M-1グランプリ2023所感

 今年は腰を据えてガッツリとした分析を書く暇がないため、タイトルを「所感」としている。

 漫才を批評する際に、何となく前提とされる二項対立がある。それは「大喜利漫才-システム漫才」である。大喜利漫才というのはボケの「強さ」で勝負する漫才であり、話のストーリー上の必然性は時にないがしろにされ、「羅列的」などという批判を呼びこむことがある。またそれゆえにひとつひとつのボケが何であるかは交換可能であり、お題に対して複数の回答可能性が期待される「大喜利」になぞらえられるのである。今回で言えば敗者復活のロングコートダディがそのような評され方をしていた。
 システム漫才というのは、第一に話の流れ、構造自体が笑いのトリガーとなる漫才のことである。その性質ゆえに「バラし」(そのネタにおける仕組みが明らかになる瞬間のこと)でウケなければ、後半でとり返すのが難しいことがある。4分間の賞レース漫才という概念はM-1とともに成立したが、その歴史はシステム漫才の発達の歴史でもある。
 むろん、大喜利漫才がシステムにおける仕掛けを有することは可能であり、システム漫才においても大喜利的な要素というのは(どういうボケにするか、あるいはどういう言葉選びにするかという部分で)重要になる。そのように完全に互いに排反な枠組みではないものの、陰に陽に意識されるのが「大喜利漫才-システム漫才」の二項対立である。

 さて、今回で言えば、決勝のカベポスターは現代システム漫才の雄である。まずは決勝組でシステム漫才昨年は2つの「線」が走るポリフォニックな構成でみせた(下記の記事参照)が、それと比べると今年は「線」は1つでやや物足りない印象を受けた。そう、システム漫才が高度に特にここ10年で発達したゆえに、単にシステムをひとつ開発するだけでは評価されにくく、「プラスαの何か」が必要となっているのが近年のM-1である。

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 お笑いファン以外にはあまり知られていないが、くらげも数々のシステム漫才を産み出してきたコンビである。彼らは今回最下位になってしまったが、システム漫才の「プラスαの何か」を求めた結果としてああいうネタになったことは痛いほどよくわかった。それは端的に、「お前(ハーゲンダッツ/サンリオ/口紅)詳しいな!」を敢えて言わないということのお洒落さである。これまでの作り方であれば、ネタの進行に伴いだんだん気になってくるであろう、渡辺の知識量の豊富さに2-3ターン目で触れるのが定石である。しかしそこを敢えて触れずに、観客に委ねているのだ。それは、年々M-1自体がひとつ巨大なプロジェクトとなり、そのコアなファンが予選会場に増えていることの反映でもある。つまりシステム漫才の通常の進行はすでに共有されている、という前提でネタが進んでいくのである。
 観客がどういう受け止め方なのか、どんな共通認識を持っているのか、何を期待しているのかということでネタのウケ方が変わるというのは言うまでもない。しかし近年では、観客に漫才の「3人目」として積極的に役割を期待するネタが増加しつつある。シシガシラの敗者復活のネタも象徴的であった。歌がハゲを想起させるというツッコミは初回だけで、それ以降は敢えて言葉にすることなく、強いて言えば表情だけで物語る。「ハゲのこと歌ってんじゃねえよ!」は3人目としての観客の脳内に任されているのだ。
 このようなスタイルはハマった際に、ツッコミと観客がシンクロしたとき以上の参加度合いをもたらす一方で、決勝の客層の違い(M-1のファンクラブなどもできた昨今ではそこまで大きな差はないと言われっつうもあるが)や当日の雰囲気といったちょっとしたボタンのかけ違いで、容易に乖離が起こってしまう。ダンビラムーチョはその犠牲者だったと思う。あのネタがウケている場面があったことも想像はつく。カラオケで天体観測を歌ったことがあるものならわかるディテールと、漫才冒頭の長い時間を大胆に一ボケに使うことの面白さがあるのだが、特に審査員には伝わり切っていないようにみえた。

