2023年7月〜12月に読んだ本

 今年の秋口から息を吹き返してきて、わりと頑張って本を読んだ。

7月

2316 長谷川直樹 編『症例で学ぶ肺非結核性抗酸菌症』(医学書院、2020)

 NTMについて症例ベースに、ソリッドなエビデンスから具体的な臨床場面における選択を紹介している。めちゃくちゃおすすめ。

8月

2317 『現代思想 第51巻3号 ブルーノ・ラトゥール』(青土社、2023)

 ひとつひとつ論文が骨太で読み切るのに時間がかかった。かなりラトゥールをつかめてきた。

2318 奥野克巳 編『たぐい vol.3 ティム・インゴルドの世界』(亜紀書房、2021)

 晴天であれば晴れ晴れしく足取りも軽くなり、雨が降れば気は滅入るというように、「天候は感情の相補物であり、感情の一部になる」 (Lee and Ingold 2006:73)。

2319 滝澤始監修『呼吸器診療ANDS BOOK』(中外医学社、2019)

 すごい情報量。専攻医が欲しいくらいの情報がたくさん入っている。

2320 中井久夫『治療文化論』(岩波現代文庫、2001年)

 「[個人症候群・文化依存症候群・普遍症候群の]三つの症候群とそれにかかわる治療的アプローチと、それらを荷う人間的因子すなわち(広義の) 患者と(広義の)治療者をはじめとする関与者とこれらをすべて包含する一つの下位文化 (subculture) の存在」として「治療文化」(therapeutic subculture)を提唱するのが本書の根本的な論旨であるのだが、それ以上に著者の幅広い見識が可能にさせる微に入り細を穿つ記述が異常に読み応えがある。
 いま仕事の関係でその周辺に住む身としては、中山みきによる天理教誕生の瞬間を奈良盆地コスモロジーから読み解く記述が大変おもしろかった(中井久夫が天理出身とは知らなかった)。

 近世の大和平野は、民話、民謡、伝説、祝祭に乏しい。この地に旅した者は土産にも困り、地方独特の料理すらないことに落胆する。この場合古き神々は、浄土真宗地帯のごとく力ずくで追放されたのではなかろう。ここは、神々が見棄てた地、いわばエリオットの「荒地」である。/再生の契機こそ待たれていたのであった。もたらしたのはミキであった。ミキの作った宇宙は、実家に帰る身を憚る農家の嫁たちに向って「おまえたちの真の実家はここである、ここが万人の「実家」であり、すべての人類の御祖の生地であり、その意味で世界の中心である」と指し示した。これはほとんど挑戦的な宣言である。せめて三輪山畝傍山ならと人は思ったかもしれない。しかし、こここそ実は万人の実家の地「おやさと」でああなたは「おやさとやかた」で仮の実家であるあなたの生家よりもさらにくつろぐことができる。 なぜなら、 とミキは教える。ここは実に人類発祥の地であり、また世の終りに天から甘露が降る。そのために殿堂の中には天井の一部が天空にむかって開かれた場所があり、その場所そのものを拝むのである。ここを中心にして、「ようこそお帰り下さいました」と大書されたアーチをくぐり町に足を一歩踏み入れた途端、町が農家の嫁の帰郷の日をかたどった祝祭の仕掛けにいかに満ち満ちているかに驚く。それは実母が嫁の帰郷の日に周到に豊富に用意するものに何と近いことであろう。これらのすべてが、ミキが(宗教的)「創造の病い」をとおして、この祝祭性を喪失した地にもたらしたものである。(54-55ページ)

2321 木谷百花 編『旅するモヤモヤ相談室』(世界思想社、2023)

 「現代日本の悩み」という漠な問題意識や、「処方箋」でまとめられるところの素朴な相対主義的な危うさは、良くも悪くも「自分の知らない世界について話を聞きたい!」という好奇心に端を発したこの本ならではだと思う。それをさしおいてもこの企画を思いついてから書籍化まで実現した著者の行動力はすばらしい。

2322 小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット、2023)

 可読性の高さと専門性の高さが両立し、ナチスについての一般的に流布している俗説をソリッドなエビデンスに基づいて否定していくスタンスが素晴らしい。本書内でも言及があったが、田野大輔のTwitterをみていると本当に気分が悪くなる、世の中にはこんなにも人の話を聞かない人、本を読まずに語る人、自分の思い込みで語る人、自分の観測範囲内のことが正しいと信じて疑わない人がいるのだという……

