ってきている雰囲気があった。文化の水に馴染むと、そういう文化的リアリティに真正性が感じられたのである。だから、霊的な訴えをするクライエントに対して、心理学しようとすると、葛藤を感じた。沖縄を出て、東京に住むようになると、そういうリアリティを「文化的に構成された」ものだとメタ的な視点で思うようになったが、当時はそういう視点をもちつつも、どこかでそれを生身で生きている私がいた。
20085&86 ミン・ジン・リー『パチンコ』(文藝春秋、2020)
第二次世界大戦の前から1980年代にかけての日本を舞台に、四世代の韓国系の家族を描く。綿密な取材をもとに書かれたこの作品は、「日本に差別はない」と"素朴に"思う人も少なくない今の世の中で、より多くの人に読まれるべき小説だと感じた。 そのメッセージ性もさることながら、小説として圧倒的に読ませる力が強く、ここまでのめりこんでページをめくったのは久しぶりだった。
ノアは愕然として晶子を見つめた。晶子は彼を別の誰か、現実にいもしない”外人"としてしか彼をみていないのだ。ノア自身を見ていない。誰もが嫌うような相手とあえて交際する自分は特別な人間だと、この先もいまのまま信じ続けるのだろう。ノアの存在は、彼女にとって自分が善い人間、教養の高い人間、リベラルな人間である証明書なのだ。(96ページ)
20087 栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2020)
競争主義を前面に掲げ「強くあること」「社会に貢献すること」を謳う(あるいは強いる)ような「フェニミズム」へのカウンターという趣旨は十分に理解できる。それはラディカルな運動として必要な側面もある一方で、女性の内部で強者—弱者の構図を新たに生み出しかねない。
弱者でも生きられるといった運動の中で「強者」であることがこれほど要求される場面が多いことに、改めてこの社会のマッチョな構造の根深さをしみじみ感じている真っ最中である。(95ページ)
著者は徹底的に「愚かさ」「弱さ」に寄り添おうとする。ネオリベ・自己責任論の批判の文脈でしばしば言われる「努力できないことは社会的な背景があり、構造の問題である」にも著者は疑義を呈する。
実際「やらない」と「できない」の判別が難しい中で、結局社会的な背景が見出されなければやはり「努力できない個人」がおかしい、に転じる危険である。そもそも人は健全な状態ならば「努力をするもの」であり、それを阻んでいるものは社会構造だ、といったいわば「努力本性説」が反貧困の運動の主流となってきた。(145ページ)
上述のような苦悩を著者は「ぼそぼそ声」と表現する。個人的な感想として、今の日本のフェミニズムにまつわる空気感・弱者に厳しい社会構造への批判については基本的に同意するのだが、一方で読み進めていくなかで何となくツイテケナイ感もないわけではなかった。「私たち、あの輪には入れないよね」ということで肩を組むのは、周縁化された人々に寄り添おうとする動きなのだけど、結局「連帯」を迫る「フェミニズム」と同じ構図になって、またそこで「馴染む」ことができずに漏れていく人が生まれないかなとか。でもそれって無限連鎖なのだろうか。
私がこう思ったのには著者の書きぶりにもある程度由来していて、文体の深いレベルで著者の(多くは負の)感情的なものが染み込んでいて、それが読んでいて「共感」を迫る感じを受けるというか、その「感情」にちょっとでも同期できないと「あ、この人とちょっと違うかも」という距離を感じてしまう気がした。
もちろん、「自分のぼそぼそを言語化して社会に届けてくれた」と救われる人はたくさんいるし、それだけでこの本には十分に価値があると思う。でもさらに『ぼそぼそ声のフェミニズム』に対してまた「ぼそぼそ」と思う人がいて……というループからいかにして脱出できるのかなとかは考えてしまう。この本自体もMeToo運動と絡めて「共感」の話に触れていたが、「共感の連鎖」としてしか社会運動は広がらないのか、それには限界がないのだろうか。あるいは「主語」をどこまで大きく、何に置くべきなのか。
20088 『カモガワGブックス vol.2 英米文学特集』
リービ秀雄を読んでみようと思う。
