国試にインストールされた思考

*2021年3月15日、大幅に改稿しましたが、いまだ編集途中です。随時、加筆・修正されていく予定です。
*2021年3月20日、第3稿へと更新しました。

0. はじめに

 国試の問題というのは、基本的には5択である。すなわち国試勉強とは、5つある選択肢の中から1つ正しいものを選ぶ、という作業を何百、何千、何万回と繰り返すことである。
 5択において正答するための最も効果的な方法は、もちろん適切な医学知識を習得することだ。ただ、予備校において教えられるような、キーワード的な解き方のできる問題というのは多く存在する。それとは別に自分で国試の過去問を解いているだけでも、「これを見たらこう」というような反射的な思考が知らぬ間に身に付いていることにあるとき気が付く。それが国試の問題を解くうえでの単なるテクニック、あるいは臨床上でも役に立つような思考であるならばよいのだが、そういった「事実」には得てして「価値」が織り込まれている。
 本稿では、過去問演習のなかでほとんど無意識にインストールされたと考えられる思考のうち2つを取り上げ、医師国家試験の根底にある価値を問う。ただ自分でも書いていてよくわからないところも多いので、あくまで試論として読んでいただだけると幸いである。

1. 「自己決定」信奉

104B14 インフォームドコンセントで最も重要なのはどれか.

a 文書による説明
b 医師による説明
c 患者による意思決定
d 医療従事者のサポート
e 医事訴訟での責任回避

正解:c

 姿形を変えながらではあるが、「自己決定の尊重」が答えになる問題はほとんど毎年出る。医療がパターナリズムに支配されていた時代、引いては人体実験の凄惨な歴史を鑑みるに、もちろん「患者による意思決定」が守られない医療というのはあってはならない。医師として必ず知っておくべき問題である必修ブロックで出題されるのも頷ける話である。
 しかしながら、そうやって自己決定権に対する問題を繰り返していくうちに、「患者の自己決定が最優先」という思考がインストールされていくのは、何とも気持ちの悪いものでもあった。「患者の意志を尊重」=「正解」という回路——むろんそれは国試の問題としての「正解」であるが——に抵抗感を覚えるその理由は、まずもって私が最近流行しつつある中動態の議論にかぶれていることだろう。

 中動態の詳しい議論については私の過去のブログを見て欲しい*1が、國分功一郎は、私たちが自明視している<能動態―受動態>の対立のある言語をして「尋問する言語」と呼ぶ。例えば中動態であれば単にファイノマイ=私が現れていると表現されていたのを、現代の言語ではI appear(能動態)なのかI am shown(受動態)のどちらかに訳さなければならない。ここで、自発的に来たのか、それとも誰かに言われて仕方なく来たのか、を何としてでも区別する必要がある。すなわち「自発的に来たのか? それとも誰かに言われて仕方なく来たのか?」という尋問に答えを出さなければならない。
 ここにおいて問われているのは、意志(will)の概念の有無だ。自分の意志で現れたのか、それとも自分の意志ではなかったのか。

 意志という概念がもつ機能について、ジョルジョ・アガンベン(1942-)というイタリアの哲学者が、『身体の使用』という書籍において「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に従属させるのを可能にしている装置である」と書いている。つまり、意志という概念を使うと、行為をある人に所属させることができるのだという。
 例えば、ある病気で入院している患者(Aさん)が、自分の治療方針について決定したとする。それがAさんの「意志」によるうものだとしたら、その「決定」という行為はAさんに帰属する。これが何を意味するかというと、「自分の意志で決めたから、自分の責任だ」ということで、その行為の責任をその人自身が負うということである。すなわち意志は行為の帰属を可能にし、行為の帰属は責任を問うことを可能にする。

 確かにAさんは自分の治療方針を決定した。しかしながらそれには、医師に言われた説明が影響していることだろう。家族に言われた言葉があったのかもしれない。そしてその家族は、本で読んだ同じ病気の患者のストーリーに感化されたのかもしれない。その本は、家族の友人によって薦められたものだったのかもしれない。
 このように行為の原因というのは、いくらでも、過去と周囲とに遡っていくことができる。人というのは、自らの人生の歴史をもっていて、そして今まさに周りの人々・環境とつながって生きている。その全てから孤立した条件下での行為など存在しない。ところが、意志という概念を使うと、その遡っていく線を切断することができる。「君の意志がこの行為の出発点になっている」と言える。

 『中動態の世界』を読んだ当初の印象とは違い、その後さまざまな文献を読むに中動態とは簡単に/単純に「免責」できる、と主張しているわけでもないようである。例えば國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020)では、「自分が応答すべきである何かに出会ったとき、人は責任感を感じ、応答respondする」のがresponsibilityであると説くが、ここはイマイチ納得のいかない部分である。私の理解力が悪いのかもしれないが、國分らの言う「責任」概念がいまだに十分に書き下されていないように感じる。
 よって、国試の所詮5択に対してナイーヴに「患者の自己決定がすべてではない!」と主張するつもりはなく、問題としては充分適切であると考えている。ただ一方で、「患者に決めさせればそれで万事OK」という思考を無意識にインストールし、それを無条件で信じる医学生が毎年たくさん生み出されているのならば、それはそれでやはり悲しい、とも思う。

