飯田淳子・錦織宏 編 『医師・医学生のための人類学・社会学』(ナカニシヤ出版、2021)

 「あの人、せいほだから」

 それは、医療現場でしばしば聞く言葉である。想像に難くないように「せいほ」とは「生活保護(受給者)」のことであり、しばしばその隠語には差別的なニュアンスが含まれている。幾度となくトラブルを巻き起こす患者が「せいほ」だと明らかになると、医療者たちは納得した表情を浮かべ、「せいほ」だという噂はさざ波のように伝わっていく。あるいは、「害のない」「ふつうの」患者だとしても、「せいほ」だということは眉を顰めてヒソヒソ声で語られる情報として受け止められる。
 臨床実習中にも、医師として過ごしたまだごく僅かな間にも、同様の場面には何度も遭遇してきた。そのような態度の根底には、明示的に言われることがない(本人も自覚していない)にしても、「せいほ」は怠惰であるとか、ずるいとか、まともに取り合う価値のない相手であるとかいった偏見が多かれ少なかれ存在している。私はそのたび、体の芯が熱くなるような怒りを感じる。社会のセーフティネットをどう捉えるかということについての私の信念・信条があり、上述のような振る舞いは社会正義に反していると強く思うのである*1

 誤解を招く導入かもしれないので、以下、いくつかの点について注釈を加えておく。
 もちろんいわゆるDifficult Patientのすべてが「せいほ」ではないし、「せいほ」のすべてがDifficult Patientではない。医療者とトラブルになることと、「せいほ」であることにはたして相関があるのかどうか、寡聞にしてわからない*2。だから以降の議論では、「『せいほ』の人がトラブルを起こしたときの、医療者の向き合い方」という風に場面を明確に設定して話を進めていこうと思う。
 同様にして、医療者の皆が皆「せいほ」の人たちに対してネガティヴな態度をとるわけではないというのも事実であろう。ここで、医療者に対する偏見という点にも牽制を加えておく必要がある。ネガティヴな感情を持つ人からそうでない人までグラデーションであるし、そのネガティヴな感情の中身もそれぞれ多様だと思う。
 また、病院でトラブルが起こるとき、医療者が身体的な危害を加えられる場合もあり、それはどんな事情があろうと言語道断である。そこまでいかないにしても、暴言を投げかけられた医療者の精神的ダメージや、円滑な業務遂行を阻害されることの不利益についても考慮するのがフェアだろう。

 ただ、以上の点を留保しておくとしても、である。片足の爪先だけ医療の世界に突っ込んだ身として、病院でトラブルが起こっていて、目の前の患者が「せいほ」だとわかった瞬間に流れるあの何とも微妙な——感覚的な表現が許されるならば「うわっ」という空気、あれだけはいつも肌で生ぬるく感じる。そのたびに私は憤りを覚える。

人道主義への絶望

 しかし私は沈黙する。他職種、上司はもちろん、同じ立場であるはずの研修医に対してもその憤りを表明できない。他人との衝突を恐れる私のひ弱な精神性もまた、原因のひとつである。
 また、ただでさえ忙しい医療者たちにとって、トラブルによる陰性感情のやり場を「せいほ」という属性に求めるという思考回路について理解できないわけでもないし、それを頭ごなしに否定することはできない。私は一介の研修医であり、本当の意味で当事者性を持ってこの問題に直面したことはいまだない。

 だがそれ以上に、私の沈黙の理由には、こういう局面で人道主義的な反論の仕方をすることへの絶望がある。もし「人道的な」医師であれば、「せいほ」を上述のような仕方でネガティヴに表現することを咎め、問題を起こす患者に「共感的態度」で接することを勧めるだろうか。
 この、「患者さんを思いやり、共感しよう」というようなたぶんにmoralな色合いを纏った標語(クリシェと言っていいかもしれない)は、届く人には届くし、届かない人には届かない。「共感」は卒前医学教育のなかで、「ああいつものあれね」とでもいうような説教くさいワードとして、半笑いで茶化しながら受ける道徳の授業のような受け止められ方をしている(と、私は思う)。あるいはOSCEという試験をくぐり抜けるためのあくまで技術的な要素の一つに成り下がっている(と、私は思う)。