20089 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)
今なお根強い人気のエヴァ関係のキャンペーン展開を見ていると、「エヴァンゲリオンは、そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されている」(61ページ)という意味もわかるのだが、一方でいわゆる考察サイトみたいなものについて著者はどう考えているのだろううと気になった。あれは「大きな物語」への欲望のように感じる。
20090 江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)
訳者なだけあって、クラインマン、グッド(+マッティングリー)あたりの、解釈学的なアプローチをとる臨床人類学についての知見が非常によくまとまっている。(論集の宿命なので仕方がないとは言え)同じ内容の繰り返しが多いのが難点だが、「「大きな物語の終焉」以降の精神医学・医療の現在」「病いは物語りである」「病いの経験を聴く」「病いの経験とエスノグラフィー」の4つくらいを読めば、上述の分野の概要を掴むのに持ってこいだと思う。
江口が「医療人類学——今日のやや細分化した言い方に従えば臨床人類学」(237ページ)と書いているように、彼にとっての「医療人類学」はそのままイコールでクラインマンの「臨床人類学」なのは、先日読んだ東畑の書籍と同じだった。個人的には臨床医にとって「人類学」が寄与する可能性はもう少し広く開けていると考えているが、確かにりナラティヴ・アプローチが最も妥当で近いところという感じはするし、もちろんこれも一つの立場である。
著者が精神科医であり、タイトルにも文化精神医学とあるように、内容は必然的に(元々親和性高い)精神医学と人類学の繋がりの話をしている。ナラティヴ・アプローチをとる臨床人類学にしても、そのほかの診療科にとっての意義というのをどう考えているのだろうというのは気になった。
者は、クッシュマンの概念を援用しながら、「しかし何より重要だと思われた点は、本人の疾患とは直接関係のない話題から突然語り出された母親のストーリーによって、本人や家族の「治療抵抗性」も含む一連の事態が「ポップアップ絵本のように」私の目の前に浮かび上がったことである。なぜJさん一家が医療をめぐって奇異な行動をとるのか、どうして治療抵抗的に見えるのか、なぜ再発を承知で予防策を講じないのかを、共感をもって聞き取ることが可能になった」(172ページ)と書く。
私にとってはこの「共感」に至るまでがやや唐突で、他者の了解不可能性についての認識の違いにやや戸惑った。「傾聴」という概念が自分にとって怪しく見えるのもこの辺りに原因があると思う。 ただ、(グッドが物語反応論をベースにしたように)「傾聴」概念が、ただ一方的に相手の話を聴くというのではなく、「語り手も聞き手もいわば一体となって、経験を能動的に構成し、読み取る読者になる」(251ページ)ことであるというのは、医学教育の現場ではもっと強調されるべきだと思っている。
著者も(と書いたのは、杉岡良彦を思い浮かべているからだが)、BPSモデルには批判的である。それをギアーツが描いた「生物学のケーキに、文化の粉砂糖を振りかけた」という図式を超えないとし、「基本的には生物医学を中心に起きながら、社会・文化的文脈を無理やり接木しようとする事態なのである。」(164ページ)と書いている。
臨床的リアリティとして重要な事実は、bio-psycho-socialの各側面から接近すると、横断的な統一的理解が生み出されるということではなく、bio, psycho-, social-のそれぞれの提示する像が、時には相互にまったく矛盾するリアリティとして、時には部分的に重なって切り出されるという側面なのである。(165ページ)
10月
20091 ファウスト vol.01 (講談社、2004)