2. 「同性愛者ときたらHIV/AIDS」

106A22 39歳の男性。同性愛者。頭痛を主訴に来院した。2週前から微熱と全身倦怠感とを自覚していた。2日前から頭重感を伴うようになった。昨日から持続的な頭痛が加わり、次第に増悪してきたため受診した。これまでの経過で嘔吐したことはないという。意識レベルはJCS I-1。体温37.6℃。脈拍 92/分、整。血圧162/70mmHg。呼吸数21/分。SpO2 96%(room air)。口腔内に白苔を認める。Kernig徴候は陽性である。血液所見:赤血球400万、Hb 13.2g/dL、Ht 41%、白血球6,200、血小板11万。免疫学所見:CRP 8.2mg/dL。HIV抗体陽性。脳脊髄液所見:外観は水様、初圧200mmH2O(基準70~170)、細胞数42/mm3(すべて単核球:基準0~2)、蛋白55mg/dL(基準15~45)、糖40mg/dL(基準50~75)。脳脊髄液の墨汁染色標本を別に示す。 診断として考えられるのはどれか。

※画像と選択肢は省略。正解はクリプトコッカス髄膜炎である。

 厚生労働省の発表によると*2、令和元年新規報告を感染経路別にみると、HIV 感染者、AIDS 患者のいずれにおいても、同性間性的接触が半数以上を占め、HIV 感染者ではその割合はさらに高い。

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令和元年エイズ発生動向年報(1月1日~12月31日)より

 本問において、「同性愛者」というのはHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」という意味を持つ情報として入れているのだろうし、それ自体が不適切であるということはない。ただ、先述したように国試対策をするというのは何度も何度も5択で演習を繰り返すということであり、そのうちに問題文中に「同性愛者」という文字列があればすぐさま「HIV/AIDS」を連想するように習慣づけられていく。
 次の年の、同じテーマを含む他の問題を見てみよう。

107D18 病歴と疾患の組合せで正しいのはどれか。

a 同性愛 - ニューモシスチス肺炎

b 温泉旅行 - クラミジア肺炎

c 鳥類の飼育 - マイコプラズマ肺炎

d アルコール依存 - レジオネラ肺炎

e 産褥期のネコとの接触 - Q熱

※正解はa,e。

 「病歴と疾患の組合せ」というしばしば出題される形式は、非常に曖昧な問いかけであり、ともすればキーワード的なつながりのみを求める問題としても解釈できる。ただ先ほどと同様に「同性愛者であればHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」という知識を問う設問として解釈するのならば、繰り返しになるがその意味では全く問題はない。
 ただこのような問題の形式では、よりあからさまに、受験生は「同性愛」→「HIV/AIDS」→「易感染性」→「ニューモシスチス肺炎」という反射的な連想ゲームを要求される。そのように問題演習するうえでパターン認識*3されたものとして頭の中につくった(あるいは、つくられた)「同性愛者」→「HIV/AIDS」という回路と、「同性愛者イコールAIDS」というようなステレオタイプ(決めつけ)の近接に、私は気持ち悪さを感じていた。

 今日ではよく知られているように、同性愛者の方々には、偏見(ネガティブな決めつけ)・差別(偏見に基づいた行動)*4と戦ってきた歴史がある。HIVが主に性交によって感染すること、そして同性愛者の社会で最初のHIV感染者が発見されたことから、「異性愛規範から外れた人々はHIV/AIDSに感染している」という偏見が強固に存在している*5
 
国試において「同性愛者」というキーワードが出てきた場合は、確実にHIV感染者/AIDS患者の問題である*6。「確実に」と書いたが、自分の記憶する限りでは「同性愛者」というワードが出てきてHIV感染者/AIDS患者の問題がなかった、というだけなので、実際には詳細な国家試験の過去問の検討を要する*7
 いずれにせよ、結局は、「(国試において)同性愛者であればすべてHIV感染者/AIDS患者」という思考を身につけていくわけだが、国試演習に没入しその反射神経を鍛えるあまり、その(国試において)の括弧が取れてしまいかねないことへの気持ち悪さがあったということだろうか。106A22の冒頭の「同性愛者。」というにべもない一言や、予備校で「同性愛者ときたらHIV/AIDS」と何度も教え込まれる経験——それらが相まって、同性愛者の方々に対する差別的行動を生み出すことへの恐怖を生み出していたのだと思う。

