2022年1月〜6月に読んだ本

1月

2201 窪田忠夫『ブラッシュアップ急性腹症 第2版』(中外医学社、2018)

 救急外来で出会う急性腹症に苦手意識を抱いている人に最良の本であると思った。通読を前提としており、著者の臨床経験をもとに「要はこういうこと」という書き方であるため、講義を実際に聞いているかのようなわかりやすさがある。

2202 S.H.McDnielほか『家族志向のプライマリ・ケア』(丸善出版、2012)

 家庭医にならないにしても、家庭医療学的な知見のなかでも家族志向型ケアは重要になり得ると考えていたため読んだ。臨床現場で断片的に聞いていたことが理論的に整理されてよかった。ごくごく素朴な感覚として、人付き合いがめちゃくちゃ苦手だという意識があるというのと、家族の混沌とした関係は自分のそれだけで十分だというのがあって、家庭医は自分には無理だと改めて思う。

2203 増井信高『結局現場でどうする? Dr.増井の神経救急セミナー』(日本医事新報社、2020)

 めまい、頭部外傷、そして脳卒中について、ERで出会う神経救急の気になる点をすべて網羅していると言っても過言ではない。文章は端的でわかりやすく、「非専門医に知っておいて欲しいこと」というスタンスが徹底されていると思う。とりあえずこれに従っておけば間違いないと思えるだけ説得力と確かなエビデンス

2204 小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021)

 「ケアの倫理」について、ジェンダーセクシュアリティのテーマに関連づけながら、文学批評の立場から論じている。この文脈でネガティヴ・ケイパビリティが出てくることがやや意外である。アガンベンの「開かれ」やアーレントの「勇気」など、言葉だけ出して深く概念を説明しない部分がいくつか散見されるのが気になった。

2205 聖路加国際病院内科チーフレジデント 編『内科レジデントの鉄則 第3版』(医学書院、2018)

 1年目が終わりに向かっている今読むと、断片的な勉強の間を埋めるようなことがまとめて書いてあったり、これまでの復習になるようなことが書いてあったりして、有益なことが多かった。もちろんまだまだ自分は足りない。ただ網羅的過ぎて読んでいてしんどいところは多いし、ここは本書でなくてもっとそれ用のテキストで勉強したい、という部分も少なからずあった。バイブル的な位置付けになっているが、個人的にはこれ一冊というよりは、知りたい範囲に応じた適切な詳しさの本のほうがよいのではないか。

2206 吉田敬『社会科学の哲学入門』(勁草書房、2021)

 社会科学の科学哲学の入門書。方法論的個人主義・方法論的集合主義の学説史が簡単にまとめてくれている第1章、ありがたい。著者は制度論的個人主義の立場であるようだが、この立場がどのくらいの批判があって、どのくらいの支持を得ているのか別の意見を聞いてみたいところ。第3章で紹介されていた、セイラーによる、合理的経済人に基づく経済学=規範的理論、行動経済学=現実の人間の経済行動に関する記述的理論、という整理は議論の出発点としてクリアでしれてよかったと思う。第4章は文化人類学徒にはお馴染みの文化相対主義批判。
 第5章のスタンドポイント理論や、第6章の多重実現可能性テーゼは初めて学ぶ概念だったので勉強になった。 ソーヤやキンケイドを踏まえて非還元主義的な社会科学のあり方を目指すというのはとても真っ当な方向に思えて、納得して本書を読み終えた。
 個人的に科学哲学の本はやっぱり苦手だなと再認識した。なんかどこまで行っても空を掴む感じがするし、そもそも好奇心がくすぐられない。できればもうこういうのは読みたくない……

2207 平島修ほか 編『身体診察 免許皆伝: 目的別フィジカルの取り方 伝授します』(ジェネラリストBOOKS、2017)

 執筆している著者および想定されている読者がおそらく総合診療界隈で、自分にとって詳し過ぎる(ここまではやらない)という部分も少なからずあった(タイトルが『免許皆伝』となっている所以かもしれないが)。ただ写真も豊富でわかりやすく、そこをみれば良いのかと目から鱗のところもあったので、「救急外来でみるうえで身体所見を診断に使いたい」など目的を決めたうえで本書にあたるとよいと思った。

2208 杉本恭子『京大的文化事典 自由とカオスの生態系(フィルムアート社、2020) 