『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』を読みたくて今さら手に入れた。頭に穴のある少年と頭に角を持つ少女のめくるめくストーリーに、位相の違う主体の奇妙な二重性が変奏を加える、舞城なりのセカイ系。筋立てだけでなく、目の無いゴリラや股間に咲く花など、出てくるモチーフの一つ一つが絵としての強さを持っていて、まずそれだけで読んでいてワクワクする。
20092 『私立恵比寿中学HISTORY―幸せの貼り紙はいつもどこかに』(B.L.T.MOOK 51号)
泣いた。どうか、彼女たちだけはこれからも幸せであって欲しい。
20093 稲原美苗ほか 編『フェミニスト現象学入門―経験から「普通」を問い直す(ナカニシヤ出版、2020)
フェミニスト現象学、個々人の経験のなかに刻印されたジェンダーの構造を一つずつ丁寧に解きほぐしていく感じが、すごく良い学問だなと思う。あと、当事者研究の潮流とも共通点の多い分野である(実際に本書でも言及はあった)。一方で、「プライベートな経験をもとに置かれた社会構造についてreflectiveに書くこと」以上に「現象学的」たらしめるものってあるのだろうか(そうでないとすれば「現象学」と冠する意味はあるのか)とも考えた。
20094 永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998)
また読み直そうと思う。
20095 野口善令、 福原俊一 著『誰も教えてくれなかった診断学―患者の言葉から診断仮説をどう作るか』(医学書院、2008)
「仮説演繹法(hypothetic-deductive method)」による診断推論のアプローチについて、よくまとまっている。
・頻度の軸「頻度が高い疾患なので鑑別診断の候補として可能性が高い」
・時間の軸「頻度は低いかもしれないが緊急に治療しないと致死的になる」
・アウトカムの軸「緊急性はないが見逃すと不可逆性に悪いアウトカムをきたしてしまう」 (87ページ)
②Clinical problemに対応する鑑別診断の候補を、可能性の高そうなものから3〜5個くらい挙げて鑑別診断のリストを作る
③鑑別疾患のリストに挙がった各々の鑑別疾患(診断仮説)の事前確率(検査前確率)を推定する
④検査前確率に検査特性と検査結果の情報を加えて、事後確率(検査後確率)がどれくらいになるかを判定する
⑤その結果、事後確率が、さらなる検索を放棄してよいレベル(検査閾値)まで引き下げられれば除外診断 rule outとなり、治療閾値以上にまで引き上げられれば確定診断 rule inとなる
以下の記述が個人的には興味深かった。「実在」を確信はするがそれには真に到達することができない、というのがカントぽいなと思った。
仮説演繹法による診断推論のゴールは、何らかの臨床情報を得ることによって、患者が疾病を持つ確率を治療閾値以上にまで引き上げる(確定診断 rule in)、あるいは、さらなる検索を放棄してよいレベルまで引き下げること(除外診断 rule out)である。決して、患者がある疾患を確実に持つ(100%)、確実に持たない(0%)ことを証明することではない。(184ページ)
20096 岩田健太郎『診断のゲシュタルトとデギュスタシオン』(金芳堂、2013)
それぞれ異なる著者による、約40の疾患についての「ゲシュタルト(=部分の総和を超えた全体像)」をまとめた書。章によって落差があり、良い章は「これはこういう疾患」という解像度が一段階上がったような気持ちになれる。悪い章は「その疾患の最新の知見についてのあなたの最近の興味を聞かされてましても……」となる。全体として読んでよかったとは思っているが、もう少しコンセプトについての統一した同意が必要なのでは(それも岩田健太郎の「ゲシュタルト 」「デギュスタシオン」の定義が甘いことが一つ原因としてあると思う)。
20097 『ダ・ヴィンチのカルテ―Snap Diagnosisを鍛える99症例』山中克郎(CBR、2012)
Snap Diagnosis(患者のある症状や所見から決まったパターンを想起し、即座に診断へ導く方法)を99症例集めた本。ざっと目を通した。この本自体には関係ないが、snap diagnosisと「ゲシュタルト」は何が違うんだろうと思った(少なくとも本書の著者である山中克郎にとってはそう大した違いはなさそう)。
