平成31年4月25日 第26回 医学生とは何か

 「××××××××××××××××××」という企画の一環で、医学部と法学生とで一緒に安楽死がテーマの勉強会をしたときのことです。その勉強会で大切にしていたことのひとつが「自分ごととして考える」で、その前提を共有したうえで議論をしようとすると、皆の意見に最初に必ず「医学生として」あるいは「法学生として」という枕詞がつくようになることに気が付きました。始めは何とも思っていなかったのですが、回を重ねるごとに、だんだん違和感を抱くようになりました。
 自分の発した意見を後から振り返って「あ、これは自分が医学生だからその意見になったのか」と気付くことはあっても、始めから「医学部生としての意見」を言おうとするその態度は不自然ではなのではないでしょうか。「自分ごと」として考えることの大切さと、「自分ごと」を意識し過ぎることによって自然な「自分」でなくなるというジレンマを意識し始めました。
 多職種連携の勉強会に参加していてもそうです。多職種連携コンピテンシー*1には「自職種を省みる」というのが含まれています。だから私は医学生としてこの場にどうやって資することができるだろうか?」といつも自らに問うのですが、いまいち分からないままいつも終わります。
 「他」を意識することで「自」の輪郭が生まれるというモチーフはこれまで何度も書いた通りです。しかし5回生になった今でも、「医学生」という輪郭は私にはうまく見えてきていません。学年が上がれば見えてくると思っていたのに、むしろ上がれば上がるほど確固たる何かがないことへの焦りを抱いています。
 本稿は、「医学生医学生たらしめるもの」を探し求める自己問答です。

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<問い1>医学知識は医学生医学生たらしめるのだろうか?
 例えば××のカリキュラムだと、今のこの時期、1回生では専門科目が何も始まっていません。2回生は解剖が始まったばかりで、3回生は基礎科目が半分以上終わったところ、4回生は臨床科目をいくつかこなしたくらいです。5回生はCBTを終えて臨床実習が始まったところ、6回生は臨床実習も終盤を迎え、国試に向けて勉強を積み上げているところでしょう。
 医師になるということを医師免許をとることだとすると、私たちが医師になるのは医師国家試験に受かるに足るだけの知識をつけたときになります。それではもし「医学知識」が医学生たらしめるとしたら、私たちはいつ「医学生」になるのでしょうか?
 さらに元も子もないことを言うと、医学知識をつけたからと言って何なのでしょうか? 【第7回 辺縁を歩くためには芯が要る】では、「医学から遠く離れた領域で研究したいからこそ、逆説的ですが、本家本元の医学の勉強を頑張らないといけない」と言いました。しかしある意味これだけでは安直な発想でしかなくて、「医学の勉強」をしさえすれば、私が求める「医師である」という足場が得られるという保証はどこにあるのでしょうか? いわんや医学生をや。最低限の担保という意味なら納得できます
が、もっと医学生医学生たらしめる「何か」があるような気がしてしまいます。

<問い2>「自分が医学生である」という自己認識が医学生医学生たらしめるのだろうか?
 これはある意味で真実だと思っています。多くの医学生が「医学生として」と言うとき、私はそれが「自分が医学生だ」という自己認識以上の意味は持たないと思っています。私がかつて勉強会で「医学生として思うことは……」と言っていたときも同様だったと思います。
 しかし一方で、「自分が医学生である」という思考が再帰的に自分の思考全体も変えるのであれば、単なる自己認識だと切り捨てることができないのも確かです。表現一般において評論が「直感」や「感性」を変えることがあるように、「このようにして自分は見よう」という考えが見方そのものに影響することはままあります。

<問い3>医学生は否定形で定義されるのだろうか?
 医学生とは、「一般人でもない、医師でもない、何か」なのでしょうか? それは間違いではないと思います。でも、間違いの無さというのは得てして当たり障りの無さと同義で、否定で定義できたからと言って得られるものは大したものではありません。
 でも、それを言い出したら、そもそも「医学生医学生たらしめるもの」を知って何になるんだ、という問いも立ちます。
 そう考えていくと、結局、無闇に「医学生医学生たらしめるもの」を内向きに問うやり方が良くなかったのではないかと思い始めました。それは【第16回 じぶんという輪郭】で引用したように、「じぶんとはなにかと問うて、じぶんが所有しているもの、他人になくて自分だけにあるものに求めても、おそらくは自分は見えてこない」のです。
 何か目的があって、その目的を達成するうえで「医学生であること」がどういう意味を持つのかを考えるべきかもしれません。それは例えば、「疫学者になりたい」「ベンチャー企業を起業したい」「医療人類学者になりたい」であって、それぞれにとっての「医学生たらしめるもの」が存在する。その意味では、【第7回 辺縁を歩くためには芯が要る】で「医学の勉強を頑張る」というのは、一つの解答としてやはり大きく間違ってはないような気もします。
 「自分そのもの」は存在せず「他者にとっての自分」が無数に存在する、という考え方にやはりとても似ています。

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 結局思考が循環してしまっているうえに明確な結論もなく、こういう自己問答は不毛に思えるかもしれません。でも、「医学生とは何か」というのは医学部に何となく来てしまった自分にとっての最重要テーマのひとつであり、人文社会科学への興味や医学教育系の活動の源流になっています。
 実は、この4月から新たな試みを始めています。「臨床実習生のエスノグラフィー(民族誌)」というテーマで、毎週、臨床実習で見たこと、聞いたこと、感じたことをフィールドノートに記していく予定です。臨床実習というのは医学生から医師になっていくイニシエーション的意味を持つという仮説をもとに、「いつ医学生は医師になるのか」あるいは「医学生とは、医師とは何か」まで問うことができればよいなと思っています。初めての医療人類学の研究にワクワクしています。忙しさのなかでどこまできちんとできるかは未知数ですが(でもとりあえず先週は5000字くらい書きました)。
 今回の自己問答を通じて、私はこれまで漠然と「医学生とは何か」を探求したいとしか思っていませんでしたが、その問いがなぜ、あるいは何のために重要なのかについて、もう少し意識的でなければならないと思いました。そうでないと、思春期のしょうもない葛藤みたいなものと大差ない問いになってしまいます。

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