 それではいったい、どのような仕方で歩み寄りを求めるべきなのだろうか? 私は、「せいほ」に対する偏見に満ちたふるまいに対して、「生活保護受給者という他者を理解する」という切り口に希望を見出したい。むろん「共感的態度」の重要性そのものを否定するわけではないのだが、人道主義的な半笑いワードと誤解されやすいそれよりは、いたってリアリスティックで、私たちがやるべきことを明示してくれるこの言葉のほうが好ましいと私は思う。

他者を理解する

 ここで紹介したいのが、4月に出版されたばかりの『医師・医学生のための人類学・社会学―臨床症例/事例で学ぶ』の第4章、人類学者の浜田明範の短い論考である。ここでは、「月毎に入退院を繰り返す」生活保護受給者のCさんが、医療費が無料になるからそのようにしているのではないかという疑われ医療者たちから否定的な感情を向けられる、という事例が冒頭に紹介されている。まさに「『せいほ』の人がトラブルを起こしたときの、医療者の向き合い方」である。

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 浜田はその事例に対して、前提として「Cさんの行為が、Cさん自身の戦略とともに、生活保護に関する細やかな仕組みによっても方向づけられている」とする。まずこれは非常に重要な考え方である。「せいほ」が怠惰であるとかずるいとか思われるとき、その人の行動はすべて彼/彼女の管理下にあり、その行為の責任は当人にすべて帰されるという前提に立っている。そうではないというのが上の一文であり、これは社会科学の基本的な考えである。
 そのうえで、「Cさんの行為を理解するためには、単純に彼女は病人役割*3から逸脱しているのでけしからんと理解して済ませるのではなく、彼女が病人以外のどのような役割をもっており、そこではどのような行為が期待されているのか、また、彼女の行為がどのような制度的・技術的な前提によって支えられ、導かれているのかを検討する必要がある」と書いている。
 それはまさに、医療現場における「せいほ」をめぐる問題系について風穴を空ける考え方であると思う。私が卒前医学教育において「共感」ではなく「他者理解」という表現を使うべきだと考る理由は、「他者理解」はそうしようとする態度さえあれば、いくばくかの知識(Cさんの事例ならば生活保護制度をめぐる諸々)を身につけることにより少なくとも試みることができるということである*4
 この「いくばくかの知識」というのが大事で、それは決して、文学的想像力といった(そういった分野に関心がない人にとっては)曖昧模糊としたものに頼るわけでも、その人の倫理観に情動的に訴えかけるわけでもない。生活保護受給者の行為が「どのような制度的・技術的な前提によって支えられ、導かれているのか」を「知る」という、いたってシンプルで、ソリッドな過程である。

 以下の浜田の一節は、ここだけでもすべての医師・医学生に読んでもらいたいと思わせられる、素晴らしい文章だ。

……医療社会学や医療人類学では、Cさんの行為を道徳的に批判するよりも、Cさんの行為を可能にする条件に目を向けることに価値があると考える。問題を個人の性格や資質に還元するよりも、個人にそのような行為をおこなわせる条件を再検討するほうがより根本的で、広範に適用可能な解決につながると考えるからである(40ページ)。

 なお、以上は私が勝手に行った文脈づけであり、本来の著者の意図とは少なからず逸脱している可能性があることを、本節の最後に一応つけ加えておく。

「社会」について

 「共感」や「想像力」と同じような文脈で登場する言葉として、「傾聴」がある。いかにも、「傾聴」することは「他者理解」においても同様に重要である。しかし医学教育の場に輸入されるにあたって、その言葉はしばしば、患者の心の中・内面を掘り下げることを意味して、そういう「パーソナルな(個人的な)」領域を詳らかにすることが「他者を理解する」ことだと受け取られる節がある。それはまったく間違っているというわけではないが、いくらか訂正が必要である。
 前掲書の第2章、「社会科学と医療」で星野晋は、社会の「マクロ的側面」と「ミクロ的側面」という言葉を用いて以下のように論じている。

 ……医療専門職が社会科学から学ぶべきことは、社会の状況や動向を把握しその文脈で保健・医療を理解するマクロ的な視点と方法、そこで得られる知見を関連づけつつ、多様で変化しつづける臨床現場の具体的ケースを読み解くミクロな視点と方法ということになる。そして社会のマクロ的側面とミクロ的側面は常に連動している以上、両者を同時並行してあるいは関連づけながら学ぶことが肝要である。