 理由なき思い込みで大変申し訳ないのだが、本書をずっと「キッチュサブカルな京大文化」として上手に商品化したものだと思っていた。しかしそれは著者があとがきで書いているように全く異なり、コタツ折田先生像の馬鹿馬鹿しさ、西部講堂の文化的拠点としての役割に触れつつも、現在のタテカン問題や副学長情報公開連絡会の一方的な中止、吉田寮第二次在寮期限問題に明確に触れていて、2020年現在の「京大的文化」にたちこめる暗雲まで率直に描き切った素晴らしい本だった。
 昨年(2020年度)に大学を卒業するにあたって「今の京大は、知っている姿とは全く変わってしまった」と強く思ったことを今でも覚えいてる。大学を離れた今、そういう感情を改めて惹起させられた。ただここには複雑な感情があって、じゃあ自分がそういう「京大的」なものに低学年から触れられていたかと言うとそんなことはなくて、内向的・閉鎖的な私はそれをいつも横目にキャンパスに歩くのみだった(これは後述する森見登美彦のインタビューに重なることがあり、いたく共感した)。それは自分が医学部であったということは全く無関係ではなくて、この本の京大マップに(地理的には吉田南のすぐ隣であるのにも関わらず)医学部キャンパスが描かれていないのは、そういうことだろう。なので常に「京大的なもの」への私の眼差しは、郷愁半分・憧憬半分の、どうにもならないものである。そして今こうやって書くことで、この本を読んで「これが京大だよなあ」と「当事者」でもないくせに勝手に「思い出」として消費することを自分に許さないようにもしている、のかもしれない。
 最後の森見登美彦のインタビューが、いろいろ活躍する人たちを横目に四畳半にこもりきりの学生生活を送ったという彼の複雑な感情がざっくばらんに語られていて、「京大的文化」へ深い思い入れのある著者の目線からちょっと離れて、俯瞰的に、しかしより残酷に現実が前景化する構造になっているのが、意図した構造ではないだろうが見事だと思った。「阿呆は『阿呆っていいね』と言ったとたん腐る」「なくなりかけているから保存しようとするんですよね」とか、ちょっとした言葉が鋭利で刺さりまくった。

2209 弘世貴久 編『レジデントノート増刊 Vol.22 No.5 改訂版 糖尿病薬・インスリン治療 基本と使い分けUpdate』(羊土社、2020)

 非専門医に必要なレベルからやや踏み込んだところまで、辞書的ではなく理屈に基づいて平易な言葉で説明されていて、初期研修医にとっての糖尿病治療の教科書の決定版であると思った。『糖尿病ハンドブック』のほうが専門的で詳しいのだろうが、あっちを先に読もうとすると訳がわからなくなるので、まずはこちらを身につけることをお勧めする。

2210 福島真人ほか編『科学技術社会学(STS)(新曜社、2021)

 自分自身の関心領域がどこかを探りながら読んだ。STSがいろいろチラつきながらこれまで読書してきたが、STSをメインテーマにした本を読むのはなかなかなかったように思うので、概念整理に役立った。

2211 小黒草太『CT読影レポート、この画像どう書く?〜解剖・所見の基礎知識と、よくみる疾患のレポート記載例』(羊土社、2019)

 目から鱗という感じではないが、この所見どう書いたらいいんだろう、というときに言語を与えてくれるような一冊。当然のことながら画像も豊富なので、実臨床でみたことのない写真も勉強できる。特に頭部と肺が詳しいか。

2月

2212 西崎憲『世界の果ての庭』(創元SF文庫、2013)

 5つの世界が微妙にモチーフを共有しながら、最終的にはそっとそれぞれに話を閉じていく。最初読み始めたときに、これらが伏線回収的にひとつの話に収束するなんてことがあれば興醒めだなと思っていたから、そうではなくてホッとした。全体を貫くのは「影」のような、不在であるがそれゆえに存在の際立つイメージで、そういったものへの恐怖・畏怖の念が書かれている。しかしこの小説のメインパートといえる女流作家の終盤では、不可知性は「謎」としてポジティブなイメージに転化されていて、理由はわからぬが人生を肯定するに至っている

2213 古川力丸 編『レジデントノート 血液ガスを各科でフレンドリーに使いこなす!』(2018、羊土社)

 血液ガスの読み方について、1人の著者が統一された方法をもとに記述したものを読むほうがよいと思った。この本ではすべてが消化不良のままで章が終わっていく。

2214 ブッツァーティタタール人の砂漠』(岩波文庫、2013)

