2021年1月〜6月に読んだ本

 働き始めたら冊数は減るかなと思っていたのですが、何とかペースを大幅に落とすことなく本を読めました。研修医としての最低限は担保するよう、4月からは「医学のお勉強の本とそれ以外の本を交互に読む」というルールを自分に課しています。

1月

21001 山下武志『3秒で心電図を読む本』(メディカルサイエンス社、2010)

 今までとは全く違う心電図の見方で目から鱗だった。

21002 衿沢世衣子『ベランダは難攻不落のラ・フランス』(CUE COMICS、Kindle

 『GIRL'S SURVIVAL KIT』と『市場にて』が好きでした。

21003 panpanya『足摺り水族館』(1月と7月、2013)

 漫画は全然読んできていないが、小説を含めても今まで読んだ創作のなかでベスト5に入るくらい良かった。偏執狂的に書き込まれた無数のモチーフのひとつひとつが魅力的だし、歩いてる子がその訳のわからなさを受け止める仕方も絶妙だ。

21004 黒田硫黄『茄子(1)』(アフタヌーンKC、2001)
21005 黒田硫黄『茄子(2)』(アフタヌーンKC、2002)
21006 黒田硫黄『茄子(3)』(アフタヌーンKC、2002)

 何が起こるというわけでもないがずっと読んでいられる。

2月

21007 松澤和正『臨床で書く 精神科看護のエスノグラフィー』(医学書院、2008)

 自分が絶対に関心あるだろうと思って読んだものにイマイチ興味を持てないとモヤッとする。エスノグラフィーと言いながら本人のパーソナルな省察の域を出ていないこと、また本書を通じての一貫したテーマを見出せなかったこと、が原因としてあるのだろうか。

21008 大和田俊之/磯部涼/吉田雅史『ラップは何を映しているのか』(毎日新聞出版、2017)

 日本語ラップでの右傾化で用いられたサムライ、般若、軍服などの日本的なモチーフは、一見グローバル視点で日本を見た際のエキゾチックなイメージのように見えるが、どちらかといえば「ラップは浅薄だ」という日本国内の批判への目配りであるという点は盲点だったが非常に納得がいった。この頃Qアノンにご執心のKダブのことを思うとタイムリーでもある。アメリカがコンプレックスで、そのオブセッションを治癒する方法をナショナリズムに見出して行った、という流れは、HIP HOP内外に限らず起こっている話でもありそう。

 ポリティカル・ラップのパロディのスチャダラパー『クラッカーMCズ』(四季の移り変わりを深刻なふりして警告する)の2年後にキングギドラ『星の阻止』(シリアスに環境破壊を訴える)という流れ=「メタのあとにベタがくる」(順番が逆)と、 ラップはストーリーテリングしないといけないという前提があったが日本にはゲットーや人種問題といった"らしい"話は見つからず、いとうせいこう『東京ブロンクス』のように想像力で補ったという話、はラップが輸入物であるからこその話で面白く読んだ。

 また吉田は、(MC漢のように)政治に抑圧された若者としてその身振り・口ぶりが自然と政治性を孕むラッパーこそがポリティカルであるという話を受けて、見えていなかった様々な場所の生活がラップという形で可視化されることを岸政彦『街の人生』になぞらえて論じていたが、「エスノグラフィー的なもの」として今最初に出てくるのが岸政彦であるというのが、彼の売れっ子具合を感じさせられる。上述のような特徴はもちろん岸に限った話ではないので、ストーリーテリング的なラップのエスノグラフィックな意義を論じたものがあったら面白そう。