2323 ティム・インゴルド『応答、しつづけよ。』(亜紀書房、2023)

 謝徳慶の章が自分の人生の主題とも関連していてとりわけ目を引いた。1年間部屋に篭って毎時間ごとにタイルカードを押すパフォーマンスをやることの切実さは少しわかる気がする。

 世界を描いたり、表現したりするのではなく、世界で起きていることに対して、私たちの知覚を開いて、世界に応じていくことを、インゴルドは「応答」と呼ぶ。「応答」とは、私たちが世界と切り結ぶべき関係のあり方である。インゴルドによれば、人類学は、「応答」によって、探求の技術になりうるのだ。(385ページ)

2324  Avril Danczakほか『不確実性をマッピングする』(カイ書林、2021)

 Inner consultationはここを言語化するかという爽快さがあったが、この本は(いくつか有用な概念を与えてはくれるものの)パキッとした聡明さは感じず、どこまで切れ味があるかわからない枠組みが並列されているようにみえた。「不確実性」(というテーマを据えることそのものが筋がいいのかどうかという問題もあるのだが)に対してこういう思考の枠組みを持ってくるということそのものが、「不確実性」への対峙の仕方としてあまりしっくりこなかった。

2325 日本アレルギー学会『アレルギー性気管支肺真菌症の診療の手引き』(医学書院、2019)

  必要充分な情報をざっとレビューできる。 

9月

2326 『現代思想 第49巻6号 「陰謀論」の時代』(青土社、2021)

 陰謀論について体系だった勉強をしたことがなかったので、知識の整理に大変に役立った。「陰謀論スピリチュアリティ」は医療者としてかなり身近な話であり、ヒッピー文化をはじめとして左派・リベラルと親和性が高かったスピリチュアリティが、アレックス・ジョンズやデイヴィッド・アイクなど右派と合流するという流れについては何となく今の日本でも実感があったことが書かれていておもしろかった。
 海妻径子「男性復権運動のサラ・コナーたち」の論考で書かれていた、映画マトリックスに登場する「レッド・ピル」がインセルの団体のひとつの名前にまでなっているという話は知らなかったので驚いた。

 「上記のニュー・アメリカの報告書の言葉を借りれば、「彼ら〔インセルと男性至上主義者たち〕は、社会的、経済的、そして性的に、男性は女性の(そしてフェミニストたちの)権力と欲望のなすがままになっているという「真実に」目覚めている」のである。そして、「「レッド・ピル」的な用語法は男性至上主義者のフォーラムで育ち、より広く極右や白人至上主義のグループによって採用され、反フェミニズムのような男性至上主義の立場としばしば重なるような、彼ら独自の目覚め、陰謀論的な世界観を説明するのに採用された」。

2327 山本信之 編『肺癌診療 虎の巻 WJOG 肺がんグループのプラクティス』(クリニコ出版、2020)

 肺癌診療をするうえでとりあえず必要な知識が一通り載っている。

2328 山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』(SBクリエイティブ、2019)

 世界史よりもさらに苦手意識のあった日本史をざっと復習。特にこれから奈良・京都の寺社仏閣に行く際に恥ずかしくない知識を手に入れられたと思う。

2329 倉原優『「寄り道」呼吸器診療―呼吸器科医が悩む疑問とそのエビデンス』(シーニュ、2013)

 こちらも呼吸器内科専攻医が漠然と、しかもそれぞれの施設で「そんなもんなんだろうな」と上級医の手習でやっているようなことを絶妙についてくる本。10年前の本であるためすでに古いと感じる部分も少なくないが、まだまだ有益なページも多い。

2330 檜垣立哉・山崎五郎 編著『構造と自然 哲学と人類学の交錯』(勁草書房、2022)

 第3章 里見龍樹『メラネシアからの思考』は、「これまでのメラネシア民族誌、それどころか人類学一般を規定していた西洋的な「個人/社会」の二分法を問題化し、そうした二分法を逃れる独自のメラネシア的な「人格」 (person) の概念を提示した」ものとして広く理解されている『贈与とジェンダー』について、「自分たち自身を不断に驚かせる」をキーワードにその二面性を語っていたのが論旨が明確で勉強になった。男性たちが代表する「構造」に対し、女性たちの「行為」と「実践」が前景化されていたオートナーを乗り越える形でストラザーンを提示するのはわかるが、「かつての人類学」とストラザーンの断絶を強調し過ぎるとフェミニスト人類学としての流れを見失いかねない、と読書会で指摘があったのはおもしろかった。とはいえ、「単一の自然/複数の文化」としてのレヴィ=ストロース、その乗り越えとしての「構造から実践へ」が言われてきた人類学の主要なフィールドのひとつであるメラネシアのまさにその場所で、ショウガ女の事例をもとにそれを読み替えて転覆させるストラザーンは見事である。