 ここ最近で読んだ小説のなかでも頭抜けてよかった。端的に言えば、陰鬱で閉鎖的な空間で単調な日々を過ごしながら、「タタール人の襲来」=自分の人生を特別なものにする価値ある出来事を期待しつつ、果たしてそれがやってこない、という物語なのだが、ドローゴの人生に多くの人が自らを重ねずにはいられないだろう。望洋と広がる砂漠、寂寥とした砦、無意味に厳しい規則を守り続ける歩哨たちの描写があまりに見事であり、その徹底したディテールから普遍的な主題を描き切ることに成功している。解説でも「アイロニーを通り越して悲痛」と書いていたように、このラストはあまりに残酷でつらかった。
 おそらくすべてがこうなのだ、われわれのまわりにはわれわれと同じような人間がいると思い込んでいる、ところがまわりにあるのは理解できない言葉を語る氷や石ころばかりなのだ、友達に会釈しようとして、手を上げるが、その手は力なく垂れ下がり、微笑みは消える、なぜならわれわれはまったくの孤独であることに気づくからなのだ。(116ページ)

2215 佐藤雅昭 編『レジデントノート 学会発表にトライ!』(2019、羊土社)

 パワポのtipsなど、細かいところで読んでいて勉強になる部分がありよかった。

2216 三島由紀夫仮面の告白』(新潮文庫、2003)

 本書の意義や特異なところは語られ尽くされれているだろうから今から付け足すことはないが、初めてちゃんと三島由紀夫の文体に触れて圧倒された。𝓮𝓻𝓮𝓬𝓽𝓲𝓸 𝓹𝓮𝓷𝓲𝓼が出てきた。

2217 増井伸高『心電図ハンター 心電図×非循環器医 1胸痛/虚血編』(中外医学社、2016)

 虚血性心疾患の心電図について、細かい理屈は置いておいてERで絶対に必要な視点だけに注目した本、砕けた口調なので読みやすい。初学者用というよりは、いろいろ理論を勉強したうえで結局どれをどうみればいいんだっけ、という構造になっているため、初期研修1年目が終わろうとしているこのタイミングがベストだった気がする。サクサク読める。

2218 文學界(2022年1月号) (特集「 笑ってはいけない?」)

 今後の参考になるおもしろい論考は、西村紗知『お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について』と矢野利裕『近代社会でウケること——包摂と逸脱のあいだ』だった。

2219 増井伸高『心電図ハンター 心電図×非循環器医 2失神・動悸/不整脈編』(中外医学社、2018)

 もちろんニーズの違いではあるが、1冊目よりもこちらのほうがオススメ。なんだかんだ虚血性心疾患の心電図はほうぼうで学んできていると思うので、失神・動悸/不整脈について救急外来で求められる読みのレベル、および初期対応が綺麗にまとまっている本書はありがたいのではないか。前作から引き続きCriteriaちょっと多いなというのと、あくまで「心電図からみた失神の鑑別」なので「失神」全体のマネジメントとしては別の学習が必要だと思われるのが留意点。

2220 近藤祉秋ほか 編『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』(青土社、2021)

 序章は短いがマルチスピーシーズのこれまでとこれからが簡潔に説明されていてよい。アナ・チンの『マツタケ』の占める重要性を改めて認識した。第5章「破壊された森とヤマアラシの生」は、ヤマアラシの胃石が消費者の手元に届くまでを描いた、マツタケを彷彿とさせるような作品。グローバルに流通する大きな言説の影にある可視化されづらい結びつきから、人新世の黙示録的な物語をずらし、「控えめな生物-文化的希望」を示す、「ちょうどいいサイズの物語」である(47ページ)。

3月

2221 藤田 雅史『レジデントのための心エコー教室』(日本医事新報社、2021)

 心エコーの詳しい測定方法やレポートの読み方のガイドとなる本が欲しくて買った。その目的は充分に果たしていると思う。何より付属のサイトに動画が豊富なのが実践的でありがたい。「救急外来における心エコー」は、必須のスキルも現実的にここまでやるかというところもどちらも入っているので、自分で線引きしながら読む必要がある。

2222 山田 孝子『アイヌの世界観「ことば」から読む自然と宇宙」(講談社学術文庫、2019)

 せっかく北海道にいるのでアイヌの勉強をしている。

2223 杉山 裕章『熱血講義! 心電図:匠が教える実践的判読法』(医学書院、2019)