 相変わらずフェミニズムとヒップホップの関係にも関心がある。『文化系のためのヒップホップ入門』では、女性ラッパー4タイプとして「クイーン・マザー(肝っ玉母さん)」「フライ・ガール(おしゃれで可愛くてファッショナブル)」「レズビアン」に加えて、「シスタ・ウィズ・アティテュード(差別的意に使用されていた「ビッチ」を被差別者自身が逆手にとる)」が挙げられていたが、その例としてのリル・キムの話が今回も出てきていて面白かった。リル・キム以前の、「男性性をまとい、ビッチをdisる」という行為が、社会に進出する女性は男性的であらねばならないという抑圧を表現していたという話は、例えば日本のお笑いにおいても、先日のアメトーークにて3時のヒロインの福田麻貴がラランドのサーヤを「褒める」際に「男の笑いをしている」という表現を用いていたことにオーバーラップする。そういう意味でも日本のお笑いにおけるフェミニズムの議論は何周も遅れていると改めて感じる。
 全然関係ないが、お笑いの話をもう一つすると、本書で紹介されていたECDの「聴衆は現実や政治から逃れるためにクラブに来ているので、ポリティカルなメッセージ性のある曲をクラブのライブで歌うのが躊躇われる」という話は、先日ぶちラジ!でウエストランド井口が「皆現実から逃避するためにお笑いライブに来ているのに、世間に対する愚痴を言ってたらそりゃ人気が出ない」と言っていたのとダブった。

 あとは箇条書きで面白かった話。
・金持ち、自信家、口が悪い」というトランプは「ラップ的」
・トラップ曲が量産され、あまりにも溢れすぎたことによってそのリリックも自己模倣化して均質化していった先に、言語の記号化のような現象が起きている
・トラップはラップとトラックとの境界線が曖昧
アメリカでもスクリブル・ジャムの時代から、いいフリースタイラーほど音源がダサいというジンクスがある
・日本では英語で何を言ってるかわからないのが原体験だったからこそ、逆に過剰に内容を気にする?

21009大橋裕之『太郎は水になりたかった』(リイド社、2015)
21010 大橋裕之『太郎は水になりたかった』(リイド社、2016)

 めちゃくちゃ面白くてあっという間に読んだ。「あの頃」のスクールカーストの下から見上げる虚しさとか、しょうもない自意識とか、いまだに思い出して「アッ……」となる記憶とか、そういうものを生々しく、しかしどこかコミカルに描いている。漫画の合間に挟まれている著者のエッセイを読まずとも、「あの感じ」を学生生活に味わった人が書いた漫画なんだろうなというのがわかった。とてもよい。ところで、とても気になるところで話が終わっていたのだが、この本の第3巻は出ていないのだろうか……?(探しても見つからない)

21011 施川ユウキ『鬱ごはん 1』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2013)
21012 施川ユウキ『鬱ごはん 2』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2016)
21013 施川ユウキ『鬱ごはん 3』(ヤングチャンピオン烈コミックス、2019)

 共感とか安易にそういうことを言うつもりはないが、飯を食いながらブツブツ独りごつ様子に身を任せて文字列を追うのは単純に心地がよかった。オードリー若林のp高j低という言葉を思い出しつつ、同じような一年を繰り返し消費する鬱野の人生に思いを馳せた。「環境音と同じ周波数の声」めっちゃわかる。

21014 重田 園江『フーコーの風向き: 近代国家の系譜学』(青土社、2020)

 法的権力、規律権力あたりの議論が特に詳しく、頭のなかが整理された。かねてから気になっている、フーコーの「主体性」概念については軽く触れるのみで、充分に理解できたとは言い難いので、また別の機会に勉強したい。

 新自由主義は、社会主義福祉国家を全体の目的のために個人の自由を抑圧する体制として批判し、自らを自由の擁護者であると主張する。このため、新自由主義はあらかじめ「自然に」存在する自由を擁護しているように見える。だが、統治の観点から見ると、実際には全体の秩序や繁栄と両立しうる特定のタイプの自由に価値を与え、その価値を自ら受け入れゲームに参加する個人を作り出しているのである。たしかに彼らは、直接的・強制的な手段に訴えて個人を管理することには反対する。しかし、特定の生活や行為の様式を、個人が「自由に」洗濯するように導く枠組みを作り出す新自由主義のやり方もまた、別の型の統治のテクノロジーであり、別の道を通って自由を秩序に組み込んでゆく方法に他ならない。言い換えれば、新自由主義とは日常生活に介入し、特定のタイプの生を積極的に生み出し、作り出してゆく「生権力」の一タイプなのである。(304ページ)