 ——バイエラの事例においては、父母の間の異性的関係を内包した少年の両性具有的な人格が、ショウガ女との関係において、自らを「婚姻し生殖することができる男性」として単数化する。そのように、本来複合的で関係論的な人格が、他者との双対的な関係において自らを単数的な行為主体に変換することで、はじめて社会的行為が可能となるのである(関係論的人格がそのままで行為するのではないこと、さらに言えば、関係論的人格論のみではメラネシアにおける社会的行為を記述できないことに注意されたい)。そして注目すべきことに、そのような双対的関係は、まさしくパイエラの事例がそうであるように、夫婦関係をはじめとする個別的で家内的な関係を範型とするとされる。すなわちストラザーンによれば、家内的関係においてこそ社会的行為は可能となるのである。このことは、先に見たようにかつてのメラネシア人類学やフェミニスト人類学が家内的領域に社会性や行為主体性を認めていなかったのとは対照的である。

 第6章 久保明教『構造とネットワーク』は、レヴィ=ストロースの「構造」概念とラトゥールのANTのそれぞれのまとめとして読みやすかったが、そこを並置して類似を指摘する読みにはあまりピンとこなかった。しかし「怒れる警官」の思考実験はおもしろかった。「アクターをフォローせよ」という標語ゆえに、「その結果、彼が生みだす分析語彙もまた、比喩表現や多義的な象徴表現の理解には適さないものになり、それらが特に効果を発揮する諸関係の折り重ねは捨象されやすくなる」というのは鋭い指摘だ。まさに私が呼吸器内科の語彙で話している。
 第9章 近藤和敬 『デュルケムはパンドラの箱を開けたか』は、デュルケムは、私たちの中には二つの意識が存在するとしていたと論じる。「私たち個人を特徴づける状態」と「社会全体に共通する状態」とであり、重要なのは「これら異なる意識タイプが、全体としてひとつの意識として混然一体としている」ことなのだが、デュルケム自身はその論点を明示的に意識できていたわけではないのがおもしろいところ。
 「デュルケムは「~してはならない」という命法からなる刑法の起源を宗教的タブーに見出し、宗教的タブーについて社会状態を可能にする原初的メカニズムであると論じてい」て、「刑法の起源としての宗教的タブーの侵犯は、社会状態ないし集合的なものの消失を印づける最小条件だと理解」していたが、ではなぜ「守るべきものがないところでいかにしてひとは「違反」をなすことができるのか」という問いには彼は答えることができていない(パンドラの箱を開けるに至らなかった)。

2331 日本呼吸器学会『過敏性肺炎診療指針2022』(克誠堂、2022)

 最近ガイドラインにざっと目を通すことを意識している。日々の耳学問的に学んだことがエビデンスとともに書いてあったりしておもしろい。

2332 学会合同RA関連LPDワーキンググループ『関節リウマチ関連リンパ増殖性疾患の診断と管理の手引き』(羊土社、2022)

 MTX-LPDを経験したのでこのガイドラインもざっと読んだ。リンパ腫総論のような内容も含みつつ、自然経過やMTX中止後のフォローの仕方の記述も丁寧でわかりやすい。購入して良かった。

10月

2333 呼吸器内科学会『難治性喘息診断と治療の手引き』(メディカルビュー社、2023)

 喘息における生物学的製剤の使用について、それなりに踏み込んだ記載があって理解が深まった。それが同時に病態の理解に接続している感じもある。

2334 千葉雅也『動きすぎてはいけない』(河出書房、2017)

 率直に言うとついていけなくて読み飛ばしたところも多々あるが、ざっとは目を通した。間違いなくいくつかインスピレーションを受ける部分はあって、今後のためにメモとして残しておく。