 めちゃくちゃ良かった。網羅的に書くことを目指していないが、それゆえに著者の重視したいところが伝わってきてた。膝を打つような箇所もいくつもあった。実際の対処という部分は弱めだが、理屈に沿って心電図を読む力をつけたい中級者向けの本として最良なのではないか。

2224 ハン ガンギリシャ語の時間(晶文社、2017)

 単純につながりの可能性を示すわけではなくて、つながりの不可能性(視力や、発語や、地理的距離や、国籍や、親権)を徹底的に描いた最後、その果てに残っていたわずかな希望を掬いとるような作品。半ば露悪的とも思えるが、著者にとってはそうまでしないと描けないものがあったのだろう。全体を通す一本の筋になっているのは、最早言語としては意思疎通の役割を担っていない(が、それを学習するカルチャースクールが細々と存在している)古代ギリシャ語、そして通奏低音として静かに響いているのは、ボルヘスの「我々の間に剣があったね」である。

2225 岸田直樹『誰も教えてくれなかった「風邪」の診かた 感染症診療12の戦略 第2版』(医学書院、2019)

 「鼻汁・咽頭痛・咳の3症状が急性に同時期に同程度」出るのがいわゆる「風邪」であり、その紛らわしい疾患をどう見分けるかという前半部分はタメになった。後半部分は^の先生が書いた本特有の発散の仕方というか、別にこの本でなくても学べる抗菌薬の使い方が書いてたり、本人は大事だと思っているんだろうけどこのタイトルに惹かれて買った読者に必ずしも刺さらないだろうなという内容が書かれていたりした。ただ個人的には、誤嚥性肺炎はセフトリでいいとか、蜂窩織炎とかde-escalationしにくいのは特にnarrowで始めるべきとか、勝手に自分が考えてたことが書いてあって嬉しい。

2226 横道誠『みんな水の中。』(医学書院、2021)

 ASDADHD当事者である著者が、イメージ豊かに、自分の経験および古今東西の文学からの引用をはりめぐらして語っていく。こういう言い方が許されるならば、その書き振りはまさに「ADHD的」だった。「私という唯一無二の人間の自己解剖記録」と前置きしていながら、大胆にも「私たち」という総称を何度も使っているのは、オートエスノグラフィ的なアプローチを取りつつ、自助グループで経験した問題の外在化・普遍化、それに伴う自己治癒的な側面も実現するための敢えてのものだろうが、そのバランスはなかなかに難しいと思った。

2227 木田 圭亮編『レジデントノート増刊 Vol.23 No.11 心不全診療パーフェクト』(羊土社、2021)

 心不全とはそもそも何なのか、クリニカルシナリオはそれぞれどんな病態を表しているか、という定義から入っているところが凄く良かった。2021年9月現在の心不全診療について、研修医・非循環器医に求められるレベルのことはすべて網羅されているのではないか。

2228 大江健三郎万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫、1988)

 「凄じい眺めじゃないか。みんな楽しんでいる様子もないのに、なぜあれほど夢中なのかね?」 「なにごとにつけても夢中でそれをやるほかには、行動法を持たない人たちなのよ。私と桃子は、この真面目なフットボールの練習が気にいってるわ。これから毎日、見に来るつ もりよ」と妻は僕の辞易する気分に同調することを拒んでいった。(199ページ)

4月

2229 森田達也『緩和治療薬の考え方,使い方 ver.3』(中外医学社、2021)

 緩和治療薬の総論について知りたいと思い購入したのだが、どちらかというと、すでに臨床で実践している人に対して具体的な処方とそのエビデンスが書いてあるという感じの本。初期研修医の自分にとって書かれた本ではないと感じた。とりあえずざっと目を通して、いつか使うときのためにチェックしておいた。

