話し足りないことがある

 2021年3月末、大きなスーツケースを引っ張りながらタクシーに乗り込み、「帯広協会病院まで」と言ったとき、運転手は「協会病院ですね」と返した。そのとき私は、ああ、彼にとっては「帯広」ということは所与の前提だからわざわざ頭につける必要がないのだと、自分の部外者性について痛感した。その日は今から思えば帯広にしては曇っていてどんよりと薄暗く、私はこの街に果たして馴染めるのだろうかと、ほんのり絶望したのをよく覚えている。
 それから2年経った今、私はこの広大な十勝平野とまっすぐに透き通る青空が愛おしくて、離れるのが心から惜しくなっている。

 この2年間、自分にひとつのルールを課していた。それは、初期研修医としての勉強の本と、それ以外の本(人文系の書籍など)を交互に読むということだった。どちらの努力も怠りたくないと最初に心に決めたことだが、私はふたつともできることは全部やったと自信を持って言うことができる。
 医師になることへの躊躇いがあったことはこれまで書いてきた通りだが、実際にやってみると(拍子抜けするほど)楽しかったというのが事実だ。もともと新しい知識を得るということ自体は嫌いではなかったが、仕事上の必要に迫られて本腰を入れるまでは、その面白さを理解するまで学生時代に至れていなかったということなのかもしれない。病棟にせよ救急外来にせよ研修医の裁量の大きい病院で自分の勉強スタイルによくあっていたし、総合診療科、循環器内科、呼吸器内科それぞれで自分の師となる医師ができて内科的基盤が形成された。最後の診療科については私の志望科となり、この4月から奈良県で(呼吸器)内科専攻医として働く予定だ。
 地方中核都市の中くらいの規模の総合病院でしかみえない景色はたくさんあり、その経験も財産である。加えて、自分の医師のベースとして家庭医療学的なスタンスを少しでも取り入れることができたのは、敢えて帯広を選んだ甲斐があったということだ。やはり家庭医療学はどんな医師にとっても重要な学問であると確信したし、これからも私は臓器別内科医でありながらも「病院家庭医」としてのマインドは失わずにいたい(そしていつか、家庭医療の真ん中に帰ってきたいという気持ちも芽生え始めている)。
 人類学についてはフィールドノートを書き続けていた。臨床実習で始めてから丸4年になるが、分量も保ったままに1週分も原稿を落とすことなく継続できたことについては、さすがに誇っていいのではないかと思っている。文字通り、私が医師になる過程のすべて詰まっているし、これからも記録に残し続ける。臨床実習の分のフィールドノートに関しては細々と論文を書いてきていて、ようやく出口がみえ始めたくらいにはなったので、近いうちに良い報告ができるように頑張りたい。
 いずれにせよ、医師になるということと人類学的な研究をするということは両立可能であったし、今は片方が他方のための手段などではなくて、どちらも自分がやりたいこととして正面から取り組むことができている。こんな幸せなことはない。

 ありきたりな表現になるが、私がこうやって充実した2年間を過ごすことができたのは、十勝・帯広という土地、病院の環境、理解ある上司、そして何より切磋琢磨する研修医の同僚がいたおかげだ。お金も時間もなかった大学生では得られなかった青春を取り戻しているようでもあった。こちらも月並みな表現だが、帯広は第二の故郷である、と心の底から私は言いたい。
 私は別れが苦手だ。直視できないし、何かずっと、まだ話し足りないことがあるのではないか、と不安になってしまう。しかしこれは仕方がない、というのも同時にわかっている。他者と関わり出会いと別れを繰り返す以上、何か話し足りないことがあるかもしれない、という幾多ものの可能性を抱えこみながら、私たちは生きていくしかないのだ。
 何も今は、住んでいる場所が離れればそれっきり連絡をとれない時代でもない。これから過ごしていく日常で、ああこれをあの人に話し足りてなかったなと思いたてば、それをそのまま伝えればよいのだ。そう自分に言い聞かせながら、新千歳空港の搭乗口前の席で、私は締めつける胸を撫でている。