平成31年4月26日 第27回 人の痛みを慮る: TとNの対話篇

対話篇①-2018年11月某日
T: 俺、これに何となくモヤっとするんよな。

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N: なんで?
T: それが上手く言語化できないからお前に喋ってんねん。何やろな……まず、美の概念を「ぶっ壊す」っていう言葉が引っかかる。
N: どういうこと?
T: 世間を煽るというか、そのために刺激的な言葉を使ってるのは分かるねんけど。まあそもそも「ぶっ壊す」みたいな言葉遣い自体が粗野で好きでないのはあるかも。「①美醜の概念を個人の価値観として理解し、他人に押し付けない ②美醜に関して悪意のある言葉を投げかけてはいけない ③美醜の概念のみによって人を判断しない ④過度な整形や健康を脅かすダイエットなど、「美しくあること」を過剰に(不健全に)求めない」ことは大事やと思うけど。
N: 意識高い系コミュニティで使われる特有の語法ってあるよね。
T: ま、その辺りのワーディングへの嫌悪感は本質じゃないから置いておいて。俺、容姿における美醜の概念が完全になくなるとは思えへんのよな。個人差はあれど、外見に関する美醜の物差しっていうのは何となく存在して、それを「ぶっ壊す」には「美」という言葉に乗っかった文脈が大き過ぎる。
N: なるほど。
T: 皆が個性があって素晴らしいという肯定自体はその通りやと思うねん。でも、それを「美しい」という言葉を使ってするのかどうかはまた別で。ちょっと綺麗事感ある。「美しい」という言葉にどういう意味をこめたいのか、という信念の対立にしかならないんちゃうかなあ。
N: うーん、「肌が白く、細くてすらっとしてぱっちり二重」という単一化された美の概念以外の選択肢が生まれるのであればそれは良いことやと思うんよな。でも、美の価値観を多様化したところで、「こうでなければならない」という価値観を押し付けるという性質自体は変わらない気がする。
T: 「美」という言葉それ自体が「良いもの」というニュアンスを含んでいて、それが同時に「悪いもの」もあることを暗示しているっていうこと?
N: そう。
T: あと、「さまざまな身体的特徴を持つ人たちをモデルに起用し」っていうのも、そもそもその行為が現状「美」とされていない人を積極的に選んでわざわざ引っ張り出してくる過程を含んでいて、それ、起用された人はどう感じるのかなあと思って。俺がもし「自信持っていいよ! すべての人は美しいから!」とか言われたら絶対にイラっとする。悪趣味とすら感じる。
N: 違和感は確かにあるけど、それが良くないこととバッサリ切り捨てられないとは思う。そこに今まで顧みられなかった美しさに光があてられるのなら良いことやしね。
T: まあそれはせやな。
N: でもたしかに、そもそも「さまざまな身体的特徴を持つ人たち」という言葉が、「さまざまな身体的特徴を持つ人たち」が「美しくない」とされている現状から自由ではないよね。
T: そんで最後に「内面の美しさを」ってくるのがまた、ただ美辞麗句を並べているだけというか……
N: 確かに、取ってつけたように内面の話が出てくるのはちょっと論点がずれてるなと思った。
T: 普通に内面の「良さ」を現す別の言葉をもってくるべきじゃないかなと思う。「美」の概念をぶっ壊したいわりに、その言葉に収束させようとし過ぎている気がする。
N: やっぱこの人たちがしたいことって、美の概念を「ぶっ壊す」ではなくて、「拡大する」ことなんやと思うんよね。換骨奪胎というか。その目的のために美というひとつの言葉に収束させてるんならある程度納得できるものであると思うけど。
T: 「拡大する」っていうのはなるほどしっくりくる。
N: でもさっきも言ったように、結局「美しくないもの」を生み出す構造からは自由ではないよね。これは自分の願望やけど、「美しいもの」の反対側に「美しくないもの」をつくらないあり方はないのかなあ、と思う。
T: なるほど……いやでも、話してるうちに「綺麗事」に聞こえたり「イラっとする」したりするそもそもの原因のひとつが分かってきたわ。
N: 何なん?
T: かなり率直に言うと、「いや、自分、可愛いやん」って思ってしまってるんやと思う。ていうかHPに載ってる人みんな美男美女に見えるんよな。「コンプレックスがある」って言われても、共感可能性が低くて。
N: ほう。
T: 俺は自分の顔にコンプレックスがあるから。自分の唇がどうしても嫌で。特に初対面の女性と話すとき、手を口に当てて隠すような仕草を無意識にやってしまうねん。
N: そうなんや……俺はあんまりコンプレックスないから、そういう感情が湧いてこなかったんかなあ。
T: でも、この立案者の人は「肌が黒い」と言われて、それがずっとコンプレックスやった(そしてこういう企画を立ち上げるまでに至った)、っていう背景がある。もちろん、「あなた可愛いからそんなくらいいいでしょ、私のコンプレックスのほうが酷いから」っていうのは、自分のエゴでしかないのは頭では分かってるけど。他人の痛みを推し量ることなんてできないし。
N: それはその通りだと思う。実際に傷ついている人がいるときに、「私のほうがしんどいから!」というのは厚顔無恥極まりない。
T: うーん。感情が先走っていた節がある。

対話篇②-2018年12月某日
T この動画のコメント欄、なんか嫌じゃない?