5月

2230 野田サトルゴールデンカムイ』(週刊ヤングジャンプ

 北海道にいるうちに読みたいと思い、数日かけて一気に最終話まで読み切った。構成に関しては非常に素晴らしく、これだけ面白ければそりゃヒットするよなという怒涛の展開だった。特にゴールデンカムイのタイトル回収のところのカタルシスが好きだった。ギャグも基本的におもしろい。メインのテーマに据えているだけあって、アイヌ文化の詳細な書き込みや、「迫害されている少数民族」としてだけではない描き方への可能性は感じた。
 一方で、おそらく既に多く指摘されているだろうから私が改めて書くことでもないかもしれないが、マッチョイズムに満ち満ちた漫画でもある。特に象徴的なのは、チカパシの人間的成長を谷垣が「勃起」になぞらえる場面だと思う(谷垣が最も「男の誇り」的な言及が多い)が、ああいうストーリーを何の批判的精神もなくそのまま美しい成長譚として受け入れるのはやはり無理がある。あの時代にはそういう価値観だったというのはそうだろうし、それをそうではないものとして書くのもまた欺瞞であるが、ただ2020年代の今にその表象をどう取り扱うのかということについてはもっと慎重になってもいい。
 あとこの漫画において、「殺されてもいい人」「殺されてはいけない人」の書き分け(最終的に死ぬかどうかとは話が別)が周到になされていて、そこに暗黙のうちに浸透している倫理は非常に危ういと思った。カムイの怒りを買うという理屈にはなっているが動物性愛者が直ちに悪というのはあまりに粗雑な書き方(しかも嘲笑を誘うようなギャグタッチ)で、やはりアイヌ以外のマイノリティへの眼差しは、旧来の価値観からまったく自由ではない。
 そしてそれはおそらく著者自身の内面化された価値観を色濃く反映しているだろう。競馬の八百長の話におけるヤクザの親分のカップルもそうで、非常にステレオタイプな同性愛者の描き方をしている。時代が昔の話とか、戦争漫画的なものをあまり読んだことがないのだが、上記のような問題系について他の作品は今どう対処しているのだろう、と純粋に気になった。

6月

2231 中村謙介『循環とは何か? 虜になる循環の生理学』(三輪書店、2020)

 循環器に一定以上の関心のある今、学生時代はなおざりにしていた生理学を改めて学びたいと思って本書を手にとった。図が多くわかりやすい文面であるにも関わらず、扱っている内容は基礎から発展まで充実していて、かつ常に臨床に役立つように体系化されていて素晴らしかった。生理学的な知識で今後困ることがあれば、基本的にはこれを参照すればすっきり納得できると思う。

2232 中村友香『病いの会話: ネパールで糖尿病を共に生きる』(京都大学学術出版会、2022)

 これまで医療人類学の本で最初の一冊目のおすすめは何かと聞かれて困っていたが、今度からは迷いなくこれにしようと思う。ネパールでの糖尿病をめぐる(「語り」ではなく)「会話」に注目した本書は、間違いなく今年の人類学の本の中でも出色の出来である。(1年ちょっとという短い経験ながら)医師にとって驚きの話や、逆に遠く離れた地でもあるあるな話も詰まっていて、単純に(非人文系研究者、特に医療関係者にとっても)読み物として面白いものになっている。
 以下、引用しつつ断片的な感想。90ページ、ネパールの医師がどれだけ忙しくても、ランチ休憩50分あるのが面白い。101ページなどで使われている「検査優先主義」というのは、問診が到底できない状況で検査しか頼らない状況であるし、また日本であっても医療において客観的な数値が重要であることには変わりないから、ミスリーディングなワーディングなのではないかと思った。
 終始看護師の存在が薄い本でもある。

点滴に必要な針やパック、外科的な治療であればドレッシングの時に必要な包帯や消毒液なども家族が購入して準備する必要がある。(略)さらに入院患者に投薬がおこなわれ、その薬が体にどのような変化をもたらしたかの経過の観察をするのも家族の役割である。(略)問題がある場合、それを家族が察知し、医療従事者に直接伝えるのが一般的である。さらに、入院中の食事の準備や体を締麗にすることなどはすべて家族の役割だ。(130ページ)

 モルの複数に存在する動脈硬化の議論を踏襲したいのがわかるが、本稿において糖尿病に言及する際に持ってくるのは筋が違うように読めた。それより、「糖尿病は、何か明確で確固とした一つの物語として意識されたり経験されているというより、網の目のように広がる日常生活の小さな出来事や人間関係の中に時々現れるようなものであったと捉えることができる(227ページ)」のような書き方のほうが納得がいく。

トゥルシプールにおいて糖尿病の経験は一人で経験され、経験した個人が他者に対して語るものではなかった。周囲の人々の間の会話の中で、そこに病いや痛みや苦悩があるという世界が共に作られていたのである。序章述べたように、病いの会話は「病いの物語」よりも相互的である。病いは語られることによって首尾一貫したものとなり、その経験が強化されるのだとクラインマンは指摘するが[クラインマン 1996:61]、そうであるならば病いの会話は語る人物が次々と入れ替わることで他者と共に経験が形作られていく様相を示すといえるだろう。(227ページ)