 シシガシラの話が出たので、決勝のネタについても触れておく。あのネタは数年前の彼らの自己紹介的な代表作であるが、当時とはお笑いとポリティカル・コレクトネスを取り巻く状況が大きく変わってしまったがために、今回のウケが弱くなってしまっていた。つまり、もう「ハゲ」を言っていいかどうかという確証もすでに観客にはなかったのだろう。ルッキズムという言葉が人口に膾炙しつつあり、端的に容姿をどうこう言う笑いは(一部にその違法性を自覚したうえで敢えて踏み込むという脱法的な手段は残りつつも)駆逐されつつある。それゆえに、既存のハゲネタをフリにして新しい切り口を産み出し続けるシシガシラの存在は貴重なのだが、今回の漫才に関しては時宜を逸していたと言わざるを得ないだろう。
 さらにポリコレ的な観点から、今回のM-1で気になった場面をいくつか。ニッポンの社長の敗者復活は、ケツが相方の発言を正すようにみえて、実は過剰な女性蔑視発言になっているという構図になっているが、このネタの何を笑っているのかということをさらに突き詰めて考えたときに、やはり「ポリコレにうるさい世の中」を茶化している空気があることは否めない。あとはオープニングの中川家礼ニのインチキ中国語も、中国人蔑視として捉えられても反論はできないだろう(仮に中国のテレビ番組で、インチキ日本語を話して笑っている場面を想像してみてほしい)。

 話を戻そう。今大会は、システム漫才がストレートには評価されなくなり、その一歩先を突き詰めた結果、決勝では観客との齟齬があり、総じてこれまで「賞レース的なもの」とされていたネタがウケなくなってしまった空気があった。そこにハマりこんだのは、いやそもそもそのような空気をつくりあげたのは、令和ロマンだった。彼らは登場からして、作りものぽくないライヴ感のあるツカミから始まり、「それをマジで今日全員で考えたくて」と言って観客とコンタクトをとる。彼らは魔人無骨時代からお笑いファンには名を馳せていたが、M-1決勝もあの芸歴で進出したとは思えない圧巻のステージングだった。2本目の町工場のネタも、過去の賞レース決勝で披露された段階からさらに魔改造を重ねられて、優勝にふさわしい厚みになっていた。
 ヤーレンズも、ネタでやっていることは令和ロマンとは違うのだが、そういうライヴ感がある空気にはフィットしやすいコンビだったと思う。彼らもシステム漫才で魅せるタイプというよりは大喜利漫才のタイプだが、驚くべきはそのボケ数である。ゼロ年代後半が「手数論」と言われて漫才における単位時間あたりのボケ数が最も増えた時代であったが、その最盛期と比較しても遜色ない、むしろそれを上回るほどのボケ数をヤーレンズの漫才は有していた。彼らのオリジナリティはその提示の仕方である。強パンチと弱パンチを織り交ぜるがごとく、(定石とは違って)いくつかは完全に観客に拾われなくていい、追いつかれなくていいというくらいの量と速さで畳みかけることで、「ずっとちょっとおもしろい」という空気感が充満していくのだ。それは吊り革のネタで野田クリスタルが身体性をもって初めて実現したことだったが、こうやって言語的にも可能だということを彼らにみせつけられた。

 そしてさや香について触れておく。1本目のネタは、構成としては美しい。それこそ「賞レース的なもの」の一つの完成形である。ブラマヨ的喧嘩漫才のさや香的解釈。ただ私としては、ブラジル人留学生が暗に「負担となるもの」として扱われていること、その年齢が明かされる後半の展開で「留学」ということの日本人のステレオタイプが露骨に現れること(あるいは技能実習生などの制度への無理解)が許容できなかった。
 そして2本目である。「何であのネタをしたかわからない」という意見は、今年の1本目あるいは昨年の2本のようなさや香を期待していた観客が多かったことによるものだろう。しかし一方で、私は彼らの気持ちが痛いほどわかった。言ってみれば彼らはダウンタウンの亡霊をいまだに追っかけているのだ。松本人志の紹介で「漫才の歴史は彼以前、彼以後にわかれる」と言われるのがお決まりとなっているが、彼が現代漫才に持ち込んだものはいくつかある。ひとつは紳助・竜介、ツービート、B&BTHE MANZAIの時代に引き上げられたbpmを、一気に日常会話のレベルにまで減じたこと(横山やすしに「チンピラの立ち話」と酷評された話は有名である)。もうひとつは「ニュアンス系」の笑いである。「ニュアンス系」の系譜を辿るには紙幅が余りに足りないが、「わかるようでわからない、わからないようでわかる」その間を綱渡りのようにして進む笑いと言えばよいだろうか。「シュール」については以下の記事で「ツッコミ不可能性」として定義したが、それと近いものがある(が、同じではない)。