3月

21015 伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫JA、2010)

 「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」書かれた小説。必要ない=ハーモニーという結論に至りはするが、それが逆説的には自由意志の確固たる存在という前提を保持したままにしている。エピローグの仕掛けは気持ちがいい。ところどころ、いかにもな典型的SFの台詞回しや物語の展開があるのが気になる。当然ながらフーコーを想起しながら読んでいたが、物語の終盤でそのまま引用が出てきて、直接的過ぎる気がして少し冷めた。

21016 リービ英雄星条旗の聞こえない部屋』(講談社学芸文庫、2004)

 連作3篇であるが、表題作が最も印象に残った。「ヤンキーゴーホーム」と言われてもその「ホーム」すら存在しないベン・アイザック。一文一文の切実さに目眩がする。本作品の舞台は1960年代末であるが、今でもなお過去の話としては読めない作品だと思う。

21017 東浩紀存在論的、郵便論的』(1998、新潮社)

 「思考不可能なもの」を単数的に捉える否定神学システムと、非世界的存在を複数的に捉える郵便=誤配システム。

21018 『新潮 2020年 12月号』

 舞城王太郎『檄』が非常に素晴らしかった。前半の家族/兄弟の話から一転、三島由紀夫を登場させる唐突さは今回の舞城においては成功しているように思えた。最高密度にポリティカルな三島の「檄」を、極端なまでに内面の葛藤に回収させたのは賛否分かれるところかもしれないが、個人的には舞城なりの主題をもって三島へのオマージュを果たしたということで、非常に良かったと思う。オチはやや勧善懲悪的過ぎる大立ち回りという感じだが、環ちゃんという結節点を通じて少なくとも父と母との関係性において救いがみられたのはよかった。
 話は前半部に戻るが、それにしても舞城は、兄との距離感や、家族と話してる時の埒があかない感じとか、今まさに向き合って話してるつもりなのに家族はこれまでの蓄積としか自分を見てくれないことへの苛立ちとか、ほんとうに書くのが上手い。舞城って兄弟とかいるんだろうか、もしいないとしたらあの感じを生々しく書けるのは凄い。でも奈津川サーガも含めて考えると、やっぱり実際にいそうな気がする。

21019 小川糸『たそがれビール』(幻冬舎文庫、2015)

21020 國分功一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社、2020)

 対談本だからある程度は仕方がないのかもしれないが、本人たちが書内で語っているほどには『中動態の世界』から議論が進展しているようには思えなかった。特に「責任」概念が気になっているが、以前から各媒体で語っていることにそれほど大差なく、当事者運動の知見を味付け程度に足したくらい。各授業終わりに質問をしていた糖尿病内科医(もしかしてあの批評家?)が、(ある程度知識や考えを共有している)ふたりとは異なる角度で非常に切れ味が良かったので、医療者でありかつ違う背景を持つこの人が議論に参加していればな、とも思った。 
 國分の言う「自分が応答すべきである何かに出会ったとき、人は責任感を感じ、応答する」という責任は、確かに格好いいのだけれど、「一人ひとりの生命は有限だけど、悠久の大義のために死ねば、永遠に生きることができる」ということを言った田辺元とか、(國分が何度もハイデガーを参照しているが)ハイデガーナチスの関連とか、どうしてもそういう全体主義的なものとの関連を頭に浮かべてしまう危うさを感じる。というのが本書を読んだ発見。

21021 浅田彰『構造と力』(勁草書房、1983)

 コード化=原始共同体から、重畳したコードを超越的な頂点によって包摂・規制する超コード化(古代専制国家)、異づけられた質的な位置の体型として整序されていた社会が、バラバラに解体され同質化されて量的な流れの運動の中に投じられる脱コード化(近代資本制)。

21022 阪大哲学研究会 希哲会『希哲 第四号 「しらふ」』

4月

21023 石井美保『環世界の人類学』(京都大学学術出版会、2017)