 「ミグさんはヘルスポストにやってきて「どうしたのか?」と聞かれて「問題はない」「どうしたよいのか」と答え、ギャニさんとその家族はやっとのことで診察室にたどり着いたにもかかわらず、医師に尋ねられても要領の得ない答えばかり繰り返した(219ページ)」という記述は、そりゃ苛つくわという気持ちになりつつ、同じ文化のなかで育ったはずのネパール人医師が「同じ話を何度も繰り返したり」(322ページ)を不満に思うようになるのか、というのは非常に気になった。

それは何らかの目的に対する手段としての行為ではなく、また自己犠牲的な、もしくはパターナリズム的な同情や共感でもなく、病いの苦しみや不安がそこにあるという世界を、共に経験し、確認しあうような在り方である。そしてその「共にいる」ことの中で、時に必要となる手助けがわざわざ「ケア」や「治療」などといわずとも満たされていくのである[速水 2019]。それは積極的かつ目的的に人やモノや環境が協働して(もしくは協働する状況を作りあげて)「ケア」を模索・実践する[モル 2020] のとは違い、そうした関わりの中で「ケア」が起こる、といってもよいかもしれない。(359ページ)

2233 兼本浩祐精神科医はそのときどう考えるか』(医学書院、2018)

 ベテラン精神科医の著者が、診療するうえでどのような態度を心がけているか、症例をもとに詳らかにしていく。症例が短いチャンクの域を出ないものであるものの、ひとつひとつが豊かで臨床的にも面白い。当たり前だが普通に身体科をしているのとマインドセットも違えばタイムスパンも違う。著者のバックグラウンドもあるかもしれないが、精神科をやるには神経内科を通ってからのほうがいいのかと思わされる事例が多々ある。地味に、間に挿入された「意識障害を記載する精神科用語」とか「認知行動療法」とかのコラムが簡潔にまとまっていてよい。

2234 いしいしんじ『ぶらんこ乗り』(新潮文庫、2004)

 喪失の物語のはずなのだが、既に弟をうしなった状態の冒頭があり、読者はこれから来るであろう喪失のときを予期しながら読む、という形式をとることによって、結末の思いも寄らぬ爽やかさと優しさによって、希望をもらうことができる。

2235 永井良三 監修『個人授業 心臓ペースメーカー』(医学書院、2010)

 徐脈性不整脈について平易に学ぶことができる本は少ないなか、実際の心電図の問題も豊富で理屈とともに納得して読み進めることができる。ペースメーカーの適応も臨床の肌感覚でわかりやすく言い換えられていてスッキリ。

2236 マックス・ヴァン=マーネン『生きられた経験の探究』(ゆみる出版、2011)

 解釈学的現象学的な研究を実践する著者が、「書くこと」について論じている章は、自分がやってきたのはまさにこういうことだったのかと膝を打った。末尾に付けられた用語集も丁寧で勉強になる。

書くことは我々が知っていることから我々を引き離すが、書くことはまた、我々を自分が知っていることにより親密に結びつけることもする。書くことは我々が何を知っているか、そして我々が知っているものをどのように知ったのかを教えてくれる。紙面に集中しているとき、我々はテクストの中に自身が投影されているのを見る。 今やテクストは我々に対峙している。誰か他の人が読むように読んでみようとするが、このことは実際全く不可能である。なぜなら我々はそれらのことばに対して、自分の課題が意図するものを込めずにはおれないからである。しかし、テクストは我々が望んでいることと比べれば、ほんの少しのことしか言っていない。言わんとしていることを言っているようには思えない。ため息をつき、「もうちょっといいものはできないのか?」、(…)「これは廃棄しなきゃ」、「このやり方でやりなおしてみよう」と書くことは思考に外観と実質を与える。そして、そうすることで、我々はすでに違った意味で具体化(身体化)しているものを解体(脱身体化)する。しかしながら、それを書き留めてしまうことでようやく、我々は知っていたものを完全に知るのである(202ページ)。

 以下の辺りは、フィールドノートに書くことを予期して実習に出るということの実相をそのまま書いていると感じた。

 しかし、書くことは我々が単に書き物をする能力以上の実践である。書くことは我々の「見る」ための能力を経験的に論証するのだ。書くことは、我々が今何かを見ることができていることを示し、かつ同時に、それは我々の見えの限界と境界を示す。(…)実践としての私の書くことによって、私は生活世界における洞察に富んだプラクシスの準備を整える(以前には見えなかったものを今は見ることができる)(205ページ)。

2237 姫井昭男『精神科の薬がわかる本 第4版』(医学書院、2019)