 医療はそれぞれの国や地域において、法・制度・政策・経済などに規定される社会の仕組みの一部をなしている(=社会のマクロ的側面)。一方で、医療の対象とする患者や医療福祉サービスの利用者は、家族・近所・職場などの人間関係を生きる社会的存在である(=社会のミクロ的側面)。この両方の視点があってこそ、人類学を人類学たらしめるのである。
 ごく一部の人類学に関心のある読者によってクラインマンが読まれているというのは、非常に喜ばしい事態である。しかしその「説明モデル」や「病いの語り」といった概念が独り歩きすると、そういう社会科学の広い視座が失われてしまう危険性もある*5。これは「微小民族誌」がしばしば批判の的になるのと似たような背景である。

 前節の「せいほ」のCさんの話も、とどのつまりは「社会のマクロ的側面」と「社会のミクロ的側面」から理解せよということである。それが異質馴化(Making the strange familiar)であり、そのことが自分の当たり前の前提を疑うことにつながる、すなわち馴質異化(Making the familiar strange)である。

『医師・医学生のための人類学・社会学』についての覚え書き

 これまで医師・医学生が人類学を学びたいと思ったときには、人文系の学生向けの書籍を読むか、ごく限られた文脈での書籍(精神医学という文脈のなかで、クラインマン・グッドの解釈人類学の流れを理解する*6)を読むしかなかった。そんな私自身の昔のことを考えれば、このような、実際に医師・医学生にとって場面を想起しやすい事例をベースに人類学・社会学の概念を学べる書籍が出たのは、間違いなくマイルストーンな出来事である。
 本を読むのが億劫だという人、そういうブンケイの話は興味ないよという人も、最初の数十ページだけでも読むことを何としてもオススメしたい。それだけこの本は、「現場の医師・医学生にどうすれば還元できるか」について考え抜かれて書かれている。

 以下、蛇足ではあるが、そのほか本書について良いと思った点と悪いと思った点をそれぞれふたつずつ挙げて、締めと代えさせていただく。

・提示されている症例が、家庭医・精神科医というかねてから人文系との相性が良い診療科だけではなくて、呼吸器内科医や神経内科医、ひいては救急医によるものが混ぜられているのが素晴らしい。人文社会科学は一部のマニアックな人たちが学ぶためだけのものではなくて、すべての医師・医学生にとって有用になり得る可能性を秘めている(と、私は思う)。

・この本の構造自体が、おそらく敢えて(無機質で人文系の学問とは相性の悪そうな)コアカリの構造に則っているのがユニークである。卒前医学教育の枠組みでこれができるのだという編者らの気概を感じる。

・紙幅の限界もあり、ひとつひとつが総論的な域を出ていないのが残念である。パーソンズの役割論はたしかに頻出の重要概念であるが、こう何度も重複して出てくるとさすがに飽きてくる。一方でたとえば補完代替医療は医療と社会科学の接点で考えるのに非常に有用なテーマであると思うが、不完全燃焼のまま原稿が終わった感がある。もう少し事例数を減らして、ひとつあたりの原稿枚数を増やしてもよかったのではないかと思う。

飯田淳子は巻末で「それで結局、臨床現場ではどうすればよいのか」という問いについて触れているが、本書では到底まだ答え切れていないと思う(もちろん、答える必要があるのか、というところから問いを立てることもできる)。しかしそれは本書の次に出る書籍の役割であろう。

*1:そもそもそういうのをシニカルに言えるのが医師なのだ、みたいなノリも、煙草吸う中学生のそれとほとんど同じでダサい。

*2:何となく多そうな気がする、という私の所感それ自体も、無意識の偏見に根ざしているのかもしれない。

*3:医療社会学におけるパーソンズの有名な概念であるが、その紹介は紙幅に収まらないため今回は断念する。

*4:あくまで「できる」ではなく「試みることができる」である。ほんとうはここに書いたほど容易ではないし、そのような他者理解の不可能性に向き合ってきた学問こそ人類学である。

*5:ただもちろん、そのようなリスクよりも、クラインマンが医師に読まれることのメリットのほうがはるかに大きい。

*6:江口重幸『病いは物語であるー文化精神医学という問い』(金剛出版、2019)。むろんこれは良書である。