20098 熊代享『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス、2020)
医療や福祉がサポートしている「自由な生」が、「資本主義・個人主義・社会契約が徹底していく現代社会への適応を自明視したもの」である、というのが基本的な主張である。自分の考えと重なる部分はかなり多く、むしろそれゆえに、自分にとって新規なことは書かれていなかったとさえ言える。序盤の章は、健康至上主義や医療化といった医療社会学の基本概念の入門書としても読めるかも。
個人的には、「繰り返すが、健康について助言や忠告を行う医療者たちは、研究をとおしてエビデンスを集積し、そのエビデンスを活用して人々の健康に貢献する、それ以上でもそれ以下でもない生業を営んでいる」(109ページ)という注釈がついているのに、医師としての著者の誠実さを感じた。そのうえで以下の記述に全面的に同意する。
「他方で、現代社会の”普遍的価値”や、社会に浸透し私たちに内面化されている通念や習慣に照らして考えるなら、これほど正しいことを、これほど正しい手順で行なっている生業もまた珍しい。エビデンスに基づいて“普遍的価値”に貢献し続ける医療者の生業が、どうして社会全体の価値基準や道徳感覚に影響を与えずにいられよう。たとえ医療者自身が道徳の押し売りをしていなくても、おのずと医療が世の中の価値基準や通年や道徳に影響を与えるのは不可避ではないだろうか」(109ページ)
以下の辺りも自分の問題意識と強く共鳴する。
「それこそ東京のホワイトカラーの家庭に生まれ、私立の中高一貫校を出て一流大学を卒業し、東証一部上場企業で働くような男性などは、そうでない学歴、そうでない職種、繋がっていなくても構わない。ブルーカラーの人々や非正規雇用の人々とコミュニケーションしなくて済むことをありがたがっている人さえいるだろう」(271ページ)
そのうえで難癖をつけるとすれば、基本的には「事実命題が価値命題にジャンプする」という話だと思うのだが、言いたいことが先行して、そこの「いかにして」の部分の記述が甘いかなと思った(本人が「ラフスケッチ」と自ら弁解しているので、仕方ないのかもしれないが)。
20099 岸政彦ほか『質的社会調査の方法——他者の合理性の理解社会学』(有斐閣ストゥディア、2016)
「他者の合理性」をなぜ理解する必要があるか、どのようにして理解できるか(できないか)。全ての章が秀逸だが、石岡丈昇による「参与観察」の章がべらぼうにいい。平易な言葉で、簡潔に、大事なことしか書いてない。入門書は一通り読んだからいいかと思ってたけど、全然意味あった。現在進行形でフィールドノートを書いている自分にも刺さる言葉が多くあった。
その論文の結論が「貧困は個人の問題ではなく社会の問題であり、きちんとした制度的支援がもっとされる必要がある」と記すケースなどは、非常にまずいと思います。なぜなら、この結論であれば、調査をおこなわずとも主張できることだからです。(101ページ)/ゴシップ的な面白さと社会学的な面白さを分けるのは、調査者自身の「ものの捉え方」がバージョンアップされるかどうかに関係します。(104ページ)/「対象」と「テーマ」を分ける(106ページ)/バイアスのかかった事実を、バイアスの所在の明記とともに捉えていく=複数の視点を超越した「客観性」を担保するのではなく、どのような人々の視点に依拠しているのかを自己言及するという「客観化」の作業を行う(114ページ)/①気になった出来事のメモ(雑記メモ) ②出来事から浮かんだ社会学的発想(論点メモ) ③日記(115ページ)/「他者」ではなく「他者の対峙する世界」を捉える(131ページ)/「他者理解の不可能性」などとかっこ良く言って、調査もせずにエッセイを書き連ねるようになってはなりません。(同)/フィールドの理解可能性とは、調査者とフィールドに生きる人びとのあいだに何らかの共通項が生ずることではなく、調査者とフィールドの人々が「世界」を分有することなのです。(132ページ)/フィールドワーカーにとって理論とは、事例を検証するためのものではなく、事例の核心を明確に見据えるための道具としてある(137ページ)/「リアルタイム」の記述と「最終地点」の記述を意識的に書き分ける(140ページ)/オンゴーイングに時間の流れるフィールドに居るのではなく、そこから離脱して、いま一度フィールドの状況とは何であったのかを「外から」確認していく作業こそが分析なのです。(142ページ)/「他者の不合理性」を前提にした参与観察=調査せずともわかっていることを、自らの通俗的な「ものの捉え方」でなぞる(147ページ)/時間的制約=現場性(151ページ)