 精神科の先生におすすめされて読んだ。非精神科医師だけでなく、一般の人向けにも対象を広げているだけあって、概要は掴めるが痒いところに手が届くような感じではない。ただこれから処方されているときに参照するくらいには使えると思う。

2238 吾妻ひでお失踪日記』(イースト・プレス、2005)『失踪日記2 アル中病棟』(イースト・プレス、2013)

 精神科の先生に「アルコール依存症のすべてが書いてある」と薦められて読んだ。自殺未遂があったり、閉鎖病棟での生活は時に過酷なものだったろうが、それを(本人が言っているように)リアリズムを排して書いているため何故か軽快で笑える。しかし疾患の知識やアルコール依存症の治療過程も学ぶことができる。すごい本だった。治療中の外泊する際に、酒が抜けた状態で何てことない家の周りの景色をみて「素面って不思議だ……」と呟くシーンが妙に印象的であった。本人が本当にそう思ったのだろうというのが伝わる描写だ。

2239 松本卓也『症例でわかる精神病理学』(誠信書房、2018)

 思想的な関心から精神病理学を学びたいと手に取り、その目的は十分に果たされる良書であった。しかしそれだけでなく、DSMの操作的診断ではみえてこない「これはこういう疾患」という疾患イメージを掴む、という意味でも精神病理学は「臨床的に」強力な意義を持ち得ると感じた。少しプラグマティック過ぎる捉え方かもしれないが、精神病理学は今では臨床の現場からほとんど姿を消し、神経薬理学的な見方がドミナントな今、精神病理学は「科学的」な治療の役に立たないものではない。

2240 マリリン・ストラザーン『部分的つながり』(水声社、2015)

 端的に、めちゃくちゃ難解である。フラクタル構造に注目し、この本自体も(本当になってるのかどうかは別にして)フラクタル構造にすることを目指す、というのは、1991年当時のポストモダンの香りがするような試みであるが、それ自体にどれだけ意味があるのかもよくわからない。全体としてどのような本であるのかを捉え切れてはいないが、しかし部分的にインスピレーションを受ける場所が多々ある本だった。
 ポストモダン民族誌において、「資料が豊富であるばかりか過剰でさえある」(48ページ)。そこで描かれる自己変容する旅人は、「〔死んだはずの〕主体が消費者像のうちに復活したかのよう」(89ページ)である。「より少ない切り取りではなくより多くの切り取り、 すなわち、知覚された諸々の出来事、瞬間や印象の過度の切り取りとでも言うべきものを招いている」(262ページ)という事態は、曲がりなりにもエスノグラフィーを齧っている身としては今なお身につまされる。 
 「理論的な前置きが比較のための導入に見えるか、そうでなければ比較が理論的考察に続く単なる補遺に見えてしまう」という、「釣り合い(プロポーション)をめぐる問い」も同様である(19-20ページ)。「パプアニューギニア高地南部のウォラにおける工芸品・日用品について、ポール・シリトーが書いた類まれな一覧表は、ひとつの社会全体についての標準的なモノグラフと同じ量のページに達する」(25ページ)はスケールをめぐる議論について示唆深い一文だ。スケールが変わっても複雑性は変わらない。具体的なものと抽象的なものの区分の無化。
 そこからポストプルーラルの議論に繋がる流れは、自分の中になかった回路を繋がれるようなヴィヴィッドさがあった。

無数のパースペクティヴによる相対化の効果は、すべてのものが部分的であるように見せ、類似した命題や情報のかけらの繰り返しは、すべてがつながっているように見せる。私は実験的な企てとして、モノグラフを組み立てる際に、このポスト多元主義的な認識を人工的に再現した。(34ページ)

 ダナ・ハラウェイの議論は私が勉強不足だったが、ストラザーンの読みがその後の議論を決定づけたということがわかった。「アイロニーとは、弁証法をもってしても、より大きな全体に回収されることのない矛盾であり、相いれないものをまとめる緊張である。どちらもすべては必要で真実なのだから」「フェミニストの論争を特徴づける共在性は、そこに参与するということ以外には、参与者たちのあいだに比較可能性=等質性を要求しない」(126ページ)は、HIP HOP好きとしてはサーボーグ・フェミニズムとしてのZoomgalsを換気される。