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 ダウンタウンに影響をうけて「ニュアンス系」のお笑いを目指した芸人は数多いたが、その複雑さから多くの人口に受け入れられるのはハナから難しく、特に賞レースの歴史においては日の目を浴びたことはほとんどない。POISON GIRL BANDはその筆頭と言える。ただその「ニュアンス系」のお笑いをすることの格好良さ、カリスマ性というのは2024年現在でも色褪せていなくて、ダウンタウンのフォロワーとしての最後の世代がさや香なのだろうか、と思いを馳せさせられた。かくして私はテレビの前で彼らの2本目を観ながら、「わかる、わかるよさや香」と唸り声のように呟き続けていたのだった。

 ダウンタウンの話題になったので、いま触れざるを得ない松本人志の性加害「疑惑」についても書いておく。前提として、「いまは真偽はわからないから」と言って「加害者側」の松本人志を擁護することは、被害者女性の二次加害に繋がりうる行為であり、その意味で、まずは彼のこれまでの女性蔑視発言や家父長的態度について断罪しなければならない。残念ながら、ダウンタウンがお笑い界に持ちこんだもう一つの要素は、強烈な先輩-後輩の上下関係、権力、あるいは他者を貶める「いじり」という行為によって笑いを産出するというシステムである。それはあまりに強固であり、それゆえに、解体されるまでに時間がかかっている。いまなお必要悪として持ち上げられることすらある。しかし「いじり」の大半については以下の論考で考えてきたように、決して(「時代が違った」という言い訳すら許される余地なく)社会的に許容できない振る舞いである。これを機にお笑い界の反省と浄化がさらに進むことを望んでいる。

<お笑いと社会 第1回> 「いじり」とは「ごっこ遊びすること」である - 当時の砂糖<お笑いと社会 第1回> 「いじり」とは「ごっこ遊びすること」である - 当時の砂糖

 あとは言及していないコンビについて。マユリカは普段のラジオの様子を知っているからか、緊張が画面越しに伝わってきてうまく私は観られなかった。あとは多くの人が言及しているように、「倦怠期の夫婦を漫才コントでやる」ことのモチベーションが最後まで伝わってこずに観方がわからなかった。真空ジェシカは、松本人志に「ちょうどいい近さ」と言われていたように、ネットミームやお笑い界内部の内輪ノリから脱して世間に歩み寄った跡のみえる素晴らしい出来だった。私が「種明かしツッコミ」と呼ぶところのスタイルでいま圧倒的に突き抜けているのが彼らだが、ここまでの完成度で勝てないと、来年以降どのようにすればさらに加点をもらえて次のステージに進めるのかは非常に難しいと思う。モグライダーのネタを評することは難しい。生っぽい空気がハマりやすい大会において、「うまくできすぎてしまった」ために評価されなかったと総括すればよいのだろうか。個人的には、もっとルールのシンプルなゲームで遊びの部分が多いほうが、「持ち味」として審査員的にも評価しやすいのだろうか、と素人ながらに思う。

 本稿を締めくくる前に、敗者復活で気になったコンビを2組だけ触れておく。まずはトム・ブラウン。彼らのネタは音楽的な中毒性と、リフレインによって意味が脱臼されていく馬鹿馬鹿しさが持ち味だが、それを究極的に煎じ詰めるとああなるのか、と感動すら覚える完成度だった。もはやツッコミに言葉は必要なく、「ダメ〜」で終えて次のターンへと移る。展開に意味などなく、いかにして最も気持ちいい音楽を最も気持ち悪いヴィジュアルとともに実現させるかの探究だけが進められる。トム・ブラウンの漫才のひとつの完成形をみた。
 もう1組はスタミナパンである。このネタにあまり解説は要らないだろう。「ほーんとにウンチしてまーす」があまりに馬鹿馬鹿しくて、あのネタを見てから1週間以上経つ今もふとした拍子に呟いてしまうほどだ。「本当に」って何だよ。元々がわからないのに嘘とかないだろ。っていうかウンチするなよ。したとしてもそんなににこやかに言うなよ。時間が経てば経つほどそういう疑問が無限に湧いてきて、そこまでのツッコミの余地を短い印象的な一文に凝縮したアイデア勝ちのネタだった。