20100 ヘンリク・R. ウルフほか『人間と医学』(博品社、1996)
原題がphilosophy of medicineで、邦訳タイトルはなぜこれなのかが分からないが、医学哲学の正統的な本という感じで(20年前に翻訳されたとは思えないくらい)良かった。経験論と実在論の話、因果性の話、「病気」の線引きと分類の話、確率の話、解釈学の話、精神医学と生物医学の話、など、医学に関する哲学的考察が網羅されている。
11月
20101 大和田俊之、 長谷川町蔵『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング、2011)
バンバータが、クラフトワークのロボットのイメージを、アメリカにおける黒人の歴史(=資本主義体制化で奴隷として「ロボット」化された歴史)に重ね合わせたという話は目から鱗だった。黒人が「ロボット」であることを自覚することにより、「ロボットであることと戯れること」が可能になる=被支配者であることを自覚し、支配/被支配の構造を可能にするテクノロジーの操作に精通することで、その支配体制そのものの転覆を試みる。また、シグニファイングをデリダの脱構築と絡めて論じたコラムもあったが、こういうのをもっと知りたいと思った。
ロック=「資本主義社会の中核を担う中産階級からのドロップアウト」だが、ヒップホップは「資本主義から締め出された人が参入していくための手段」。なのでロックでドロップアウトを歌うことで資本主義社会の成功者になってしまうという矛盾がある一方で、ヒップホップでは、金持ちになることに自己矛盾はない。この話に続いてヒップホップが音楽を制作するときに「外」のデータベースにアクセスすることを「ポストモダン的」と書いていて、言いたいことはわからなくもないが、流石にポモの用法がガバガバではないかと思った(もっと説明が要る)。
あとは、週刊少年ジャンプを「努力・友情・勝利」という主題をめぐって次々に物語が変装され、そのストーリーテラーがコンペティティヴな競争原理に晒されているものとして、ヒップホップに相似なものとして解釈していたのは大胆だが面白かった。
学歴もなくて親も金を持ってないけど頭の冴えた人(ストリートスマート)は、黒人ならヒップホップへ行くが、日本ならお笑いへ行く、という話も。
20102 平庫 ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』(BRIDGE COMICS、 2020)
疾走感のある表題作。救いのあるエンドだけど、現実世界の話として考えたときに、マリコの何を理解できただろうか?と思う。
20103 飲用てれび ほか『読む余熱』(白泉社、2020)
児島さんの、M-1をきっかけに東京のライブシーンが変わっていった様子は、生の声という感じでとても面白く読んだ。
12月
20104 櫻井武『脳神経科学がわかる、好きになる』(羊土社、2020)
さっと目を通す感じで読んだので全てを理解したわけではないが、平易な文体ながら内容はかなりてんこ盛りで、神経解剖学の授業のときにこの本があればなーと思った。『中枢神経系の情報処理と機能』の章を読んでたら、国試的な知識を別な角度から学び直したりすることもあり、読んで良かったと思った。
20105 スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』(みすず書房、2012)