 存在論的人類学の流れを受けて、さらに一つその先の話をしているという印象。

 それ[神霊]は人々の生活世界であるジョーガの領域につながりつつ、人間にとっては不可知のマーヤの領域を満たす力であり、それらのあいだにおいて刹那的にのみ現勢化される=「いまだ—ない」と「すでに—ない」のあいだに束の間顕在化する偶有的な様態である(465ページ)。

 

21024 『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン 番組オフィシャルブック』(総合法令出版、2021)

 私のラジオの原体験が、時を超えてこのようなファンブックが出るとは、感無量です。

21025 矢野晴美『絶対わかる抗菌薬はじめの一歩』(羊土社、2010)

 抗菌薬のとっかかりの勉強として読みました。

21026 『N:ナラティヴとケア 第12号──メディカル・ヒューマニティとナラティブ・メディスン』(遠見書房、2021)

 ある種の説教臭さ・教条主義的な側面と、学問としての側面と、そして実践されるものとしての側面と、ナラティヴ・メディスンがそのあいだを今なお揺らぎ続けるありさまを、ここに集められた11の論考がそれぞれに体現しているような印象を受けて面白かった。宮本の論考で指摘されていた医学教育における人文学の「上滑り」には大いに共感するところがあったのでおもしろく読んだ。医学概論がメディカル・ヒューマニティの文脈にこう配置されるのかという興味深さもある。
 金城の論考は、「共同著作」をキーワードに、ナラティヴと医療の関係性(敢えてナラティヴ・メディスンとは書かないが)についてよくまとめられていて、今後も参照することがあるだろう。個人的には、実際の医療現場における医師の"Shared decision making"の受容のされ方と比較しながらの視点があればより面白いと思った。医療現場でかなりふつうに聞く言葉であるにも関わらず、その解釈は個々人の実践に大きく委ねられている概念であると個人的には感じている。

21027 大曲貴夫『感染症診療のロジック』(南山堂、2010)

 前半は抗菌薬治療の基本的な考え方、後半は救急外来のセッティングで「感染症っぽい」人が来たときの思考経路、と前後半でふたつのテーマがある本だったが、本書を通じてエビデンスに基づいたロジカルな臨床推論のいろはを教えたいという筆者のスタンスが通底していて、読みやすいし勉強になった。

5月

21028 伊藤亜紗『どもる体』(医学書院、2018)

 まずは単純に、連発・難発・言い換えなど、吃音をもつ方がどのようなことを経験しているのかを詳細に知ることができてよかった。議論としては、レヴィナスの、能動と受動が混じり合う状態のなかでの「自己から匿名状態への移行」を引用していたあたりが面白かった。 素の状態で喋るというのは自分の喋りをゼロから自分で構築することだが、「リズム」や「演技」では、自分の運動の主導権が自分でないものに一部明け渡されている。つまり自分の運動を構築するという仕事を、部分的に「パターン」にアウトソーシングしているのだと。それに関連して言い換えを警戒する派と、言い換えを肯定する派にわかれ、「わたし」というアイデンティティをいかように捉えるか、という話に発展していくのは、非常に普遍的な部分につながっていておもしろく読めた。
 ゴフマンの引用も適切であると感じた。ゴフマン的な意味での「演技」は、(完全にではないにしても)本人の意図によって行われる人格の制御であるが、吃音当事者が行う「演技」の場合には、社会的な印象が、運動上の工夫の副産物として生じることになり、自分では制御できないところで自分の印象が形づくられる。これも吃音というテーマで話しているが、私も自分の「演技」をすべて統御できている感覚はなく、その場その場で何が最適かという試行を繰り返して否応なく「その場における私」という「演技」ができあがっていく感覚があって、それを事後的に否定的に評価したり、あるいはそれも自分だと肯定したり、そういう引き裂かれのなかに自分があるなと思って、そういう意味で私は吃音的に生きているのかもしれないという感想を抱いた。

21029 松原知康・吉野俊平『動きながら考える!内科救急診療のロジック』 (南山堂、2016)