オーバードーズの回避とは、生成変化を次に展開させるために、接続過剰を控え、切断を行使することだ―非意味的に、或るいい加減で。リゾーム的な接続は、どこかで切断され、有限化されなければ、私たちは、かえって巨大なパラノイアのなかに閉じこめられる。あらゆる事物が関係しているという妄想である。
・分析=分離されうる関係束、それに対応する個体は、別のしかたでの関係束=それに対応する個体に〈組み変わり〉を起こしうる これが、生成変化の原理である。
ベルクソン主義では、実在はそもそも連続的である。だとすれば、ベルクソンの縮約論は、私の「意識の形式主義」に依存する事物の分離状態が、様々なシーケンスを部分的に形成して、本来的な連続性へと還っていく途上を意味するだろう――すなわち、世界は巨大なひとつの交響曲なのであり、今このカフェで鳴っているBGMを、バラバラの音ではなくメロディとして聴くという経験は、その他すべての事物を含めての実在の巨大なメロディへの途上のエピソードであるということだ。
・他方で、ヒューム側に寄せて考えるならば、習慣の概念にあくまでも懐疑を付きまとわせることが重要になる。 メロディは、 習慣化されているにすぎないのであり、それは、いつどのようにバラバラになってもおかしくないのである。
・機能的なまとまりと、非機能的なまとまり=集積という区別は、相対的でしかない。後者は、一見したところ非機能的なのであって、「エッフェル塔の頂点から一メートルと、浜崎あゆみの右眉と、三人の忍者の影」 にしても、それらの機能性は発明されるべきことなのである。当然視されている有機的な身体をいった ん脱機能化し、身体を別のしかたで仕切りなおす=切断し再接続することで、新しい身ぶりを発明するのである。
・こうした実践的指針は、存在論的指針でもある。イロニー的潜在性への「くそまじめ」な動きすぎは、逆超越的な彼岸の措定になりかねないために、途中で折り返して、ユーモア的個体化へと、シャープに個々の具体性へと降りていかなければならない。このこと〈個体化の要請〉と呼ぼう。これこそが、ドゥルーズ哲学それ自体のエコノミー、節約的な構造である。イロニーの節約、動きすぎないこと。

2335 日本呼吸器学会ほか『間質性肺炎合併肺癌に関するステートメント』(南江堂、2017)

 あまり症例が豊富にあるような分野でなくエビデンスが少ないためしょうがないかもしれないが、そらそうやな以上の話が出てこなかった。そんなもんであるということをわかる意味があったという言い方はできる。

2336 青松輝『4』(ナナロク社、2023)

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2337 日本呼吸器学会『α1-トリプシン欠乏症 診療の手引き2021』(ユニバース印刷、2021)

 若年のびまん性嚢胞をみたら想起する。

2338 長谷川直樹ほか編『気管支拡張症Up to Date』(南江堂、2022)

 煩雑な疾患概念をスッキリ学ぶことができる。

2339 大山海『奈良へ』(torch comics、2021)

 小山陸が作者の写し鏡だと思っていたら、そう思える登場人物が複数出てきて戸惑っていたが、町田康の解説で腑に落ちた。「作者の魂が別の人物を渡っていくことによって、人それぞれ個別的な悲しみを普遍的なものとして描くという稀有な効果」があるのだと。フィクションの世界において突如として始まる「メジャー雑誌」のファンタジーにおいても、現実世界の力関係の構図が反復される描写が何とも痛ましく、リアルである。しかしラストでハイン=小山陸=作者(大山海)に示されるのは希望だ。

2340 東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、2023)

 まず、「訂正可能性」という概念が、「この哲学者についての専門家ではないけれども敢えて大ざっばに言及している」「本当は厳密ではないことを知っているが敢えてこう書いている」というこの書籍の態度(哲学書の新しい書き方の提示)、ひいては『郵便論的、存在論的』で華々しくデビューして以降のアカデミアとの距離、という著者自身の姿勢を貫くものとしても読めることが窺えるのが興味深かった。言ってみればクソリプ対策みたいな文章が(エクスキューズとはまた違ったそれとして機能していて)おもしろい。

11月

2341 アネマリー・モル『多としての身体』(水声社、2016)(再々読)

satzdachs.hatenablog.com

 

2342 倉田宝保 編『肺がん化学療法 副作用マネジメント プロのコツ』(メジカルビュー社、2019)