youtu.be

※『青春高校3年C組』という、オーディションで選ばれた素人の20代前後の子たちが「生徒」として様々な企画に挑戦するバラエティ番組が、昨年4月からテレビ東京で毎週月曜-金曜17:30-17:55に生放送されています。青春高校に出演している村西里世さんという子が、自分の引きこもりの経験をもとにつくったのがこの『引きこもりあるあるの歌』という曲です。

N どういうところが?
T: 「自分がもっとひどい環境にある引きこもりである」ことによるマウンティングの応酬やなと思って。こういう人たちって自分がマウンティングされたら絶対嫌がるはずなのに、てかそういう経験特に多いはずなのに、ところ変わればマウンティングする側になるってのが悲しい。社会の縮図だ。
N: そうかなあ。「ひきこもりで過剰に思いつめたり、自己肯定感を損なったりする必要はないんだ、もっと気楽に捉えてもいいんだ」っていうメッセージは伝わってくるんだけど、なまじそういうことを言ってる本人が可愛かったり、ダンスも上手かったりするせいで、ひきこもり当事者からすると前提が違いすぎて全然説得力を感じられないんだろうなと思うけど。
T: うーん、なるほど。
N: マウンティングとも取れるコメントは、さらに根本的に、この曲の「あるある」から、当事者であれば感じるはずの深刻な焦燥感とか苦しみが(おそらくは意図的に)「なかったこと」にされてることに対する違和感なんだと思う。「そういうスタンスでひきこもりを捉えられる余裕があるということを、普遍的な『あるある』として表現しないでほしい」みたいな怒りを感じる。
T: うーん、別になかったことにはしてないと思うけどなあ。お笑いの、自分の辛い経験とかコンプレックスを笑いに昇華して吹き飛ばせるっていう側面が俺は好きで。今回もそういうものとして観てたわ。だから、『なかったこと』にしようとしてるわけではなくて、深刻な焦燥感や苦しみが例えあったとしても、いやむしろそれがあったからこそ、お笑いとして成立しているとして捉えてるけどな。
N: 逆境を笑いに昇華するっていう視点はなかったな、たしかにそういう笑いはありそう。
T: むしろお笑いファンの間ではかなりよく聞く言説やわ。
N: えっと、「なかったことにしてる」ってのはちょっとミスリーディングな言い方やったな。俺が言いたいのは、この曲の雰囲気とかダンスとかから、そういうシリアスさが意図的に取り除かれてると感じたってことで。
T: 本人にとってシリアスだけど敢えてこういう曲を作ってると見るか、そもそも深刻さが足りないからこういう動画になったと見るかの違い?
N: まさしく。
T: 俺はお笑いのカウンターカルチャー的側面に慣れ親しんでるから「本人にとってシリアスだけど敢えてこういう曲を作ってる」って俺は解釈したんだろうと思う。
N: ただ、意図的に、メッセージ性をもってこういう曲を作っている場合でも、ネタとして作る時にとりあえずシリアスな部分を脇に置いちゃってるのは多分確かで、それ自体に違和感をもつ人がいるのは理解できる。
T: それはせやな。
N: もちろん、俺はリアルな引きこもりなんだ、お前らはフェイクだっていう単純なマウンティングは多少あるとは思うけどね。リアルな引きこもりであることに歪んだ自己の拠りどころを見出してしまう心情は、ちゃんと理解できてるかはともかく、俺は結構共感してしまうところがある。
T: この村西さんは深夜ラジオリスナーらしくて、自分も多感な時期をラジオに多大な影響を受けたから、俺は村西さん側にめちゃくちゃ感情移入してるし応援してもうてるからなあ。
N: SPECのファッションショーの企画と似た問題を感じる。
T: 確かに。SPECのファッションショーのときは「なまじそういうことを言ってる本人が可愛かったり」的なことを言ってた自分が、この話題になると逆の立場に立ってるな、俺。SPECのほうは、自分の容姿についてのコンプレクスの経験があったけど、引きこもりに関しては類似の経験がないからやろな。
N: どちらかというと、俺はその逆ってことなんやろな。
T:ただ、SPECの話をしてたときも、直感的には「いや可愛いやん」という気持ちを消せなかったけど、自分は「でも、本人にとってどれだけ辛いかどうかを他の人が推し量るのは傲慢だ」というスタンスは一応守ろうとしてたつもりで。やっぱり、こういうコメント欄で「自分のほうが辛いわ」って相手に直接言ってしまったらいけないと思ってる。
N: 発信する側に立ってる人間に当事者性を感じられるかってのは普遍的な問題やな。本人にとってどれだけ辛いかを推し量るのは傲慢だっていうのはまさしくその通りだと思う。
T: それを踏まえてこの村西さんの動画を改めて考えてみると、「あるある」というのは「自虐」とはまた違って、「みんなそうだよね」という共感を求める構造に(本人がどのくらい意図してるかはさておき)なっているから、それこそ「他人の辛さを理解できる」という傲慢さを孕んでいると言われても否定できないと思った。
N: この問題、医師患者関係において、医師が患者にどこまで当事者性をもって「人の痛みを慮る」ことができるのかって話につながりそう。
T: 『共感的理解』ってきれいな言葉で簡単に言ってしまえるものではないよなあ。
N: うーん、もちろん、それも概念としては大事やと思うけどね。

※この対話篇は、実際のLINEでのやりとりを基にしたフィクションです。