 ERにおけるプロブレムのlist up、prioritization("ENTer"と"3C"に基づく優先順位づけ)、grouping(鑑別疾患の統合と分類)の流れを具体的な症例に基づいてイメージしやすく解説する本。網羅的に「この症候ではこれ」に詳しくなれるわけではなくて、あくまでそのERでの思考の過程を可視化することが目的なので、前者を目的として救急の本を探している人は注意。あとは苦手になりがちな系統だった血ガスの読み方の解説がよかった。

21030 岡本裕一郎『フランス現代思想史』(中公新書、2015)

 レヴィ=ストロースラカン、バルト、アルチュセールフーコードゥルーズ=ガタリデリダに至るまでのフランス現代思想の流れを、この薄さで正確さを犠牲にすることなく記述した本。ある程度の事前知識を前提として、一般に混同されやすいポイントを強調して書いてくれるのが大変ありがたい。個人的な感想としては、デリダがやはり難解でいまだ咀嚼しきれていない。

21031 『レジデントノート 2018年8月 Vol.20 No.7 エコーを聴診器のように使おう! POCUS〜ここまでできれば大丈夫! ベッドサイドのエコー検査』(羊土社、2018)

Point-of-Care Ultrasound [POCUS]のなかでも、FOCUS(focused cardiac ultrasound)、肺エコー、腹部エコーあたりが詳しくて勉強になった。ただ全体としてみたときに、初期研修医が救外で即戦力的に必要されるエコーについて必要十分な内容かというと、詳し過ぎたり足りなかったりするので、エコーを勉強する一冊目の本ではなかったかなと思った。

21032 北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房、2019)

 目の覚めるようなピンクの見返しが素敵な本。フェミニスト批評入門であり、フェミニズム入門でもあるこの本は、映画や文学の間に浸透している男性中心主義的・女性差別的な価値観を鋭く切り出す。(陰謀論、男性性への渇望、既存の体制や社会秩序に対する疑い、暴力の美化、強くてカリスマ的なリーダーであるタイラー・ダーデンなど)オルタナ右翼の白人男性が支持する『ファイト・クラブ』を、女を排除し、暴力を男らしいものとして美化する傾向が実は幸せをもたらさないということを皮肉る作品として読み替える論考がおもしろかった。

21033 増井伸高『骨折ハンター レントゲン×非整形外科医』(中外医学社、2019)

 救急外来でとにかくよく骨折・外傷が来るので読んだ。「非整形外科医が骨折について知っておくべきこと」というコンセプトで大変読みやすいし実践的である。骨折の分類を分類のためでなく、骨折線のイメージのために使おう、というのは目から鱗だった。巻末に整復や固定のやり方も書いてあるのが有難い。

21034 石井遊佳『象牛』(新潮社、2020)

 この小説を例えば親子の相剋、あるいはひとりの女性の恋路の物語として読むことはできるが、そういう要素還元的な解釈を拒む存在として物語に位置するのが象牛である。ニヤニヤしながらわれわれを弄ぶ象牛はたしかに人生の何事かを暗喩しているように思えるが、しかしそれを抽象的な何かに解釈しようとした瞬間に、そこにあったはずの非現実的なリアリティは消え去っていく。象牛(とリンガ茸)を媒介しなければ思考できない世界がある。めくるめく主人公の回想とヴァーラーナシーの場面が絡み合うなかに、わたしの世界も否応なく撹拌されていく。

21035 山﨑道夫『レジデントのための腹部画像教室』(日本医事新報社、2017)

 網羅的ではあるが、タイトルに「レジデントのための」とあるようにレジデントにとって必要十分な内容量かというと微妙だなと思った。総論部分は勉強になったが、特に各論部分は詳しくはあるが救急対応における画像の見方を助けてくれるような内容ではなかった。画像は豊富なので、疾患別の実際のCT所見のイメージを一度つけるのにはよいかもしれない。

21036 飯田淳子・錦織宏 編 『医師・医学生のための人類学・社会学』(ナカニシヤ出版、2021)

 こちらに感想を書きました。 

satzdachs.hatenablog.com

21037 佐藤健太『「型」が身につくカルテの書き方』(医学書院、2015)