サイボーグは、異なる部分が作用するための諸原理が単一のシステムを形成しないため、身体でも機械でもない。各部分は互いに釣り合いがとれてもいないし不釣り合いでもない。内部のつながりは集積回路を構成してはいるものの、単一のユニットというわけではない。 ハラウェイのイメージもこのように作用する。それはひとまとまりのイメージではあるが、全体性のイメージではない[a whole image but not an image of a whole]。(128ページ)

 そして後半、「土地は動かずに人が旅をする西洋と、人が動かずにモノに旅をさせ、そのことによって今ここに複数の場を実現してみせるメラネシア」(訳者後書き)というイメージは非常に豊かである。まず社会があるのではなく、まず関係性がある。しかもそれを遠近法的に西洋とメラネシアの比較を行うわけではなく、ハラウェイに倣って「客観性とは、超越性ではなく、特定の具体的な身体化/具現化である」(120頁)というストラザーンは、メラネシアを西洋に準拠して眺めると同時に、西洋をメラネシアに準拠して眺め返す。
 ストラザーンにとって西洋(メラネシア)は、メラネシア(西洋)を地としてはじめて描かれうる図なのであり、両者は二であると同時に一である。

一つは少なすぎるが二つは多すぎる。(128頁)

 比喩と喚起の問題についてもメモしておく。

タイラーによると、民族誌は、書き手の反応と同じではありえない読者の反応を喚起することで作用する。書き手は異なる社会や文化を「表象」することはできないのだから、書き手と読み手が共通して把握する「対象」は存在しない。書き手が読み手に提供しているのは、むしろ社会や文化とのつながりであり、民族誌は提示可能ではないが想像可能な何かを読者に差しだしているのである。つながりは、ひとつの経験(民族誌家が読者のために喚起したもの)を読み手が実感したときに現れる。(72-73頁)

しかしながら、読み手と書き手を小部屋に囲い込むようなタイラーの民族誌の再概念化は、人類学的な営みのうち、特に比較分析のための場所を与えていないように思える。比較分析は、かつて、社会諸科学のうちで人類学がその独自性を主張する際の拠りどころだった。(…)しかし、民族誌家が事実の表象や知識の対象を提供していないというのなら、一般化も翻訳もその土台を崩されてしまうのではなかろうか。民族誌の目的が喚起だとすれば、どのように比較に従事することができるだろう。(74頁)

2241 森田達也・白土明美『死亡直前と看取りのエビデンス』(医学書院、2015)

 医師として未熟だと自覚する瞬間は多々あるが、そのうちのひとつに目の前の患者さんの予後予測が全然できない(経験が少ないせいで人が死にゆく過程がわからない)というのがあって、それを埋めたいというモチベーションで手に取った。死ぬ直前に出てくる症候などは決まりきったものはないのだということと、あとはPaPスコアはやはり一つのスタンダードなのだなということが確認できた。輸液に関しても気道分泌物増加に関しても、エビデンスのソリッドな説明に加えて患者・家族への声のかけ方まで細やかな解説がよい。

2242 宇佐見りん『くるまの娘』(河出書房、2022)

病気以降、一変し、泣き出すことが増えた母を励ますのが自分の役目だとかんこは思っていた。(11頁)

 庇護の対象としての親。しかしそういう気負いがすれ違うと本当に厳しいものがある。

いつも話は食い違い、食い違う徒労感で、最後には皆だまった。そして誰々が悪い誰々のせいだとそれぞれに別のことを記憶して、眠るまで過ごした。そしてそれぞれに怒りを、かなしみを、腹にためて泣き寝入りするせいで、腹のなかで何年も熟成してしまう。(78頁)

 最後の場面でかんこがメリーゴーランドに乗る瞬間、私とかんことか同期したような感覚を抱いた。そうだよなあ。

2243 蓑田 正祐編『レジデントノート増刊 Vol.23 No.5 ステロイド 研修医はこれだけ覚える』(羊土社、2021)

 グルココルチコイドの種類など、何となく知っていた知識を改めて確認したうえで、なぜステロイドパルスでメチルプレドニゾロンを使用するのか、というところまで生理学から理解できてよかった。副作用の時系列の整理や、HPA axisの起こる条件など有用な部分が多かった。各論はそれぞれの疾患の成書で学べばいいかなという印象。

2244 中井久夫『最終講義 分裂病私見』(みすず書房、1998)

 精神科研修先の先生に勧められて読んだが、中井久夫で一冊めに読むべきものではなかったか。しかし統合失調症の極期の「極度の恐怖は対象を持たない全体的な「恐怖そのもの」体験」の話や、回復期に初めて注目したなどの話は、断片的に面白かった。