 しかし国試の問題演習をしていた頃に抱いていた違和感を今言語化して冷静に考えてみると、「国試はステレオタイプの形成に加担している可能性がある」とは簡単には主張できないと思い直している。「同性愛者」→「HIV/AIDS」という短絡的なキーワード連想がたとえ頭の中につくられたとしても、やはり(先ほどから強調しているように)「同性愛者がHIV感染者/AIDS患者の高リスク群である」という前提をわかったうえなのであれば、それは問題ないということになるのかもしれない。同性愛者イコールAIDS』というようなステレオタイプ」は「同性愛者はみなAIDSだ」というテーゼに書き下したほうがよりクリアだが、こう書いてみると、HIV/AIDSへの理解が進みつつある今、生物医学的な知識をつけたうえでこれ自体に同意する医学生はまさかほとんどいないと言っていいだろうと思う(残念ながら適切な根拠はない)。
 考えてみれば、ある病歴がある疾患の高リスク群であるということを記憶するのは、端的にはキーワード連想として頭の中に収納することである。例えば「ビールの多飲は痛風のリスク*8である」という知識があって、「ビール→痛風」というキーワード連想ができあがったとしても、ビールを飲んでいる人を見ていつも必ず「この人は痛風だ」と確信するわけでもない。

 結論、「同性愛者であればHIV感染者/AIDS患者の事前確率が高い」ということは大前提わかったうえで、「正しい知識」と「価値判断」の越境可能性について自覚的であるならば、生物医学的に診断するうえで「同性愛者→HIV/AIDS」という思考回路を利用することは批判され得ない、ということなのだろうか。このようにステレオタイプ/偏見と結びつきかねない医学知識というのは、他にも多く存在する*9。とすれば次の問い*10の一つは、そのように医師が自らの認知を反省的に検討するプロセスは、どれだけ可能か/どのように行われているか、ということになるだろう*11

*1:

satzdachs.hatenablog.com

*2:api-net.jfap.or.jp

*3:このようなパターン認識の刷り込みは、臨床推論の教育と非常に相性が良い。 

*4:本稿におけるステレオタイプ、偏見、差別の使い分けは以下の文献に基づいている。

https://opentextbc.ca/socialpsychology/part/chapter-12-stereotypes-prejudice-and-discrimination/

*5:Weeks, J. 1981. Sex, Politics and Society: The Regulation of Sexuality since 1800. New York: Longman

*6:国試において、性的指向のような繊細な情報をどういう理由で・どう聴取したのか、という過程までが問題に含まれることは決してない。

*7:もし「同性愛者」という単語が出てきてHIV感染者/AIDS患者の問題でないならば、どうして事前確率を高めるわけでもない「同性愛者」という情報を問題文に記載する必要があったのか、という問いが生じるかもしれない。これの肯定側の意見と否定側の意見をそれぞれ検討してみよう。
Pros:この主張は「文中には問題を解くうえで必要な情報だけを記載する」という前提のもとに成立するものであり、実際の国試では、最近ではより顕著に(∵キーワード的に解くことを防ぎ、難易度を上げるため?)問題に直接関係ない情報も記載される。よってそれ自体が不自然なことではない。むしろ、関係のない情報を載せることが、過度に関連づけないというメッセージを伝えることにも寄与すると考えることもできる。
Consアウティングの問題などを鑑みるに、疑う疾患に直接関係ない場合に、性的指向についてわざわざ言及することは避けるべきであり、「同性愛者という情報が不要だ」と主張することは一定の妥当性を持つ。

*8:このリスクという言葉も、因果の連鎖が遠くなればなるほど、不思議な言葉である。すなわち同性愛者が「リスク」という言葉に対して私は強烈な違和感を抱いている。あくまで同性愛者→unsafeなセックス→HIV/AIDS という道のりなのであって、同性愛者であるということそれ自体がAIDS患者になる原因である、というわけでは(もちろん)ない。

*9:例えば「キティちゃんサンダルを履いてくる親御さんが怪我した子供を連れてきた場合には虐待を疑え」という比較的有名な文言がある(らしい)。キティサンダル=ヤンキー出身→虐待リスクという思考回路だが、これも本論と同様の意味で差別的認知を含み得る。さらにはアルコール多飲や精神疾患を持っている人の主訴への向き合い方も同様の問題系を含む。

*10:むろん本稿は国試に対しての以下のような問いとして捉えることもできる。すなわち、国試が臨床に近づけて考えるのか、もしくは国試という仮想の場を共通理解として続けていくのか。

*11:研究室でディスカッションした際は、二つの論点が挙げられた。一つ目は、「患者の経験からどう見えているのか」を省察することを促す家庭医療学との関連。特に文化人類学・精神力動から影響を受けた部分だという。二つ目は、患者から「怒られる/「感謝される」経験。特に前者について、このような省察を導き得るものである一方で、、単純にトラブルを避けるために「うまくやる」(より浅い層でのプロフェッショナリズム)ことの可能性についても語られた。