 肺癌の化学療法で困ったらこれに頼る。文献も豊富でお得。

2343 倉田宝保ほか 編『肺癌薬物療法レジメン  Expert’s Choice 肺癌薬物療法レジメン』(メジカルビュー社、2022)

 いくつか発見はあったものの、肺癌薬物療法に関する臨床試験の論文にざっと目を通し終わった今となっては、そこまで有益な情報がある感じではなかった。コラムはちょこちょこ面白かった。

2344 日本呼吸器学会『NPPV非侵襲的陽圧換気療法 改訂第2版』(2015)

 実地で学んだことが書いているという印象で、さらにそれより深掘りした、痒いところに手が届くという感じではなかった。

2345 日本呼吸器学会 『炎症性疾患に対する生物学的製剤と呼吸器疾患 診療の手引き 改訂第2版』(2019)

 ガイドラインではあるが、かなり詳細な言及も多く、今後も参照にするだろうと思わされる良い本だった。正直前半は読み飛ばし気味だが、生物学的製剤のリストとしてコンパクトかつ有用。生物学的製剤の使用下における結核やNTMなど、まだ経験はないが今後困ることは確実にあるだろう症例を先取りして勉強できた。

12月

2346 古田徹也『謝罪論』(柏書房、2023)

 分析哲学的なアプローチで謝罪について考える。医師として「謝罪する」ことの難しさに感じた経験があったばかりだったので、最終章は新鮮に読んだ。ただ「日本文化」-「英米文化圏」のような大雑把な「文化」論には少し食傷気味になったのと、丁寧に議論した先の「実践のヒント」が示唆に富むものと言えるほどのものでなかったのが、残念だった。

2347 D.サドナウ『鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門』(新曜社、1993)

 ジャズ・ピアノにおける即興演奏(パフォーマンス)を身につけていく過程を、現象学的反省に基づいて記述した、エスノメソドロジー研究。本書末尾にある解説のような「サドナウは即興を続けることに執心していて、その結果として出来上がった旋律には関心がない」みたいな批判の仕方は、私が音楽という分野において浅学のためできない。だがどのように鍵盤の上で手を動かしていくのかを徹底的に内省し、それを言語化していく書き振りは、自分の研究テーマと通じることが多く、今後参照することもあるだろうと思った。

2348 山本圭『現代民主主義』(中公新書、2021)

 今日の暗澹たる政治的状況を考えると、ハーバマスの熟議民主主義はいささかoptimisticにみえ、ムフの闘技民主主義のほうが求められているように思える。この本全体が民主主義の歴史を政治的な意味合いから解説しているのは言うまではないが、「話し合って何かを決めるとはどういうことか」という問いをもって読むこともできて、自分のMDDの議論と接続できる可能性も考えていきたい。
 あるいは、連帯する/つながるとはどういうことか。「ラディカル・デモクラシーという新しい左派のプログラムが導かれる。それは、新しい社会運動―たとえば環境運動、ゲイ・レズビアンの運動など—として、社会空間のいたるところに現れた不満や要求(これは「敵対性」と呼ばれる)を節合し、新自由主義新保守主義への対抗ヘゲモニーを構築する」。ムフ的なラディカル・デモクラシーと、ハラウェイ的なサイボーグ的連帯と絡めるのも面白そう。最近で言うと東浩紀の『訂正可能性の哲学』もそういう本だ。

人民とは、何か所与の利害関係を共有するグループや、国民や民族のような強い同一性によって規定された集団ではなく、むしろヘゲモニーによる政治的実践を通じて構築された集合的アイデンティティ(「私たち」というアイデンティティ)を指している。したがって、 それは厳密に政治的プロジェクトの産物であり、そのかぎりでいかなる本質主義的な構成単位とも無縁な政治的アイデンティティである。

しかし『ポピュリズムの理性』では、新しい議論も導入されている。等価性の連鎖を拡張していくためには、等価性の鎖全体を象徴するものが必要になる。 それが「空虚なシニフィアン」である。これは、それ自体としてはいかなる具体的内容も持たない形式、特定の内容を喪失したシニフィアンのことである。たとえば正義、自由、平和といった言葉は、それが様々な場面で使用されることで、特定の意味内容を喪失している。おそらく複数の人に「正義とは何か?」「自由とは何か?」と尋ねても、それぞれ違った回答が返ってくるだろう。通常こうした言葉は、特定の意味内容をもたない記号として流通している。にもかかわらず、「正義や自由は大事である」ことに同意できるはずだ。