 カルテを書くくらいさすがにできると思っていたが、読んでみると自分がどれだけできていないかを思い知らされる良書。さっそく明日からカルテを改善してみようと思う。

21038 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどうみているのか』(光文社新書、2015)

 目の見えない人には「視点がない」話が印象に残った。それゆえに自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができる。

21039 讃岐美智義『やさしくわかる! 麻酔科研修』(秀潤社、2015)

 麻酔科のローテが始まるということで読んだ。読み比べをしていないのでわからないが、基本的な知っておくべき事項を平易に書いた良い入門書であると思う。しばしばある権威主義的な部分に食傷気味になるのと、文章が読みにくいところがあるが、これは好みの範疇だと思う。

21040 島村一平『ヒップホップ・モンゴリア 韻がつむぐ人類学』(青土社、2021)

  めちゃくちゃ面白かった! そもそも目に触れる機会すらなかったモンゴルのヒップホップ事情について、その歴史から一冊で詳しくなれる。「モンゴルには文化がない」というコンプレックスから、「発展」=「西洋化」への欲望と、外来の文化を飼い慣らしたい=「モンゴル化」の駆け引きのさなかにある状況を、ヒップホップシーンが象徴的に表している。シャーマニズムの身体技法としての「韻」を、ヒップホップのミュージシャンが「フリースタイル」と呼ぶ即興で韻を踏みながら歌詞を生み出していく手法と重ねて論じる部分も面白かった。
 ポスト社会主義におけるモードの「記号的意味のタイムラグ」の話も面白い。90年代-ゼロ年代初頭のモンゴルにおいて、西側の文化や商品が急激に押し寄せるなかで、ヒップホップ系のファッションスタイルに記号的意味は「自由と豊かさの象徴」=「欧米の高い文化/高価な商品」=「ハイカルチャー」。その結果、サブカルチャーが輸入されても、欧米で持つ記号的意味(黒人にとっての「抵抗のスタイル」)が理解されるまで時間差があったのだという。

遊牧から都市定住化へ。文明レベルの大転換によって引き起こされる軋み。ゲル地区派と都会派のラッパーたちは、お互いがかつての/これからの自分の自画像であるということを薄々知っていながら、対立をする。(393ページ)

 Mrs Mの"Bang"が、リリックはもちろん、トラックとラップの技術も含めていちばんのお気に入り。Zoomgalsが台頭する今の日本でも流行りそうなフェミニズム・ヒップホップ。

youtu.be

21041 田中竜馬『Dr.竜馬の病態で考える人工呼吸管理』(羊土社、2014) 

 麻酔科のローテ中に、人工呼吸器を扱ってるけど何も仕組みわかってない!となって読んだ。説明が呼吸生理・病態に則していて、なおかつ平易な文体で読みやすい。「要はこういうこと」の言い換えがたくさんあるのが個人的にはとても好み。後半のケーススタディは、病棟管理で実際に使用する場合に改めて読もうと思った。

21042 伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ、2020)

 序章の、「『まなざしの倫理』は、身体接触=介助を必要としない、健常者の身体を基準にした倫理」(33ページ)というセンテンスが目から鱗だった。「部分の積み重ね」であり「時間がかかる感覚」である触覚について、双方向的で、生成的な(あらかじめ用意された意図のとおりにはコミュニケーションは進まない)やりとりという観点から分析する。
 看護師が体を「さわった」ときに患者に蹴られ、その患者が「暴力的」として扱われた出来事をとりあげて、「自分の体に突然さわる看護師のほうがよっぽど暴力的」としていたくだりは、この本においてはたしかに正論なのだが、「さわる/ふれる」ことの多い看護師の仕事と、そのとき蹴られた当人の気持ちを考えると、(医療者側として)そこまで割り切って「よっぽど暴力的」と批判することはできないなと思う。 

21043 讃岐美智義『麻酔科研修チェックノート 改訂第6版(羊土社、2018)

 麻酔科ローテ中の暇な時間にちまちまと読んでいた本。タイトル通り、研修するうえで必要な知識はすべて揃っていると思う。ポケットサイズで持ち運びもしやすい。