『隠喩としての病い』は、自身の患者体験も踏まえ、「肉体としての病気はできるかぎり肉体の病気として受けとめて医学的な治療を受けるべきであり、そこに心理的な不安をみだりに投射すべきではない」というメッセージが明確で、力強さを感じる筆致であった。また、特にAIDSに関する話は、現在の状況(COVID-19の流行)と重なる点も多い。
とりわけ恐ろしい病気の流行は、必ず寛大さ、態度の甘さ——今日では道徳のたるみ、弱さ、無秩序、腐敗、ひとことでいえば不健康とされるもの——への批判を掻き立てる。「検査」をしろ、発病者ならびに病気になっている者、それをつつす疑いのある者を隔離しろ、真偽はともかく感染している外国人を障壁で囲い込め、と。駐屯軍のように運営されている社会、中国やキューバのほうが反応は迅速で、徹底している。エイズはすべての社会にとってトロイの木馬になりかねないのだ。(170ページ)
20106 早稲田文学会 編『「笑い」はどこから来るのか』(筑摩書房、2019)
日本のup-to-dateなお笑いの事情を理解していないままの評論には強度がないし、一方で、お笑いが好きなだけの人の社会批評にも全く説得力がない。
前者について、もちろんお笑いを語るうえでお笑い好きである必要は全くないが、しかし全体像を掴めていないと、ただ紋切り型の批判を繰り返すだけのつまらない論旨になる。この人は話題になった動画をYouTubeで片手間にチェックしたんだけだなというのは読んでいてすぐにわかる。後者について、最終的にはお笑いの肩を持つことが前提で、ただ世間から「怒られそうな」ところに目配せした文章になっていると思う。
それを踏まえて、澁谷知美さんの文章がよかった。ここ数年のお笑いとジェンダー、あるいはフェミニズムを語るうえで欠かせない2つ(ヒコロヒーとみなみかわの「男女を反転させて『女の経験』を描くことで『男の生態』の異様さ」を浮かび上がる漫才、そしてAマッソの「テンプレート女芸人」を好んでピックアップする番組制作者や視聴者への批判を込めた「進路相談」のコント)に触れつつ、M-1の3回戦に注目してネタにおける「恋愛」の取り扱われ方について論じているのはよかった。 M-1の3回戦が今の若手界を見渡すのに最も良い指標の一つである、というのはしっかりとお笑いの全体像が見えていないと出てこない発想だと思う。
澁谷がお笑いが好きであることを断ったうえで、フェミニズムの観点から断罪すべきところは真っ直ぐに批判していたのも誠実で良い文章だった。自分もこのくらいの強度の文章を書きたい。
あとは大滝瓶太の「事実」と「真実」の狭間についての論考が興味深かった。ネタを「語り手が語り手である必要性というのが想定されない」としたのには納得し難かったが、しかし以下の下りは良かった。自分が今後使っていきたい表現もあった。
これは物語、あるいは一定の因果律を有して駆動する空間の設計様式の差異だ。事実に基づく空間設計は我々が生活する日常空間から大部分を借り受けることができるため、空間構築のコストを最低限に留めた語りが可能になり、その反面想像力の射程は日常に縛られ限定的になる。一方、虚構空間を採用する手法ならば、想像力の制限が外されるぶん、空間設計・構築に大きなコストが必要になる。重要なのは空間の事実性/虚構性ではない。それを駆動させる因果律であり、それこそがリアリティだ。(141ページ)
20107 岸上伸啓 編著『はじめて学ぶ文化人類学』(ミネルヴァ書房, 2018)
今年一年、文化人類学の歴史を一から学ぼうと思い抄読会に使っていた本。一つの著者に割かれたページはそう多くなく、かなり濃縮された文章が並んでいるため、これ単体で理解するのが難しい記述もややあると思うが、それでも入門書として申し分のないラインナップと内容であると思う。主要な人類学者についておさえることができた。
20108 前川啓治 ほか『21世紀の文化人類学 世界の新しい捉え方』(新曜社、2018)
入門書のあとに、最近の潮流の、特に存在論的な話を重点的に学ぶことができる一冊。テーマも多岐にわたり読んでいて楽しい。そこそこ難しいので我が身一つで読むのは辛いが、これから色んな本を読みつつ参照しようと思う。
20109 森皆ねじ子『ねじ子のぐっとくる脳と神経のみかた』(医学書院、2013)
楽しいイラストが多く、わかりやすかった。